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過食症を経て、一つ一つの日常を見つめる記


by jengsauman

自分の求めるもの

スコールが好きだ。
普段見たこともないくらい雨がざーっと降ると自然の力の凄さを感じ、
そして人間の無力さを感じる。でも、何故かホッとする感覚があるのは、
人間のカラダの大部分がその水によって作られてるからかもしれない。

あたし何しとんねん。
と思うような行動をしてしまったここ数日。
自分を大切にすることも、他者を大切にすることもできなかった。
でも開き直りか、それともどこかで納得してるからか、罪悪感はあまりない。
だけど、何かがズレてしまった。

今あたしの心は安心をとても求めている。
安定は要らないけど、安心が欲しい。
でも、どうしてそう考えると、男に意識が及んでしまうのだろう。
自分にとってのパートナーが欲しい、なんて思うのだけど、
実際自分がやってることは、とても浅はかな男友達への甘え。
近づいてみないと自分に合うかどうかも分からないとか、
そういうそれらしいことを何じゃかんじゃと考えれば考えるほど
あたしは一人間として更に自分を汚く、弱いと思う。
女らしいとか、女とは、とかそういう言葉に敏感なくせに、
自分を甘やかす都合のいい理論は受け入れるのか。卑怯だ。

そして、同時に、自分の心にある一人のひとへの固執が自分が思う
以上に根深いことを知る。しょっちゅう頭に浮かぶ。でも好きなんていう
感情はない。安心も皆無。どちらかというと、怖くて、ビクビクしていて、
いつもその人に支配されている空気を感じる。信用できなくて、
あたしをどうでもいいと思っていて、自分の都合でしか動かないその人に自分の
自由を奪われていることが本当に悔しいのに、忘れられない。
恋人になってほしいわけでもなくて、自分の傍にいて欲しいとも言ってない。
表面的な優しさなんて何もなくていいから、心のどこかであたしのことを
信じて欲しくて、あたしが居ることを覚えてて欲しい。その人が生きること
が苦しくなったときに、人を信用できなくなった時に、あたしのことを
思い出して欲しい。そして、きっと彼のためなら何だってやってしまう。

でも、それはあたしの心が求めてるものとは違うじゃないか?と思う。
こうして自分との対話を続けて来た中で、あたしは人との関係に
もっと誠実でありたいと、対等でありたいと、give and takeで
ありたいと、人を愛し愛されたいと、共存したいと、そういうことを考えてきたはずなのに。
口だけか?思考だけか?

きっと自分の中にあるものがその人のたまに見せる言動に深く共鳴するのだろう。
そして、そこに生きること、苦しみ、人間らしさ、を感じ、普段不信感で溢れている
けれど、そういう部分に信頼感を持てることでとても特別な感情を持ってしまう。
だからこそ、愛しくなるのだけど、愛しく思っても突っぱね返されて、無視されて、
それを繰り返しているうちに、腹が立って、諦めて、自分とは縁がない、合わないと思えた。
でも、どこかであの人は救いを求めているのではないか?と勝手に心配し、
いつか自分を必要としてくれるのではないか?と期待もする。
どんなに頑張って男として意識することを放棄できても、人間としてその人を
自分の「特別」から外すことができない。今のところはそんな気がする。
そして、その人が遠くに行ってしまったら、やっぱり悲しい。
今その人の傍に居たいと思っていることに気づいて愕然とした。

今書きながら、あまり理性が働いてない。よく分からない。

最近仲良くなった弟が居る。素直で、正直で、真っ直ぐで、若い。
その子と話していると元気になる。可愛くてしょうがない。
とにかく、価値観の歪んだ自分の言動によってこんな純粋な心を持った
子を傷つけることだけは避けたい、と突き放すような発言をするものの、
そういう子の発する真っ直ぐな一言が逆にめちゃくちゃ威力を持っていてガツン
と来たりする。そのたびに、真上からざばーーーーっと冷水をぶっかけられた
気持ちになる。あたしは、頭で考えすぎて、自分でいろんな偏見を作り出し、
それで自分を苦しめ、人も巻き込んだり、どこにも生のエネルギーがない。
逃避と保身ばかりじゃないか、と。逃げたくなるくらい恥ずかしい。

結局あたしの求めるものは、シンプルに自分の中に存在するはずなんだろうけど、
一人で自分のことを考えているのも難しいのに、他者が入ってくると更に
今それがどういうものなのか、どこにあるのか全然掴めない気がする。
そしてこうして考えることでその人への固執がより強くなってしまうことが
怖い。そして、自分の求めるものが一体なんなのか分からなくなってきた。

なんだか訳がわからなくなったまま出かける。
そして、電車の中で本を読んでるうちにふと思い至る。
きっとあたしは彼に依存している。いや、彼という自分の中に作り上げた像に依存している。
あたしは、自分をこれ以上開き、見えない道を切り開きながら変化させながら自分を作って
行くのが不安で怖いのだ。自分の中の弱い弱い部分が、不安で不安でしょうがなくて、
過ちを犯すことを恐れ、自分の感覚を信用できていない。そんな自分が、彼という像に
占領されている(つもりになること)で、苦しいけれど安心することができるんじゃないのか?
もしそうだとしたら過食と同じ原理じゃないか・・・。

ここのところずっと思ってた。
「人を心から愛したい」と。
でも、どうしてうまくいかないのだろう、どうしてすぐに引いてしまったり、
相手の不完全さを探してしまったり、自分の気持ちがとても遠いところにあって、
燃えるように心から人を愛せるような気が全くしないのはどうしてだろう。
そう疑問に思っていた。

でも、多分、その答えはやはり自分の中にあるのだと思う。
「自己の感覚を持っていない人には、他人と親密になることは不可能なことです。」
本の中にあるその1文がグサッと刺さる。
自分で自分がどういう感覚を持っているか分からないのに、どうやって他人が自分を
分かりえるのだろう。どうやって自分が他人を愛せるのだろう。どうやって他人と信頼関係
を築けるのだろう。ああああ、そうだそうだ、その通りです。
あの人は何も悪くない。私も何も悪くない。でも、あたしは自分がない。
だから、怖いのだ。何者かに呑み込まれて、いつの間にか流されてこれ以上自分を見失う
のが怖いのだ。それならば、彼に固執しているほうが、まだ自分の感情にとっては
安全だから、そうしてるんじゃないのか?そして、都合悪くなったらあの人に責任を
なすりつけて、悪い人に傷つけられた自分という像を作り出すつもりなんじゃないのか?
勝手に相手に自分と同じ価値観を期待し、勝手に失望して、勝手に責任転嫁する。
あたしは人に依存したくて、でも失敗した時に傷つくのが怖くて他者を利用して
自分を正当化する方法を探し続けているだけやないか。
ぐぇぇぇ・・・最悪。。

自分の問題を放置したまま、もしくは、それを少しずつ改善するのと同時並行で
新たに人との関係を作っていくのは、かなり大変なんだと痛感した。
その過程で自分がいつの間にか、過食に変わる依存対象を目をギラギラさせながら
探しているかもしれないから。そして、自分ではそれに気付かない。

あたしの旅はまだまだこれからだなあと思う。
この固執がどうしてなかなか自分から離れないのか、分かりたくもないけど
少し分かった気がする。そして、自分の思考回路や、逃避癖、長年こうして
生きてきたことは簡単には変えられないことも。
だけど、やっぱり逃げたくない。自分から逃げたくない。
いろいろ腹立ったって、やっぱりあたしを変えられるのはあたししか居ないから。
by jengsauman | 2005-09-05 23:01