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過食症を経て、一つ一つの日常を見つめる記


by jengsauman

説到做到

土曜・・・母を見送った後、銀座に行った。街はクリスマス一色。友達と話すたびに、みんなクリスマスに言及する。去年はどうやってすごしたっけ?と思いかえすと、あたし一人で清水寺(爆笑!!けれど、今年は別にどうでもいいや。そんなことに気が回らない、というほうが本音か。。(哀)ToT。25日はパーティーがあるけど、ボーっとして忘れてしまいそうだ(ゴメン)。まあどうせ行った後は「楽しかった~」なんて言うに決まってる単細胞なのだけど(笑。その後、新宿のジュンク堂に行く。本屋ではあそこが一番好きだ。椅子あるし、そこまで人が多くないし、在庫が多くて、とにかく落ち着く。そこで、ずっと探していた本を見つけて買った。身体を知るための本。読めば読むほど、この本を読んでいる自分も同じ構造を持っていると信じられなくなる。身体は神秘的だ。不安だけど、やる。

日曜・・・大阪の親友が友達の結婚式で東京に来たので会う。夏以来だけど、その前の5年以上のインターバルがあまりに長すぎて、「あんたに会ったのこないだやったよな?」と言われて爆笑した。たしかにこないだやわな。ぎりぎりまで一緒に居られるように品川で会ったけど、結局羽田の搭乗口まで送っていった。彼女は、私からは想像できへんくらい大変な状況で、とっても孤独なはずやのに、まっすぐ過ぎるくらい行動することで人生を切り開いている。

「あんた考えすぎや」「あんた、それは自分のことしか考えてへんからやろ」「あたしは考えたらもう死ぬしかないから動くしかないねん」「今より幸せになることなんかないから、自分が信じたことをやるしかないやろ」・・・そういった言葉を発するあの子は、あたしなんかよりずっと傷ついてボロボロになって、それでもまた立ち上がって毎日を生きてるんだと思う。そういう言葉は決して自虐でも他者非難でも自己憐憫でもなく、だから死ぬ気で生きるしかないという彼女の生き方をそのまま吐き出した言葉だ。あいつにはうそも表面的なええかっこしいも偽善もない。だから、あたしはいっつも痛い気持ちになると同時に、あいつと一緒に泣いて抱き合いたくなる。そこから離れると、あたしもやらなきゃ、という気持ちでいっぱいになる。友達なんてそんなもんだ。何ができるわけでもない。わかることもできない。でも、あいつが一生懸命生きてるからあたしも今日をあきらめない。

自然にいろんな話になったけど、あいつはあたしにごちゃごちゃ聞かない。避けるのではなく、多分本当にどうだってよいんだと思う。あたしが何をしようと、あいつはあたしをあたしとしてしかとらえてなくて、世間でいうところの価値あるとされるものは、あたしたちの間では全く無意味だ。意味があるのはお互いの存在だけ。あたしたちは、お互いに刺激しあったりとか、そんな洗練された関係では全くない。お互い何でも言ってしまうから、喧嘩にならないかとほかの友達が心配するくらい素の関係で、あいつはあほやとか理解不能だとかお互い言いながらも、いつも一番にあいつの話をしたりする。今だって、もう違う話をしようと思ってるはずなのに、あいつの話でこんなに行を費やしている。笑ってまうわ。あたしはそんなあいつが一番幸せになって欲しいと思う。

「今度大阪帰ったとき彼氏に会わしてな」って言ったら「あんたの話ようしてるから彼氏もあんたのことよく知ってるで」と言われてハハハって笑ったけど、あいつ何を吹き込んでるんやろうか(笑。きっとこんな感じやろうと想像。。。「○○はな、近寄りがたくて、人見知りで、怖いオーラ出して、クールぶって、あほみたいに頑固で、自意識過剰で、考えすぎの頭でっかちで、人に壁作って、わけわからんことばっかり言ってるけど、なんかおもろいやつやで」(←実際あたしに言った(笑))

夜、中国出張から帰ってきたNさんとひさしぶりに話す。結局朝5時半まで(←あほやろ)。そして、あたしはまたあいつの話をしてた。「いやー聞いてくださいよー。今日会ったあたしの親友、めっちゃあほなんですよー。でもなかなかおもろくてねー、ええやつでねー、素でねー・・・・(延々つづく)」。親馬鹿ならぬ、友馬鹿ですわ。

Nさんとは、何か繋がりがあるんだろうなあとよく思う。それを縁というのだろうか。朝までしゃべってたけど、今日の夜、家に帰ってきてポストを見たら、Nさんが10日程前に中国から送ってくれたらしき絵葉書が届いていた。なんだか面白いタイミングだなと笑った。それにしても一行目が「生きてますかー?」って何じゃい!でも、どこか遠くで自分のことを思い出してくれる人がいるのは幸せなことだなと思う。

人とかかわると、自分が人とは違うんだと痛感する。近しい人であればあるほど。だから、結局自分が生きるとは、自分にしかできないことなのだと思う。誰も答えをくれない。けど、社会で生きていく以上は、一人で完結することは良くないしそんなことは不可能だ。自分の感覚に素直になることは大事なことだし、自分らしさの感覚を自分の中心に据えることは課題でもあるけれど、それを意識しすぎて、社会の流れを見失ってしまうのは自分のためにもならない。どんな気づきや知識があっても、それを使って自分を含めた誰かのために行動して始めて意味があるのではないか、と思ったりする。人のために何かをすることが、自分の責任放棄で、偽善者で、思考停止の正当化だと気づいてからは、それに恐怖心を持っていたけど、目的がそれになるのではなくて、それを目指しながら自分も共鳴し、成長したいという気持ちでいればいいのではないか。と思うようになった。

いろんな人に、「自分のことしか考えてない」といわれたお陰で上のようなことを思った。自分のことばっかりで頭がいっぱいになってる自分にストップをかけるべきだと思ったのは、他者による批判や意見を妥当だと思ったからだ。自分の欠点を認識するのは気分のいいことではないけど、自分の現況を正確に認識することが、前進への一歩だと思う。考えることは悪いことではないし、内省は必要なことだけど、結局は行動しないと何も変わらない。自分は思考で少しずつ変わってるつもりでも、「つもり」に浸らないためにも、行動至上主義を。

mp3プレーヤーのシャッフル機能が、以前は全然シャッフルされてなかったけど、今日いきなり思いっきりシャッフルされるようになった。なぜかは不明だけど(壊れてるだけ??)、人生だってよくわからないことがよく起こる。決めつけは自分の可能性を閉じる最大の敵だ。そんなことありえない、と言ってしまったら、ありえなくなる。人間は、自分が思い描くことができることは、必ず実現できるはずだ。願えば叶う。願わなければ叶うものも叶わない。

新しい世界に飛び込んでいったり、人と出会ったりかかわっていったりすることが怖いのは、そこで「お前なんかダメだ。」とダメだしされ、笑われることを恐れているからなのだけど、本当にダメな部分ほど、長年の正当化によって麻痺していて、人から言われて初めて気づいたりする。としたら、ダメ出しされることは財産なはずだ。いろんな自分に気づくための学習の機会。考えて分かるのは、自分が信じたい範囲の自分でしかない。人の本音、厳しい言葉、批判、提言、これほどありがたいもんはない、と思うこのごろ。やっぱりちょっと怖いけど、自分を認めてくれる場所だけに留まっていてはいけない。

2ヶ月ぶりくらいにSさんから電話がかかってきた。Sさんは、香港行きの飛行機で偶然隣になって友達になった人です。ほんとはフライトの間中香港を想ってドキドキしてるはずだったのに、Sさんと話が盛り上がりすぎて、気づいたら着陸してた(爆笑!そんなSさんは、とある新興宗教を信仰しています。私はそのことを極力気にしないようにしていたし、個人の自由で、それは彼女の一部に過ぎず、その点ではどんなに何を言われてもちゃんと線を引いてきたけれど、どこかでモヤモヤがあったことは確かだった。なぜなら、どんなことを議論しても、相談しても、返ってくる答えは、その宗教での教えであって、彼女自身の答えじゃない気がしたから。そうして疑ってしまう自分が嫌で、個人としてはとても行動的で魅力的な彼女を、その宗教への偏見というフィルターを通して自分が見ている事実を恥ずかしくも思っていた。だから、連絡が遠ざかったこの2ヶ月の間、自分から連絡することはできたはずなのに、迷っていた。このまま疎遠になれたら楽なのに、という気持ちがあったことは事実で。きっと私は自信がなかったのだ。何があっても、天地がひっくりかえっても、彼女とその線を引き続けられるのだろうか、という自信のなさ。ある点では完全に相容れないという決心が根のない脆いものだったから。つまり、思考停止は、彼女ではなく、自分だったのだ。しょうもないことばっかりぐちゃぐちゃ考えてる割には、本質的なことに関しては思考停止状態。私が彼女を魅力的だと思ったのは、その新興宗教に自己を潰されていない点だったのだと思う。かたや、あたしはそれぞれの宗教の学ぶべき教えは尊重するとか、そんなに素晴らしい教えならば、別に団体に属さなくても、それを個々で大切にすればいいじゃないか。そういった組織はいったいなんなんだ、などと言ったり、とにかく自分が宗教組織への恐怖を隠すためにキャンキャン言っていたけど、心では怯えていた。いつかこの根の無さを見破られて、いつの間にか自分が支配されるのではないか、と。そんなリスクのある人ならば、そこまでして付き合わなくても・・・とも。けれど、昨日Nさんと話していて、思考停止と宗教組織の関係に気づき、自分で考え判断し責任を持つことがなければ、いつかまた破綻すると気づいた。それは宗教かもしれないし、その他のあらゆる依存対象かもしれない。結局は自分の依存的性質にびびっていただけなのだ。そうしてSさんを想うと、別に彼女を避けても、何もならないと気づく。むしろ、自分が、ある部分ではとても尊敬するし、共感する人を、そういった理由で遠ざけることのほうがよっぽど危ういと思った。新興宗教自体は別に何も悪くない。そうして、Sさんに連絡をとった。彼女は喜んでくれた。あたしもうれしかった。むやみに近づきすぎない。けど、むやみに遠ざけない。それは、誰に対しても同じ。いちいち誰かの信仰や価値観に過敏になってるのは、自分が思考停止の証拠。

自分の関心のある道を驀進してる人に突然メールを送ってみた。めちゃくちゃ忙しそうなのに、すぐに返事を下さった。参考文献やその使い方、どういうことを勉強したらいいか、今後自分が教えられるかもしれない、など詳細に教えてくれて感動した。謙虚に本気な人ほど、自分の持っているものを人と共有することを惜しまないのかと感じた。先生も同じく。自分にはそんなものさえないが、いつか誰かと何かを共有できるようになれたら嬉しい。「自分もまだ未熟です。だから、自分が一番学ぶつもりですし、共鳴しながら、お互い高めていく仲間だと思ってください」といわれて、その姿勢に頭が下がりました。

今日、2ヶ月前に受けた試験の結果がきたが、目指したレベルに届かなかった。次の試験は5月。そのときには、最低3レベル上げる。それは、悶々と考えても仕方ない。勉強するしかない。具体的に目的とやることを決めて、余った時間で思考する。どんなに失敗しても、「自分を甘やかさなかった」と言える生き方をしよう。

迷ったときは前に出ろ。
by jengsauman | 2005-12-20 01:22