過食症を経て、一つ一つの日常を見つめる記


by jengsauman

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この短い名前いいにくいんやけど、ピがすきです。
本名はチョン・ジフンらしい。←調べるなよ。

パソコンテレビGyaoをときどきみます。
http://www.gyao.jp/

これ、無料でいろんな映画、ドラマ、ドキュメンタリーなどが見られて
かなり楽しい。ただ、しょっちゅうCMが入るのがちょっと難点ではあるけど、
タダなので我慢しますー。

昨日は、晩御飯たべながら、周星馳の『食神』をみはじめたら
止められなくなって、結局最後まで見てもうた。
莫文蔚の特殊メイクが超リアル!「いるいる、ああいうおばちゃん!」
みたいな。やっぱ周星馳の映画おもれえなあ~。
やべっ、また色気ない方向に突っ走ってる、あちき。

ピのドラマもやってますよ~。
それより『愛のコリーダ2000』が気になる。。。。
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by jengsauman | 2005-11-30 10:38

おかあさん

さっきまで母親と話をした。2時間くらい。
久しぶりに泣いた。
普段自分が心の中で感じていること、
なんだかいろんなことがバア~ってでてきた。自分がまだ隠してること、
自分が現実を見れてないこと、直すべきことも。
あたしは甘い。怯えすぎだ。

母親は何を言っても「自分で自分を傷つけるのはやめてほしい」の一点張り。
わたしは、傷つけてない、むしろこうしていかないといつまでも同じところで
同じ苦しみを抱え続けるんだ、って言っても、その頑強さがまた痛いという。
何だか平行線。いっつもそうだから、できるだけ自分の話はしたくないのだけど。。

自分が思ってることを吐露すればするほど、多分母親を傷つける。
その思いが離れなくて、言葉を選ぼうとすると結局何を言ってるか分からなくなる。
母も更年期で辛いはずなのに、自分だけがこんな風に言うことが罪悪感で
結局話を纏めようとしてしまう。

何で楽に生きちゃだめなの?何でそのままの自然体じゃダメなの?といわれて、
ずっと自分に蓋をして逃げてきたから、今のままじゃダメなんだよ、って言うと、
もうその時点で話の意味が分からない、という。
母は多分すごく自然体で生きてきたのだと思う。そして、自分と向き合って
現実から遠のかずに、自分と現実をかなり近づけていきてきたんだとおもう。
そして、父という人と出会って、結婚して、今も仲良くやっている。

その母の生んだ子が自分(笑。自分が子どもを生んだら一体どんな子が
生まれるのか恐怖だ。でも、違う生物だとちゃんと分かっていることは
必要なんだろうとおもう。

あんたに必要なのは、あまり考えない楽観主義の明るい人やな、といわれた。
あたしもそんな気がするよ、オカン。。。
父親みたいな人で、プライベートでもうちょっとしっかりしてる人がいいなと
言ったら母は笑ってた。うちの父は、外ではしっかりしてるのに、家では
おかんがいないと寂しがって何もできない人なのです。ワハハ。

「昨日もなー、おとうさんいうたら、あたしが兄と一緒にコンサート行って
帰ってきたら、ビールものまんとご飯だけ食べてふて寝しとってんで。
ほんまにしゃーないわ。一人で何もよーせーへんねんから。ククク(笑」
なんていう会話が、とてもうらやましくおもえた。
あたしも、そんな人に出会えるだろうか。

たしかに母親とは全然ちがうけど、ちゃんと聞きたいな。
いろいろ言われて、かちんときても、とにかく楽にとかハッピーにとかを
連発されて構えても、ちゃんと話を聞きたい。いっつも、ききながら
どこかで反論の言葉を用意しようとしている自分を止めないと
自分にとってマイナスなんだから。

話があまりに進まなかったので、「そんなんいうて、自分が生んだ
子どもがこんな風になってしもて、自分が悲しいからなんちゃうん?
自分が傷ついたみたいでいやなんちゃうん?」とか口走った。
最低です。

それに対して、母親は
「何いうてんねん。そんなんちゃうわ。せっかく生まれてきたのに、
自分にいたわってもらわれへんかったらあんたがかわいそうやろ。
自分のこともっと愛してあげいや。」といわれた。

親を安心させたい。親に「あたし幸せやで。ありがとう」っていいたい。
だけど、まだ何かがずれたまま。多分、あたしがまだ頑なに護っている部分だろう。
あたしが幸せにならなきゃ、と焦るほど、見えなくなるから冷静にならないと
いけないのに、ついつい安易に形を欲しがりそうになる。

もっと余裕を持ちたい。親のからだのことを心配してあげて、
親を安心させて、親とどこかに旅行に行って、親との時間を大切にしたい。
なのに、私は自分が自立することでアップアップだ。
自分のころで頭がいっぱいになって、自分がダメなところばかり思い浮かべてしまう。
死ぬほど自分勝手だ。

「あんたな、確かにめっちゃ敏感なところあるけど、その反面めっちゃ鈍感なとこも
あんねんで。自分で気付いてへんだけや」

そういわれてショックだった。頭では分かってたはずなのに、
人に指摘されるとめちゃめちゃリアルになってしまう。
でも、それが必要やねん。人に正直に直すべき、気付くべき部分を
言ってもらうことが必要やねん。多分、あたしは見たくないところを
まだまだたくさん隠してて、周りが見えてなくて、自分のことばかり
考えてしまっているから、自分の辛さなんか屁みたいなもんやわって
自分で気付けなくなる。ほんまは、そこばっかり見てちゃいけないとおもう。
もっと外を見ないと。

後悔したくない。あのとき、ああすればよかった、なんて絶対に思いたくない。
自分のことばかりを考えてた自分を責める結果になりたくない。
こうして考えることも、何かをすることも、ちゃんとプラスにもっていかないと
意味がないんだ。自己満足、自己弁護、言葉遊びはもういやだ。

人とむきあわなきゃ。自分とむきあわなきゃ。
怖くて苦しくて泣いても、きっと何とかできる。

父親が、冗談かなんかしらんけど、
「そんなに苦しいなら大阪戻ってきて花嫁修業でもすればええんちゃうか」
と言ったらしい。
かなりカチンときた。いくら心配やからって、それはないやろ。
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by jengsauman | 2005-11-30 02:45

着數D!!!!!

昨日はよわっちいことを書きましたが、あれもあたし、でもそこでへたれてたまるかー!
というわけで、今日もがんばろう!

うちの先生の口癖はいろいろあるのですが、そのうちの一個は、
「一見不利と思われる状況は実は有利なことなんですよ」です。

「自分が他の人よりもどういう点でどのようにどれくらい劣っているのか、
ちゃんと理解していれば、その分多く努力をすればいいんですよ。
そして、結果的に、実力はその人たちよりも遥かに上になるわけですから。
そういう環境、状況は幸せなんですよ。ハハハ」
と柔らかい笑顔でいいますが、
いつも思いっきりマジです。

これは性格・対人関係・その他についても言えるんだろうなあ。
自分が不器用だとちゃんと認識する。自分が人と関わるのが苦手だとちゃんと
認識する。逃げようとしたらどういう態度、思考になるかもちゃんと知る。
そうすれば、失敗しても、泣いても、あたしは多くチャレンジして、たくさん
試行錯誤してやっと土俵に上がったくらいなんだから、いちいち必要以上に
凹んで時間を浪費するな、と思える気がする。

あたしは人とキョリを持ってたほうがいいんじゃないか、と思い至ったら最後。
それ以後、自分から歩み寄らないことを正当化し続ける。

チャンスだ~。不器用なことも、記憶力も理解力も乏しいことも、
自分勝手に逃げようとしてしまうよわっちい性格も、ついつい人のことが
気になってしまう責任回避の性格も、そこにチャンスがあるとおもう。
そこが突破口だとおもう。

先生は、耳がとても悪い。若いころからあまりよく聞こえないらしい。
そこで、めちゃくちゃ勉強したらしい。
普通に聞こえる人が疑問にさえ思わないことも含めて。
とても同じ人間とは思えない博学さは、天才ゆえのものではなかった。

わたしはまた人のことを考えて逃げそうになってた。
でも、NOOOOOOOO~~~~N!!!
冗談じゃねえぞ。てめえの人生じゃ。何とかしようとしろ。
そんな弱気じゃ、また簡単に自分の人生の舵を誰かに明け渡してしまうぞ。

苦難=チャンスと本当に思えるようになったら、その先も苦しくたってきっと進んでいける。
自分自身のことに関しても、人間関係においても、
たとえ、権利があっても、能力があっても、チャンスがあっても、自分がそれを
見ようとしなければ、ないのと同じ。
チャンスの神様は前髪しかない。ってこれ高校の時の英語の先生から
学んだことで唯一覚えてる話ですわ。←トホホ。ダメ生徒(笑。
チャンスはいつまでもあるわけじゃない。

失敗は成功のもと。失敗を沢山拾って糧にしていきていこう。

絶対にすんげー腹筋になってやるう~。←関係ない。
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by jengsauman | 2005-11-29 07:28

創造

今日は友達の誕生日でした。
私は前からこの日がこわかった。
理由はとってもつまらないことで、自分がどうしたらいいかわかんないから。

その友達は、とても魅力的な女性です。
エネルギッシュで、かわいくて、人を思いやって、明るくて。。。
みんなから寵愛をうけてます(笑。

そんな彼女と対するとき、あたしはいつも、自分に言い聞かせていた。
「この人とあたしは違う人間なんだ。単純に比較するのはナンセンス。
でも、学べることは学ぼう」と。

冷静にはそう思えても、感情的になると、正面きって彼女を褒めることが
できない自分もいた。嫉妬、焦り、自己嫌悪。。
「あなたのこういうところ、素敵だねー」と思ったら積極的に言える人間に
なりたい、と意識してきたのに、ちょっと自分から逃げたくなったら
それさえ言えない。こんな感情に振り回されている以上は
あたしは幸せにはなれないよ、って分かってるのに。
一番いやなのは、もうちょっと頑張れるのに努力を怠っている自分に
対しての苛立ちを、他人に対する感情にすりかえていること。
すべては自分だとわかっているのに。

そして、人に深入りしない、踏み込まないはずのAが、非常に好意的に
彼女に対して感情を表していることも、悔しかった。
あたしはやはりAがすきだから、ちょっと妬けてたようだ(笑。

そう思うたびに、「あたし、ちっちぇー。そんなところこそ直してから出直せ」
と思っていた。口が裂けてもいいたくなかったし、文にもしたくないくらい
幼稚でバカげたことです。

人の誕生日を祝うことが苦手だ。
たぶん、自分が自分の誕生日を楽しんだことがないから、人をどう祝えば
喜んでもらえるのか分からないのかもしれない。
自分の存在を肯定的にとらえられない時に、自分が生まれた日を
「おめでとう」と祝われても、喜ぶことができなかった。
偽って生きてる自分を突きつけられて、虚しかったし、申し訳なかった。

そして昨日は、人とのキョリを縮めるのが得意な彼女がいろんな人に囲まれて、
幸せそうな顔をするのを見るのがこわかった。
大体想像できるその場の状況に加えて、他人が誕生日の祝福を
喜びで受け入れるという事実を見るのがこわかった。
自分がそういう状況からあまりに遠い場所に居て、
今後自分を受け入れて、こういう風に喜べる日が来る自信がまだ持てなくて。
そしてまた、私の大切に思うひとが、あたしの誕生日はスルーしても、
彼女の誕生日に足を運び、楽しそうに祝うのを見て、それでも
「わ~おめでとう!よかったね」って笑顔で言える自信がなかった。

ただの嫉妬か。

そして、自分がパツパツのジーパン姿で登場するのがどうしても怖かった。
絶対誰も見てないっちゅうのに・・・。

行けばいろんな出会いがあったとおもう。
そんなちっちゃいことにとらわれて足を前に出せない自分を
ハハハって笑えていたとも思う。
だけど、行かなかった。用事をわざと長引かせて行けなくした。
もったいないことをした。ごめんなさい、誕生日の彼女。
ごめん、自分。

昨日、「知らぬが仏」と思っていた。
想像したって何も知りようがないから、私は自分が知っている
あなたを、彼らを、そのままそうとして信じるしかない。
そうするのが一番幸せなのかもしれないと思いました。
誰もが人に言えない秘密を持っていて、誰もが触れられたくない
爆弾を持っているんだろう。それでも人は関わり続ける。
どこまでを隠し、どこまでを開くかをいつも考えながら。
でも、自分から踏み込むのはルール違反だ。
相手が開示したことを受け止めるのみ。
だから、自分の知らないことがあっても、それは普通で、
むしろそれが一個ずつ減っていくことを喜ぶべきなの
かもしれない。

考えていて、思った。
私の人生は、創造と正反対の動きをしてきた。
きっと自分を創造しようとしない限り、あたしは同じ。
全然違う人生を生きてきた、素敵だと思ってるはずの女性とさえ
一定以上近づこうとしない。もうこれくらいでいいや、と勝手に
線を引いてしまいそうになる。そんな失態だけじゃなく、
大切な出会いをどんどんつぶしていく。
自分の認められたい願望が満たされないという理由で。

台湾にいる友達が写真を送ってきた。
めっちゃくちゃ笑顔がかわいくて、いつも人を気遣う素敵な子だった。
こんな風に笑えたらいいなあって、心からおもって泣きそうだった。

あたしは、家に帰って鏡をみた。
自分ってこんな顔してたっけ、とおもった。
この自分という器で毎日生きてんのか、と不思議におもった。
なんだか、見てたようでまた見てなかったのかもしれない。自分自身を。
全然遠いところに眼を奪われて、足元にある花や生物の貴重さを
また看過していたかのような。

鏡にうつる自分の姿が、とても色のない人間にみえた。
どう変えたらこの自分で光を放てるだろうか、とおもった。

昨日逃げたけど、次は絶対逃げない。
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by jengsauman | 2005-11-28 09:44

ギャンブル

今日読んだ本のなかにあった言葉。

臆病者の自分がやっている最大のギャンブルが、自分を信じているということ。それがどこまで通用するかわからないと思いながらも、自分を信じることにしている。


そうして、あたしは、友達のことばを反芻していた。

自分なり正しく生きてほしい。
誰に変なことを言われても、気にせず、ちゃんと正しいことをやって、生きれば十分。


彼が日本に来てから経てきた道は、どれくらい苦しかったんだろう。
私には周りを見る眼が極端に欠けている。
その倍以上、彼らは見たくもないことを含めていろんなものが見えていると思う。


自分の傲慢、甘え、無知、そういうことを考えていてよく思い出すことがあります。
私が留学していたとき、出前をよくとりました。
その場所は、冬になると毎日氷点下10度くらいになって地面が凍結していました。
寮で自炊できなかったので、外に食事に行くことがほとんどだったけど、
外に出るのが億劫だったり、やることがあったりすると、よく出前をとりました。

その時に配達してくれるのが、見た目10歳~15歳の少年2,3人(交替で)
だったのです。どうして彼らがこの仕事をしているのだろうと思っていました。
いや、どうしてしなければならないのだろうと思っていました。
彼らの親がそうさせているのだろうか。彼らは学校に行けているのだろうか。
毎日会うたびにいろんな想いがよぎりました。
毎日毎日、寮中の学生が注文するたびに、雪の中、凍結した中を
自転車でやってきて、走って階段を駆け上がり、店と大学を往復していました。
道端で偶然彼らに会うと、ニコっと笑って挨拶してくれました。

私は、罪悪感でいっぱいでした。
どういう状況があるかはわかりません。
でも、彼らとあたしたちの間にある違いとは一体何なのか。
何もないと思いました。
ただ偶然、私は日本で生まれ、経済的にも精神的にも安定した環境で
偶然育ててもらえ教育を受けさせてもらえただけ、ただそれだけです。

でも、彼らが極寒の中持ってきてくれたものを私が完食したことは殆どありませんでした。
残すだけではなく、部屋に戻ってこっそり嘔吐していました。
何かがおかしい、と自分でも分かっていました。
矛先は間違いなく自分に向けるべきでした。
彼らの顔が今も離れないのは、問題を看過してきた自分にとって
当たり前のことです。ごめんなさい、と思いながらも、自分の問題に
メスを入れて、自分を奮い立たせ、行動で自分を変えていく勇気を
持ってこなかった自分に、彼らはいまだに笑顔で私の目をじっと見てる気がします。
私の罪悪感は、彼らに対する同情ではなく、自分の自己欺瞞を突きつけられた
気がしたからでした。

友達はよく呆れたようにいいました。
「日本人ほど恵まれた人たちなんて世界でもなかなかいないのにね・・・。
本人たちがその貴重さと、その責任感に気付いてないからしょうがないか・・・。」
それはまさに私自身のことでした。

私は、井の中の蛙ながらも、明らかに日本の水準とは違った生活状態で
必死で生きている人たちを見ました。自分が、タベモノを自由に手にして、
自由に食べられる状況にありながら、それを自由にできない矛盾を抱えている
ことを、毎日恥ずかしく思いました。おなかにいいと言われる健康茶を
めちゃくちゃのみまくれば下痢できることを知って以降、私はそれを四六時中携帯し、
いつもトイレが近くて、いつも青白い顔をして、周りの人に迷惑をかけていました。
いや、そうして「大丈夫?」「痩せたんじゃない?」と気にしてもらうための
行動をしていました。なんとしても誰かに自分を見てほしい、という渇望。
それは、長い歴史を経てそういったお茶が伝わって来たという歴史に対する
冒涜でもあり、また「生きる」ことにリアルに向き合っている彼らへの冒涜でもありました。
私は自分のことしか考えていませんでした。自分が痩せることしか。自分が救われることしか。

摂食障害の話をしていたとき、「あれは自分病だ」と言われたことがありました。
自分、自分。いつも自分のことしか考えてないからそうなるんだ、と。
ちょっとは人のこと考えろよ、と。
悔しくて情けなくて涙が出そうでした。でも、図星でした。
私はここで何をしているんだろう、と。
自分の持っていないものばかり嘆いて、あれも欲しいこれも欲しいと欲張り、
実際自分の現実から逃げ回っているじゃないか、と。
そう思えたのは、大分大分後のことでした。

出前の彼らのことを思い出すたびに、私は自分に平手打ちしたくなります。
自分がこうして自分として生まれたこととちゃんと向き合え、と思います。
自分が恵まれているのは当たり前じゃないんだ。
それだけのものをもらったなら、それだけの責任を負うということなんだ、と。
誰かのマネごとをしたり、ただ名誉を求めたり、ただお金を稼いだり、ただ自己満足で
勉強してるつもりになる暇なんてないんだ、と。
いきなり変えられないことはたくさんある。ずっと持ってきた恐怖を急に捨てること
なんてできないかもしれない。でも、それを10年かかっても15年かかっても、
絶対に絶対に克服してやるという思いで生きなければ、うそになる。
悔しさに屈服したらもう終わりだ。

たとえそれが悲しいことでも、辛いことでも、何かと出会ったならば、
それは私が私として生きるうえで必要な要素、責任を負う要素、そうおもいます。
まっとうしなければ、闘わなければ、私が生まれて生きた意味がない。

出前の彼らが今どう生きてるかは分からないけど、彼らには彼らの現実がある。
私には私の現実がある。でも、自由を持つ以上、選択肢を持つ以上、挑戦できる
チャンスを持つ以上、死に物狂いでやらないと。その幸せさとその厳しさに気付かなければ。
そして、この現実で、自分の現実と闘わなければ。

私は、輪廻転生ってあるような気がするんです。
今自分がこうして生まれたことは、幸せだと思います。それってきっと、前世で
自分の責任を果たして必死に生きてたからじゃないかな、って勝手に想像したり
します。きっと頑張ったから、こんな幸せな家庭に、幸せな環境に生まれてこさせて
もらえた。そして、もっと頑張れ、っていう意味で、こういう性格を私に与え、
こういう状況を私に課してくれた。きっと挑戦させてくれてるんだと思う。精一杯生きてみろ、と。
だから、ここでしっぽを巻いて逃げたら、来世では多分チャンスを与えてもらえない(笑。
そんな気がします。まあそれはただの想像ですが。

これが自分。他の誰でもない自分。
よわっちくて言い訳がましくて、ええかっこうしいで、頭の回転遅いから、
みかけばっかり気にして取り繕おうとする25歳の大阪の田舎井の中の蛙出身女。
この自分で精一杯生きるんだ。

簡単にいかないときに、あっさり諦めるか、必死に努力するかで、その後の
人生は天と地ほど差がでる。対戦相手はいつも自分。人はいつも教師。

私は、友達が私に「自分なりに正しくいきてほしい」といったことばが
きゅーっと心に響く。心を締め付ける。
目の前のことを自分なりに正しくやれ、ってこれほんまにそうやなと思う。
ただ一生懸命やることに甘んじるんじゃなくって、自分が後悔しないように
生きたい。じゃないと、一生楽しめないまま、ヒーヒー言って終わっちゃう。

あたしは死に物狂いにやっても限界を感じるのが怖い。また壁にぶつかる
のを恐れている。そしてそんな時に、また自分が人との間の扉をバタンと
思いっきり閉じてしまうのではないかと恐れている。一個一個開いてきた
ものさえも有無をいわせずに、自分をまもるために人のことを何も考慮でき
なくなってバタンと閉じてしまうのではないか、と。そしてその自己欺瞞を
封じ込めるためにタベモノを思いっきり詰め込んでしまうのを恐れている。
でも、「限界なんかありません」。それを信じなければ。
そして、閉じそうになったとき、人の場から去りそうになったときに、
批判されるのを覚悟で人に発信できる勇気を持たなければ。

今のままでは、いつまで経っても現実を一生懸命生きている出前の彼らの目をまっすぐ見られない。
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by jengsauman | 2005-11-27 01:46

周董

周杰倫(台湾歌手)が来年の二月に国際フォーラム
で単独ライブをすることが決まったらしいぜ!(何でか東京風)

こりゃびつくり。こんな早いとは・・・。

とにもかくにも、よいこった!
そらもちろん行きますよ~。
何歌うかな~。

台湾の無與倫比演唱会と一緒かしら。。
『乱舞春秋』の最後はちゃんと、
こっここっここっこ・・・・これだけ?と言って頂きたい。
日本バージョンで忍者もヨロシク。

頑張れ、ジェイ。
そして、他の歌手も来てくれ!
でも、そんなことなったら香港や台湾に行く楽しみ減っちゃうかも?
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by jengsauman | 2005-11-26 03:59

快感

「快感」。どうしたら感じられるだろう、と考えてました。
まず思ったのが、毎日の習慣にしてその後に自分のやりたいことをやる、方法。
というわけで思いついたのが、ブログを書く前に腹筋と背筋を100回ずつやらないと
文章かいちゃいけないよ作戦。更に、それをやりながら、ニーナ・アナニアシヴィリの
ビデオをつけておく。もしくは、単語を覚えながら一回ずつやる。
本当は腹筋300回なんだけど、とにかく文が書きたければ100回やれという
手っ取り早いところから決め事しないと、快感、の意味がなくなるので。
身体を自分の手で変えるには、どんな形でもいいから毎日やらなきゃ意味がない。

人より自信が持てないならば、もっとやれ、と思う方向に自分を持っていく。
もちろん、人と関わることを重ねていくのも同様に大切だけど。
どっちも果敢に、継続的に、ちょっとだけ無理をしていく、というのがいいと思う。

今日はっきり気付いた自分の思考の癖。
誰かと知り合ったら、その人のことをかなり考える。そして知らない間に、
自分が歩み寄る努力を最低限もしないままで、相手が自分のことを理解したり
認めたり、近づいたりしてくれることを期待する。
頭の中で考えるもんだから、勝手に親近感を持ってしまっている。
そして、現実はそうではないことに気付き、そのショックだけを勝手に感じる。
そのもとは自分の都合のいいこじつけ妄想であることに気付かない。

今日も、ふと昨日の友達のことを思い出してる自分に気付きました。
彼らは確かにフレンドリーだったし、とてもいい人たちだったけど、
そんなに話を深くしたわけでもないのに、前からの友達みたいに
考えてしまうと現実が歪むんだよ、気付け自分。

とある本でとても共感した言葉があります。
「相手のことをただ考えたり、ただ思ったり、ただ想像して悩んだり、
そういうことはやめなさい。もし気持ちを大切にしたいならば
直接伝えなさい」と。

恋愛に関わらず、それはそうだろう、と思いました。
友達だって同じ。何を考えてるか、なんて言わないと分からない。
別に大層なことじゃなくて、仲良くしたいと思うならば
自分から働きかければいい。何かを伝えてみたり、投げかけてみたり。
ただ考えるのは時間の無駄だ。
それは、別の友達の時に十分実証済みじゃないの。学習してよ、自分。

というわけで、人について、想像したり、勝手にいろいろ考えるのは
極力やめます。できるだけそれを現実の接触に変えていく。

何かを変えるということは、多分、すごくしんどいことだと思う。
身体にしろ、思考にしろ、習慣にしろ。
でも、しんどいけど、自分のためにやるんだから、しょうがない。
やらないと、何にも到達できない。

いつも投げかけよう。何のためにやるのか?

なりたいイメージを具体化して、それに到達するために日々を過ごそう。
年内腹筋割れは厳しいかもしれんけど、とにかく続けてみて様子を
伺います。あー忘年会とかまじで鬼門だ。。
忘れたくないし、この一年!とか屁理屈こいてもしゃーない。

とにかく、食に影響されないくらい運動すればいいだけの話なんですが。。
その運動をいかに快感と繋げられるかがポイントだなあ。
もうちょっと考えよう・・。
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by jengsauman | 2005-11-24 07:44

酔っ払いの独り言

あーあーあー。何やってんだ、あたしは。
と思うこと約20分。。。。

自分で変えるしかないね、さあやろう!
と思いいたる。

そうだ、そうして思考と実践を一個一個重ねていけばいい。
その20分を15分にして、10分にして・・・いけばいいのよね。
変わることは、突然ではないけど、こういうときに何かをしないと
変われないのだろう、きっと。階段は一定の歩幅ではない。
万里の長城のように、毎段が違う高さで、上に行くほどしんどいんだけど、
それを一歩一歩上っていかなければ、一生同じ場所で留まる。

昨日は、友達とその友達とご飯を食べてカラオケに行った。
普段から初対面は苦手やけど、友達一人やと思い込んで行ったために、
友達の友達も居たのでびっくりしました。
平静を装おうと、「あれ?一人じゃなかったの?」なんて
言っちゃいました。ぐああ~~超感じ悪いじゃん!ごめんっ!
そんなつもりはなかったのよ。うれしかったのよ。。ごめんよ・・。
あの一瞬の凍りついた空気が気まずすぎた。

その後、ご飯を食べに行ったのだけど、私は何だか気持ち悪くて、
食べれんかった。朝にいっぱい米を食べたからなのか、そのあとに
たべたみかんが悪かったのか、ひさしぶりに「おえっ」って感じで。
ご飯はおいしいマレーシア料理屋に行ったけど、食べてるうちに
気持ち悪いのが甦ってきて、ううう・・となってしまった。
「全然食べてないじゃん」というせりふを久しぶりに聞いた。
そこで「ちょっと気持ち悪くてねー、でも気にしないで」って言えたら
よかったのだろうけど、食べてる食べてると言い張ってしまった。ハハ・・。
「もしかして節制してるの?」ってこれかなり言われたくない言葉・・。
「まさかー」と笑い飛ばした。ほんとにそういうつもりではなかったので
まあよかったのだけど、少し複雑だった。
なんであの店に行くときはいつも気持ち悪いんだろう。

その途中で、一人の子が帰った。
とても礼儀ただくて、面白そうな子だったのに、
あたしは最初に放ってしまった無礼な一言で気を悪くしたんじゃ
ないか、とまたぐちゃぐちゃ気にしてしまっていました。
珍しく、話すときに人の目をちゃんと見る子でした。
自分の綺麗でない顔を見られるのは好ましいことではないけど、
そういう態度を見習いたいと思って、私も極力彼の目を見て
話していました。

その後、残った三人でカラオケに行った。
今日知り合った友達の友達は、めちゃお酒が好きで、ずっと飲んでたけど、
酔っ払いながらも楽しい子でした。酔っ払いながらも節度があって、
酔っ払いながらも人のことを褒めて、人を気にしている子でした。
う~ん。面白かった。
カラオケは相変わらずで、友達は歌がうまいし、あたしは自分の好きな
歌をぱらぱら歌いました。

こうして、今日また新たに二人の人と知り合いました。
友達は、来た時に「新しい友達つくったら、と思って呼んだんだよ」と言ったのだけど、
あたしは「何か言わなきゃ」「怖い人と思われないようにしないと」「おもろないやつと
思われないようにしないと」と思いすぎて、あんまり聞いてなかった。
けど、帰りしなに、一人で駅まで歩きながら、
それに対して、ありがとう、とおもいました。

あたしは自分が人と距離をとりすぎるので、本当に有り難いです。
酔っ払うと大分ましだけど、内面がしっかりしてないと結局はただの
その場しのぎでしかなく、人と知り合っても、それ以上を踏み込もうと
しないので、それを意識して変えていきたいのです。
その面でも、こういう場をつくってくれた友達には感謝してます。
多分、むこうはそんな大げさに捉えてないと思うけど。

ただ、20分ほど凹んだのは、またもや外見のせいにしようとしてる
自分に気付いたからです。
もうちょっと痩せていればなあ、もうちょっと可愛かったらなあ、
この場の空気はもっと変わるのだろうかなんて、
思ってしまった自分にげんなりしました。渇!です。
たとえ実際そうだったとしても、だから何だ。

しかし、人と触れ合っていくにつれて、それぞれの良さ、ということが
少しずつわかって来た。
今日会った彼らは、それぞれ学ぶところがあった。みんな、いろんな
ことを教えてくれる。一人で考えて、「これでよしっ!」と思ったことが
いとも簡単に人と接することで崩壊してしまう事実を教えてくれる。
思考じゃ変われないんだと教えてくれる。
自立するには、努力して自分を創っていくしかないんだと教えてくれる。
簡単に手に入るものなんて、それだけの価値しかないと教えてくれる。

そして、同時に、もっと人と関わりたい、と思わせてくれる。

友達は、私のことをどう思ってるのだろう?ただの弱虫だと思ってるかな?って
思うこともある。そして、人の目を気にし始めたら、同時に人に矛先が向いてしまう。
誰かの言動を思い出して、何で?とか思ったりする。
そして、絶対負けたくなくなって、小手先で自分を固めようとしてしまう。
でも、あたしは人に接するたびに、そういう自分と自分を対峙させてもらえる
気がします。「あんたが見るべきなのは、こいつだよ」と自分を目の前に出される。

お互い切磋琢磨というのはいい。けど、心を開けないくせに、その事実に目をつぶって
なんだか外に悪い原因があるように考えるのは、あたしの常套逃避手段です。

まあそんなこんなで、家に帰ってきたら、酔っ払いっ子から連絡が来てました。
嬉しかった。そして、ここは逃げちゃいけないと思って、先に帰った彼にも
自分から連絡しました。

無関心やクールを装うのはもうごめんだ。そこからは何も生まれない。
男だとか女とかそんなことよりも、一人間としての道理を、と自分に言う。
人と関わることが苦手なのは事実だからしょうがないけど、それを嘆いてても何もならない。

こんなことに一個一個反応してる自分は、蟻のような歩みだと思うけど、
それでも前に進んでりゃそれでいいんよ。
自分を表すもの、それは自分自身であって、それ以上でもそれ以下でもない。

人それぞれが役割を担っている、というのは最近本当に思うことです。
ただ、それは自分で磨かないといけない。人と比べてではなくて、
自分と対話して、自分のために、自分で決めて努力することが絶対的に
必要なんだとわかりました。勉強だって運動だってなんだってそうで。
その感覚が、今日ピーンとあった。
それを突き詰めていくと、結果的に人の役に立てるかもしれないけど、
それがまずありきになったら簡単に崩れる。

そうして友達や知り合いを思い浮かべると、人という存在がとっても有り難く
思える気がしました。自分が持ってないものを持ってる人が周りに沢山いるんだから。

今日、友達と会って、あたしは友達に何もいい影響を与えてもなければ、
何か実際的な利益を与えてるわけでもないし、友達を紹介するわけでもないし、
何もしてない、と気付いた。そりゃ、向こうはどう感じてるかは知らないけど、
少なくともあたしは意識してそういうことをしていない、ときづいた。
いや、意識してやってるときはあるけど、その裏に見返りを求めている依存心が
沸々とわいていたと思います。
何かできたらとっても嬉しいけど、それは何かが違った。とても脆弱なものだった。

その反面、彼の広さにどれだけあたしは助けられているのだろう。
広さの裏にある浅さ(というか一定以上は踏み込まない)にばかり目がいって、
あたしは十分に感謝していなかった。もっと認めてほしい。自分のことを特別に
思ってほしい。という例の依存の声が自分の中が充満していた。猛省。

あたしは、彼に何かをしてあげられる日が来るかな?
そう考えたときに、やはり思い至るのは、自分らしさを追求すること、だ。
その先に何があるかは分からん。
が、人と同じことが表面的にできるようになっても何の意味もない。
人との関係はgive and takeにしたい。

ちなみに、超~~ひさしぶりに血液型がA型と当てられた。
いつもニコニコしてて、性格が大らかなO型(偏見ですいません)だと思われて
ばかりだったけど、今日はそれがうれしかったんです。
あんだけ周りのこと気にしてることを吐露したら、そらそう思うか・・・。
でも、血液型がどうこうはしらんけど、あたしはできるだけ自分のそのままを友達にも
見せられるようにしていきたいです。空気は読もうとする努力は忘れんと。

書いてるうちに酔いが醒めた。
ほんまに、いつまで生きれるか分からんから、頑張ろう。
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by jengsauman | 2005-11-24 01:22

ポップパン

今日の帰りに近くのコンビニに寄ったら、入ったとこにPOP-PANがどどーんと並んでいて
ええ~っと心の中で思いました。POP-PANは、香港の普通のお菓子なんですが、
葱入りクラッカーみたいなものでおいしいんです。それよりも何よりも、これを見ると香港を
ばばーんと思い出すので、大好きです。そしてやはり買いました(笑。A○P○やるじゃん!
なかなか目のつけどころがいいなあ、ふふふ。なんて一人喜んでたあたしです。
多分、食べずに当分飾ってるだろうなあ。アホやなあ。これが過食の材料になる
ことはきっとない。どうせ食べるならみんなで食べたいなあ、なんて思う。
ポップパンで飲み会したいな。ポップパン飲み(そのまま。
それにしても、いやなところいっぱいあるけど、やっぱり好きなんだよなあー。
香港ホンコンほんこんHongKong.........←壊れた・・
ちょっとPOP-PAN見つけたくらいで、コンビニの入り口のとこでそれを
両手で握り締めながらニヤニヤしてる女、ここに一人。。。

週末に、友達の家で女の子泊まり会をした。とても和やかでとても楽しかった。
ってか、正確にはワイン(ボジョレーも)飲みまくってしゃべりまくった(笑。
その主催者の子は調理関係のプロなのだけど、そういうことに携わっている
友達は初めてだから、いろいろ見るたびに新鮮なんだけど、やはり食に対する
思いが、とっても特別なんだなあと感じた。
彼女は食を愛している。食に関わることを愛していてそして誇りに思っている。
だから、彼女がつくってくれた料理もお菓子も、とってもおいしかった。
とっても身体にいいものばかりで、とってもおいしくて、たくさん食べた。

食べることが気にならないと言ったら嘘になるけれど、私はいろんな流れの中で、
少しずつ自分が自分であることを大切に思える方向に向いている気がする。
いろんな人にプラスの生きる力をもらいながら。
食とは本当は生きることなんだ、とても大切なことなんだ、と教えてもらいながら、
何には妥協せず努力すべきで、何には敏感に反応する必要なんてないのか、
思いっきりずれていたものが、少しずつ少しずつ自分軸に向かいつつある感覚がある。
動かすのは自分だ。だけど、やっぱり、人の力はでかい。

そう感じた週末でした。

今日は帰りしなに、クラスメートのパートナーが迎えに来ていたので一緒に
おしゃべりしました。毎週月曜日はご飯を作ってるよ~といっていて、
うらやましかーー!と思った。台湾の餃子とか、いろんな食材を使って
今日は鍋を作るよー、と言っていた。おいしそう。。。。じゅるる。。
家に帰って誰かがご飯を作っていてくれるっていう情景、なんだか想像がつかない。
でも、その相手が自分が本当に安心できる相手であるならば、その食との付き合い方も
また、自分が想像しているものよりもっと自然で、もっと温かいのではと思った。

そのパートナーはこれまた素敵な人で、とってもユーモアがあって、優しい人なのです。
あの二人、いいなあ、っていっつも思います。自分に合った人と一緒にいるとあんな
空気を放つことができるのね、と思わせてくれるナイスカップルです。
多分、今週末一緒にカラオケに行く予定(笑。23日は別の友達とカラオケ~。
楽しいからいいんやけど、25歳女子、これでいいのか(笑!?
もうちょっとろまんちっくなデートとかしてみたい。
でも、なんかそういうところが落ち着かなくて、いつの間にか人ががやがやした
場所に行きたくなっちゃうあたしは「安上がりの色気ない女」です(笑。がっくし。
いっつもツーンとしてる(とよく言われる)けど、心の中ではそわそわしています。
話しかけてもらったら嬉しくてすぐに笑います。そしてニヤニヤしすぎて「何笑ってんの?」って
言われます。話しかけるのは苦手ですが、最近少しずつやってます。
自分が外見的にも内面的にも今の段階では全然とりえがないけれど、
頑張るチャンスは与えられていて、自分の手で運命を変える可能性が
あるんだと思うと、そのために必要なことのうち特に大切なことの一つ
は人と関わることだと思い至ります。
いっつもそう気付くのに、謙虚さや人のことを思う気持ちが欠け始めると、
途端に自分の欠点ばかり目につく思考に戻ってしまう。
でも、それに気付くまでの時間が早くなった気がします。
それをもっと早くできるようにしよう。

誰かと話してると、必ず1回は「へえ~そうだったのか」と教えてもらえます。
ありがたいです。出会ってかかわってくれてありがとう。

今日、友達からライブのおしらせをもらいました。
あまり仲良くなってないまま久しく連絡してなかったので、
そういう風に誘ってくれて嬉しかった。自分から働きかける人間に私もなりたいです。
行けたら行きたいなあ。自分を表現することを追求してる人に触れるのはとっても素敵な
機会やもんね。私もいつかみんなに見に来て欲しいなあってひそかに思う(笑。
そういう友達、先生、大切な同志を思うと頑張れるんだ。うおーー!
とりあえず、何かに関わってみて1秒前の自分と今の自分を1ミリでもいいから変える。

こないだ「そこへ行くにはまた新たな勇気が必要だ」という田臥の言葉を見て、
なるほどなあ、と思いました。
多分、どんな風に人生が動いていっても、いつも勇気は必要なんだろうな、と。
でも、多分、いつも同じだけの同じ形の勇気の振り絞りが必要というわけではなくて、
一つ乗り越えるたびに、次へ行きやすくなる。逆に行きにくくなることもあるかもだけど、
とにかく、いつも一定の力が必要なのではない。だから、ほんまに今は休むべきだと、
これがいい、と思っているときは思いっきり立ち止まってみて、それを経て、
また変わってくればそういう風に歩いていけばいいと思う。いつも勇気は必要だけど、
休むことだって勇気が必要なんだし、今を自分が納得してればそれでいいと
思うようになった。自分と向き合おうとしてるから苦しいわけで、ちゃんと見てそこに
何かがあるから立ち止まるわけで、それはとても勇気の居る大変な孤独なことだと思う。
世間がどういおうと、社会的にどうこうだと言われても、人くくりにされて見下されても、
それを経た人間はきっと何倍ものパワーを持って這い上がれると信じている。

自分のことはただの自己正当化とも言えるけれど、でも
もうこれ以外の生き方なんてない、と思っていた時に思い切って諦めて立ち止まった
ことで、自分が見えてたのはたった一ミリくらいの針の穴の世界だったのだと
気付かせてもらえた。いろんな立場のいろんな背景を持った人と出会って、
その人たちを本当に尊敬できる自分が、前の自分よりも好きです。
どんな背景を持っていようと、自分の人生を一生懸命生きてる人からは
学ぶことがある、と思うようになったのも、きっとそれを経れたからだと思います。
あのまま自分が進んでいたら、私は今頃、どうしているのかな?
肩書きなんて!と吐き捨てながら、必死でそれにしがみついているかもしれない。
資格なんて!と笑いながら、必死でそれをアピールしようとしてるかもしれない。
恋愛なんて!といいながら、必死で自分を特別だと思ってくれる依存対象を探しているかもしれない。
そういう生き方しかできなかった自分が、人を見ようとできるようになっただけでも
あたしはこの1年を大切に思います。たくさん甘えもあったし、もっと頑張れることも
あった。たくさんそういう反省点はあるけど、でもそれはこれから取り返してやる。
きっと、できる。そんな感じです。

勉強することも止めて、何もしてなかったときに「何やってるの?」と聞かれることが
屈辱的だった。「あんた生きる資格ないよ。弱すぎだよ」と責められてる気がした。
だけど、そんなことで判断する人はすぐに縁が遠くなった。
学生なんだ、としぼりだして言った私に対してとある友達はこう言いました。
「そっか~!それだったらいっぱい会えるね!飲みにもいける^^!やったー」って。
それを聞いた時、あたしは「はっ」とした。
彼女は、何も形なんて気にしてないんだ。って。それが嬉しかった。
自分が人のやってることに気になってしょうがなかったから、みんなそうだと思ってた。
みんな、ちゃんといつもいろいろやって形を残して生きてないとダメなんだと思ってた。
けど、そんなんじゃない。
人と人にはその数だけのかかわり方がある。
その人がどういう人か全然知らなくても、すごい刺激をもらった人もいる。
全然生きてきた環境が違うのに、どこか通じる感覚をくれた人もいる。
よくわかんないけど、一緒にいるだけで楽しい気持ちになれる人もいる。
人は多様だ。人との関わりも多様だ。自分の人生もいつも変化している。
人はみんな違うんだから、自分が否定しても人はそれをいいというかもしれない。
そんな風にして、とても懐が広くて寛容な人たちに、とても楽な気持ちにさせてもらえた気がします。
何も持たない上に閉鎖ぎみな自分と一緒に笑ってくれた人、話をしてくれた人、
繋がってくれた人、彼らの心の広さにあたしはただただありがとう、と思う。
きっと、この先お互いの周りの環境がどれだけ変わっても、また笑って
あはははーって言える日が来るだろう。ってそんな大げさなことじゃないのだけど(笑。
自分も、他の人に対して、そういう風にありたい。

仮に、最悪の状態の時に出会った出会いや何かしらの機会が、
いろんな意味でチャンスを持った出会いだったとしても、その時の自分には
それは必要じゃなかった。それよりも見なければいけないことがあるよ、って
そんな気がする。
苦しくても、止まっていても、きっといつまでもそうじゃない。
諦めずに、しぶとさだけは誰にもまけない!
そんな信条でいたいなあって思う。
過去を美化しない。事実を直視する。冷静に客観視する。簡単ではないけど
それができればどんなことも無駄にはならない、と思う。

最近転職が決まった姉がさっき横で電話していたときに聞こえてきたんだけど、
「辞めるって決まってから、今まで近くにいたけどあまり話さなかった人たちと
いろいろ話す機会があって、あーこんなにいい人いっぱいいたんや。
なんでこういう状況になるまできづかなかったんやろう」
と言っていて、なるほどーと思った。
多分、見えてなくても、居るんだろうなあ。たくさんの人が。
慣れてしまって、見ようともしてないだけだったり、
自分の傲慢と傷つき回避で見ようとすることさえしていないだけで。

あたしも人、人、といいながら、まだ待っている。
誰かが自分に働きかけてくれるのを待ってて、傷つくことを避けてる。
でも、何か投げたら、何かは返ってくる仕組みになってるんよなあ。
たとえ、全然違うところから忘れたころ返ってくる、としても。
行けー行けー。と自分に言える自分でいたい。

あれ、、書きたかったことをかくまえにこんな長くなってしまった。
まあいいや、また明日出直します。
とにかく、なんだか温かい&自分に渇!な一日でした。

ポップ~パン!!←意味不明(笑!!
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by jengsauman | 2005-11-22 01:37

でかいうつわ

私は、先生の前でもいい子を装いたかったので、
綺麗なことしか言わなかったし、決めたことを報告はしても、それ以上
のことを相談することもありませんでした。

でも、先生もまたそんなあたしを必要としてませんでした。
格好なんてどうだって良かったのです。
ただ、私がよりよく生きるためにアドバイスをくれたりしていたのに、
私が本質には触れることから逃げてた。

小~大学校の先生も同じでした。私は一度も先生に相談したことなかった。
でも、意見をくれたり、課題をくれたり、知識をくれたり。。
もっと稚拙な自分丸出しで付き合えばよかった。学生が持ってる知識なんて知れてる。
でも、ポテンシャル、成長する可能性、それまで否定することなかった。
自分がどこまで成長できるか、自信がなかっただけです。
そういう思考=現実と未来が乖離している思考ということに気付かなかった。
いつも、今をどう生きるか、次第で未来は変えられる。

きのう、先生は、私にチャンスをくれました。
誰のために挑戦するのか?自分のためやなあ。
そして、その先には、きっと誰かの役に立てるという気がするからです。
今は先生のようなうつわがなくても、きっと今よりは余裕を持って
人に何かをできる人間になりたいです。

あと、正直に言うと、絶対に負けたくない人がいます。
何の勝負かはよく分かりませんが。
多分、その人を目の前にしたときに、自分が自分でいることに
OKを出せるようになりたいのです。つまりは自分との闘いなんですが。
持ってるもので負けても、気持ちと根性と現在の姿勢では負けたくないです。
形のあるものをこえて、女であること、日本人であること、わたしの基にあるのは
大阪ソウル、でも私はやはり私でしかない、そうした自分をかたちづくる
すべての要素を全部受け入れて、「自分」を自然に自分の中から引き出したい。
バカにされても、上から見られても、今に見とけよ、もう卑屈に
なったりしない!したくない!とおもいます。
そんなモチベーションは芳しくはないし、また外に目が向いてることに
なっちゃうのでしょうが、やるエネルギーが生まれるなら今はそれもまたよしということで。

多分、大分経ってから、この文をまた目にする機会があったら、
きっと「あたし何いってんの、アホ丸出しやん」と思うに違いない(笑。
でも、人にはそれぞれの力があるんだと信じて進むためには、
時にはアホ丸出しでも、自分を鼓舞しなきゃいけないと思います。
自分の思考回路と行動を変えるのは容易ではないし、継続的にそれを
自分に問いかけつづけなければ。

小学校んときから、よくクラスで聞いた言葉。
「お前バカにすんなや。俺だってやればすごいんやぞ。今はやってへんだけや」

そういうこと言ってる奴がやってるのを見たためしがなかったのと同様、
本当は自分の中にも何かしらのパワーがあると信じていても、
そこで止まってたら、上のようなことを言ってる子どもと同じやなと気付いた。

先生はそんなあたしをお見通しです。
だから、○○をやると言ってたけど、どうなりましたか?
○○はどうしますか?と問いかけてくる。やれとは絶対いわない。
「口だけを脱することができるのか?頭でっかちより行動、を実践できるのか?」
と私を試すように。

期日を決めて取り組もう。

そういえば今日、先月台湾に旅立ったクラスの人からメールがきた。
その人はパソコンに長けていて、いつも助けられたので、
台湾に行ってしまってからはいろいろと困ってました。
まじで、全然ダメ!→いや、諦めるな!を繰り返して、
一ヶ月くらいたっても、まだ問題何一つ解決せずいたところ、
メールで「こっちに送ってくれたらやるよ!」と言ってくれたのです。
頼んでないのに、忙しいのに。いやー、人に助けられて生きてますなあ。。
しみじみとしました。お返しに、自分ができることをします。そうして
人はいろんなものを交換しあって、お互いがよりよい状態になって
いったら、それでバンザイですね。はあ、みなさんいつも本当にありがとう。

がんばるぞー。
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by jengsauman | 2005-11-18 01:30