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過食症を経て、一つ一つの日常を見つめる記


by jengsauman

想像力

やっと、携帯で撮った写真をPCに転送できた(パチパチ)。
携帯が新しくなってから、あまりの最新式機能にフリーズ状態だったので、
とりあえず思いつくままにやってみたら、できたー。
まさに、猫に小判。状態。

早速、最近食べたおいしかったもの。

私のだーーーいすきな会社近くのお店ののり味噌汁。これ、サイコウすぎてヨダレが・・。
むこうがわはもつ煮込み。ウヒヒ。しかしばかでかい写真(爆。
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わかめうどーーん定食。こちらお昼の部。関西人万歳の味。炭水化物セット。
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トンカツさま。あぶらたっぷり。もりもり食べて、仕事ももりもり。
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ウオオオオーーー。タコヤキー。スキスキー。いきていく上で欠かせないソウルフードのひとつ(オオゲサ)。
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山頭火のしおラーメンです。あぶらっぽすぎて困るのだが、おいしくて困っちゃう。
ちなみにこれは今日のお昼でした。ウヒヒ。マシッソッソ。
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家で作ったのを撮った写真は、机がガラスのため、その下の
惨状がまる写りでして、名前が書いてある資料とか・・。(片付けてから撮れよ)
ちょっときれいにしてから、また撮ります。ププ。

最近、何でも食べるなあと気づきました。
食べ過ぎることも、やけ食いをすることもあるけれど、
それは、罪悪感を伴わない。
あまり考えないようにしている部分もあるかもしれないけど、
今の私にとって、食は味方なのだなあと感じました。


今日、「A」という映画を見ました。
オウム真理教の荒木広報担当を撮ったドキュメンタリーだけど、
Aとは荒木、麻原、オウム、そして匿名の意のAだそうだ。
この映画を見て、感じたことは、オウムの是非、善悪という問題ではなく、
オウムとは一体なんだったのか、ということを考えようとしたことは
あったのだろうか、という自分への懐疑だ。
オウムをただ批判するだけで終わっていいのか。
彼らは「私たち」とは違う「あちら側」だから、関係ない世界の話だ、と。
真実は、裁判という場ではきっと知ることはできないと思う。
起こした事件の存在はやはり事実だと思うけれど、その経緯とそれに絡む
人間の動きについて、何の想像もしない、何の疑問も意見もないまま
悪や憎という感情で流してしまうことは、その行為こそが、形を変えたオウム
事件の二の舞になりはしないか。と考えた。
彼らは洗脳されていたから異常な行動をしていた、判断ができなかった、
だから自分とは違う。
何も見ず、聞かず、感じないまま、耳に入ってくる情報から
まとめて判断をしてしまうということを、自然に行っている自分への危機感。
執着と他人事、それは無責任というだけでなく、自分を陥れてしまう危機でもあると
強く思う。

なぜ、そう感じたかというと、荒木さんが最後らへんで話していた言葉が
自分の今の目指していることと、同じだったからだ。
まるで、自分の心を覗かれているのではないかと思うほど、彼が淡々とした
表情で語る言葉は、自分と重なる部分があった。
それで、どうする、というところが違うだけ。
だから、私だって、いつ彼と同じ立場になってもおかしくない。
そう思った。
それは、殺人事件を起こした元信者にも、通じることだ。
自分も、彼も、彼女も、同じ人間だから。

事件に関わってない信者の人が、教祖が逮捕された後も、信じることを
続ける姿を見て、私は確かテレビで報道されていたころ、なんであんな
状況になっているのに、まだ信じているのか?と思った記憶がある。

だけれども、語弊があるかもしれないけれど、まるでそれは「痩」という
絶対的なものに執着する自分に、そこまでするのはおかしいよ、
と言ってくれる誰かのような、想像力のないとても普通の感想でしかなかったのだ、
と思ったりする。なぜ、捨てないのか、それは自分がいつのまにか取り込み、
いつの間にか血となり、肉とした、自分と切り離せない、切り離すなんてありえない
絶対的な善だから、捨てるということが考えられない。そんな状況を思い浮かべた。

だから、人事ではないのだ。
私があの時、簡単に判断し、調査も分析も想像もせずに、悪と決め付けたのは
まさに、思考停止。だからこそ、何かのきっかけで何かにすがり、妄信する。
5年後には、何かの宗教を妄信しているかもしれないし、事件を起こしていない
なんていいきれない。だって、人間だもの。いつもベストではない、いつも孤独に
勝つこともできない、簡単にしょぼくれ、怒り、無力感にさいなまれる。
ほんとの正しさが欲しい、と渇望するんだもの。

数日前に見た映画に、「ブラッド・ダイヤモンド」がある。
正直、ここまで衝撃を受けた映画は、稀である。私は、集中力がないので。
世界のあちこちで、みんなが自分の正義だけで、いろんなことをごっちゃにして、
一つ一つを整理できないまま、力のあるもの、暴力を持つものが弱いものから奪い、
でも実はその裏に、先進国の利権争いが絡んでいたりもする。
特に苦しかったのは、少年兵の描写だ。
どうしてこんなことが!と映画館にいる他者である私は思って心がワサワサして
今すぐ立ち上がりたくもなるけれど、結局何もしないのだ。
知ることが第一歩、とは思うが、現場からはほど遠い。
しかし、全てのことに関して、10年以上経ってから「自分は思考停止だった」と気づいた
のでは遅すぎるのだ。想像力を持とうと努力せずに生きていくと
一生、レッテル張りと無知のままなんだなあ、とガツーンときた。
私は、今できることはないけれど、「知識」ではなくて「知」を得たいと
思う(この2つについては、BY糸井重里氏)。自分が身体で腑に落ちた理解。
どこかからの拝借ではなくて。

恐ろしいことだけれど、私は自分の中の暴力性を知っている。
ひょこひょこ顔を出す。それは、今は表に出ていないが、ヒトが傷つくことを
全くリアルとして感じず、ヒトが死ぬことを淡々と見ている自分もいる。
前は、そんな自分を「異常」だと認識し、封印しようとした。
でも、恐ろしいが、それは人間として避けられないことなのではないかと
思い始めた。封印しようとしていることのほうが恐ろしいような気がしてきて、
見つめようと思い始めた。


もう一つは、人前で極度にあがること。
今はしゃべりはじめたら普通、ということもあるけれど、私は昔、立って話せなかった。
少し話したり、読むと、声が震えて、自分がどこかに行ってしまって
全くコントロールできなかった。
いまだに、あれがなんだったのか、今もまたああなるのではないか、
そう思うだけでブルブルする。
自分の言葉で語る、なんてえらそうに目標にしているけれど
緊張することが本当に恐怖だ。


でも、物事には原因がある。
見たくないことも、見る必要がないこともあるかもしれないが、
私は、これ以上自分を見失うことがないよう、たとえ孤独になっても、
自分の目標に向って歩いていけるよう、自分の中の自分への不信感を
一つ一つ、見つめてみようと思う。何もわからないだろうけれど。

そして、見ないよりは見る、やらないよりはやる、使わないよりは使う、
行かないよりは行く、そうやって、自分の頭で考えて、足で感じて
判断する人間とふれあいながら、自分を構築していくしか今はできない。
でも、いつも160キロ直球じゃなく、フォークも、牽制球も、要るんだなあとも
思ったりした。

いつも、自分の今の答えが正しいわけじゃない、と知ること。
by jengsauman | 2007-04-14 21:30