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過食症を経て、一つ一つの日常を見つめる記


by jengsauman

広東語はわたしの因縁

なんで突如、前述のように会社の中国人新入社員への見方が変わったかというと、広東語の先生からのメールが来たから。小島を探検しているときに、先生から半年振りくらいにメールが来たのだ。実は、私は、半年前にクラスから失踪していたのです。途中で出席しなくなるのは、今まで3回くらいやったけど、いつも先生はそのたびにメールをくれて、私の話を聞いてくれた。私はそのたびに、勉強よりもその日を生き延びることに必死であるようなメールを送って、自分のドロップアウトを正当化しつつ、先生に「真剣に悩んでいるからこそもがいている子」という印象を与えて、なんとか先生のクラスにいつか戻れるようにしていた。

先生の授業はいつも直球で、やさしくておだやかでゆっくりなんだけど、200キロ直球で、「人生は限られている。とにかく、聞いて聞いて覚えまくらないと何も身につかない。逃げるな」と言っていた。その通りだ。その通りです。私は、習い始めて2年目くらいまでは、親に経済的に支えてもらいながら、家に閉じこもって食べて食べて、運動して運動して、広東語の勉強だけをしていた。そんな中で今の会社で働くことになり、余裕がなくなって、広東語への思いだけ持ったまま、行動(=勉強、というかすべてを理解した上での暗記)がついていかなくなり、ドロップアウトした。入社してはじめのころは、直属の上司が役員だったためたいてい席にはおらず、てさぐりでいろいろやっていた。そのため、異様に時間がかかり、終電までに帰れないことも多く、タクシーで帰ったりしていた。別に忙しいからじゃなくて、自分ができないから遅くなっていた、というだけ。

先生には、「仕事が忙しくて残業が多い」と言っていたけれど、本当は、気持ちだけあるといいながら勉強しない自分をどうコントロールすれば元のように広東語に取り組めるのか分からなくて、考えと行動の乖離が激しすぎて、いつのまにか諦めて、逃げたという感じだった。それに加えて、社会のためになるようなことをしなければ!というただただ焦りのような正義感が空回りして、日々どう重ねていけばいいのか分からない不安で、広東語のプライオリティを下げてしまった。いつも教室では、暗記してきたものを発表することになっていたので、私は何も取り込まなくなってしまった自分は逃げるしかないと思って逃げた。家にとじこもっていたときは、自分の広東語への思いだけがすべてだったのに、社会へ出たとたん、「そんな使えない言語を勉強している場合ではない」という世間の声を受け入れて言い訳を作った。

先生は、上のようなことを3回やった私に対しても、励ましてくれて、戻れるようにとりはからってくれた。ありがたくて、もう地に頭をこすりつけてもなお、先生には何を言えばいいのか分からなかった。

でも、わたしはまた逃げてしまった。なんでだろう。私は、クラスに戻っても、全く暗記することが苦痛になってしまい、広東語への思いが切れてしまったのだと思った。まわりの人の行動が気になり、私がドロップアウトした前のクラスの人は私を冷ややかな目で見ていた。というか、一言も口をきいてくれなかった。私は、なんとか自分を奮い立たせなければならないと焦った。自分がどうするか、よりも、まわりのことがすべてだったように今は思う。どちらにせよ、所詮その程度のモチベーションだったんだ、その程度の縁だったのだ、と思うことにした。でも、この逃げ方はまたひどかった、恩を仇で返すような形になってしまった。どうせやらないなら、もうやりません、と言ってしまえばよかったのかもしれないのに、先生に連絡するたび、私は先生を踏みにじっていた。

もし、今死んだら、もしくは先生が突然死んだら、私は一生自分が先生を裏切って逃げたことを背負って悔やんでいきていくんだろう。と毎日思っていた。結婚しなかったことより、世の中のためになることができなかったことより、私のためにいろいろとやってくれた先生を裏切り、広東語をやりきらなかったことが一番の業になるだろうと思った。でも、それでも、戻る勇気がなかった。たとえ戻れても、また同じように先生を裏切るだろうと思っていたから。何より、もう先生にあわせる顔がなく、もう連絡できないと思っていたから。先生は、不誠実な態度で教室を去っていった人には容赦がなかった。だから、先生は私に対して激怒し、私を見限り、もう私は「戦犯」なのだと思っていた。

でも、先生は、メールをくれた。
あて先をみたとき、「貸してるテープかえしてください」のメールだと思った。
もしくは、すごい罵りの言葉が書いてあるかもしれない、と覚悟した。
しかし中身は、、
「○○さんが教室から消えてしまって、私に責任があったのかと自責の念に駆られています」
と書いていた。

その言葉に、私はまたクラクラした。
クラクラなんてもんじゃなく、そのときは小島で探検していたけど、しばしのあいだ他の2人の声がまったく耳に入らなくなってしまった。
ショックで、とんでもないことをしてしまった、と。半年間先生はどういう思いだったんだろう。

先生が、メールを送ってきた主な内容は、「英語発音クラスをやります」という内容だった。
実は、今の会社への入社直前、私は先生に英語の発音を習うことになっていて、
先生は特別に英語もやってあげる、と言ってくれたのだけど、先生があまりに忙しすぎて実現しなかったのだ。先生はもう3年くらい前になるそのことを覚えていて、このたび英語をやることになったから、○○さんにも声をかけました。と書いてあった。

昔、私が「なにもできない」といったら、先生は「広東語をあそこまでやれるなら、英語もぜったいできる」といってくれた。いまや、広東語さえドロップアウト計4回。それでもなお、こうして先生は宇宙並の寛容さで私にチャンスをくれた。そのことが、嬉しいなんてもんじゃなく、卒倒しそうになった。ショックでどきどきして、何より先生は怒ってないんだ!また会えるんだ!という自分勝手な思いで安心した。うれしかった。死ぬほど、うれしかった。このボキャ貧がくやまれるが、海に飛び込みたくなった。しかし、私が英語をはじめようと行動したタイミングで、英語の案内をくれるなんて、一体どうなってるんだろう。発音だけは先生からも習おうか、もうすでに申し込んだほうで習おうか、悩んでいる。同じお金を払うなら、先生からはやっぱり広東語を習いたいし、でも広東語と同じように英語の発音の基礎も学べることも有意義だ、などとぐちゃぐちゃ考えている。どっちにしても、一日も早く、先生に会って、頭を下げたい。頭下げてもどうにもならないし、そんなこと思って無くてもできるけど、でも、謝りたい。高齢で心臓が悪い先生にあとどれほどの時間があるのか、私だっていつ死ぬのか分からない。そんな形のことばっかりいってる暇はない。

私は、英語をはじめるにあたって、また同じことを繰り返すのではないかという恐怖をかかえている。いや、英語なら、受験にも、就職にも、実際に世界に出ても、使えるし、勉強する必要性が用意されているからダイジョウブに違いない、と自分に言い聞かせていた。そして、Aちゃんと会って、私は気持ち的にも、英語に対して広東語に近い感覚を持てるようになった。きっとダイジョウブだ、と。

でも、私は、広東語をドロップアウトした。毎日、広東語のラジオを聞いて、MP3の中も全部香港歌手で、Aちゃんとは広東語でやりとりするにしても、香港の番組や映画を見ることはあっても、私は基本的に広東語とは受身でしかかかわれなくなってしまった。どうせ、逃げたやつ、という思いが、広東語を語る資格などない、という感覚をつくっていた。実際、その通りだから。

なんで、先生は、私を許してくれたんだろう。
私が最初に広東語にめちゃくちゃ一生懸命取り組んだときのことを覚えているからだろうか。
そうだとしたら、あれは、もう今の私とは違うんです。どうしたらあのころに戻れるか私も知りたいけど、どうすればいいか分からないんです。と思う。

でも、でも、でも。

できない、できない、なんて嘆いてるだけじゃ変わらない。
また逃げてしまうかもしれない。でも、工夫しないと変わらない。
たしかに先生の教材はまともすぎてつまらない。
でも、前ならば、もっと工夫したのに、私は与えられたものしか見なくなっていた。
余裕を失ったから、と言い訳して、自分がどう向き合いたいかを全くもって捨てて、
与えられるものを受け取っただけだった。その中で、あれもない、これもない、という見方しかできなくなっていた。

それこそ、乗り越えないといけないものなんじゃないのか。
何か、大きな試練を、どこかから持ってきて、すごいことにチャレンジしている気になって、
それさえクリアすれば、自分のランクが上がり、あわよくば摂食障害さえも薄まるような感覚を持っていたけど、そんな借り物の試練だから、決して真正面から向き合わない。これは、私の因縁なんだ。誰の因縁でもなく、私が私だからやるべきこと。できないからといって、別のことをはじめる器用さを私は持ってないからこそ、だったら、もう1回やれよ、と思う。臨機応変に動くことが苦手なら、だったら5回失敗しても、6回失敗しても、何回絶望しても、それから離れてはいけない、覚悟が決められるまで何回でも失敗すればいいと思う。(人に迷惑かけちゃいかんけど)

先生からのメールをみたとき、私はすぐにあの言葉を思い出した。
「自分がやるべきことは、何度逃げても逃げても、かならず自分の前にあらわれる」
数時間、誰かが私にいってくれたことだったような気がするけど、誰に言われたんだっけ?と考えていたら、前述の社員旅行の宴席で急に思い出した。バレエの先生だ。

きっと、私以外のすべての人はおもうだろう。
先生は甘すぎる、と。私というだめなやつを甘やかしてるだけだ、と。
私だってそう思う。いや、私がそう思っている。

でも、これはもう確信に近い。私は広東語から逃げられない。
あれだけ、頭で計算して、「中国語といえば北京語ができないと使えない人材」というレッテルをかかえこみ、広東語を捨てて、今はやりの中国事業に携わって、適当な北京語を使い、残ったものは、「で?」だ。

北京語はアツイ、なんて自分のだした答えじゃない。
仕事なんだから、お金もらってるんだから、もっともっとできるようにならないと、と思うけど、
有る程度以上やる気がまったく起きない。心が震えないし、いやなことばっかり思い出す。
そんな私の心がけはなってないし、プロフェッショナルじゃない。正当化しちゃいけない。でも、北京語にしがみついて正当化することもまた、もう限界だ。「すごい先見の明があるね」なんていう言葉にだまされてはいけない。私は、気づいたらそこにいただけ。いろんな人の真似をして、いろんな人に決めてもらって、気づいたらそこにいただけ。何も自分の力でやってない。

私は、何をすべきか分からない!とずーーーーーーっと悩んでいた。
でも、何をすべきかなんて、めちゃくちゃ明らかではないか、と今は思う。
北京語を捨てるわけじゃない。仕事を逃げ出すわけじゃない。それをやったら今までと同じだから、続ける。でも、つかみにいく。そうしてなぜか与えられたものを続けながら、その中でもできることを探しながら、ふがいなさにへこみながら、やっぱり自分の因縁をつかみにいく。ぜんぶがつながっているんだろうと感じるから、私は先生の懐の深さを到底理解できないけど、やろう、やろう。

2003年に、はじめて先生に会ったときに言ったじゃないか。「私は香港人と議論できるようになりたいんです」って。私が広東語を勉強する目的は、日本人とはりあうためでもなく、先生を喜ばせるためでもなく、私という人間が、広東語というひとつの新しい回路を作って、それをもとに日本ではない他文化の人間と働きあい、何かをつくっていくこと。そうだったじゃないか。

いまだに、広東語にだけこんなに心が震えて、広東語に関する出会いに助けられて、それでもなお、どこかにある誰かが決めた正しさに乗るのは、時間の無駄でしかない。

苦しいもんだよ。いくらすきなことでも、続けるのは苦しいもんだよ。
仕事でさえ、これだけ続けられた。何も期待してなかったけど、いろんなものを得られた。本当に、いろんなことを教えてもらった。大嫌いな上司に対しても、いつのまにか感謝の気持ちを持つようになり(離れているから冷静でいられるだけかもしれないが)、いつだって不満を持っているときは、自分がもらっているものを見てないのだと、思う。

だから、続けなければいけない。広東語と死ぬまで一緒にいるのだ。やればやるほど、本当にこの世のどこかで話されている広東語に近づくような誠実な勉強をするのだ。

そして、先生が与えてくれた英語というチャンスもまたしかりだけど、どちらにしても、言語はツールだからそこにしがみついてはいけない。でも、過程がだいじ。迂回しても、迂回しても、また本線に戻ってくる。

与えられたことをしっかりやること。続けること。まわりの人の親切に感謝するなら行動すること。行動しないのは感謝してないということ。感謝してないなら感謝してるというな、ということ。自分をだましてわけわからなくなるくらいなら、不誠実な自分を認識するために正直になること。自分がやってもらったことに感謝してるなら、他の人へ同じことをすること。
by jengsauman | 2008-10-19 14:33