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過食症を経て、一つ一つの日常を見つめる記


by jengsauman

爆発だ!

今、岡本太郎の『強く生きる言葉』を持ち歩いている。
なんとなく流されそうになるとき、パッと本を開いて、とどまるときもあれば
やっぱり流されるときもある。でも、そういうときは、流されようと決めて流されている
のだと思うようになった。

私は今27歳だけど、知らないことだらけ、できないことだらけで、完全に落ちこぼれだと
自覚している。でも、一番いけてないのは、自分は落ちこぼれだと気づかないように
隠して隠して、生きてきたことだと思う。

何かを知るためには、原動力は好奇心とかなにかしらの縁であったり、
そういう頭で考えた理由でないものが動いてこそ、知ろう、知りたい、できるようになりたい
と思うものだと、広東語を学ぶうえで知った。

正しい生き方には全然必要のないことかもしれないけど、
正しい生き方には、感動がないのかもしれないと感じたりもした。
だから、私はこの無闇にうるさくて、絶妙な和音をなす広東語を
ただ、追いかけることで、しらない間に自分の後ろにそういう道ができていることを
後々になって知った。

いろいろと、正しい生き方を探っていたころ、私は前ばかり見ていた。
そして、後ろばかりみていた。そして、何もないことを嘆いていた。
でも、肝心の足元をみることを、どうしてしなかったのだろう。
どんなに綺麗に聞こえることも、その中に熱情がないものは
すぐに消えてなくなっていくということを、どうして気づかなかったのだろう。
そんなことをよく考える。

でも、最近、また新たなものと出会いつつある。
それは、半ば強制的であるかもしれないが、私の従兄のルーツである物理だ。
私は、彼に手紙を書こうと何枚か書いてみたが、まだうそ臭い文章しかかけずに
レターセットをおきっぱなしにしている。半ば義務のように、感じてもいる。
でも、本来、私はそんな偉そうな立場じゃなく、ただ純粋に従兄と話しがしたかったのだ。
彼が何を考え、何を学び、何を研究していたのか、それを知る意味はあるのか
ないのか、それ以前にそのレベルに文型丸出しの自分が達することなどできる
わけがないと思っていた。
でも、達さなくてもいい。ただ、自分が出会ったもののなかで、琴線に触れたもの
については、とことんやってみるということを、そして決めた以上は
言い訳を作らないということを、少しずつ実践していきたいのだ。

岡本太郎は言う。
「眼の前にはいつも何もない。ただ、前に向かって心身をぶつけて挑む、瞬間瞬間があるだけ」

私はそんな生き方には到底遠いところに今はいるけれど、
結局蓄積していくものというのは、あるんだけれど、それを一生懸命握っていると
そこから出れない人間になるだけなんじゃないかと思う。
毎日があるのは、過去を乗り越えるために、自分自身に挑むためだけにあるんじゃないかと
思ったりもする。感じたわけじゃないけど、そう思う。

わたしなんぞができることなんて、たかが知れている。
でも、知れているなら、まず知れているということを知り、
人に習い、学び、聞き、とにかく知恵を絞らないといけないと思う。
無理やと思う瞬間を、毎日1秒でも遅らせる。それだけでもいいやないかと思う。
by jengsauman | 2007-12-11 01:05