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過食症を経て、一つ一つの日常を見つめる記


by jengsauman

結果をだす・目にみえることで判断する危うさ

自立したい、という気持ちと焦りのせいで、ついつい軸のない
表面的な虚勢を身に着けようとしてしまう。
そして、魂もなく、感性を働かせることもなく、楽して思考停止の言葉を放つ。

けれど、大部分が見たくもない逃避の無様な姿だとしても、
私の日常のなかで、自分の意思と向かう時間も、ないことはない。
重要なのは、それを、どうすれば増やしていけるかということで、
日常のどこを変えていくことが、必要な変化で、
どこはそのままでいいのかを明確にすることだ。

何となく、これはいいんじゃないかと思ってたことと合致する文章にであったので
すぐ忘れる自分への自戒として書いておこう。

まず、選んだものを、
「自分にはこれしかない」
と、腹をくくること。

そして、取り組んでいると、
どんなことも必ず苦労や苦悩がともなうも
そんな、苦しみの絶頂のときに、
踏ん張って一歩進めることで、達する境地がある。

人間はおどろくほど気まぐれだから
そのためにも、毎日毎日決心しなおせるかどうか。

そういうことができる人の感性は
一番苦しいときに楽しめる、とか、
こんな大変な思いをしたから幸せ、とか、
自分の人生をはらはらどきどき楽しめる感覚。

こうして継続し続けていくには、
自分を立て直すシンプルな習慣を
身に付けている人が強い。


精神科医の名越先生という方の言葉らしいが、
そうそう、それやねん!とひとりで膝うち。

今までは、人生80年あるとしたら、そのうちの全ての時間を
「意義ある生き方」をしないといけないと強迫めいていた。
けど、「意義ある生き方」という定義がひとりでできず、
そこで人とむきあってぶつかって溝通して思いあうことをせずに、
正しそうなものに安直にとびついて、いつかそのしがみついている枝が
ポキンと折れるんじゃないかと、ひとりでブルブルしていた。
けど、そこにとびついた以上は、それ以上に苦しい作業を伴う、
傷つく可能性のある方向に歩みだすことができなかった。

しかし、なんとなく、そうしてしがみついてるのは、この世界の実情と
とても離れた、ポツンと意味もなく時間を止めている行為に過ぎないのでは
ときづきはじめた。
たしかに、傷つかないのだけど(自分では苦しくても人からは責められない)、
何かが違う、と。何とも共鳴していない。

そして、日常を思い返す勇気をもった。
自分の日常が、実は全くもってリアルではないこと。
かかげている理想と、まったく違う次元で止まっていること。
けど、高い理想を持つことで、実践しない挑戦しない生き方に言い訳を持ってること。
同じところを循環していること。
なにをしているんですか?と思った。

もちろん、変化したこともある。
それは、大事にしたい。

けど、変えたいのだ。根幹とむきあう生き方に。
こころから。

そして、日常、実践、信頼、習慣化、というキーワードにぶつかって
そこでとまっていたところ、上の言葉にであった。
そう、80年すべてを「意味あるもの」に先にさせようとしなくていい。
「人生は、バランスだよ」と映画祭の語学ボランティア面接(←結局落ちた)
で出会って意気投合したJさんが、いろんな経験をへてそう感じたという話を
してくれたことが印象的だったように、
私は、先に目に見える結果を出すことに焦りすぎていた。
また、それは同時に、とても浅い観察、考察に基づいていた。
とても分かりやすいもの、目に見えるものを一義的に理解し、
そこに固執していたのだから。
けど、往々にして、やったことは何か意味がある。
そして、そのうちの一部は、後になってその意味がわかることがある。
今のこの浅い頭しかもたない自分の「意味ない」という判断を
どうして信用することができようか?

そのために、日常の今、今、で「またやってもーた」に負けないことだ。
この26年間、「またやってもーた」はもう数え切れない。
もう、思い出そうとするだけで吐き気を催すことだ。
が、「またやってもーた」からしか動けない。
そこを、どうすれば減らせるかという、自分主導の冷静化の方策を
自分で模索していくことが必要なのだろう。
過食はそれを麻痺させるだけだ。
一時的な応急処置ではありえても、時間を止めているだけ。
時間を止めることに気づくことをどんどん遠ざけているだけ。
そしてそれを必要とする時間はもう終わった。
もう十分、過食に頼った。
もう、いいよ。

日常のなかで、何をしてるときが、自分でいられる感覚に近いかなと思って、
今まで「意味ないこと」と排除していきたいろんなことを、
選択肢に戻し始めた。
たとえば、映画を見ることとか、お菓子を作ることとか、料理することとか、
運動することとか、ダンスをすることとか、人とたわいもない話をすることとか・・・

全体的なバランス、マクロな目でみたとき、そうしたいろんな要素を取り入れながら
日々を過ごしていくことが、すぐに限界に達して過食して麻痺して時間を止める
習慣を手放すことへ意識させる道である気がしてきた。
手放す必要があることすら、手放したいという自分の望みすらも気づかなかったが。

そこで、人とのかかわりというのがとても重要になってくると思う。
Nさんにたびたび言われるような
「怒らない、妬まない、業をつまない」というのとは程遠い。
日々、人と比べて、人に劣等感をいだき、ねたんでいる。
人に依存したくて、正解の人を見つけたくて、そこに落ち着きたくて仕方がない。
そういった自分の希望の投影みたいな人がいないことを嘆いている。

しかし、それは、自分が自分を受け入れてないから、そういう存在を
理想に掲げているということらしい。
縁や因縁はあると思う。
けど、頭を使って誤魔化してるうちは、すべてが「いつかはがれるもの」
ときづきはじめた。それが無駄だとは思わないが、
避けることも必要、と思う。

粘り強くあらなければならない、と思う。
正しいことをやっていれば、必ず、必ず、見てくれている人はいる。

そして、信頼とは、意識してするうちは見返りを求めているだけだ。
無条件に差し出すこと。裏切られたと思うことは、見返りが
得られなかったという打算によって生まれる。
本当の信頼関係はそんな次元にはない、と想像する。

そんなことをいろいろと考えてて、昨日会社の朝礼で思っていることを
しゃべったら、何とも説得力がないということにきづいた。
そこで、Sさんのいってたことを思い出す。
「とにかく結果にこだわれ」ということ。
精神論を一人で満足してしゃべっても、分かってくれる人などいない。
分からなくてええわい、なんて思うのは、また一人の枝しがみつきでしかない。
結局、その人の日々、一つ一つの実践の積み重ね、その取り組み方の積み重ね
でしかない。
「本当はすごいんだぜ」なんてありえない。
Nさんによくいわれる。
「奇跡なんてないんやで。全てに原因があって、結果がある」
そして反省しました。
誰かに見せるための結果ではなく、自分が一つ一つを実践しているという
確認のために、また頭の中で都合のいいように考えているだけということを
避けるために、一つ一つの事実を重ねていく重要さ。

何となく、「ありのままを受け入れる」とか「受け入れてもらう」とかいうのが
よく分からなくて、愛するというのとか、護るということが、
受け入れるということと、思考停止に何でも許すことがごっちゃになっているような。
なんかよく分からないけど、腑に落ちない感覚があった。
けれど、なんとなく今思うのは、表面的に目に見える形で「護っている」という
ことではなくて、普段は別々でも、あまりかかわりが少なくても、「護っている」
ということが可能なんじゃないか。ということ。
もし、私が親の愛情不足によって摂食障害になったとしたら、
世の中のほどんど全員が同じような状態になるのではないかと思う。
親の愛情には感謝している。
けど、愛情不足ではなく、社会や他人との衝突、対面、危険から極力
遠い場所にいさせてもらえたことが、有難かったけれど、それを自分自身も
選んだことが一つの分岐点だったのではないかと思う。
親がそうして危険から護ろうとするのはいわば普通のことである。
けど、状況に応じて、挑戦できることだ、と自分が判断して
そこにとびこんでいくこともできたのだ。その点に関していくつか思い出すことがある。
親に反抗することも、親に意見を言うことも、できたのだ。
それは、私の意思によることなのだから、もうそもそも親がどうのこうのという
次元の話ではない。だから、やはり、バランスなのだ。
そこで、自分で努力して、自分のやりたいことを、説得力を持って他人に
説明し、解決していくというプロセスをふんでいきてこなかったのは
まさに、自分の生き方の結果。
摂食障害は、親とは関係ない、と私は思う。
あえていうなら、親を含めた、自分の社会とのかかわりかたの
見つめなおす機会であるのかなと感じる。
前に本で読んだ(題名、失念)内容だけど、「摂食障害は、結局社会の中で
なおしていくしかない」ということに、同意する。

昨日も会社の人と朝までいたけど、あたしはしょっちゅう衝突している部長と
話が少しできた気がした。
しょうもない冗談や、気遣いや、カラオケや、飲み会や、そういったこと全て
の意味を否定していた自分だけど、ただSさんと一緒にいたいがために
そういう場所にいた自分だけど、そんなとらえかたはなんとも一面的だなと思う。
彼は、たしかに、めちゃくちゃなことを言う。けど、彼にしかないものがある。
そして、意味がないと思っても、足を運ばないと何も生まれない。
意味がないと思っても、話してみないと何も伝わらない。
ましてや、言語が100%問題なく通じあうわけではない関係において、
気持ちをぶつけあうことは必須だ。
「あー難しい!もうやーめた」で終わったら、もう終わり。
多分、これからも、同じように日々を過ごしていくんだろう。

だから、私は決めた。
この事業を軌道に乗せるまでは、この会社で頑張る。
誰かと比べたり、失敗をおそれたりしながらも、自分の思う働く意味を失わずに
その先を見据えた行動を重ねていくこと。
そして、今は、とにかく、腹をくくって中国とつきあってみること。
もっと恐ろしいことが、もっとありえないことが、たくさん予想される今後の展開に
逃げることはできるが、自分から絡んでいきたいのだ。

父が言ったように、「自分に回ってきた責任から逃げるのは、恥だ」と戒めつつ。
by jengsauman | 2006-12-02 18:22