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過食症を経て、一つ一つの日常を見つめる記


by jengsauman

少しずつ根をはる

ふと気づいたことに、あたしは少しだけ変わった気がした。
もしかしたら人への依存、人への責任転嫁が前より減ったかもしれない。
勿論、まだたくさんある。確実に存在する。けど、以前の自分よりは少ないかもしれない。
自分の実感に眼を向けている。できてなくても、そうしようとはしている。
ちょびっとだけだけど(笑。昨日はあれだけ自分に批判的なことを書いたけど、
あたしが目指すのは、依存ゼロの人間ではないし、甘えゼロの人間でもない。
それがあってもいいから、自分の芯を持ちたいだけだ。また極論になってた。

ずっと水に浮かぶ根のない草のような状態だった自分が、
きちんと大地に根を下ろす必要性を感じ、自分と闘っている。

前はいつも人の価値観が基準だった。
自分が尊敬する人、憧れる人、好きな人が好きな音楽、好きな映画、
好きな本、好きな場所、好きな学問、好きな生き方。
そういうものにこだわることであたしは頼る場所を作った。
それに触れればいつも他者に依存できる、そして責任を放棄できる。
そして、他者がそばにいてくれる気がして、あたしは自分の問題をごまかした。
好きな人の好きなものを愛すること自体はステキなことかもしれないけど、
あたしには自分を失ったままで生きていくための麻薬みたいだった。

また、あたしは周杰倫という台湾人歌手の歌が好きだけど、彼は中華圏では
あまりにメジャーすぎて、あたしはそれを口にするのがいつもいやだった。
「周杰倫が好き」と表明するのは、=「社会の価値観に迎合している」と
自分で認めてしまうことになる気がして。

でも、最近感じたのは、
あたしは「周杰倫」という誰かが作り上げた彼の虚像が好きなんではなくて、
周杰倫という人間が発信している自己表現の中にある旋律であったり、
感情であったり、オーラであったり、声であったり、
そういう眼で見えないものが好きなのだ。
だから、彼を追いかけたいとか会いに行こうとか全く思わない。
ただこの同じ世界のどこかで彼が自分の中に内在するものを音楽という形で
表現してくれていることに尊敬し、感謝しているだけ。
(もし偶然見かけたら話し掛けに走るけど(笑)。恐るべし大阪人のネタ探し根性)。
あたしは彼の音楽を受け取って、自分自身の中に存在する感情や苦しみ、悦び
とそれをリンクさせて、それをより具体的に感じることができる。
それはあたしの唯一無二のものであって、あたしはそれを大切にすればいい。
だから、何で無難、迎合、一般的、普通、主体性なし、などと思ってしまうのだろう。
そんなこと思わずに、あたしは周杰倫の音楽を好きでいればいいのだ。

そうやってあたしは自分が好きなものに自信を持ち、それを少しずつ発信していきたい。

そう思えている時点で、きっと前のあたしとは違うんだろうなあってふと思えたのだ。
人は一人で生きていかなければならないということを少し受け入れられたのだろうか。
自分の根を張っていかないと、どれだけ外部から栄養を与えられても結局風で吹き飛
んでしまう。他者は必要だけど、やはり自分があってこその他者だろう。

だから、確かにあたしは今とても気になる人がいて、そっちにフラフラ~って行って
しまいそうで、頭の半分は既にバグっちゃっている。でも、実際もう半分は何気に冷静なのだ。
あたしは彼とちゃんと向き合おうとしている。この出会いを無駄にしない、と思っている。
見せ掛けの表面的仲良し関係とか、國際交流とか、そんなん絶対嫌や。
生身の人間のぶつかりでありたい。共存でありたい。
たとえ、うまくいかなくっても、あたしは自分を出して、自分の思うことを言って、
仮面を被ったええかっこしいな自分を封印しようと思っている。
そして向こうの発信を聞いて、受け止めて、感じて、自分の幅を広げていきたい。
そんな女怖いわ、重いわ、引くわ、と思われたら、それはしゃーない。
あたしは、たとえ批判・拒否されたとしても、それでも自分でいられることができると思う。
自分に恥じることをしなければきっと大丈夫。
自分に何が必要か、自分がどうしていくべきか、少しずつ分かってきたことが
今のあたしのささやかな希望だ。

って、のっけから失敗した場合を想定しておりますが・・(笑、
あたしはなんか一人でスッキリしたのでした。


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話題は変わって、食事について。

昨日あんな約束をしちゃったけれど、あたしはなんか暖かい食事を思い浮かべた。
昔は料理をするのが好きで、小学校の時からお母さんの横で毎日包丁を持ち、
いろいろ切るのが大好きだった。
あの時の食事を色で表すとしたら「電気入った状態のこたつの色」。
オレンジか赤かその間かみたいな色。
とても暖かくて、とても穏やかで、とても喜びに満ちている。
家族で食事をする、という当たり前のことが何の不安要素もなく、
間違いなくプラスに働いていた。

でも、摂食障害になってからのあたしの食事は、まるでコンクリート打ちっぱなし
の冷たくて暗い場所で一人で居るイメージ。とにかく訳がわからない。
そしてとても苦しくて孤独。

人とご飯に出かける、というのが何より恐怖。
にこにこして「おいしいねえ~」って言いながら、頭の中はフル回転
でカロリー計算。吐きたい、食べたくない、と思ってばかりで、
話もよく分からない。当り障りないことを話したりしている。
そして、帰り道のあの虚無感とうそ臭さ、罪悪感に包まれた空気が最悪だった。
何が苦しいかも分からない。でも、「はぁ~」ってため息ばかり。

そんなあたしでも、家族や大切な人が
嬉しそうにいっぱいごはんを食べるのを見るのは好きだ。
それは、他者がとてもカロリー高いものを食べてるのを発見した時、
あたしの心の中が少し安心する感情とは違う。
何でかな。。。。
自分の愛する人が食べることを全身で求め心底嬉しそうに
それを受け入れている姿を見ていると、その人が「生きる」
ことを肯定し、求めているように思えるからだろうか。
愛する人が生を積極的に求めているのを知るのは嬉しいことだ。

だから、今の状況でも、人のために食事を作り、
一緒に食べる、と考えると、一瞬にしてイメージが暗黒→コタツの色
に変わるのだ。なんだ、このゲンキンぷりは。。
しかし、ふとそこに出口がある気がした。

きっと食事を囲むことで人は関わり、近づいていくと思う。

食べることはエネルギー補給というよりも愛情補給だ!

人生、人と食事を囲める機会なんて限られている。
1回でも多くの食事で、自分がハッピーになれますように。
そして、その場を共有してくれる人もハッピーになれますように。
それ、最高。



そうして、あたしは「他者と共存する」という自分なりのイメージが
暫定的に少しつかめた気がした。
言葉にするのはとても難しいけれど、
他者に頼るべき部分はきっと自分にとって準根本~表面の場所。
根本は自分で築き、護る。でもそのために必要な行動は一緒にしても可。
相手に何かをしてあげよう、とは思わない。
でも、求めてきたら自分にできる限りのことをする。
毎日の時間をできるだけ楽しめるように。(含:食事)
相手の自己表現を尊重し、いつも愛情を。
by jengsauman | 2005-07-21 19:03