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過食症を経て、一つ一つの日常を見つめる記


by jengsauman

知覧

週末三連休で、広島⇒松山⇒宮崎⇒鹿児島へいってきた。
特に、鹿児島の知覧の「知覧特攻平和会館」と「富屋食堂跡の史料館」は壮絶だった。あの街全体が壮絶だった。知らなかった、全然。

知覧は、太平洋戦争時の沖縄戦の特攻機地として、1035人の若い命が飛び立った場所。
広島のように、被爆した場所だと、あまり遺品が綺麗に残っていなくて、それがまた悲惨さを語っていたりもするのだが、知覧は特攻基地だったので、彼らの遺品や遺書が綺麗な形で残っていたりして、それはそれですさまじい力で訴えかけてきた。特攻20分前に食事をしている写真、特攻前日に腕相撲をしている写真、犬をだっこしている笑顔の写真、遺書、遺書、遺書・・・。

彼らは愛する者と國のために、特攻した、とされている。わたしたちが今平和に、そして栄えているこの日々を送る裏には、そういうことがあった。そして、いろんな思いをもって、突撃していった人たちがいたんだ。遺書を読むと、国のために、というより、最後は母や恋人への感謝や愛情を書いている人が多かった。みんな、すごく、達筆だった。あの字力は一体なんだろう。

彼らは、笑顔で特攻した、と書かれていたりもするけれど、やはり人間として、疑問を持つこともあっただろうと思う。新聞は愛国主義を報道したくて、わざわざそういう写真を使ったりもしたんだろうと思う。今も昔も、マスコミは有る程度そういう部分があるもんなんだろう。明日自分が飛行機に乗って突っ込むということが分かっている、というのは一体どういう状況か。それでも、特に、特攻の母こと島濱トメさんの食堂「富屋食堂」跡の史料館にあった、上原良司さんの「所感」には衝撃を受けた。彼の文章は、自由主義者として、帝国主義、大日本帝国の敗北に言及しており、また、次世代への願いも書かれていた。この時代に生きる日本人として、あまりに恥ずかしい気持ちになった。

どんなに未練があっても、特攻しなければならなかった彼らを強く感じてしまったから、私は苦しくてしかたなかった。被害者であり加害者でもある、そんな重荷を背負わされた彼らの使命を、到底理解することができない。でも、ただただ、胸がくるしい。こんなに感じたのは、プノンペンのツールスレンとここくらいだ。でも、特攻、とはいっても、当時は太平洋戦争末期で、日本の戦闘機もかなり不備があったらしいが、それでも、整備する余裕がなく、墜落したり不時着したりした戦闘機も少なくなかったらしい。生きて帰って来た人が入る施設もあったようで、そこでは、なぜ生きて帰って来たのか、死んだ仲間に悪いと思わないのか、ということを毎日言われたと聞いた。

そして、現在はどうなのか。日本はある程度平和にはなったけれど、彼らの死を無駄にはしていない、と言えるのだろうか。また、ソマリア、イラク、アフガン・・・。同じことじゃないのだろうか。広島で見た悲惨さが、核ではないとはいえ、世界で現在進行形である。知覧で見た悲惨さが、たとえばイスラムの自爆テロや、アフリカの少年兵で現在進行形かもしれない。でも、いつの日か、その国々も、平和を!という日が来るのだろうか。なぜ、ヒトは戦争をするのか。そうつぶやいてると、そんな題名ののりちゃんに教えてもらった本を思い出した。

私は、これだけ平和ボケの中にいたせいで、平和を感じることができずにいた。自分の見たいものだけを見て、ありきたりな言葉を吐いて、考えているふりをするツールにして。
でも、正直、知覧では、もう勘弁してくれ、と思ってしまった。適当に見れなかった。もう見たくない、と思ってしまった。正視なんてできない。でも、なんていうんだろう、金縛りのような。彼らが、見てる。彼らの字が、脳裏にやきついている。どうせすぐ忘れるんだろうって、自分に言ってもいる。でも、忘れたくない。あの写真、遺書。

「必死」という言葉が、どれだけの重みをもって存在してきたかを、私はしらなすぎた。
よく見れば、かならず死ぬ、と書いてある。
「必死」「必沈」、力強く遺書に書いて、「父上、母上、ありがとうございました。最初で最後の孝行をするため、笑顔で征ってきます」という彼らは、どれだけ苦しかっただろう。葛藤、苦しみ、覚悟。。10代後半~20代の若者です。今の自分よりも年下がほとんど。

なんなんだろう。日本人として、何をやってきたんだろう。これは、教育のせいか?それとも、戦争を語りつぐということはやっぱり簡単なことじゃないからしょうがないのか?それとも、自分のせいか?どうすれば、戦争を語りつぐことができるんだろう。大学のゼミでやっていたのはそんなことだった気がする。今になって、はじめて、疑問を持った。

また、特攻でないにしろ、現代につながる問題、もしくは人間として抱え続ける問題というものがある気がした。テロとか。宗教によるマインドコントロールとか。なにか正しいことを求めてどこかで疑いながらもやはりそれにすがってしまうこととか。勝手に考えているだけだけど。ただやみくもに「国のためにやるぞ、おー!」というのは、いつか破綻する。宗教も、瘦身も、同じなのかな。なんのために、を考え悩み実践していかないと、だめなんかもしれない。現代はそれができる自由があるのに、なぜか、勝手にがんじがらめになっていたりする。

知覧は、今も脳裏にあります。いつまでも忘れないようにするのは無理だけど、忘れないようにしたい。
by jengsauman | 2008-10-17 04:45