過食症を経て、一つ一つの日常を見つめる記


by jengsauman

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シフト

昨日ひさしぶりにオールした。しかも初めて会った人たちと(笑。
ひさしぶりに飲みすぎて一日ガンガンしてました。

きのうは、友達たちの集まりか一人で映画かで迷った結果、映画を選びました。
ずっと頭のどこかで友達のことは気になってたけど、やっぱり映画を選んでよかった。
そうしようって先に決めてたし、映画の後に監督の先生の講演会があったから。

今日見た映画は、依存症がテーマの映画。
偶然チケットをもらったのもあって、30日に見に行こうと決めていたのです。

こういうドキュメンタリーを見るのは初めてで、実際何を感じるのか想像もつかなかった。
でも、浸ることも、悲しむことも、自分と同一化することも、批判することも、どれもいやだった。
彼女には彼女の歴史があって、彼女の事実がある。
その一部しか見れないけど、私はただ一人間の本気の表出がどういうものなのか、
純粋に見てみたかった。

会場に行くと、小さい場所ではあるけど、人で埋まっていた。
プレス関係者や教育関係者も居たようだ。

映画を見て、人それぞれだということを改めて感じた。
正直言うと、自分と向き合い方が全然違って面食らった。
性、男、それへの比重が重すぎて、あたしはちょっと戸惑いました。
何が合っていて、何が間違ってるとか、そんなものはない。
だからこそ、自分の中のすべてがふわふわした不安定な思考が
「今のあたしは本当にこれでいいの?」といいながら自分を見ていた。
そして「性」とか「女としての自分」とか、そういうかつて見ようとした
けど、あまりに分からなくてほったらかしてたことを
拾い始めなければならないのではないか?と思ったりもした。
でも、そんなこと、しなくてもいいのかもしれない、とも思った。

あたしは自分の思うようにやればいいのに、自分が「こうしたい」と思う
方向に向けばいいのに、それが分からなくなって、怖くなった。

一人で考え、一人で向き合ってるつもりになってることが
どれだけ危ういか、それを突きつけられた気がした。
自分がやってることは、ただ表面を撫でてるだけに過ぎないんじゃいか?って。

その証拠に、映画の中の彼女は、出していた。欲望も、感情も、自分で
言ってしまうにはあまりに辛い現状も、胸の中にある苦しい思い、
どうしていいか分からない不安も、表情も。
見る前はこんな映像だとは思いもしなかった。
今の自分がもし映像を作るとしたら、こんな感じか?と思うような
綺麗な映像を勝手に予測していた。

でも、違う。現実は、そんなもんじゃないのに。

誰も綺麗な映像なんて見たくない。誰も綺麗な言葉なんて聞きたくない。

彼女が映画の中で叫んだ。
「こっちは命がけでやってんだよ」

命がけ・・・・
現実はそうなのかもしれない。
でも、あたしには分からない。それが、ひっかかった。
あたしはまだ本気ではなく、リアルではない。

監修の監督は摂食障害のことをよく知らないようだった。
でも、現実を撮るということに命をかけている人だということはよく分かった。
彼が何度も言った。
「あいつはこれからが大変なんだ。」
私もすごくそう思った。
映画の力を借りてここまで来たけれど、これからが本当の自分の闘い
なのだろうなあ、なんて思うと少し気が遠くなりそうだった。
でも、かく言う自分はもっと遠くのスタートのところでたったままじゃないか、とも思った。
これからが大変なんだ、ということが明確に見える位置さえも見えてない。
ただ、漠然とした思いばかりにとらわれて、思考と煩悩を作り出している。

しかし、そうは思いながらも、私は心のどこかで、彼女と自分の境界線を
ちゃんと引いていたと思う。違うんだ、と。考えなきゃいけないことは
あるかもしれないけど、それはきっかけにしかなりえない。

そんなうちに終了した。何も見えない、けど、何か感じた。以上。

「この後、懇親会がありますのでよろしければ参加してください」というアナウンス
があった。終電1時間前ですが(笑??

あたしは、これに行こう、とおもった。
映画制作者、出演者も来ている。彼女とも話せる。どんなきっかけかは知らんけど、
この映画に興味を持って見に来た人とも話ができる。これこそ、逃してはならない
チャンスとちゃうんか?と思った。あんだけ飛び込むとか、やってみるとか、
人の話が聞きたいとか散々言っておいて、ここで逃げたら、あまりの
「有言不実行」っぷりに辟易して、こんな文章ただの自慰行為じゃないか、と
何を書くこともやめたほうがいいと思った。あたしは食べ物、人間だけでなく、
文章に依存している。自分がコントロールできる状態においてだけ
自分をコントロールできて自分を表出できると思い込んでいる危うさ。
実際は、本質は何も変わってはいない。

が、外にでても、みんな帰っていって、あらー誰もいかないのか・・・と
思ってトボトボ歩いて、そういえばこのすぐ近くがAの家だったっけ・・?
なんて激しくしょうもないことを思い出して、またいいわけし始めそうになった。
Aのことを考えるフリをしてみたり、まあ誰も行かないなら仕方ないか、とか、
あたしはこの映画のテーマに興味があって来たわけだから、
映像の専門家である製作者と話しても何もいえないだろうし、相手にも失礼かな、とか。
アホちゃうか。

また確信犯の逃避か?とムカムカしながら駅の入り口に入りかけたとき、
突然目の前に人が走ってきて、「懇親会はこちらでーす」と言ってくれた(笑。
すげー!と思った。何かよく分からないけど、これは行かなければ!と直感した。
ずっと待ってたら、後ろから少しずつ関係者が来た。
あたしは、初対面かつ作品も見たことのない大監督の真横に座り、
自分の話をグダグダした。後々聞いたら、ほんとにすごい人なんだって・・・(笑。
でも、こんなアホの話を真剣に聞いてくれる、取り繕いのない、ド・ストレートな人だからこそ、
それだけの映像を撮ってきたのだろう、と思ったくらい、ありがたい時間だった。
最後にあたしの背中を思いっきりバシーンとたたいて、「頑張れよ!」と言って去っていった。
なんだか、そのジンジンした背中から、なんともいえない余韻を感じていた。

その時点ですでに終電ないし(笑!
というわけで、その場に居た一人の人が新宿でやっているお店に移動した。
それから、朝までしゃべりまくり。飲みまくり。あんま食べなかったけど、
なんかやたら飲んだ。焼酎、焼酎、焼酎!

何が不思議だったかというと、あたしはその場に居て、思ったことを
8割以上そのまま口にしていた。さっき出会ったばかりの初対面の人たち
の前で。それを可能にさせた理由は、「取り繕いが許されない空間」だったからだ。
いつもなら、適当にごまかせることも、それらしいことを言って逃れられることも、
全部お見通しで、そんな言葉口にしようものなら、瞬時に自分で自分の首を
締めることになると目に見えた。

この映画が、この映画の出演者が、この映画の責任者が、この映画を見に来た
人たちが、みなどこかで同じ思いを抱いていた気がしたのだ。
もちろん、それは想像であり期待だけれど。

タバコを吸おうが、酒を飲もうが、摂食障害だろうが、どんな依存症だろうが、
だから何?という空気だった。むしろ、その心の奥にあるものを出し合って、
他者がどういう風に感じて生きてきたのか、そういうことを知りたい、
という真摯な態度の人が集まった場所だった。それに、依存自体は誰もが
持ってるもので、いろんな背景の人がいろんな形であの映画を痛い思いで
見たのだろう。男の人も。

気持ちよかった。あたしは、オールして、朝に向かってどんどんテンションが
あがっていくという初体験をした(笑。でも、それと同時に、自分が依存症に
対して考えていること、自分自身について持っている今の考えを、
「どうぞ思うままに話してください」という場で、話そうとすればするほど
わけが分からなくなってきた。あらゆる角度からのいろんな考えが浮かんでは
混乱してきた。でも、それで結果的に自分は何も分かってなくて、何もみようと
してない、ということが体感できたのでよかったのかもしれない。苦しいけど、
もっといろんな人と話して、自分の内面を表出してみる必要がある。

摂食障害は性の問題、といえるのだろうか?それは部分的には共感するけれど、
そう言い切ってしまうことにはいまいちしっくりこない。
やはり自身の問題ではないか。まあ、今の自分はそれに凝り固まってるだけなの
かもしれないけど。
この前、男友達と飲みに行ったら、ダイエットの話になり、そいつは「痩せてる女が
好き」と言った。あたしはついつい頭に血が上って、笑いながらも、「じゃあ食べないで
も痩せてる女のほうがいいの?」って素で聞いた。
「別に食べなくてもいいんじゃない?」といった。あたしはガックリきた。
こいつに何を期待してもしょうがない。何も考えてないだけで根は害のない
いいやつかもしれない、でもそういう考えを持っていると分かってから、
まともに向き合う気を失った。
女のことを性欲の対象としてしか見てないんじゃないの?
女のことを自分の存在意義確定のツールとしてしか見てないんじゃないの?と
意識過剰な自分も居る。「会おうよ」が「やろうよ」に聞こえる。
だって、痩せて外貌がよければりゃ現実はどうでもいいんでしょ?
でも、そういう男こそ「女の内面も見る・・」とか声高に言ったりする。
そんな当たり前のこと、わざわざ言うなよ、正しそうな顔して。
悲しくなるよ。だけど、それを気にし過ぎて、その本人から学べることや
吸収できることも全部無にしてしまうのは残念だと思う自分が、関係を
絶てなかったりする。あたしが一番欲深くて中途半端だ。

男のことは一生分からない。でも、自分が女で男を対象として見る限り、
男から逃げるわけにもいかない。
でも、今は、100人のうち95人に疎ましく思われても、嫌なものは嫌だと、
納得できないことは納得できないといえる関係が欲しいと思う。
より多くの男がそばにいても、自分がどうしても許せないことが、
彼らの世界では当たり前になっているならば、あたしはそこに留まる
必要なんてないと思う。

あたしがAという友達に対して好意を抱く最大の理由は、きっと彼の世界には
当たり前というものがとても薄くしか存在しないからだと思う。(相対的にだけど)
だから性差を超えることはできなくても、異なるものをそれをそれとして見れる。
異性だから、他人だから、環境が違うから、背景が違いすぎるから、
何も分かり合えないなんてことはない。人の数だけ、いろんな形の人間関係が
存在しうる。男と女、なんて一言で言ってしまうのも浅はかだと思った。

映画を見て、一番感じた違和感は、彼女も監督自身の意識も、
「本当に彼女に惚れ込んで愛してくれる男が現れたら格段によくなるはずだ」
という考えに基づいている点でした。
あたしは、男と女が一緒に居る意味がいまだによく分からない。
どうして結婚するのか、どうして付き合うのか、どうしてセックスするのか。
それは、あたし自身が、その問いに対抗できるだけのえぐりこんだ人間関係を
まだ築いたことがなくて、それができる可能性を信じることも怖いから
なのだけど、それをやる前から諦めて、男への不可解さや理不尽な(と勝手に思う)点
へ心の中で攻撃的になることはやめたいと思うようになった。
いろんな人がいるはずなんだから。
でも、やはり依存症は自分の問題だから、男のせいにするのも、男に頼るのも
やはり違うと思う。今の自分に必要なのは、自分が感じる違和感に正直に対面すること
なのだろう。不特定多数の人に認められることなんかじゃなく、自分が信じることに
邁進している姿を自分の大切な人に見えもらえたらそれでいい。
なんてことを考えていた。

電車が始まったので、駅に向かった。新宿からみんなばらばらに帰っていった
のだけど、なんだかまたどこかで会えるかもしれないし、会えないかもしれないし、
でもなんだか自然だった。
とても楽しかった。

帰りに、「自分が自分のことを話せる人が周りにいないというのは、自分自身が
今の自分を認めて受け入れてないからかもしれませんね」、
「どんな形でも何かしらの光を放つのは、辛い現実を乗り越えた人なのでしょうね」
と言われたのが印象的だった。
あたしがもし光を放てるとしたら、きっとそれは部分的であれ自分は自分だと
本当に受け入れた時なのではないかと思った。その光はどんなに稚拙で、どんなに
薄くて不完全なものでも、きっとこの世でたった一つのものだと思う。
今、光を感じるすべての人が、自分と向き合って自分の光を放って
いるように。そんな憧れを現実にするのは簡単じゃない。けど、不可能ではない。
何も高尚なものじゃなくていいんだから。すべては現実から始まる。
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by jengsauman | 2005-10-31 06:57

笑うこと

歌謡祭はめちゃめちゃ楽しかったのだけど、また思ったことがいくつか。

私は人を笑わせることを、人との関係をはかるバロメータにしている。
人が自分の言うことに爆笑してくれたら、ホッとするのだ。
そして自分自身も無闇に爆笑する。
前はそんな自分の行動を、「大阪人の性か・・」と思っていた。
でも、よく考えたら、何かが違う。
爆笑させないと不安でしょうがない。
爆笑しないと不安でしょうがない。
ははは、じゃなくて、ぶはははは、みたいなの。
無意味に無責任に自分が何かを言ってしまうのが怖くて、
人が明らかに楽しんでいることを確認しないといられない。
自分も楽しいんでいるんだと発信しないと不安なんだ、きっと。

昨日もそうだった。あたしは、そのためならおどけてみたり、
わざわざアホなことを言ったり、何かに夢中になっているフリをしたり、
人を話題に出したり、わけのわからないことまでいろいろ言おうとして、
非常に滑稽だ。

昨日共通の友達Aの話になったとき、あたしは最低な行動をした。
「(昨日来てなかった)Iちゃんが、Aを初めて見たとき「ちっちゃっ!」って
思ったらしいよ、ハハハ。」って言われて、全然楽しくなかったけど笑った。
Aは確かに背は高くなくて、あたしもそれを意識しなかったという訳ではない。
それは、ヒールを履いたら彼の身長を超えてしまう自分が
必要以上に縦にも横にもでかく感じてしまうからで、あたしは
小さく薄くなりたい、と思ってしまうことがよくあった。二人で会うとき
はわざわざヒールがないぺったんこの靴を選んだりもした。
今はもうそんなことしないけど。
でも、背が低いから良いとか悪いとか思ったことはない。
背なんてどうしようもないものだし。
それは、自分が太ってることを他者が陰で笑うことよりも
もっと質が悪いんじゃないかと思った。
努力でどうすることもできないことに対して、陰でこそこそ言うなんて。
Aが陰であたしの体型を笑ってることを想像したら、気が遠くなった。
そんなことしないはずだ、と信じたい自分が居て、
そして、自分自身の言動を振り返って吐きそうになった。
あたしは、また場面場面によって自分の色を変えている。
母親が昔トイレに張っていた言葉。「いいことは人づてでもいいけど、
悪いことは絶対に陰で言うな」をおもいだした。

そして、あたしは、自分の「笑い」についてまた思った。
自分が楽をするためなら大切な人も利用するのか、と。
いろいろ考えてはみても、いざいろんな人と一緒にいると、
なんかじたばたして、いい人と思われたい、面白い人と思われたい、
愛されたい、という欲望がうずうず出てくる。

心の中では「いやだ、そんなこと言わないで」と思うことに対してさえ
抵抗できない自分が情けなさ過ぎて、平手打ちしたくなった。
へらへら笑って何をやっとるんだ。
ツッコミと人を傷つけることの境目がぐちゃぐちゃだ。

中学校の時いちばん仲良かった友達に言われたことがあった。
「知り合ってあんまり経ってないころ、あんたが無闇に笑うの見て
何笑ってんの?ってよく思った。むかついたときもあったわ。」って。
めちゃめちゃ印象的でショックやったんかな。でも言ってくれて良かった。
言われなければ全然気付かなかった。

「笑う」ということは、「楽しさ」の表示でもあると同時に、
空っぽのごまかしの笑いは「人を不快にさせるもの」になるのだ。
きのう一緒に居た友達はそこまで感じたか感じなかったか分からないけど、
あたしは自己欺瞞に気付いていた。
ウソだ、これもあれもウソ。
でも、どうしていいのか、どうしたいのか、分からなかった。

ただ、目の前に居る人たちと近づきたいと思っているのに、
あたしは素で居たらいいとか、そんなことも忘れていた。
みんなに親しまれて、好かれている彼女に嫌われたくない、
気が合うと思われたい、そう思ったのだろう。
はー懲りねえなあ。。

Aのことで笑ったもうひとつの理由は、多分Aと自分が繋がってるよって
確かめたかったからだ。書いててばかばかしいけど、きっとそう。
だから、みんなで話してて自分の好きな人や友達が話題に出ると過剰反応して、
無闇に落としたり、無闇に笑ったり、無闇にしゃべったりする。小学生ですね。。
ことあるごとにAが話題に出てはあたしは食いついた。
きっと、依存度が高い程、その傾向は強いのだとおもう。

人と関わることは、かかわり続けないとどうしようもない。
いきなり人付き合いがうまくなるわけもないし、素でいられるようになるわけもないし、
人に優しくなれるわけもないし、余裕を持てるわけもない。
もう最悪だ、と思うことを通して、何度もやってみて、学ぶことが必要なんだろう。
でも、こうして笑って誤魔化すことは止めないと。
自分を落として笑ってもらうことも止めないと。
白痴を装っても、完全にそうだと思われることが怖い矛盾もくだらない。

今、いろいろ考えても、何を書いていいか分からない。
どんどん自分が原始化している気がする。
とても浅はかで、知のかけらもない。
でも、それでいいのかもしれない。
あたしはもっともっと殻を壊さないといけないんだろう。

一般的に楽しいと言われていること、場所。
それらがなんら魅力的でないと思う理由は、多分いままでの誤魔化しの蓄積の
結果、何をしてもどこに行っても、偽りが有る限り虚しさから逃れられないから
か、とおもう。

食事、遊園地、映画、旅行、買い物、カラオケ、各種スポーツ、ドライブ、デート・・・・など、
これらの文字を並べても、どれもがどうでもいいように見える。
実際やってみればそれなりに楽しいのだけど、無くても困らない。
それは、もう自分自身の問題だ。

今日、また会うチャンスはある。Aにも、昨日一緒に居た人たちにも。
でも、正直行きたくない。たくさんの人が居る場所で、あたしはまた誤魔化
してしまいそうだ。表面的に自分がしょいこむアイデンティティとやらを
またこれ見よがしに振りかざすのが目にみえてて、でもそれを放棄して
どんな自分であのアナーキーな場所に飛び込んでいけばいいのだろう、
と思うと、足がすくむ。ゆっくり、ゆっくり、といっても、その先が見えないから
恐ろしい。

今までの自分の内省はあまっちょろかった。綺麗にまとめようとして、
以前よりはましになったとはいえ、自分の見たいことしか見ようとしない。
本当は自分がこんな欺瞞に満ちた人間であることを忘れてはならないし、
もっともっとそういうものはあって、たとえどんなものが出てきても受け止めよう
という覚悟が必要なんだ、と思った。
「自分ってここまで逃避してたの!?いやーさすがにそこまでは・・」
なんて責任をうやむやにしても、それは少なくとも現段階においては事実なんだから。
それは、不可能かもしれないけど、できる限り自分の真実の姿と向き合う
ことへの挑戦であって、別に自分を落としてるわけではない。
自分はもっといい意味でも悪い意味でも自分らしさがあるんだと思う。
直したほうがいいところも、もっと尊重したほうがいいところも、
まだまだ見えてない。
摂食障害、というひとくくりで見逃してきたことがたくさんある。
あたしは、そんな大雑把なくくりで逃げてはいけないことがまだたくさん有る。

夜中に友達と話をした。
印象に残ったこと。
「負け組というのは、社会において自分がどうすればいいか分からない人じゃないか?」
「結果を出さないと発言権が無い。」
「色気がない。」←噴き出した(笑。

そしてまた自分のことをふりかえってみた。
最近、「せまっ」って思ったことのひとつが、あたしは自分自身とさえまともに
向き合えてないけど、同時に自分が日本人であることの意味をまともに考えてない。
周りの友達が、6ヶ国語や7ヶ国語を操るのを見て、自分ももっとやらないと
視野が広がらないなどと焦るのだけど、肝心の足元は・・・??
日本語について、日本の歴史について、政治、社会、伝統、文化、あたしは
一体どれほど分かってるつもり?
どこにだって長所と短所がある。あたしの足元はここなんだ。だから、表面的な
広がりだけに目を奪われないで、日本のこと、自分のことをちゃんと知ろう。

「小学生に英語を教えるよりも、日本のことをちゃんと教えたほうがよっぽど
まともな国際人に近づけると思う」と言う友達にとても共感した。言葉はツールだ。
日本語だってそう。自分という人間とちゃんと確立するために必要なことは、
ほかの誰とも違う自分の背景、環境、価値観、それらをもとに広げることだ。

自分ってしょぼー、と笑えた。
孤独だって必要だ。けれど、今のあたしにはきっと人と関わることが必要だ。
バカな言動を繰り返して、自分の無知を晒して、それでもそれで足元を固められる
なら、その覚悟があるなら、きっと意味がある。

必要外の笑いは意識してやめていこう。
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by jengsauman | 2005-10-30 12:55

張惠妹可愛かった~

日中友好歌謡祭は楽しかった。とても興奮した。
国際フォーラムのAホールの大部分が中国人で埋められていた。
東京の真ん中でここは北京か!?と錯覚した。在東京の中国人は
こんなにいるのか、とびっくり。発音とか熱気とか様子とかが
台湾でもなく、香港でもなく、中国だった。
ひさしぶりの大陸の活気だ。なんだかわくわくした。

日本人で夏川りみと酒井法子(←中華圏で超人気)も出ていた。
韓国人のシン・スンフンも出ていた。「I Believe」(←「猟奇的な彼女」の歌)も聞けたし、
違うタイプの曲もいくつか歌っていた。歌もうまいし、とても良かったのに、
韓国人が一人だけだったからか、誰も通訳の人がいなかった。
それに、彼が歌ってる間に、観客達大勢が彼の目の前で司会の人(中国の有名な歌手?)
に寄っていって写真をとりまくっていたのがとても見るに堪えなかった。
マナーは守ろうよ。。それでも一生懸命踊り歌うシンスンフン、好感度UP(笑。
日中~ではなくて、アジア~にして、もっと韓国人も呼べばよかったのに。

それにしても、王力宏・・・。素敵だった。かっこええ(笑。
昔は王力宏はあんまり好きじゃなくて、かなり避けていた。
「王力宏」と聞くと、なんだかあの無闇に爽やかな笑顔が浮かんで
おえーっと思っていた。(ごめんなさい)。超思い込み。
でも、最近友達の家に遊びに行ったときにかけていた曲がとてもいいなあ、
と思って「誰の歌?」って聞いたら、「王力宏だよ」って言われて、「マジ!?」
と聞くようになった。そして、今日のりーほんはやはり魅力的だった。
最初に歌ったのが「Love Love Love」という歌で、
すさまじいピアノの演奏とともに歌うのだけど、
それがもう彼の魅力を引き出してしまっていた(笑。
やっぱピアノっていいなあ。りーほん、多才だ。

そして二曲目に歌ったのが「唯一」で、
めっちゃ懐かしかった。やっぱりいい曲だった。
台湾人の彼氏ができたら歌ってほしい。(←取らぬ狸)

最後に歌ったのは、「龍的傳人」という歌。
これまたアップテンポの歌で、すごく良かった。
やはり中国を意識したのだろうか?
今、この歌と「Love Love Love」を交互に聞き続けている。
もう楽しすぎて、音楽をカラダで感じまくって、
盛り上がりすぎて、プログラムの冊子をどっかに飛ばして
なくしてしまった(爆。結局最後まで見つからず・・。

王力宏はオーラがあった。とってもラフな格好で歌っていたけれど、
とても雰囲気があって、とても音楽を楽しんでいるように見えた。
自分の視界の狭さをまた感じた。王力宏、いいよー。

その後何人か歌って、とうとう張惠妹が登場!
まってましたー!!
歌ったのは、「姉妹」「聽海」「站在高崗上」。
どれもパワフルで、可愛くて、やっぱり歌がうまくて、
会場にもいっぱい話しかけていて、a-mei最高!だ。
それにしても「聽海」を生で聞けて本当に感動したよ。
a-meiが歌っている間は、a-meiの単独ライブに
来ているという錯覚を起こしたくらい盛り上がった。
東京音頭も歌ってたよ。めちゃめちゃかわいかった。

やっぱり、来ていた人のほとんどは、a-meiとりーほんを
見に来ていたらしく、登場したらなだれみたいに通路に人があふれて
ぐちゃぐちゃだった。友達のおかげでとてもいい席だったけど、
香港コロシアムみたいな本当に観客と一体になれるような場所で
もう一度見たい。a-meiも王力宏も。

こういうイベントがおこなれることはとっても嬉しいことだけど、
やはり大部分が中国人だったのでちょっと残念だった。
もっといろんな日本にいる人たちと、各国の歌手が楽しめる
イベントになっていったらいいな、と思いました。
そういう機会がもっとたくさん増えていきますように。

来年は、もっといろんな人に来てほしいな。
なんていろいろ話をしてご飯を食べて銀座をうろうろして帰った。
それにしても、土曜日なのに銀座ってお店が閉まるの早いねー。
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by jengsauman | 2005-10-30 05:13
今日は、友達の具合が悪くなったので、映画は中止になりました。
「ありゃりゃ」と思いました。そして「大丈夫かな」と思いました。
そこで、感じたのは、「かつて自分はこういう気持ちをいろんな人にさせてしまって
たんだなあ。しかも偽って。」という慙愧の念。
私がどんな問題を抱えていたとしても、どんな状況にあったとしても、
きっと相手だって何かしらのものを抱えていて、苦しんでいるはずなんだ。
それを想像することもできずに、ただ三畳くらいの鉄筋コンクリート打ちっぱなしの
真っ暗な部屋で壁に囲まれてもがいているつもりだった。
人に会いたい、でも怖くてしょうがなかった。
この姿を見られるのが、自分を否定されるのが怖くて、
自分がもっと自分を見失ってしまいそうで、人の前で偽って笑う自分がより
自分を壊していきそうで、かといって完全に人から離れることもできなかった。
往生際が悪くて、完全に逃げる勇気もない。

だけど、人と会うこと、人と約束すること、に意識過剰になっていたとき、
私が「会いたいけど、こんな状態ではとてもじゃないけど行けない」と思う反対側で
「ごめん。今日いけなくなっちゃった」という言葉を受け取った人はどういう思いだった
んだろう。それも体調を理由にされたら何もいえないじゃん。。。
伝わってたと思う。そんな不誠実な自己中な態度で、隠し切れているつもりでも、
きっと相手には伝わっていた。それでも本心を言わない私の態度に、「不誠実で人間味
のかけらもないやつ」という判断を下して去っていった。そんな気がして、また昔迷惑を
かけた人たちに申し訳なく思った。もう会うことはないかもしれないけど、もし会ったら、
二度と誤魔化したり、取り繕ったり、偽ったりしない、と心に誓った。たとえ、相手がどう
受け止めても、あたしは今の自分で会いたい。

そう、今後もし断る場面があったなら本当のことを言おうと思った。
体調が悪いっていうのは、本当ならしょうがないけど、もし嘘なら
一番非生産的だと思った。だって、不必要に相手を心配させるんだもの。
「自分は行きたかったけど、意思に反して行けない状態になってしまった」という
ことで、相手にわずかでも誠実さを・・というのは本当に姑息だ。
行きたくなくなったらそう言ってくれたほうがいいし、より重要な用事ができたなら
そう言ってくれたほうが嬉しいし、笑っちゃうような理由でも、はあ?って思うような理由でも
やっぱり本当のことが一番いい。その人がちゃんと見えるほうがいい。
その人の取り繕いなんて知りたくない。その人のリアルを知りたい。
それに、体調が良くない友達を想像するのは気持ちのいいものではない。
そして、こんなことを書きたくないけれど、「体調悪い」と言う言葉に敏感に反応
してしまう自分がいるからだ。自分の逃避の常套句だったものを、他者が発した
時に、それを100%そのまま受け止められずに、いらぬことまで想像してしまう。
もしかしたら自分と同じように何かで一人苦しんでいるのかも?とか。。
そう考えてしまったらもう最悪だ。
自分が人に対して少しでも偽りや取り繕いや言い訳をなくしていけば
相手もそれを見ていてくれると信じたい。そのためにも、できることから
やっていこう。ちょっとくらい無理しても、えいって飛び込みたい。
せっかく人生のうちの一日に会う約束する縁がある人なんだから、
これからもっといい関係を築くことを考えよう、と思った次第です。

グダグダ書いたけど、言いたかったことは、
きっと今日そういう風に感じたということは、あたしは多分今日ほんとに
友達に会いたかったんだろうな、ということです。
人に会うことをとっても自然に受け入れて、楽しみにしていた。
それを感じて、めちゃめちゃ嬉しかった。
今までのほとんどは、「今日無理になった」といわれても、何にも感じないか、
逆にホッとしたり、もしくは予定がくるった、と腹立ってみたり。
相手と会うこと、相手自身のことを考えたことはあんまりなかった。

でも、今日は「そうか~。ま、しゃーないなー。でも会いたかったけどなー。
今頃何やってるんやろ。寝てんのかな。それとも何かやってんのかな。
ま、どっちでもええけど、早く治してくれ。ってか大丈夫かな。」なんて思っていた。
最近周りで風邪が流行ってて、なんだか南から来た人はいとも簡単に
風邪になってる気がする(笑。まだまだ冬はこれからなのに、大丈夫かしら。
なんて考えてる自分がちょっとおもろかった。

今もそうだけど、人と会う時、めっちゃくちゃ構えている。
いつも、フェンシングみたいな格好で防備して、大分遠くから近づこうとしたり、
やっぱり離れたり、そんなことを繰り返している気分。
何やってんねん、もっと近づかな分かれへんやろ!って自分に言うのだけど、
近づいても構えて、自分の取り繕いスイッチをオートでオンにしていたりして、
ああ、違う!違う!とか言って。

それをいきなり変えるなんてできないけど、こうして「あれっ、あたし少しだけ
変わったかな?」っていう感覚を重ねていくしかないんやね。
頭では分かってるつもりでも、いつも飛躍的な○○を期待してしまう。
でも、その先もきっと不完全な自分でしかなくて、これからどうやっても完全に
なんてならない。でも、完全にはならなくても、自然にはなれるかも、
と思った。自然や本音、それはとても危険で粗悪なイメージがあったけれど、
結構そんなこともないかもと思う、このごろ。そして、友達はうわっつらよりも
そういうもののほうが好むのかもしれない、と思う。自分もそう望むように。

今のあたしと友達でいてくれる人は、多分本当に寛容な人だとおもう。
いろんなものを受け入れられる大きな器を持っている。年に関係なく。
自分は自分のことしか見えてないヘタレだけど、
それでも、なんか一個ずつがほどけていけば、それでいいかー、なんて思います。
そんな自分のままで、一生言ってることとやってることが激しく乖離した
ままで、自分の本質に切り込まないで虚勢を張ってるよりかはきっとよいはずだ、と。
人それぞれ容量があって、あたしはそれが少ないだけなのだから、
ゆっくり溜めて、ゆっくり紐解いていって、いつかみんなに返せばいい。
今はあたしはもらってばかりかもしれないけど、自分もいつかは
そんな包容力のある人間になりたいと思う。

楽しくないことばっかりだと思うのは、自分の思い込みだよね、きっと。
人と関わったっていいことないわ。。と思うのは、人に期待しすぎ
なんだよね、きっと。
いつだって、そこにきっかけが転がってる。

一昨日久しぶりに弟にあって、「もっとガツガツしないと!」っと葉っぱをかけられた(笑。
あれ?あたしそんなにのん気??と笑う。
ってか、多分、余計なものを排除しようとしすぎて、「競争」にできるだけ眼を向け
ないようにしようとしていたと思う。勝ち負けにこだわる自分に戻ってしまったら、
また麻痺して、また食べ物を詰め込んで、また今以上に何も見えなくなって
しまうんじゃないか、と自分を信じられなかった。だから、競争の対極にあるものを
見ようとして、なんだか綺麗に結論づけようとしていたのかもしれない。

そのおかげでとても心が落ち着いて、とても救われたのだけど、
最近その限界を感じはじめていた。このままどこまでいっても、もうこれ以上
自分で考えを整理することで自分を見つめなおすのは知れている。
「なにくそ」と思って奮起することだって必要。
「いいなあ」って思って自分も頑張ろうと思うことも悪いことじゃない。
「家族のためにもやらないと」と思うことも別にいい。
別にそれは強迫観念ではなく、意思であり願望だから。
あたしが、自分の感情と向き合った結果、しょうもないヘタレだということ
しか分からなかったけれど、もうひとつ分かったのは、
多分、人を愛せる。そして、多分このままの自分でも今よりもうちょっとは
愛せるんじゃないかっていう気がする。霞のような希望だけど、
それを信じて前を向く。

最近すきなことば。「天下無難事、只怕有心人」。
(世の中難しくてできないことはない。それをしようという意志次第だ。)
そう、闘わなければ。

だから、そんな自分に近づくには、自分を提示して晒してみるべきだ
と改めて思うけど、多分、それもこれも全部流れに乗ってるだけで、
無理に捻出したことじゃない。いつのまにかそう思っていただけ。
そんなもんかもしれない。

昨日昔のCDRを見てみたら、3年くらい前の写真が出てきた。
多分今までで一番体重があったときだと思うけど、正直あそこまで
とは思わず、素でびっくりした。その切実さに少し切なくなった。
太っていることよりも、その表情が・・。
そして、今や、弟に二の腕の肉で遊ばれるも、
くぉら~~!と笑っていられる自分がいる。
そんなことよりも、自分はハッピーなのかな?って自問
できるぶん、きっといい方向に向いていると信じたい。
いろんな部分の過去と出会えた一日でした。

あしたは(ってか今日は)、ビッグイベントがございます。
日中友好歌謡祭@国際フォーラム。
なんだかダサいネーミングがついてますが、このゲストが超ビッグ!
大好きな台湾の張惠妹(アーメイ)が出るんよ~。キャー!パフパフ!
あと、王力宏(ワンリーホン)も出る。あと日本や中国からもいろいろ。
って誰かはあんまり知らない(笑。あーたのしみすぎる!
a-meiの歌が聴ける!日本に来る!あーわくわく。

ちなみに、ここ数日、あたしの周りに置きっぱなしの「ストック」たち。
冬のくちどけポッキー。カロリーメイトみたいなやつ。チョコレートパン。
キットカット。って全部チョコレートやん(笑。
それらをおいたままこうしていられる自分は一体なんなんだろう。
かなり信じられない。それらの食べ物は8割方どうでもいい。
でも、まだ時々眼に入ると怖い。
まーでも食べるときは食べるし、あんまり気にしないようにしよう。
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by jengsauman | 2005-10-29 01:16

食べ物との距離

食べ物と距離を持てている時、それ以外の時にはない薄い壁が自分との間に1枚存在する。
だけど、それはとても薄くて、とてももろくて、すぐに壊れてしまうから
いつも心の中ではびくびくしている。

今ある壁はいつもより2枚くらい多い気がする。
そして、それでも薄くて、簡単に壊れてしまいそうではあるのだけど、
いつもより少しだけ心強い。
たとえ壁が壊れても、そうなったらそうなったときでうまくあっちの世界と融和
できるのでは?と思ったりする。
何だか、ここまできて、その壁を意識しないで居られるようになったら
あたしは少し落ち着くのではないか?と思った。
あっちの世界とかこっちの世界とか、分けてる時点でまだだめだなあと思う。

日によって状態が違うのは当たり前だ。
日によって感じ方が違って、今日はいけるかも、と思って一喜一憂するのも
普通のことだ。
その中で、昨日と何かが違う、というその些細な実感こそが
自分の変化の鍵なんだろうなと思う。
それはありのような歩みかもしれないけど、そこにフォーカスすることで、
自分が少しずつ違うように見えてきて、世界も違うように見えてくる
のではないかと思う。

そんなに簡単にはいかないんだから、そんなに焦らなくても。

数日家に居て、もりもり食べたことで、肌がちょっとばかしましになった
と思ったことで、「そうか、綺麗になりたいなら食べなきゃ!」と思いました。

たとえば、あした誰かと会う約束をしている。
そんなとき、今までの自分なら、一ミリでも小さく、一グラムでも軽くなろうと、
まともにご飯をたべなかった。そして、そんな日が積もり積もると、自分を偽り
抑圧していることへのストレスで、過食がくる。食べたくないのに、
これ以上食べたら会えないよう、今でさえ勇気がいるのに、
なんて思いつつ、過食して、吐いても吐かなくてもひどい顔になる。

でも、食べたら綺麗になる、なんてなかなか理解できなかったなあ。
いつも大切にしてないから、ちょっと規則正しい食事を取ると
数日で変わるんだ、と唖然とした。
それに、多分、あたしが一ミリ細くなろうが、2ミリ細くなろうが、人ってあんまり
見てないのよね、、ハハ・・。自意識過剰。
外見だけで判断するような人とは会っても楽しくないし、
その次からわざわざ時間を割いて会うこともない。
でも、そんな人あんまり居ない。友達なのに、見かけで判断してるのは自分。
その人のために痩せる、その人に勝ちたいから痩せる、その人を驚かせたいから
痩せる、人に評価されるために痩せる、自分の気が済まないから痩せる、
痩せているのが正しいから痩せる、価値があるから痩せる、というような姿勢で
いることが、悪いわけではないけど、だんだんそれが目的になってしまって
自分がそれを基準に善悪を決めてしまうようになってしまうと苦しい。
そして、自分自身で立ってないと意味で、人間としての魅力を半減させ
かねない、と思う。

付き合ってる人が、私のために何かを変えようとするのが吐くほど嫌だった。
自分がやりたきゃやったらいいじゃん、としか思わなかった。
でも、あたしは同じことをいつも他者に対してやろうとしていたのかもしれない。
自分の個性、自分の核、そんなものを無視して迎合しようとする人間ほど
魅力を感じないものはない、はずなのに。
自分のこととなるとなかなかえぐれない。それらしい正当性を語ろうとする。

でも、友達ならば、会ってる間も自分の脂肪が気になって気になって
会話どころではないとか、笑ってるけど、ほんとは自分の醜態に嫌悪感
を抱いてて心では笑えないとか、そんなのかなしすぎる。

自分を出せる人には、ちゃんと出そう。
みんなに出す必要なんてないし、それは傲慢だから。
自分の大切な人には伝える癖をつけよう。

あと、洋服。
着るものすべてが醜く見えたり、似合ってない、パツパツに見える、
ふとってることを強調する、個性がない。。。
などと思い始めたら、あたしはいっつも目の前にある金本のユニフォームを
着ていきたくなる。冗談ではなくて、これならいいだろう、と思う。
個性ありすぎ、印象強すぎて、太ってるもクソもない。
なんていうか、まっすぐに着たい服を着て、今日あなたとの時間を
楽しみにきたよ、っていう気持ちになれないことへの罪悪感で、
こういう形で腹をくくったほうがいいのかも、と勘違いをしそうになる。
しかし、待ち合わせ場所に友達がそんな姿で来たら、自分なら帰りたくなる
こと間違いないので、まだやったことはないけど(笑。
何か、ぐうう~っと悶々と洋服を考えるのに疲れると、反動ですごいものに
手をかけそうになる自分がちょっと怖い。
一番怖いのは、阪神仕様、その次は少林寺仕様、その次はダンサー仕様(爆。
どれもやばすぎる。あはははは・・・。
というか、どれもごまかしてるだけなんだけど。

最近、かわいいな、と思ったのは、トップスが黒で、下に白いAラインのスカート、
それにちょっとでかめのアクセサリーに、パンプスで、原色なかばん。あーすてき。
それもまた無難かしら・・?あは・・。なんかいっつも気付いたらBAILAみたいな
感じになっている。どうしたら自分らしくアレンジできるのかしら。
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by jengsauman | 2005-10-27 16:49

不可能なんてない

今日、東京に戻った。
今回の帰省、(というか訪阪、というか・・)は、とても有意義だった。
何もたいしたことしてないけど、親と話をした。今までにない正直な自分だった
かもしれない。そして、少しだけでも自分の考えが自分が現実に生きることに
近づいてきたことを感じられた気がした。だから親も、少しほっとしていたと思う。
別に安心させたくて何を言ったわけでもないけど。
「いろいろ話せてよかったわ」と別れ際にいった母の表情が柔らかかった。
親と線を引かなければいけないところ、親にぶつけなければいけないところ、
いろんなことを感じた。違う個として愛されてる実感があって、それが自分の中で
自然なものとして受け入れられた。多分、自分自身も自分を受け入れようとしてるんだって
思った。しょうもない、等身大のこのままの自分を、何も持ってない自分を。
何も持ってないから努力すればいいんじゃない?と当たり前に思った。
親は自分とは全然違う個で、親もまたそうあたしを見ているんだと気付いた。
自分が縛られていたものは、大部分があたしが自分の頭で作り出したものだったと思う。
落ち着いていた証拠に、あたしは食事以外に食べることを1回しかしなかった。
(阪神三連敗後、あまりになす術なしで・・・(笑))
いろいろ食べたけど、おかげで体重も増えたけど、肌がつやつやしてる。
見た目、体重が増えたとは思ってなかった。そんなもんだ、と思ったりした。
こんな適当に構えることができて、嬉しい。でも、ちゃんと運動はする。

京都に行ってから東京に戻った。私にとって、清水はとても特別な場所でした。
この8年くらい?、何かあるとふらっと京都に行って、四条河原町から清水まで
歩いて、あの上から京都市内を見つめながら、いろんなことを思っていた。
あたしにとっては、特別な場所だと思っていた。
でも、あたしはその「特別」に胡散臭さを感じていた。今回、大阪に帰って、
今まで自分の記憶の中にあるあらゆる「特別」に対して説明を求めてみたところ、
まともに説明できるものはあんまりなかった。大切な人との思い出である、という
だけでもいいかもしれない。でも、そんなんに固執してたら、前に進めない。
それは事実として受け止めればいいだけで、特別だなんて思わなくていい。
一個に固執することは、新しい一個との出会いを失うに等しい。
一人に固執することは、新しい一人との出会いを失うに等しい。
それでもいい、と思えるときはそうするしかないのかもしれない。
そうしつづけることで得られるものもあるかもしれない。
でも、そのもろさに、その弱さに、それよりも新しくチャレンジすることが必要
なのではないか、とふと気付いたとき、それをぶち破る勇気を持て!
と自分に言いたくなった。少なくとも、あたしの持ってた固執の中には今の自分に
必要なものはあまりありませんでした。
それを認めたくなくて、ずっと見ないようにしていただけでした。

特別な場所なんて自分で決めなくていい。
特別な人なんて自分で挙げなくていい。
そんなものにこだわって、新しいものと触れるリスクを回避してるだけじゃ
あたしの人生はずっと同じ場所を循環してるだけになってしまう。
一生探しつづけてる、それでもいいじゃん?
というか、それが普通なんじゃない?と思う。
本当に大切なものはもっと自然な形で自分の中に在り続けると思う。

きっと、あたしが一人で自分のために清水に行くことはもうないだろうと思った。
その違和感をちゃんとキャッチして、ちゃんと面対した自分が少し気持ちよかった。
もちろん、初めて京都に行くという友達が居たら、清水に行くとは思うけど、
それはまた違う心境だと思います。

東京に帰ってから、数ヶ月ぶりに台湾友Wと話した。
彼がこういった。
「不可能なことなんてどこにあるの?
ハンセン病の裁判みたでしょ?10年前はあんな裁判、誰も勝てないと思ってた。
そんなことを口に出すだけで、夢を見てるの?と言われたんだ。
でも、現実にできたんだ。それは、誰になんと言われようと、可能だと信じて
努力しつづけたからでしょ?今は無理だったとしても、不可能なんてないんだ」

今、目の前にある常識、今は無理かもしれないことでも、一年後は可能かも
しれない。でも、それを信じることと、信じて行動しつづけることを続けないと、
できるもんもできない。可能性というのは、動かして初めて意味を持つ。
常識なんて、その時代に生きる人たちが不安を軽減するための適当な
ものなんじゃないかと思った。それを忌み嫌う必要なんてない。けど、それに
必要以上に縛られる必要もない。

自分がこういう状態になったからこそ、考えるに及べたことがあるとしたら、
それは幸せではないか?と本当に思う。自分というものと、ビビリながらも
少しずつ少しずつ向き合いはじめてから、いつもある感情は
「なんだか分かるようで分からない。つかめるようでつかめない。いつも
目の前が晴れそうでやはり霧がかっている。だけど、なんとなく、前の
自分よりも楽だなあっていう感があるかもしれない」
というものです。しょっちゅう逃避してるし、いつか答えが見つかるわけではないから、
きっといつまでもこうしてもやもやしたものと付き合っていくんだと思う。
でも、なんとなく前の自分よりも楽に自分と付き合えたらいいなあと思う。
分からないことがあるから、挑戦しつづけ、勉強しつづけることができて、
でも、少しずつスッキリしたり、嬉しくなったり、楽になったりするから、
またやってみようと思うことができる。
そんなものかなあ、と思ったりします。
ハードル低くして、確実にクリアして、それを力にする。
その際に、自分のやりたいことをやる。
当分はそうしていってみようと思う。
やりたいことをやるために、やりたくないこともやらないといけないかもしれないけど、
それは長い眼で見れば、必要なことなんだろうと思います。

今までで初めて、東京に戻ってきても寂しさや虚しさをあまり感じなかったかもしれない。
多分、どこでも同じだと思う。寂しくないことはありえない。けれど、
へこむことがあっても、停滞することがあっても、希望を持ち続ける自分を
信じることで、こうして気持ちが強くなるんだと思った。
それに、自分が持ってたものをぶち壊してみたら、この先にある可能性を
信じてみたくなった。これだけ固執するパワーがあるならば、寂しさから
逃れたくて、苦しさや理不尽さから眼を背けたくて過食したり自分のカラダを
傷つけてしまう行動をしてしまったりするパワーがあるならば、
必ず這い上がれるんだと。それだけ生きたい、と自分が叫んでるんだから、
紆余曲折があっても、遠回りしても、必ずもう少し楽に、もう少し自分とはこういう
人間だと違和感なく胸を張っていえるように、生きれるんじゃないかと
そんな可能性があるんじゃないかと信じたくなった。

変な固執なんて捨ててしまえばいい。捨てられないならば持ってればいい。
違和感を感じてる自分といつか向き合えばいい。今が無理なら後でもいい。
でも、自分を変えられるのは、自分ひとりしかいないから、やっぱりそうしよう
と思うときがきたら、思いっきり飛び込む勇気を持とう。

そんなことを言いながらも、行きの飛行機~帰りの新幹線まで
ずっと考えてたこともありました。「あたし馬鹿だなあ」って思いつつも、
でもどうやって処理すればいいか、少しずつわかってきて、
自分に二つの選択肢を提示した。一個は完全に忘れること。
もう一個はそれを言葉にして伝えること。そして、選択したのは前者。
伝えるほうがいいかもしれない、とは一ミリも思わなかった。
だから、もうそのことは忘れる。忘れられなくても忘れることがいいんだと
自分が選択した、とそのたびに言い聞かせる。
何もかも綺麗にはいかなくて当たり前だから、失敗しながらでも
少しずつ、本当に自分が必要なものはなにか?っていうことに
エネルギーを注いでいけたらいいなと思う。

母親に「あんた角ばっててカタイねん」といわれた。わかっとるわ、と思いつつ、
「いまだにカタイ自覚はあるけど、1年前よりかは少しだけ減った気がするで」、と言ったら、
そうかもな、と言ってハハハと笑った。

多分、自分が思ってる自分と、自分の現実はかなり乖離している。
だからこそ、自分の思うことがいかに曖昧で、いかに不確実で、
いかに主観的か、いかに偏ってるか、それに気付けたらなあって思う。
そうしたら、どんなに思考で落ちても、また浮上する契機を見つけられる
かもしれない。

失敗。傷つくこともある。
でも、そんなときこそ、「もうこれが精一杯」なんて思わないで、
きっと打開できる。きっとまだ余力はある。と思ってみよう。
無理やりポジティブになんてならんでええから、へこんでても
どっかで信じる思いを捨てない。

阪神は大惨敗だったけど、これが終わりじゃない。
いつも失敗の中にはステップアップの大チャンスが潜んでいる。
来年は日本一だ。
あたしもがんばってみよう。
そして、来年はもっといっぱい球場に行って暴れます(笑。
悔しいけど、今年のロッテは本当にすばらしいチームでした。
それを可能にしたのは、やっぱり常識にとらわれないチャレンジと、
個々の努力、そして信じる気持ちだったのではないかと思います。
ほんとに、素直に、ロッテにおめでとうと言いたいです。
そして、阪神をひっぱってくれた金本にもありがとうと言いたい。

そんなことを考えてたら、友達が映画に行こうと言いました。
ハハ、面白そう。
さてさて、もっと外に出よう。もっともっといろんなものに触れて
いろんなものを吸収したい。

台湾友Wはあたしに「もっと自信を持って」といいました。
自信って、自分を信じると書くのですね。今気付きました。
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by jengsauman | 2005-10-27 04:06

+にフォーカス

「いつも今がラストチャンスだと思って行動しよう」
それが2005年残り2ヶ月と10日の目標。

昨日ひさしぶりに会った友達と居て感じた。
縁起でもないけど、もしかしたらもう二度と会えないかもしれない。
また会える保証なんかどこにもない。
自分が死ぬかもしれないし、相手が死ぬかもしれないし、
大災害があるかもしれないし、二度と声を聞けなくなるかもしれないし、
何があるか本当に分からない。
むしろ、いつかは死ぬんだから、それが当たり前かもしれない。

そう思うと、素でいいやーって思った。
必要以上の意味づけとか、特別さとか、依存とか、
そんなことじゃなくって、今こうして会えてることが
もう十分意味があるって思った。
そう感覚で感じて、何か勝手に感動した(笑。単純。。
(肌ブツブツで、カラダも浮腫んでるし、なんか顔色悪いし
いやだなーという気持ちもどこかであったことは否定しないけど(笑))

人間関係を依存の対象ととらえているときは、
自分のほうがたくさん好きだったらいやだな、とか、
相手も自分のこと大切に思ってほしいな、とか、
自分が依存していることを知られたくない、とか、
無闇に実質的な利害を求めたりとか、
友達に対してさえ駆け引きをしてるときがあって、
気持ちをわざと出さない時があった。

でも、そんなんしても誰も得しないのになあ。
だって、もし、今会えることが最後のチャンスだったら、
自分が少しでも楽しめることが、その人とのあいだに
流れる空気を愛しく思えることが、何より大切
なんじゃないか、と最近は思う。

相手がどんなに深い長い付き合いの人でも、
あんまり経ってなくてまだそこまで深くない人でも、
そんなことは関係なくて、どちらにしたって
自分とその人が繋がっているのは事実なんだから、
その事実が存在していることにフォーカスして、
それを大切にすればいい。
無いものねだりしたり、とにかく深い関係を望んだり、
自分を分かってほしいと思ったり、相手をもっと知りたいと無闇に
詮索したり、勝手に自分の想像で判断したり、それで傷ついたふり
したり、誰かと比較したり、そんなことナンセンスだ。

無いものを見てもしょうがない。
在るものを、プラスを見ていけばいい。

こんな自分じゃだめなんじゃないか?と不安になって無闇に
相手にgiveしようとしたって、それは中身がないのだから
すぐにばれる。そしてそれでも相手が拒まなければ最悪の
悪循環だ。逆も然りで、より多くtakeすることで安心するのも
本質は薄っぺらい。お互いに利用しあってるだけ。そして関係は歪む。

本当に人間関係をより相互補完的に、より良いものに
したいのなら、相手にgiveすることよりも、自分自身を磨くことが
必要なのだと思うようになった。
自分を知り、自分が幸せでいて、自分がエネルギッシュでいること。
自分が幸せでないのに、人をハッピーにできるわけがない。
自分にエネルギーがないのに、人とエネルギーをシェアする
なんてできるわけがない。
自分を知るということは、自分の不完全さを受け入れることでもあり、
不完全なりに精一杯やると腹をくくることでもあり、
また不完全ゆえに人との関わりで学ばせてもらえるんだと認識
することでもあるんじゃないかなあと思ったりする。

きっと、知れば知るほど、自分の無知に気付き、
分からないことだらけだと思うんだろう。
でも、無知であることへの恐怖から何か安易な答えにしがみつこうと
するくらいなら、怖くても、時々迷妄に陥っても、やっぱり疑い続け、
学び続けるべきだと思う。というか、そうしたい。
目の前の常識を疑える勇気を持ちたい。
疑うには行動が必要で、結局また自分に戻ってくる。

そうやって闘ってる人は、たとえどんなに不完全でも光るものがある。
だからこそ、人から学べることがあって、
自分も人とシェアできることがあるかもしれない。


友達と別れたあとに、そんなことを思っていた。
なんだかよう表現できへん心地よさと、まだまだもやもやする心。
両方あるけど、きっとそれでいいんじゃないかなって思う。
人との繋がりも自分自身を磨くことも、少しずつ重ねていきたい。
その度に、今がラストチャンスかもしれないという覚悟を持って。

そうしたら、いつも以上に人を好きだという気持ちに素直になれる。
その人が私にくれるものを抱きしめて、自分もその人がくれるのとは違った
私らしいパワーを返せるように、しっかり自分の足で立って、誤魔化さずに
自分と向き合って、時々逃げつつも(笑、自分の声を抑圧せずに
生きていきたい。
それは自分との闘いであり、自分への挑戦であり、同時に他者を
大切に想うことでもあるのかなと感じました。
すごい確率で出会えて、自分と繋がってくれた大切な人に対して、
ありがとう、って思うから、自分も頑張る。

最近素敵だなと思う女性Yさんも、昨日の友達も、
大阪の親友も、みんなに共通するのは、
知れば知るほど、魅力的に見えてとっても惹かれることです。
ほんとに一生懸命生きてるから、内面から溢れるものがある。
ちょっと前まではそんなこと口で言ってるだけで全然分かって
なかった。痩せて綺麗でなければだめだ、という思考に支配されて。
でも、少しずつ少しずつ、人に対しての見方も変わってきた。
それが、とっても嬉しい。もっと人に働きかけて、人のいろんなことに
触れて、これは素敵だなと思うことを吸収したいなあと思います。


今のままの友達が好き。
声も笑顔もなんかよーわからんけど空気も
好きやし、努力してる真摯な姿も刺激になるけど、
そんなんだけちゃうくって、一緒に居たらなんか
落ち着くねん。その存在が素敵やぞー。
たとえ何があっても、あたしの中にはあんたが居るからね。
だから、あたしもがんばるね。もっと自分を磨くのだ。
もっと笑顔で居られるように。

1+1は0にでも3にでも100にでも∞にでもなりうる。
でもそんなのは、きっと答えを出そうとするもんじゃなくて、
そこにそうして在るもんよね。
今自分が感じてる感覚が、どういうものか考えてもよくわからないけど、
なんだかあったかい気持ちでいる自分、それを感じれるだけで十分だ。


ちなみに、実のところ、最近胃が気持ち悪くて食欲が無い。
できれば食事をとばしたい。行動は拒食期に似てるけど、心は
そうではないはずなのに、カラダがついていかなくて「おえっ」ってなってしまう。
昨日もめっちゃ美味しくてもっと食べたいのに、あんまり食べれなかった。
友達は私のことを知ってるから敢えて何も言わなかったのかもしれないけど、
昨日は食べたくないのでも、食べるのが怖いのでもなかったから、
とても残念だったし、友達とせっかく会えたんだからもっと食べたかった。
多分ただの寝不足かホルモンの乱れかそんなんだと思うけど、
ちゃんと病院に行こうと思います。
食べ物との付き合い方が少しずつ自然にできるようになったときに、
好きな人と、好きなものを楽しく食べられなくなってしまったとしたらあまりに悲しい。
いつ何があるか分からないから、いつも今だと思ったらすぐに策を打とう。
健康のありがたみは失ったときにやっと痛感するのでは遅い。歯もそうだけど(苦笑。
毎日変化しつづける身体をもっと見てあげなくては。



余談ですが、今日から日本シリーズです(笑。
私は所用で週明けまで大阪に帰っているので、サンテレビ観戦です。
応援してるぞー。めちゃめちゃ応援してるぞー。
そして、あたしも頑張るぞー。
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by jengsauman | 2005-10-22 00:08

虫歯

今日、歯医者行ったら、ほとんどの歯が虫歯であることが判明した。
親不知周辺の治療で2ヶ月くらいかかったのに、
やっと終わりだーと思ったら、これからが本当のスタートのようです(泣)。
それにしても、ほとんど虫歯って。。
想像しただけでぞっとした。

もし親不知が痛くならなかったら、私はほとんどすべての歯が虫歯のまま
どこまで行ってたんだろう。考えるだけでこわい。
まだ最低半年はかかるねー、と先生に言われて、
「ハッハッハ」と笑うしかなかった。これこそ自業自得。

歯は大切にしよう。ほんとに痛切に思いました。
歯を大切にするためには、・・・と逆に考えていくと、
どういう風に生きることが、自分を大切にするのか
自分で導いていける気がした。

過食、嘔吐、と言葉にしてしまえばそれまでだけど、
ほんとは歯が一番被害被ってたりするんじゃないか?
私の心が傷ついたふりをしているうちに、
私の歯はめちゃめちゃ傷めつけられていた。
自分の身体だから自由に使っていいという勘違いで
歯だけじゃなくて、内臓も酷使して。
それがただいつもは意識できなかっただけで、
こうして事実として目の前に出されて初めて、
「ごめんなさい」と自分にわびる。

歯医者さんがいてくれるから、歯は元には戻らなくとも
今の状態からベストの状態に治してもらうことはできる。
でも、時間は戻らない。後悔しても、見ないふりしても、
過去は事実として蓄積されていく。

そのことをちゃんと肝に銘じて生きていこう。
歯磨きも大切にして。
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by jengsauman | 2005-10-19 00:29

なまえ

うれしいことがあった。最近、素敵だなあと思っていたお姉さん(1個上なだけやけど)
が「あなたの名前は本当にあなたらしいと思う。漢字も含めて。そしてとっても素敵
な響きだね。」と言ってくれた。

私は自分の名前があまり好きではないと思ってたけど、
多分、本当はとても好きだと思う。
昔は「子」が嫌いで、しかも響きもちょっと微妙だし、漢字に対しても
自分はどうでもいいと思っていた。「子」のつかない○○っていう
名前も候補にあったんだけどねーと親から聞いた日には、
「なんでそっちにしてくれなかったんだ~!」と思ったものでした。

でも、中華圏の人とかかわるようになって、なんだか見方が変わりました。
自分の名前がどういう漢字で書くかを説明すると、
中華圏の人は大抵、「とってもいい名前だね」って言ってくれて、
いつもむず痒いけど、ちょっとうれしかった。

そうか~。この漢字、私好きなんやよね。
きっとこれまでも、これからも憧れの一文字。
そして、この名前とともに生きてきて、
これからも一緒に生きていくんだなあ。

でも、昔はそれがとても遠いところにあった。
自分の名前を世間に晒すのが嫌で、どっかで自分の名前を目にすると
「うわー」とおもって目をそむけた。

今も少し苦手だ。きっと自分を一番端的に表す言葉だから。

でも、今はこの名前でよかったなって心から思うようになった。
生まれ変わって女の子だったらまたこの名前がいい。
きっと人生で一番多く書く漢字のうちのひとつだろうから、
これからも書くたびに、その想いをかみしめたいな。

自分の名前だけは、絶対に日本語読みがいい。
どんなに広東語がすきでも、あたしはおじいちゃんと
両親が私にくれたこの響きを大切にしたい。
だから、これからも、親しみやすそうなあだ名よりも
「この名前で呼んで~」ってみんなに言い続けたいなあ。

ふと、自分の名前と自分の関係は、これからももっと熟成されて、
もっと緊密になって、もっと好きになれるんじゃないか?と思った。
そんな時、「あなたやせてるねー」って言われることよりも、
「あなたの名前とってもあなたらしいね」って言われることのほうが
何倍も私の心に響くんじゃないかと思う。
きっと、今の段階で自分の内面とちゃんと繋がっているものだからこそ
褒められたときに、「ありがとう」って心からお礼が言える気がした。
身体ももっと自分で感じられるようになりたいなあ。
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by jengsauman | 2005-10-17 16:40

降りて来る

少しのあいだ自分の過食する様子を傍観していた。
止めることもなく、過度に嘆くこともなく、これは何なんだろうかと思って見ていた。
だって、おかしいやん。
食べてもむなしい。食べることを欲してないのに食べたい。食べ物に頭が
支配される。食べてなくても、ふと食べ物のことを思い出したらもう離れない。
そんな不自然な状態があるのに、どうしてあたしは全然違うことをして
自分を上げようとしてるんだろう。まるで、怪我して風邪薬飲んでるみたいな
違和感だ。あたりまえのことやのに、極力見たくなくてこうして事実をつきつけられて
初めて向き合うよわむしです。

でも、絶望しても、どこかでは絶望してない。
どうでもいいと思っても、どこかで気にしていることがある。
自分が自分の主体である感覚がとても少ないけど、
ふーっと自分に繋がる感覚を感じることもある。
食べることを通して私は何を求めているのだろう。
食べたら太る。太るのはほんまにいやや。悔しい。きつい。苦しい。
けど、この行動と自分の違和感の繋がりを何とか解明したいとおもった。
簡単に分からないけど、一個でもみつけたい。


「上がること、降りること。」
何でかいつも上昇することばかり考えていた。
今の自分がダメだという前提で思考がスタートする。
どうすれば、上がれるか、重要なのはそれだとばかり思ってた。

なんで上がりたいんだ?表面的な実績、結果をあげることや、
精神的によりましな状態に上がるという感覚(←書いてるだけで痒い)、
何かが分かりたい、理解したい、答えがほしい。
いつも喉から手が出るほど、絶対がほしかった。
間違ってないこたえがほしくて。
じゃないと、あたしは自分の人生が間違ってる気がして不安でしょうがなかったと思う。
どこにも正しい答えなんかないし、誰も正しい人生なんか生きてない、と
頭では分かってても、心はまだ甘えを捨てられなかった。
簡単に自分の人生の手綱を人に手渡していたと思う。

自分が自分であることをただ受け入れる。
そっちの方向に光があるのはわかっていた。
けど、自分が自分を受け入れるとはどういう状態か、
きっとあたしは具体的に描けてなかったとおもう。
そうすることが、自分の抑圧した感覚を解放する一助になる
に違いないという思考が出した答えではあったけど。
思考が完全に無駄だとは思わないけど、そこで止まっては
いけなかった。「自分が自分であることをそのままうけいれる」という
スタンスでいれば、少なくとも悪い方向には行かないという
惰性、甘え、やったと思います。いちいち行動にするのに勇気が要る
なんて情けねえ。けど、それが事実。

だから、抵抗するのを放棄して、ただ見てみました。自分を。
そしたら、何かすんごい単純に見えてきました。
もともとあたしは複雑怪奇でもなんでもないはずだ。
あんなド田舎で生まれ育ち、あんな平和満点な家庭で育ち、
何も求められてなかった。ただ健康で幸せであればいい、と。
だけど、家を離れて、現実はそうではないことに遅まきながら気付いた。
人の数だけある多様性、現実の厳しさや辛さ、生きることとは
闘いであるということ、そういう実感が甘いながらも少しずつ感じられる
につれて、あたしは何を自分の生きる指標にしたらいいのか不安で
不安で、腹をくくれなかった。
ほんとは、「今までは見えてなかっただけで、これが現実だ。
だからここから逃げちゃいけない」、というのが自分の感覚だったのに、
あたしはそこでも自分の18年間育った安全な場所とその現実の均衡が全然とれずに、
都合のいいときに都合のいい価値観を出してきては、
本当は自分が何を支持していて、どういう価値観で生きているのか、
全然分からなくなっていた。ただ、社会で認められることを追いかけて
いて、そんな状況でも辛うじて「自分は正しい方向にいっている」という
思い込みを正当化し続けられたのだけど、一たび自分の感性と向き合って
生きてる人に会ったら、完全になす術がなくて、そこで気付けばよかったのに、
そこでもまだ「生きてるフィールドが違うから」などと思って逃げてた。

あたしは、自分で自分を複雑に見せかけただけなんだから、
根はただのバカ単純で、性善説で、ちっちゃい、しょーもない一人間に
過ぎないのです。
それを言っても、「いや、でも頑張れば何かできるかも」なんてどっかで
思ってた頃もありました。
けど、それはあたしの存在意義とは全く関係ないんやと気付いた。

存在意義なんて、ないんだよ。何度も言われた。でも、あたしは
いつもこう言い返した。「生きてること自体が存在意義だ」と。
でも、それはただの理論で、そんな実感なかった。言葉が宙に浮いてた。虚しい。
だって、自分の生きてる実感が分からないからこういう状態にあるのに、
なんたるアホ丸出し、恥ずかしいわ。
存在意義なるものが形としてあろうとなかろうと、どうでもいい。
今、そうしてカタチにしようと焦ることはきっとまた自分を停止させかねないから。
でも、きっとあると思う。哲学的な理論ではなくて、もっとシンプルな感覚に。

自分の無力さ、単純さを少しでも目の当たりにすれば、
そこが自分の立ち位置だと認識できる。
それはきっと間違ってない。美化でも卑屈でもない。
でも、それを認めることは、なんて心もとないことなんだろう。
しょぼいただの一個の生物が立っている。
だけど、それが分かれば、有る意味とても心強くも感じる。

多分そのときやっと「自分に降りて来る」ことができるんだろうなあ。
なんだか、自分が背伸びして、勝手にごちゃごちゃかき回して、
どんどん上から吊られて空中にいるような感覚だった。
いつも足が不安定で、どこにつこうとしても大地に足が着かない。
だけど、それでももっと上を目指さなければいけない、と
自分を振り返ったことなんてなかった。
そして、そんな状態から、もう一度冷静になって、
自分に降りてくることは、後退だとばかり思っていた。

でも、自分の立ち位置が分からずして何が愛だ、何が信頼だ、と
思った。人との関係にいつも苦戦するのは、それも関係していて、
恋愛が依存的か完全にドライなもののどちらかであることも、
友達にどこまでどうやって踏み込んでいけばいいのか
分からないことも、家族とうまく距離をとれないことも、
多分あたしは自分がそんな足元グラグラのままで人のことを
考えようとして、でも地盤が緩いからすぐ両方が中途半端のまま
ぐちゃぐちゃになって、安易に自分を認めるものをいつも
探してはすがりついていたと思う。
痩せたカラダ。

ここのところ、いろんな人間関係を振り返っていた。
自分からあまり連絡をしない私が言うのも厚かましいけれど、
何であの人は急に冷たくなったんだろうなあ、とか、
何であの人は連絡してこなくなったんだろうなあ、とか、
何であの人は連絡しても返ってこないんだろうなあ、とか、
何であの人との間にはいつまでも壁がある気がするんだろうなあ、とか、
相手のことばかり考えても何も分からなかった。
でも、少し距離を置いてみて、自分の態度を振り返ってみたら、
多分相手にとってもまた、「あたし」という人間が
どこに立っているかよく分からなかったのかもしれないと思った。
何が悪いでもなく、何が良いでもなく、(そう思う人もいるとは思うけど)、
何というか「なんかよーわからんけど絡みにくいわ」と思わせる
対し方をしてるんだろうなあと。

汚いところを見られるくらいならば、謎のフリしたほうが綺麗に
逃げられるという小汚い癖がしみついてるため、
人との間に先に壁を作るのはあたしのほうなのに、
そうして意識過剰になった対人関係がうまくいかなくなる
原因が自分の外見だと責任転嫁することや、
そうなることを想定して最初に少しでもアドバンテージを、と
外見に拘り続けることは、どうもずれてる。
外見は良けりゃいいけど、それ以上でもそれ以下でもない。

昨日、ドキッとしたんやけど、
「人間関係がちゃんとわかっていない人間ほど、
最初から完成された永続的な関係を期待する」
って
図星。。。。
人間関係はコミュニケーションで築いていくものだよなあ、と・・・。。

コミュニケーションがうまくいかないことを恐れて、摩擦を恐れて、
何もしない関係にどうして信頼や愛が生まれるんだろう。
運命とか縁とか何だか綺麗な言葉が存在するけど、
それは多分、その摩擦や傷つく恐怖を乗り越えようという勇気の先に初めて
存在しうるんだと思う。
自分がいくらしょうもなくても、ちっちゃーい人間でも、そうであるしか
できへんねんから。取り繕うからあかんのよ。
取り繕うからコミュニケーションがしんどいとか思うんよ。
相手がどういう態度でも、自分を騙そうとしてても、取り繕ってても、
かっこつけてても、別に何でもいい。自分が素ならば、その素の
自分がいいと思ったものがいいんだ。
その結果は知りません。分かったらおもろないやんけ。

そうして考えていくと、今の自分が一番大切にしたいのは、
自分を受け入れる、つまり本当に自分が幸せだと思うことは
どういうことか、ちゃんと分かることなんかなと思った。
自分がどういう時に幸せなのか、正直今の自分にはあまり
よく分かりません。あの阪神タイガースが優勝したときでさえ、
どこか醒めてた自分が居た。確かに嬉しかった、でも、
もっとやるべきことがあるやろ、
もっと考えなあかんことがあるやろ、と。

人が与えてくれる幸せじゃないねん。
自分が自分を大切にせなあかんねん。
それも出来へん人間が、人に対して何かしようとすると
依存になってまうねん。
人に尽くす自分に酔って逃げとるだけや。
もうそんなん絶対いやや。
まず、自分のところに降りて来る勇気、
それがスタートや。

少し話それるけど、昨晩BSで金本知憲特集があって、
兄貴って入団当時全然期待されてへんかったんやって知った。
ドラフト4位入団やし、「お前のかわりなんかいくらでもおる」
と言われていたらしい。HR20本打つなんて口に出すのも滅相もない
という感じだったとか。

それがいまや、甲子園がホームで40本塁打ですわ。37歳にして。
打率、本塁打、打点、すべて自己最高記録更新やって。
入団したときから、筋肉だけで10キロ増えたらしい。
ほんまにすごい。誰よりも練習して、誰よりも努力して、誰よりも謙虚。
そして誰よりも長く連続して出場し続けてる。

みんなそんな金本の姿に憧れるけど、何かふと、めちゃめちゃ野球が
好きなんやろうなあと思った。プロ根性とか、なんかいろいろとあるかも
しれんけど、彼のあそこまでのストイックさはきっと自分の思いに
偽りがない、自分に降りるとかそんなことを意識的に考えずして、
それを当たり前にやって、そこをスタートに、やるべき努力を重ねてきた
のではないかと想像しました。何と言うか、隙がなくて、嘘がなくて、
輝いてるんです。金本知憲、37歳。かっこええ人です。


まあそんな想像の話はともかく、私は自分が自分であることをもっと
素直にとらえてみたいです。カラダも、心も。
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by jengsauman | 2005-10-09 19:11