獨一無二
2009-07-30T01:49:56+09:00
jengsauman
過食症を経て、一つ一つの日常を見つめる記
Excite Blog
この2週間①
http://jengsauman.exblog.jp/10044465/
2009-07-30T00:34:00+09:00
2009-07-30T01:49:56+09:00
2009-07-30T00:34:14+09:00
jengsauman
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この10日間は、いろんなことをしました。今更思い出せないことがたくさんある。
けど、それでも良い。忘れちゃえば良い。必死になって残したところで、身体で覚えてないことはたいして意味がないのだから。と最近は思う。
7月18日
とあるビジネス会議に参加した。この会議のことは数年前から知っていたけど、「私のようなだめなやつ」は参加できないと思い込んでいた。敷居も高ければ、値段も高い。確信もないのに、飛び込む勇気など到底なかった。けど、偶然カンボジアから一時帰国している友達が「行かない?」と声をかけてくれたので、さんざん悩んだ挙句「えいや」と申込をした。
その結果は、いろんな気づきや出会いに恵まれた1日となりました。
気づき① 向上心がある人と出会うことが怖かったのは、私の会社がしょぼいからではなく、私が自分の仕事に熱意がないからである。会社のせいにしてはいけない。
気づき② とにかく、話しかけて、自分から働きかける。その中で失敗することも、嫌な思いをすることもあっても、その何倍もの宝に出会うこともある。
気づき③ 自らの不足を真摯に分析し、後悔のない選択をする。
素晴らしい人がたくさんいました。
今まで、特に死刑関連でいろんなシンポジウムや講演会に参加してきたけど、
質問もしなければ、講師の方に話かけたこともなかった。
その時の思考は常に、「私なんかが話しかけても・・。話すこともないし・・。また勉強してから次回にしよう」というものでした。
だけど、今回は、高い会費を払って参加していることもあり、かなりがつがつしていた。
その結果、講師の中には、拙い話を聴いてくれる人もいれば、親身になってくれる人もいた。
忙しくて形だけの挨拶になってしまった人もいたけど、働きかけなければ0だったものが、確実に1以上になった。そうか、これでいいんだ、と学んだ。
特に、偶然名刺交換をした司法関連の方々は、私のロースクール挑戦をただ闇雲に応援するわけではないにしても、いろいろと知っている範囲で話をしてくれた。現実を知っているからこそ、簡単に勧められない、といいつつも、「挑戦してほしい」と言ってもらって、うれしかった。
しかし、どの話を聴いても、結局、誰も私の人生を決めてくれない。自分でリスクを分析した上で、対処策を考えた上で、決断しなければならないんだ、と再確認する。これは良いチャンスなんだ、と無理やりにでも思うことにした。
今まで、流れ木のように、正しそうなことを選んでやってきたけど、これからは、自分が悔いが残らなさそうな選択を、自分でしていくのだ、と思う。きっと正しい選択じゃないだろうけど。
この日の夜から、次の日の富士山登山のために、新富士まで移動することになっていたので、会議終了の15分前には途中退場した。あと15分いれば、もっと出会いがあったのかな、という思いもあったけど、それじゃだめなんだな。15分前に退場することは事前に分かっているんだから、その分積極的に話しかけ時間を効率よく使うべき、だったのだ。
しかし、帰途につきながら、すごく嬉しかった。
明らかに興味のない反応をされたこともあったけど、それは私の仕事への姿勢が相手へ見えているのであって、仕方ない。とにかく、いろんな世界を垣間見て、そして法曹が少しだけリアルに感じた。
富士山から帰宅した後、名刺をいただいた方々にメールをしたら、みなさんから返事をいただいた。
その中の1人の方は、名刺交換したときに「ぜひ詳しくお話を聴きたいので、後日事務所を訪問していいですか?」と聞いたら、「いいですよ。是非どうぞ」と言ってくれた人だったけど、きっと社交辞令と思っていたが、本当に訪問することができた。すごく明晰かつチャーミングな人で、「5年後、10年後に悔いなき選択を」と何度もアドバイスをいただいた。
人との出会いは、人生を加速し、また、到底思いつかなかった方向へ人生を運んでくれると思う。だけれども、やっぱり決断は自分がしなければならない。
そんなことを強く感じた1日でした。]]>
実際の行動のつみかさね
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2009-07-17T01:49:19+09:00
2009-07-17T01:49:20+09:00
2009-07-17T01:49:20+09:00
jengsauman
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しかし、さっさと18時過ぎには退社し、クリーニングを出し、その後授業へ行く。
英語の授業の曜日が変わって平日の夜になった。
疲れるけど、1日をより有意義に使える&少しでも将来へ繋がるかもしれない時間の使い方ができることにとても幸せを感じる。こんな過ごし方ができるんだ、と開眼。
毎日、授業を入れてもよさそうだ。
この調子なら、そのほうが仕事も効率的に進み、早々に退社して、自分の勉強もするというサイクルができるかもしれない。
今日は、先生にひさしぶりに褒められた。
先生に褒められるためにやっている自分を完全否定するけど、それでもやっぱり嬉しい。
人生は短い、と感じる。
ほかの人ができることはどんどん振って、どんどんスピードアップしていこう。
自分ができることは何でも出す。回転を増やしていこう。]]>
二度目のYOU ARE BORING
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2009-07-17T01:42:21+09:00
2009-07-17T01:42:22+09:00
2009-07-17T01:42:22+09:00
jengsauman
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何をやっても、思考が法曹に行き着き、「これは単純化、自己承認欲求なのではないか」と思い、しかも犯罪のことばかり考えて、疲れてしまった、勝手に、ひとりで。
そんなとき、一番会うのが億劫だった人に会った。
そしたら、壁ががらがらーと壊れた。
私は単に、演じようとしてたのだと思った。
自分のあるべき役割。それが、360度どこから見ても、正当性のあるような意味を持った。
しかし、そんなことはどうでもよい。
誰かに期待されていると自分が思い込んでいる役割は、もしかしたらたった1人も賛同者なく、自分ひとりが思い込んでいる勘違いかもしれない。
それに苦しむなんて、ナンセンス、というか、アホや。
で、人生2回目の、「そんな人生おもろないやん」に出会う。
とても有意義な時間だった。
おもろないと何の意味もないんじゃないか、とさえ時おり思う。]]>
後悔
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2009-07-17T01:34:18+09:00
2009-07-17T01:34:24+09:00
2009-07-17T01:34:24+09:00
jengsauman
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Mの夢も、香港人の夢もしょっちゅう見る。見るたびに、ああ私はまだ思いいれがあるのか、とか、惜しいことをしたのか、とか思ったりする。
けど、そんな感傷的なことに酔っ払っているのは、現実逃避にすぎないし、何より、現実をとらえていない。
私は、単に「後悔している」のだよ。思いっきりぶつからずに、悩んだふりをしながら、実は傷つくことを恐れつつ、単に迎合していただけの自分を後悔しているのだ。
後悔とはこういうことである。手を変え品を変え、私に襲い掛かってくる。
あたかも、それが、現実であるかのような錯覚を思わせ、現実の悩みや変えられない過去への苦しみと思ったりしても、実際のところそれは単に「後悔」の亡霊に過ぎないのではないかと気づいた。
「~したかった」「~すればよかった」「もし~したら」というたくさんの思いがあまりに強いくせに、それを頭で押さえつけた結果、何年経っても、10年経っても、亡霊として出てくるではないか。自分を信じなかった結果。これはまさに、地獄。
後悔のクセの悪さは、いつまでも付いてくるだけでなく、それは消化しない限り、永遠に増大しつづけるということ。
だから、麻痺してきて、「どうせ」という思いが、後悔から発しているものなのか、もともと無理なのか、分からなくなるのだ。
とにかく、後悔はしちゃいかん。
後悔だけは避けなければ。]]>
役割
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2009-07-08T22:54:00+09:00
2009-07-08T22:54:50+09:00
2009-07-08T22:54:19+09:00
jengsauman
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苦しみ、だけれどもそれを文字で読むことはできても、感じることはできないということ。
いろいろと文字を追っていき、読み終えたあと、気づいた。
私は、被害者にはなれない。
けれど、なれないからこそ、もしかしたら、私の役割があるのではないか。
いつも、被害者と加害者のあっちもこっちも見て、本を読んで、頭がぐるぐるしている。
どっちにも説得力がある言い分があるけれど、どちらも傷ついている(と思う)。
けれど、どこまでも私は第三者で、どこまでも他人事であることが、どうしようもなく中途半端で、
都合の良いときは忘れて、離れて、また都合よく戻ってくる。
そんな態度が許せない一方で、そこに没頭することが怖かった。
しかし、私はきっと、何者かになろうとしてたんだと思った。
時には被害者に憑依し、時には加害者に憑依し、どちらにも響くような言葉を囁くすーぱーうーまん
になろうとしていたのだと思った。
わたしは自分の役割を理解した。
被害者でもなく、加害者でもない、将来的に被害者になるかもしれないし、加害者になるかもしれない、
結局、よく分からない全体の一部。
そんな人間だからこそ、できることがあるはずだと思った。
与えられた環境の中で精一杯頑張るということは、そういうことなはずだった。]]>
条件の違い
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2009-07-06T23:08:00+09:00
2009-07-07T20:24:54+09:00
2009-07-06T23:08:05+09:00
jengsauman
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社会のため、になどなれるのだろうか。
いろいろな汚職があり、文化背景の違いがあり、ふざけんなと思っていても、
いつのまにか、それに迎合し、その既存のフレームの中で、生きている。
そんな自分がありありと想像できる。
ビジネスで勝負するしかない、のだろうか。
社会貢献とは、雇用という意味しかないのかもしれないというえりこさん。
つまるところ、現場へいかないと、どうにもならないのかもしれない。
そういえば、ずっとひっかかっていたこと。
何かの本を読んで、私が「日本の教育はパラグライダーを操縦できても、飛行機を操縦できるようにはならないということで共感したんですが、どう思います?」というと、弁護士のHさんは、「それは自己責任ですよ」とあっさり言った。
その発言にがっかりというより、何か腑に落ちない感覚、それは、何だったのかというと、自分の力ではない誰かの力が存在していることを無視していることへの違和感、だったのだろうと今日気づいた。
私は、一人暮らしをしてもう10年になる。そして、勉強してないけど大学を出ている。
けれど、これは私の自己責任および自己努力によって手に入れたものではない。
これらは、ほとんどが、親のお金や支え、また他人によって支えられた結果に過ぎない。
いつも、(特に外国へ行けば強烈に)思うけれど、私という個としては、ほぼ何の力もない。
ただ、ラッキーで、与えてもらっただけ。けれども、私は長らくそのことに意識がおよばず、「自己責任、努力」と思っていた。
法曹の新制度を知ってから、この制度はある程度お金を持っている親の子でしかも若い人か、社会人でも貯金がかなりある人か、結婚していたり無職になっても住む場所や生活にあまり困らない人には可能でも、しがない独身ひとりぐらしサラリーマンには相当大変、かなり無理と思った。
法曹という人に寄り添うはずの立場が、「恵まれた環境で勉強に打ち込める」という前提条件をクリアしなければ、かなりの難関であるというのはあまりに違和感だ。
お金に困ったことがない人が、お金に困っている人の気持ちなんて分からないだろう、と思う。けど、別にわからなくてもいいのかもしれない。こうあるべき、だなんて言っているのは、自分の条件がたいしたことないことを正当化しようとしているだけなのかもしれない。そうして、いつまでも他人の人生や制度を批評している。
働いて貯金して、それを学費にあてて、生活費も必要だから、結局奨学金という名の借金をして、それでも生活が気になって、将来が不安で、勉強に打ち込めない・・。恵まれた子女たちがまわりにごろごろして、きっと羨ましいと思うだろうと推測するとともに、怖い制度と思う。そんな状況の中で、「別にやらなくてもいいのにあえて自分で選んだことなんだから」という思いを握りしめて、勉強するしかないという未来の自分を想像すると、ぞっとする。それが、私の躊躇の原因である。
しかし、そんなこといっても始まらない。人がどうのこうのいってても、何も変わらない。制度がそうなっちゃった以上は、最初のステップとしては、それから離れるか、それを受け入れるかしかないのだ。何もない人間が、わーわー騒いでも、何の説得力もない。制度が悪いとか言ってしまいたい。でも、言ってもしょうがない。だったら、とにかくやってやる。「やっと気づいたか、自分」と思った。悪いもんなんて世の中にたくさんあって、絶対的に正しいことなんてないのだから。あれがどうこうとか、実家の人はいいとかなんとか、お金がないとかなんとか、もう、ぐちゃぐちゃうるさい。
ともかく、お金に限らず、「それは君の自己責任だよ」なんて、簡単に言わない人間になりたい。
ふと、母親から1週間くらい電話がないことに気づいて、ここ数日、父が不在であるのになぜ電話してこないんだろう、もしかして・・と急に不安になり、電話したら「あ、もしもしい~」とノリノリで出た。。どうやら、一人暮らしを謳歌していたらしい。。。
けど、いつかは、こうして電話してみたら、母が死んでいたということも大いに有り得るし、誰かに襲われたとか、殺されたとかだって有り得る。
今回は、何事もなかったけど、次回は分からない。それが、限りある命ということなんだ、と強く感じる。
被害者遺族の本を読んでいて、その情景をどこか他人事のように傍で覗いている自分がいる。
決して、そこに足を踏み入れずに、覗き込んでいる。
最初は文章に触れるだけでもショッキングなのだが、だんだん慣れてきて、それでもやはりショックを受ける。それでも、慣れる。本を読むということは、自分の中での偏見を作りやすいのかもしれない。
見たくなくなったら、本を閉じれば良いのだから。そうすることで、事実が曲げられる。
自分がショックを受けない程度の事実しか見ないうちに「こういうもんだ」と思ったり。
だから、やっぱり、現場へ行かなければならないんだと思う。
と同時に、現場へいってりゃいいと慣れてしまうのもだめなのだが。そのへんのバランスはどうとっていけばいいかと考えても、分かるわけがない。きっと、何事も、動いてみるしかないのだ。]]>
落し物
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2009-07-03T23:09:00+09:00
2009-07-04T12:50:44+09:00
2009-07-03T23:09:44+09:00
jengsauman
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ひさしぶりに足を踏み入れるのがとても億劫だったし、いやだったが、いってみたら何でもなかった。
変わらないもの、かわったもの、いろいろだなあと思いつつ、とにかく、「若っ!!」と思い、
6、7年の歳月を感じる。
古い校舎が建替えのため、取り壊しになると書いてあった。
入試のときに初めて入った校舎、語学でよく使ったなあ、あと教職の授業でもよく使った。
こうして、時代や風景は変わっていくんだなとおもう。
今思えば、ただの1つの塊の記憶、それでもその1時間、1時間で、私はどれだけ食べ物のことを考え、
自分の中で閉じていただろうかと思うと、なんともいえない気持ちになる。
あの校舎の匂いをかいだ瞬間に、身体が覚えているいろんなことがバックしてくるようだった。
それでも、今は今なのだが。
説明会に参加して、改めて、この学校とここにいる人たちはお金もちなんだなと思った。
というか、この制度自体が、お金持ちしか法曹になれないという制度だが。
1時間半座っているうちに、ふと学生のつもりになっていた。
人ってそうは変わらない。
帰りに掲示板を見たら、ゼミの先生の掲示があった。その言い方を見て、あいかわらずだと笑った。
でも、そこに書いてある問いに対して、私はもちろん答えが分からない。何やってたんだろう、とまた思う。
ふと、Sさんが「今からやればいいじゃないですか、その問いについて何を読めばいいかくらいは大学で
分かったんでしょ?」といったことを思い出す。
先生に会うのは怖いが、挨拶、そして相談に行かなければいけない、行きたい、と思う。
大学時代ならまだしも、「お前こんな大人になってもまだ思考停止か!」といわれるやもしれない。
大変恐怖である。けど、今の行動によって、過去の意味を、変えていくことはできるのではないか。
帰りに図書館へ寄る。なんと夢のような場所だと思う。
今では、職場から20分歩いて、区の図書館(しかも小さい)へ行っているというのに・・。
そのものの価値というのは、持ってるときには分からない、のだろうか。
せっかくなので、個別の席にすわって、手紙をかいたり、本を読んだり。
帰りにバスに乗って帰る。このバスの光景もまた、ノスタルジーのきわみである。
家についてだいぶたったころに、知らない電話番号からかかってきていた。こんな夜遅くに誰やねんと
思ったら、都営バスの人で、私がパスケースを落としたらしかった。
中に入っていたのは、パスもとその他もろもろのカードだが、どうやらそれを誰かが拾ってくれて、
都営バスの人がパスもの登録情報から電話をくれたらしかった。
なんと!これぞ日本という気がした。ありがたい。
そんなノスタルジー話はともかく、気づいたことがある。
それは、完璧な状態で取り掛かれるということは、ほぼありえないもんだということだ。
私は人前で話すのが得意でないからだめだ。話せるようになってから・・。
法律の勉強に適性があるかどうか。もうちょっと勉強してから・・。
けど、こんなこと言うのも失礼だが、在校生代表として出てきた昨日の人たちの多くが、人前で話す
ことに慣れている風でもなかった。
それでも、彼らは、行動している。選び、決めて、入学し、勉強し、試験合格、その後を目標にしている。
人前で話すことがもっとうまくなってから、と待っていたら、その間一体どうするのだろう。
その間に、いろんな状況が許さなくなって、諦めるかもしれない。
結局、とりあえず選んで、行動しちゃわないと、どうにもならないんだと思う。
数百万円無駄にしても、「あれをしたかったのに」という後悔をひきずって生きるよりは自分にとって
よい選択だと本当に思えた時、行動するのだろうと思った。
最近、タイミング、を感じる。
いままでは、そこに起きていることに眼を向けようともしなかったから気づかなかったけど、
どうやら、物事は、起きるべくときに起きている、気がすることが時々ある。
ま、いつもの、妄想かもしれないが。
1ヶ月前くらいに海外NGOボランティアへ申し込みたいとメールをしたら、「9月は応募が集中していて」
という回答だった。私は、ここへは行かないかもしれないな、と縁のなさを感じた。
けど、とにかく、自分の言葉を「つもり」で終わらせないために、申込資格としての会員へ入会し、
またいつか機会があればと思っていた。
突然、数日前に、「調整していますのでもう少しお時間いただけますでしょうか」とメールをもらった。
とにかく、今、やれることをやっていれば、またその次のステップがあらわれるかもしれない。
どうやら、答えや明確なものを急ぎすぎているのだと思った。
仕事もいつどのように辞めるのかと考えているが、これからどうなるか分からない。
よく分からないことだらけなので、あーーーとなるんじゃなくて、だからこそ、次のステップがおのずと
あらわれてくるまで、ここでやっていればいいのかな。
はー。ねむたい。
昨日は、大好きなキャラクターに囲まれつつ、会社の役員が辞める夢を見た・・。意味不明。]]>
ちいさな成果
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2009-07-02T01:45:00+09:00
2009-07-02T01:44:58+09:00
2009-07-02T01:44:58+09:00
jengsauman
未分類
結局1人以外みんなが同意して、続くことになった。
なんだか、肩透かしだが、良かった。
先生も、「延長はかんがえてなかった」と言っていたので、1ケ主体的に動いた!という実感を
わずかながら得た。
あとは、仕事で、クライアントに「thanks a million!」といわれたので
なんかすごい嬉しがっているらしいことが分かった上に、そんな言い方あるのかと勉強になった。
]]>
びびり子
http://jengsauman.exblog.jp/9932578/
2009-07-02T01:40:20+09:00
2009-07-02T01:40:19+09:00
2009-07-02T01:40:19+09:00
jengsauman
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英語で話しかけられたら困るから、1時間進んでいるオーストラリアの真夜中を狙ったあたりが
小心のきわみである。
「追加する」を押したら追加されるかと思って、さんざんその画面で躊躇したが、
えいっと押したら、メッセージをどうぞ、と出て、ずっこけそうになった。
その文章を考えるのにまた一両日。。
どれだけ人生を停滞させれば気がすむのだ、わしは。
けど、行動したのでよしとしよう。
今度、わたしは、いつ、おんらいんにするのでしょうか。。
触れるのが1番。そうは思っても、つい、つい、逃げたくなる。]]>
自分に与えられたものの中で
http://jengsauman.exblog.jp/9931787/
2009-07-01T22:57:00+09:00
2009-07-02T01:36:43+09:00
2009-07-01T22:57:17+09:00
jengsauman
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やりとりする先もかんとにーず圏で、相手は日本語が相当上手なので話すのは日本語だけど、
ときどきかんとんごを使う。うれしい。
しかし、資料は英語で来たりする。意味不明。相当さっぱりわからない。辞書で調べまくっている。
そうしているうちに、受験時代のような「とにかく読めればいい」心境になり、英語がリアルとは
かけ離れてきた。もう英語学習くじけそう。
いつも思うけど、アメリカの英語って、どうしてあんなに丸い音なんだろう。
日本語とは全く違う発声法のような気がしてならない。
いつか、しゃべれるようになりたい。
くじけてたら、いにしゃるDをおもいだした。
ずーっとやってたら、いつか速度がゆっくりに感じるようになる。
とにかく、からみにいく。
受身でいても少しずつは触れられるけど、からみにいかないとね。こわいけどね。
与えられたもののなかで、一生懸命どれだけやるか、どれだけ絡みにいって、つかみにいくか
そんなことを目指したいと思う。
]]>
発信
http://jengsauman.exblog.jp/9910696/
2009-06-26T21:41:00+09:00
2009-06-26T22:09:52+09:00
2009-06-26T21:41:26+09:00
jengsauman
未分類
「今学期があと2回で終了することが残念です。(中略)あと1タームお願いできませんでしょうか」
という内容のメールだった。それをallのMLに貼り付けて、「こんな希望が来ました」と書いていた。
私は相当血が逆流して、先生なにやっとんじゃと思った。デリカシーなさすぎだよ。
むずがゆくて、腹立たしくて。。
しかし、帰宅して、落ち着いて改めて読んでみたら、別に普通の内容だった。
私が落ち着いていられなかったのは、私の言ってることとやってることが一致してない、少し媚びた内容だったからなのではないかと思う。
そんな姿を先生には見せても、みんなに見られるのは嫌だった。自分の未熟さをばらされた気がした。そして、「ああ、私は先生に甘えていたんだ」と思った。先生は、そんな私の媚びや甘えをもう何年も受け取ってきて、「そうだね、そうだね」と個別に返してくれることをしなくなった。単に忙しいだけだと思うけど、私はそんな先生の変化を受け取り、「自分も変わらないといけないんだ」と悟った。
そこで、私は、自ら名乗ることにした。また、自分の言行不一致をごまかすために「みんなもやりませんか~」という軽いノリで書きたかったけど、それをやめて、ただ淡々と、自分の考えたことを少し薄めて書いた。もしかしたら、クラスの人は窮屈に思ったり、痛いなと思ったり、「せっかくもうクラスが終わると思ってたのに蒸し返しやがって」と思ったりするかもしれない、こんなことMLで書かれたら辞めづらいじゃんとむかつくかもしれない。でも、みんなにいい顔するのはやめよう。私は、本心のかけらを、発信しなければいけない。頼まれてもない空気を読むことをやめないといけない。でないと、自分の欲するものに近づくことすらできない。そうして受けた人からの反応や、自分の中の変化なら、きっと受け止められる。そうして、自分の歩みの景色を、変えて行く。
言ってしまう。そして、首をつっこんでしまう。意見を出す。自分の立ち位置を表明する。そして、人と交換する。まずは、それをやらなければならない。既存のものに乗っかる、欲しいと思うものがなければ諦める、とりあえず「うん、そうだね」と言っておく、そんな時間を減らす、減らしたい。
何を発信すればいいか分からない、それなら、何を言うべきか分からないと言う。
何か言うべきことを発信するだけの力がないのだと正直に言う。けれど、そうして言ったことで安心しない。甘えない。
努力しなければ、また次の機会も、分からないといい続けるだけ。そんな自分と縁を切れると信じてみよう。
主体的に、選ぶ、言う。その結果、どうなっているかは分からない。
Aちゃんのスカイプを登録するのは、数ヵ月後でいいやと思っていた。
理由は、私にとっての現実逃避の妄想の対象を現実にしたくない(失望したくない)からと、
「できるようになってから」話したかったからだ。もごもごしたくなかった。
格好悪いからもあるし、そんなもごもごだと会話にならないことが目に見えている。
会話にならないやりとりなんかしたって意味がない、と。
けれど、そんなのはやめようと思った。
もごもごで会話にならなくても、それを自分が英語に触れる機会の1つとしてとらえて、
さらに自分でも努力して、次にはまたもごもご度が減っていればいいじゃないか。
それで相手がめんどくせーなと思ったら、それまでだ。
今の自分で相手に向かうという癖をつけなければ、いつまでも逃げ続ける。しかも心の中で
いつかできるようになった自分を思い浮かべながら。
それとともに、言葉(日本語も含む)を発信する場に自分からいこうと思って、
スピーチサークルを探している。
小さいころから人前で話すと声が震えたわたしにとって、「スピーチ」なるものに自分から
近づいていこうとするなんて信じられない。
けど、びっくりすることに、わたしは自分の言葉を人に届ける力を鍛えたいと思っている。
一朝一夕にはいかないとおもう。でも、まずは何が困難かを知るところから。]]>
穏やかな時間
http://jengsauman.exblog.jp/9907937/
2009-06-26T02:01:00+09:00
2009-06-26T21:34:04+09:00
2009-06-26T02:01:53+09:00
jengsauman
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先週末、次のバレエのレッスンの日は先生の誕生日だったのではないかと思い出して、何かプレゼントを買おうと考えた。
余計なものが好きじゃない先生にとって、やっぱり育てているお花の仲間を増やそうかと思ったので、切花じゃなくて鉢植えのものがいいかと思ったけど、適当なものが見つからず、小さいひまわりの切花にしようと思っていた。なんだか、無難感が漂うのでいやだったけれど、ないよりはましだと思って。当日、駅前のお花やさんで買おうと思っていた。
そして、その当日の午後、広東語の先生にメールをした。
私が送った内容は、「今の英語のクラスはもう終わるけど、もう1学期お願いしたい」という内容で、先生から返信がすぐに来た。
内容は、「スケジュール的にはOKです」というものに加えて、数週間前から合流した別のクラスのKさんを褒めちぎっている内容だった。「集中力と努力はだんとつ」と。
先生は昔からよくそうしてクラスの誰かの努力や才能についてたくさん書いているメールを送ってきた。そういうメールを受け取るたびに、私は劣等感を覚え、焦って勉強に取り組んだ。今回、先生はどういう意図でそんな内容を書いてきたのかよく分からない。ただ単に、Kさんの努力について書きたかっただけかもしれないし、Kさんと同様の当たり前の反復・努力・集中なしには、箸にも棒にもかからない、と言いたかったのかもしれない。もしくは、叱咤したかったのかもしれないし、単に、分析しただけかもしれない。でもその言葉の端々には、「君はやれることもやってない」「全力をだしてない」「甘い」、そんな言葉があるような気がした。
Kさん云々よりも、私は自分のその中途半端さを先生に見透かされていて(当然だが)、それを指摘されたのが、すごく心苦しくなった。頭の中がそれでいっぱいになった。どうして、そんなに「できない」んだろう。
そうして、退社して、情けなくて、もやもやして、そのままバレエへ向かおうと電車に飛び乗った。
途中ではっと、「あ、花買い忘れた」と気づいた。いつも銀座で乗り換えるので、銀座なら何かあるだろうと思っていいやと思うことにしたが、なんだかちょっとしたことで、すぐにやろうとしていたことさえも忘れてしまう自分の器の小ささを痛感して、余計いやになった。
銀座について、ふらふらしてみたけど、花屋は見当たらなかった。仕方ないので、携帯で検索して、もともと買おうと思っていた花屋が有楽町にあることが分かったので、テクテク歩いていた。「こんな付け焼刃の贈り物、先生は本当に喜んでくれるのだろうか?」という思いがぐるぐるした。もやもやしているので、ちょっとの距離なのに「あー有楽町遠い!」と嫌になりはじめたころ、ふと通りのお箸やさんに目が留まった。すごく、丁寧に作られていて、すごく、色が多彩で、大事に作られた店のように感じた。直感で、「先生はこっちのほうが喜ぶのではないか。それに、お箸なら毎日3回も使ってもらえる」と思い、その店に入った。
いろいろと吟味していたら、すごく綺麗な翡翠の濃い色のような飾りのついたブルーというかク゛リーンというか、そんなお箸にであった。ふと、「あ、これ先生の色だ」と思ったので、それを購入した。ついでに、カエルの箸おきもつけて。
包装してもらったら、やたらと大層なものになってしまった。「これってちょっと重たくない?」と自問自答するが、買っちゃったし仕方がない。
そして、先生に会いに行った。なんだか、部屋に花や飾りが増えていて、きっとこれらもプレゼントだと思い、自然に渡してみる。先生は、相当興奮して喜んでいた。どうやら、偶然わたしは先生が現在愛用しているお箸と同じ店で買ったらしい。「ちょっと~、すごい!あはは!」と言っていた。喜んでもらえて、良かった。
誕生日というのは、プレゼントをあげて、その人に「私は友達思いな人ですよ」とアピールするための日というわけでもない。その人が生まれたことに感謝する日なのかもしれなくて、でもなかなかそこまで思えることはない。昨日は、先生があんなに喜んでくれてはじめて、自分の汚い自己満足の欲がすっと消えていくような気がした。
先生の家へいくと、いつもまず、ベランダの花を見る。そして、最近小学生の生徒が植えたという稲と。
でも、昨日みたら、稲がなくなっていた。「どうしたんですか?」と聞いたら、「もうあの子、これなくなっちゃったんだよ」といった。
どうやら、もともとのレッスン日以外は塾でだめらしく、今月からのレッスンスケジュール再編により、これなくなったらしい。
1週間で1日のピンポイントの時間しかあいてない、ってどんな小学3年生だ。。先生いわく、「最近、そんな子が多いよ」とのこと。レッスンに来る車の中でも宿題をしているとかなんとか。。
私はその親御さんに会うことがあれば声を大にして言いたい。塾より、このレッスンのほうが、どれほど、どれほど価値があるのか。
けれども、それは私の主観的な価値観であって、親御さんにとってはお受験のほうが大事らしい。その子はきっと残念だろうなと思うと、いたたまれない気持ちになった。
窓際に飾られた綺麗な風鈴やストーンの飾りが、安寧な夜を感じさせた。どうしてここに来るとこんなにピースフルになれるのだろうか、いつもそう思う。本当に、静かで、穏やかで、透明な時間。もし子供ができたら、先生のレッスンを受けさせたい。しがみついてしまいそうなので、できるだけ放任したい。
相変わらず、リラクゼーションに入る前に、先生と話しこんでしまう。でも、レッスン時間が延びたため、おしゃべりとレッスンがいい具合に同居できるようになった。
その後、とても不思議で特別な体験をした。
私はゆっくりとプリエを重ねているうちに、いつも吐き気がする。
なぜだか分からないけど、小学校のころから、じっと立っていると気持ち悪くなってしまうのだ。
しかし、昨日、少しずつ吐き気がもよおしてきたとき、それをも包み込むイメージで
「受け入れよう、それでいいんだ、これでいいんだ」と思った。
そうしたら、すーっと吐き気が消えていった。受け入れた感覚だった。
それは不思議な感覚だった。
もしかしたら、「気持ち悪くなるのはだめなんだ」「気持ち悪くなっちゃいけない」そんな思いで
私は自分の現実を受け入れることをしてこなかったから、ずっと気持ち悪さに取り付かれていたのかも
しれない、と感じた。都合の悪いこと、はみだしてしまうこと、ルール外のことも、現実は現実で
そのままでいいんだと受け入れること、が第一歩なのかもしれない。
少し自分を信頼できた瞬間だった。
できの悪い子でも、決して見捨てないという安心感のような。
先生はとても面白い話をしてくれた。
プリエは、ひざを曲げて下へ降りていく動作であるけれど、ただ下へ行こうとするとつぶれてしまう。
るるべは、つまさきでたつことだけれど、ただ上へ行こうとすると軽い動きになってしまう。
本当は、下へ行くためには、上へを意識し、上へ行くためにはしっかり地面を踏みしめなければならない。
バランスが取れている状態というのは、反対の力が同じだけ働いている状態であって、決して静かに
止まっているわけではない、というようなこと。
動作1つをとってみても、ただそれを見ると、ひざをまげているだけだったり、反っているだけに見える
かもしれなくても、その実、見えないところにいろいろな力が働いているのだと知る。奥深い。
レッスン後、あまりに気持ちよかったので、しばし外をながめていて、先生に
「こんなに平和で穏やかな時間が過ごせれば過ごせるほど、外の矛盾に満ちた現実との折り合い
がつかずに消化できなくなる」という話をした。
そしたら、先生は、「たしかに世界は矛盾に満ちているように見えるかもしれない。でも、もしかしたら
それは、世界の一部なのかもしれないよ。たとえば、楽譜のなかで1つの小節では、とても暗くて
どろどろな音に聞こえても、全体の曲を聞けば、決してそうではない。時には明るかったりね。
自分の視界を広げることで、もっと大きな枠組みの秩序を見ることができるかもしれない」
その話を聞いて、すごく胸がほっとした。
自分の世界を広げていくこと、だ。
立ち止まって考えても、永遠に分からない。
でも、自分の視界を広げていくことで、いつか何かをつかめるかもしれない。
だから、希望はあるのかもしれない。
「まだまだ、トライ&エラーをたくさんすればいいんだよ」と聞いて、そうだなと思った。
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会社や仕事への不満
http://jengsauman.exblog.jp/9898727/
2009-06-23T21:59:00+09:00
2009-06-24T00:00:28+09:00
2009-06-23T21:59:26+09:00
jengsauman
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と思っていた。それでも、「休んではいけない」という規律と、「休んだら有休が無駄に減る」という思いで
なんとか身体を起こし、出社していた。
会社へいって仕事をしていても、それを仕事とよぶのか、また自分がやりたいと思っていることに繋がる
のか、ともやもやと考えていた。でも、「一生懸命しごとしているふりしなければ」という思いが大半で
作業をしていた。
早くこの会社を辞めたいと思っていたし、もっとやるべきことがあると思っていた。
また、会社へ行って仕事をしているよりも、家で勉強したり、外へいってボランティアや活動に参加する
ほうがよっぽど意義があると思っていた。
考えていれば、いつか名案が思いつくのではとも思っていた。
ここにきて、1つ分かったことがある。
まず、家にいて何かが思いつくことはあっても、その確率はかなり低い。
家にいてじっと考えてるのが一番のリスクであり、まだ出社したほうがまし。
また、出社してもとか考えているが、目の前のことも、自分がしょうもないと思ってることでさえも
ちゃんとできないで、一体何ができるというのだろうか。きっと、別のことをやっても同じ不満をもらす。
そもそも、向いている仕事、とか、やるべきこと、なんて、得ようと思って得られるものなのか?
いや、そもそも、そんなものあるのかもなぞだ。
あったとしても、向いてるからやる、やるべきと思うからやる、というのも、なんだかおかしい。
どんだけ、偉いつもりだろうか、とふと思う。
自分の道というのは、眼の前のことをやっていく中で、見つける。
どこかに答えが転がってるわけじゃない。
それが正しいかどうかは分からないけど、今は私はそう思いたい。
会社にいたら、とっぴょうしもないことが起こる。それは、ラッキー。
いちいち、「また訳わからんこと起きた」と怒らない。それは、家でじっとしてても体験できないことだ。
自分の世界を広げることをかんがえる。
そうして考えてみると、出社したほうがずっとましであることが分かった。
朝は、無駄なことを考えずに、とにかく出社しよう。
私は、この会社を辞めるときは、絶対に逃避やマイナスの意味で辞めないようにしようと思っている。
それが、今まで散々逃げ続けて、いろんな人に迷惑をかけて、自分も裏切ってきたことに対する
1つのステップだと思いたい。
だからこそ、自分の架空の能力ややるべきことや向いていることや能力に対する妄想は置いておいて、
着実に、1つ1つの成果を出していきたいと思う。
私がこんな会社にいたら自分がだめになる、と思うのであれば、何か変えようとしないと。
もっと大きい会社にいたら、って思うけど、もっと大きい会社にいたら、きっと私はもっと大部分において
決まりの中でしか動けないと思う。
いつか、素晴らしい環境や人に出会えば、自分が変化すると思ったら、大間違い。
そうは思っても、やっぱり考えて、やっぱり躊躇して、やっぱり人のせいにしたくなる。]]>
ほんものの覚悟
http://jengsauman.exblog.jp/9895516/
2009-06-23T01:26:00+09:00
2009-06-23T21:43:56+09:00
2009-06-23T01:26:39+09:00
jengsauman
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もうSさんから連絡はこないんじゃないかと思っていた。
私のような、なんの軸も逡巡も教養も努力もないやつと話すことなんてないと思っただろうと思った。
それを振り払うために自分から、連絡しようとは思っていたが、何を言えばいいのか分からなかった。
いつも、「今日帰ったら勉強しよう。哲学の本を読もう」とか思うけど、家に帰ったら、感情の反芻で終わる。
私は、本当にやる気がないのかもしれない。私は、何に向き合う気も、何を作る気も、ないのか。
そして、Sさんは、苦しい中でもひとりで閉じて思いつめすぎなのではないか、とか、
どう対せばいいのだろう、とか、一見とてもそれらしいことを考えてはみても、それは無責任なもの。
「もっと違うアプローチがあるのでは」と言ってみたって、自分に何も言える材料がない。
ただ人のやっていることをああだこうだ言ってるだけなら、誰だってできる。
そう思ってたら、メールが来た。「今取り組んでいることが終わったらご飯へ行きましょう」と書いていた。
めちゃくちゃ意外だった。しかし、一体、何で会おうと連絡をくれたんだろう。
そして、また、前回のように、Sさんの表出を延々と聞くだけのやりとりをしてしまうのか。と思うと
何をどうすればいいんだか。前会ったときと、変わってない。
私がやりたいと思っていることは、ある事件で被害にあったSさんとは反対の場所にある。
だから、私は、到底、Sさんの前で、自分の思いのかけらを話すことはできないと思っていた。
私は自分の歩みが、自慰行為なのではないかという思いを今も持っている。
怖かった。それは、批判されるからというより、自分が曖昧な考えしかないことに気づくのが。
Sさんは、自分が被害にあった事件を起こした人や関係するものに「消えてほしい」と言った。
私は、その言葉を聴いたとき、身体中が凍った、そして、痛かった。
現実だ。これが、何の落ち度もない「被害」の、現実。消えない苦しみ。どこへ怒りを持っていけば
いいのか分からない。そして、なかったことにはできない。その苦しみの重さ。
たった数秒それに触れただけで、わたしは凍り付いてしまった。
だから、自分が、どんな覚悟を持っても、それは覚悟じゃない。
私はいつも安全な場所でいて、地を這うような思いをしている人に触れたいなんてほざいている。
私が何をしても、どうやっても、自己満足は捨てられない。
それでも、私は、Sさんに、自分のやろうとしていることを、いえるようにならなければならないと思う。
いや、言う必要などないかもしれない。言いたいのは私だけで、Sさんは聴きたくないと思う。
でも、全ての方向に良い顔はできない。それが、覚悟じゃないのか。
また、そういうプレッシャーをかけることで初めて、真摯に、自分のやることに取り組まざるをえない
状況を作り出すことができるのかもしれない。なんて、やっぱり弱すぎる。]]>
英語の授業にて
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2009-06-21T16:56:00+09:00
2009-06-21T18:51:11+09:00
2009-06-21T16:56:28+09:00
jengsauman
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数ヶ月前とくらべると、わずかながら英語に慣れてきた感がある。その分が進歩なのかもしれない。
たったそれだけだとしても、何もないよりはよい。
それに、こればっかりは、どんどん練習しないと、口が回るようにならない。
実践あるのみ、である。
それと同時に、いかにモチベーションを保って継続するか、なのだが、
最近は、つい先日仕事の関係で知り合った、きもい中国人を想定している(笑)。
その人は夜になるとただのすけべおやじだが、昼間はかなりの頭のきれる人で、しかも長年イギリスで
働いていたらしく、英語で会話していた。(相手はもちろん私ではない)。
あいつに今度あったら、英語でやりとりをしたいと思い、発音を練習しながら、その顔を思い浮かべると、
相当モチベーションが上がる・・。
やはり、リアルとの連動&反復、が言葉の勉強では重要とおもう。
願わくば、もっとウキウキするリアルがいいけど・・。
そうしているうちに、少しずつ、英語がすきになってきた。
「どうせ私になんかできないし、英語なんてどうでもいい」だった言語が、いつのまにか
「もしかしたら、少しはできるようになるかもしれない、それに綺麗な言葉だ」に変わっている。
もっと強い気持ちを持って、がーーっとやりたいところだが。
だらーんとなったとき、手に書いている「1万時間」という文字を見ると、まだまだだと思う。
かつまさんの本をちゃんと読んでるわけではないが、なんとなくぴんと来た数字なので勝手に採用。
発音をできるだけ綺麗にしたいと願うことは自由である。
それに、「そんなことに時間をかけているならば、もっといろんな教養をつけるべき」ということも正論。
でも、私には自信がない。だから、きちんと発音を学びたい。でもそれに固執していたら、
他の人と会話ができるスタートラインにも立てない。だから、そのやり方でもって、さらに教養もつける
ためには、圧倒的な工夫と努力、反復が必要なのだと思う。全然、甘いよ。
最近、「物事はなるようになっている」ということに偏りすぎていた。しかも、その意味を消極的かつ受身
にとらえすぎていたのではないかと思う。
運命というのはきっと有ると思うけど、それは、待っていたら道が見えてきたり開けたりするもんじゃなく、
よく分からないという状況において、とにかくもがいてやりきってみる、その中で見えるもんじゃないのか。
私は、待ちすぎてた。と思う。
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そうこうしていたら、超ひさしぶりにAちゃんからメールが来た。
もう忘れたんだろうなと思ったら、覚えてたのね~とウキウキ、と読み進め、
I’m glad that you are learning English, I hope to speak with you in English some day soon.
うふふ、うふふ。がんばるわあ~。
そして、さらに読み進めたところ、
I am trying to learn mandarin, my girlfriend is from China, so she speaks very good mandarin, so I am trying to learn as much from her as possible! And then after, maybe I can learn Japanese!
がぼおおおー。
が、が、がーるふれんど。。
がぼおおー。
しかも、北京語!がぼーーーー!
あんたの英語と広東語が好きだったのに!(ってか、おおむねそれしか好きになる物がない。情報不足)
いや、そらそうよね、もうあれから半年以上経ってんだから、がーるふれんどくらいできるよね・・。
でも、なんていうの、なに、この残念感。
しかも、そのあとに日本語って、何よ!優先順位低いな!君は日本語やらなくてよい!
などと思った始末。最強に心狭い。しかも、自分だって、一応相方がいるだろうが。
しかも、Aちゃんにもそのことを言ってたじゃないか。
(いや、そういう次元じゃないんだーがぼおー)
あたしは、そうとう自己中である。
それにしても、ますます、北京語嫌いになった。べーだ。べろべろばー。(幼稚園児並)
(冷静さを取り戻し・・・・)
彼はメルボルンにて、元気にしているようだ。
そもそも、私が今の英語のクラスに通うことにしたのは、彼のおかげだったな。
あの頃は今以上に、何をすればいいのか分からなかった。「崇高なすべきこと」がどこかにある
のではないかと探していた。英語よりもっと大事なものがある、という思いだった気がする。
だから、その直前に彼との出会いがなければ、このクラスには参加しなかっただろう。
そして、内心、「私は先生のもとから既に3回くらい逃げ出してて、あわせる顔がない」とか
「かつてのクラスの人に会っても気まずいし」などという思いもかかえていた。
私は、かつての逃避を乗り越えられずに、自分はだめなやつだからどうしようもないと思いつつも、
それを挽回するための、別のもっと「崇高で正しい」ことを探していたように思う。
でも、私のそんな稚拙な自己保身をも想定し、先生はかつてのクラスの人とクラスを別にしてくれて、
どうぞといってくれた。
そして、今に至る。その間に、かつてのクラスの人とも顔をあわせて、普通に話しをすることもできた。
相手にとっては私の逃避なんかどうでもいいことだったと分かった(当たり前だが)。
先生とも、いろんなことを話し、法曹を推された。
途中で先生の体調が悪化し、心臓手術受けて、大変だったと知った。時間は無限ではないと知った。
英語についても、当初は全く期待していなかったことを学べている、と思う。
Aちゃんとであったときには、想定もしなかったことが、起きている。
とても、とても、些細なことではあるけれど。
いろんなことが動いている。
だから、未来を憂うことは、無駄なんだ。だって、予測できないのだから。
そして、何にもならないかもしれないけど、突き動かされてやることは必ずやりきるべきだ。
そうすれば、必ず、別のところへ繋がっていく。たとえ、どんな不純な動機でも。
(さらに、冷静になってメールを読み返す)
彼は、仕事を始めて半年くらいだが、会計の大学院へ合格したと書いていた。
仕事と勉強の両立で忙しいらしい。
どうして、そういう面で、インスパイアを受けようとしないんだ。
そういえば、私は、男に対する甘え、というのだろうか、有る面はとても甘く、また甘えさせてほしがる
側面がある。そういうところを、直したいと思っていたのだけど、今日のメールを見て、最初の段落に
書いてある彼の近況よりも先に、ガールフレンドに反応しているようでは、まだまだ甘い。
自分がかわいい、自分のことで必死、なのだ。
世界は広いようだけれど、足元からしか何もできない、ということなんだろうな。
けど、日本以外の世界に、足を踏み出してみたい、と思う。
そして、自分の日常以外の場所に、足を踏み出してみたい、と思う。
そうすることではじめて、自分がしがみついているものを客観的に見直し、どこがどう説得力がないのか
どこが曖昧なのか、本当はどうしたいのか、ただポーズだけなのか、そんなことが見えてくる。
Aちゃんが、わたしの好きな歌手を覚えていて、最近出したアルバム良いよと教えてくれた。
でも、Aちゃんの教えてくれた曲とは別の曲が気に入りました。「沙龍」をえんどれすで聞いています。
こういう情報交換は、嬉しいです。]]>
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