過食症を経て、一つ一つの日常を見つめる記


by jengsauman

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いやな女、ばかな女

そうばれるのがとても恐ろしい。

張りぼての知識で対抗できない相手には近づかなかった。
ばかな女だと直接言われなければ、傷つかなくて済んだ。

いい人ぶるのが通用しない相手には近づかなかった。
いやな女だといわれなければ、傷つかずに済んだ。

でも、自分が自分に言い続けていた。
ばっかじゃないの?人間として終わってる。

けど、昨日の夢でも分かるように、あたしは保身しか
考えてない情けない奴なのだ。
(隣の車両にテロリストが乗ってきて爆弾を爆発させた
瞬間に、車両間にある扉を閉じて、その車両の人を見殺しにした。
助けを求める声が聞こえても、すごい力で扉を閉め続け、
絶対に開けようとしなかった感覚を覚えている。)

ただの自分の保身第一で弱虫ないやな女でばかな女である。
だから、そんな自分で生きてみたい。

どうしていい子を演じるのだろう?という疑問さえない。
それしか方法を知らないからだ。

あたしが恋した相手は、変わった人だった。
干渉を恐れ、恐ろしく自意識過剰(人のこといえないが)
だったから、まともに何も聞けなかった。
相手を気遣う言葉で会話を成り立たせていた。

しかし、そんなうそ臭い関係をぶっ壊したくなった。
そして切ろうとした。
けど、切れなかった。
だって、頭の中いっぱいにあったから。
だから、また連絡した。
でも、自分のスタンスを変えた。
むやみに褒めたり、いい人ぶったり、しょうもない
質問で溝を埋めようとする無駄なことはしない。
あたしは、いつか本当のあたしに戻るんじゃない。
これがあたしでしかない。
だから、今のあたしをぶつければいい。
へえ。とか、あっそ。とか、ふーん。とか、
そんなことしか感じなかったならそれだけでいいんだ。
作るな。

利用されても別にいい。その瞬間に自分が1%でもその人と
関わることを求めていた事実があるなら、
相手を責めることなどできない。
寂しいから、それでもいいじゃないか。
ほかに何の意味のある理由があるんだ?
寂しさがあるから人は人を求めるんじゃなかった?
頭で考えて離れられるような相手なら、最初から
何も感じてない。

昨年末に、
「私をみつめて」という摂食障害のドキュメンタリー映画を見た。
あの時、私はとても違和感を感じた。
いろんな形があるし、焦点を当てる場所が違うこともわかる。
でも、あそこまでなんでもかんでも言ってしまっている主人公に
とても嫌悪感を感じてしまっていた。
きっと自分がそうできないからだろう。
あの場ではとてもいえなかったし、ブログにもかけなかった。
けど、それが私の正直な感想だった。
もっと考えて言葉を発したほうが・・と思った。
それに、食べ物やダイエットの方法、そのために動いている
状況などはほとんど触れられていなくて、時系列とともに
数字が減っていく様子だけが伝えられたのがとても不自然に感じた。
もしかしたら彼女にとっては、対人関係(男)が最重要事項だった
からかもしれないけれど、よく分からない。

けど、今日、そう感じた自分こそ、何も変わっちゃいなかった
と気づいた。保身保身保身。できる限り保身を残したままで
都合よく変えられたらと思っている。今だってそう。
そんな自分があの映画を見たとき、
あの表出には、ギリギリのものを感じたのだ。
「こっちは死ぬ気でやってんだよ」という言葉は
一見すごく痛いけど、私にはそう叫ぶ自信などない。
私は、エネルギーの多くを保身にしか使っていなかった。

あの映画を見た摂食障害でない人の中にも、
虐待やACで悩んでいる人もいて、いろんな面で共感があったと聞いた。
けれど、彼女のあの像を「とてもまっすぐで純粋で・・」という言葉で
片付けることにとても息苦しさを感じた。そういう面もあるかもしれない。
でも、そんなきれいな言葉で纏めないでほしい。そう思った。
現実は、もっと汚くて、もっと情けなくて、そして愛を渇望する、
イガイガでグラグラでドロドロでカチカチなのだ。

叫んでみたことなんてない。
泣き叫んで、助けて、苦しい、寂しい、そばに居て、なんて言ったことない。
本当はそう感じているくせに、客観的に論文を書くように
話したり、メールを書いたりする。責められること、ばかと言われること、
同情されることを事前に防ぐために。

「この人は合わない」と頭で考えて切ることなんかより、
その人が自分を受け止めてくれないことを分かっていても
叫んでみればいいんじゃないの?って思いはじめた。
きっと伝わらないよ。きっと引かれるよ。
共依存になってしまうかもしれないし、
これ以上落ちてしまうかもしれない。
でも。
叫びたい。

何いい子ぶってんの?
何物分りいいフリしてんの?
だれも困らせないでいたら、正しいとでも思ってんの?
誰も困らせないと思ってたら、誰とも繋がってなかった気がして、
寂しかった。唖然とした。まさかと思った。
でも、人とではなく、自分と生きてきたのだから、
当たりまえだった。
そして、現実には、人に助けられていた。

陰で「あの女馬鹿だよ」って言われることを恐れてる。
でも、記憶にさえ残らないで忘れられるよりかはいいかもなあ。

「あいつ身の程知らずだよ」って言われることよりも、
身の程を勝手にわきまえたふりして、リミットを作ってるほうが
悲しいなあ。何もなかったのと同じ。

利用されるのが怖い?
いやいや、自分も利用してるでしょ。
意識の低い人と思われるのが怖い?
ははは、意識の高い人は自分のアンテナを広げることに
尽力するのであって、自分がどう思われるかに囚われてないよ。

っていうか、だから、
何がしたいわけ?

そこにたどり着いた。

思い切り、抱きしめてほしい。
もうがんばらなくていいよ、なんていわないでほしい。
歩き続けることでしか何も変わらないんだと言ってほしい。
そして抱きしめて欲しい。

とても小さいことでとても傷つくたびに、
私は隙のない女になってやる、と思った。
でも、馬鹿にされてもいいよ。
もう何でもいい。
そんなこと、どうだっていい。

人と付き合うたびに、その人がいかに素晴らしいかを頭で考えて
確認していた。
そうじゃないと、自分が誤った選択をしているようで、
人に馬鹿にされる要素を持っているようで、
不安でしょうがなかった。

でも、そんなことあほらしい。
ごちゃごちゃ経たけど、自分が求める人は必要な
人なんです。誰に責められようと。

完璧な人なんていない。
完璧な出会いなんてありえない。
欠陥を持ったもの同士だけど、出会うから生まれるものがある。

限界を壊す。
壊せる論理がないなら、自分が作ってやるって
何で思わないんだ。
怖いんだろ。あんな馬鹿な女にできるわけないって
いわれても、それをはね返すだけの自信がないんだろ。
結果、やっぱりだめでした、って言う状況になったら
どうやって自分を保てばいいんだって思ってるんだろ。
でも、それが全てではないことに気づいて。
暫定的な答えも、結果も、死ぬまで更新し続けなければ
ならない。成功しても失敗しても。
だから、今すぐチャレンジを始める。

いい人ですね、って言われなくてもいい。
すごいですね、ってお世辞を言われなくなってもいい。

そんな言葉が外野で放たれようと、放たれまいと、どうでもいいと
思えるようになりたい。そして、とにかく、
自分の中の「あほちゃうか。自分価値なし」という声を止めたい。

人と出会うことが脅威でなくなる日がくると信じて、
足を止めても、やっぱり再度動かさないといけないんだよ。

今、食べ物を詰めこんでもいい。
「違う」って言ってんだから。
食べたいなら思いっきり食べていい。
罪悪感があっても、思うままにやれ。
でも、いい子ぶるな。きれいな言葉を使うな。
分かったつもりになるな。

自分を語るあたしだけのエピソードにあふれたあたしにしたい。
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by jengsauman | 2006-01-30 05:04

新年

Life is shortだ。感傷に浸っている暇はない。
なんて思っても、完全にそれを排除した人生も味気ないと思うこのごろ。

なんだってあったほうがいいと思う。経験は宝。
過度に整理された、過度に効率化された、そんな生き方は
好きじゃない。無駄も笑えるくらいがいい。

でも、ここぞというときには甘えを振り払える女になりたい。

人は孤独に陥ると幻想に走る。
だからこそ、そんなときこそ、自分の足で立つ意識を。
強く佇まなくてもいい。弱い力でも、そこにある軸は
決して自分を裏切らない。

昨日、小さい映画祭で森達也のドキュメンタリー映画を見た。
森達也といって思い浮かぶのは「A」だけど、そういえば、それを
貸してくれるといったSくんにも連絡してないままジャン。
あたしが連絡するって言ったくせに!
また出会いを大切にしてないジャン!

昨日の映画で何を感じたかというと・・・・
「あの映画は何の意味があったのだろう」
「ネタ?自慰?自己破壊?」
あーこんな感想しか持てない自分が情けない。
でも、分かりません。
藝術もそうだけど、映画もそうだけど、難しい。
恣意的に結論を導いてしまうと、それ以外で考えられないし、
それでいいのかもしれんけど、結局なんだったんだろう。

「分からない」でもいいから、新しいものにふれるたびに
自分の思ったことを書きたいと思うけど、
このままいくと、分からないだらけになりそうだ(苦笑。

その後、一緒に行った友達とかなり素で話した。
いろんなものを抱えまくっている子だからか、
すごい聞いてくれた。聞いてるふりでも、いい人ぶってる
わけでもなく。2人とも、映像を作ったことがあって、
これからもドキュメンタリー、映画を撮りたいと言っていた。
今度、以前撮った作品のDVDを見せてくれるらしい。
嬉しいな。友達の本気の自己表現が見られるなんて。

しがらみや歪みを完全に捨てることなんて期待してない。
でも、何かを表出していくことで、何かを自分でカタチに
していくことで、見えてくるものはあるのだと改めて思った。

先生がしきりにあたしに勉強の機会を与えてくれるのは、
それがあたしの世界を広げるからだと今日気づいた。
完璧を求めたり、何かを付加したりするるためなんていう
狭っちい、ちっちぇえことじゃないし、そんなに簡単に
価値なんて手に入らない。
だから、あんなにストイックなのに、とても穏やかなんだ。
苦ではない。知れば知るほど、あたしは1秒前のあたしの世界を
少しずつ変えることができるのだから。
知れば知るほど、自分が何を知らないかを具体的に知れるのだから。

言語のリミットは世界のリミットだという言葉が頭を駆け巡る。
だから勉強するんだ。あー先生、今まですみませんでした。
リミットを自分で作っていました。

矛盾だらけでもいいじゃない。
笑われるほど抜けていてもいいじゃない。
でも、絶対に譲れない場所がある。
それと向き合う時、固執対象さえも捨てることができる。
いつもいつもそれと正面きって向き合うことはできない。
けれど、いつか納得して、何かを手放せる日が来ると思う。

強く願う。
強くイメージする。
それが現実になる。
そんなの無理だって思う自分を抱きしめる。
肩に力が入りまくっている自分に大地のパワーを感じさせる。
何にも縛られていないし、何も失っちゃいない。

求めろ。
嫌な思いをした時、もう一歩求めろ。
今日、何度もその言葉が頭をよぎった。

今日は旧正月だ。
新年快樂!
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by jengsauman | 2006-01-29 05:21

なんでヨッシーの夢を見たんだろう。
彼は私のことを覚えてないと思うけど、
あたしも彼のこと忘れてた。
5年前くらいに参加した大学のサマープログラム。
あの時、たくさんの他キャンパスの人とであった。
彼はその一人で、とても頭が良かった。
というか、全員が猛者すぎて、私はテンパリすぎていた。

みんなとても視野が広くて、そのスタンスも格好よかった。
そこにガツガツ入っていく勇気もなかったし、余裕すらなかった。
みんなはうまく論文をこなして、遊びにいっているのに、
あたしは部屋に閉じこもって辞書をひきたおしていた。
とっても不毛であほだった。
日曜のあさっぱらからこっそりフラットを出て、近くのお店に
行って、キャドバリーのチョコレートを大量に買った。
マクビティの時もあった。両方の時もあった。

ディスカッションの同じクラスにYという女の子がいた。
同じ学部学科だったのに、初めて会った子だった。
とても眼が大きくて、おしゃれで、主張もしっかりしていて、
それでいて人を褒めるし、フランクな感じが人をひきつけた。
彼女は誰も見向きもしないあたしに対してさえ、
つたない正論を褒めてくれたりした。
帰国後、彼女は他学部のゼミに入ったと聞いた。
どこまでも自分の道を突き進む姿が、心底羨ましかった。

Yは男の子にとてももてていた。
そのうちの一人がヨッシーだった。
あたしは別にヨッシーが好きだったわけでもないし、
仲良かったわけでもないのに、なぜだかそのことをとても
覚えていた。何でYはあんなにもてるんだろう、と思っていた。

同じプログラムに参加したYさんという女性が居た。
同じく、他キャンパスの人で、とても聡明な人だったけれど、
見た目はとても地味な人だった。帰国子女で英語にも長けていて
TAたちとの交流にも支障がないようだった。
彼女は、化粧もあまりせず、なんとなく
ちょっと光浦靖子っぽかった(←ごめんなさい)。
あたしは、彼女と話すことさえあまりなかったので、
内面がどれほど魅力的かなんて知るよしもなかった。
知ろうともしなかった。
外見しか見ていなかった。
けど、帰国後、Yさんが一番人気があったTAのPと婚約した
という話を聞いたとき、大ショックだった。
きっとPはYさんのことをちゃんと見ていたのだろう。
そして、Yさんはちゃんと自分を表現する術を持っていたのだろう。
英語とか、フランス語とか、そういうことではなく、
自分とはどういう人間か、自分は何をどう思うか、を
人に押し付けることなく主張し、また相手のそれを受け入れる術を。
数年経ってやっとその意味が分かった自分が情けない。

Yさんの親友にEさんという女性が居た。
Eさんも優秀な人で、クラスが同じになることもなかったので、
最後まであまり話す機会がなかった。
でも、とっても印象に残っている素敵な人だった。
なんというか、包容力と、知性と、笑顔を持っているような。

同じ学科の先輩が一人だけ居た。
Fさんという人。
とっても面白くて、気さくで、いい人だった。
私が入りたいといっていたゼミに所属していたので、その話も
よくしてくれた。(結局、落ちたのだけど・・・)
Fさんはこのプログラム参加者の中で一番フェアに見えた。
性別に関係なく、みんなにフェアだった。そんなFさんのそばに
いるときが一番安心できたし、樂だった。
でも、帰国後、あたしは自分がゼミに落ちたことが恥ずかしくて、
Fさんと疎遠になってしまった。
なんて惜しいことをしたのだろう。
なんてちっちぇえ人間だったのだろう。
そんなことを糧にさえできないやつはどこに所属したって
だめなんだ。

出発前のオリエンテーションで最初に仲良くなったのがYだった。
彼は熱い人間だった。あたしはいい調子でそれに合わせていたら、
結構いい感じで仲良くなれたようにみえた。
けど、それは上っ面だったから、すぐにばれた。すぐに彼は離れていった。
人が自分に失望して自分のそばから離れていく様子を見るのが
恐ろしいけれど、よくそういう場面を見た。
きっと自分だけじゃないと思う。誰ともうまく行く人なんていない。
だから、そのときどう対処するか、が大切だったのだろう。
変えられるところはちゃんと学習して変えないと、一生同じだと
いうことに気づくにもいたらなかった。痛い現実を見たくなくて、
ただおびえていた。

Fさんのような人と、議論したり、あほなことを言っているときは樂だった。
自分が女であることを意識せずに済んだし、女としての自分が
魅力的でないことで話してもらえないという心配もせずに済んだ。
けど、いつもどこかで女としての自分を見てほしいと思っていた。
ヨッシーもそうだったし、ほかにももっと話したい人がたくさんいた。
論文も適当にやって、化粧や男や遊ぶことばかり話しているフラットメイト
に吐き気をもよおしていたのに、どこかでそれが羨ましかったのだろう。
そんな彼女たちとばったり会うのも嫌で、ましてや過食するものを
大量に買ってきた後に会ったりしたら、と思うと、いつも出かけるのでさえ
億劫だった。隣の部屋からみんなの笑い声が聞こえてくると、
私はよく食べ物を詰め込んだ。

私が仲良くしていた女の子たちは、とてもまじめで、日本に彼氏も居て、
とても落ち着いている人たちだった。別に遊びにきたわけではないし、
でも頑なに勉強にこだわっているわけでもない。自分たちで楽しもうよ、
という感じだった。刺激も少なければ、リスクも少なかった。

そんなあの数ヶ月を思い出すたびに、私は胸の中が締め付けられる。
何もチャレンジしなかった。
何も変えようとしなかった。
そして誰ともぶつからなかった。
今思えばそんな人間に誰がパッションを感じるだろうか、という
単純な話なのだけど、あのときは、ただ自分を認めてほしい欲で
思考停止状態だった。自分のつまらないプライドが、自分の世界を
広げなかったに過ぎない。

とても素敵な出会いがあっても、それを生かせない人、そのものだった。

そして自分が魅力的だと感じた人は総じて、自分らしさを持っていた。

帰国後、大学のPCアドレスがおかしくなって、それ以来MLのメールが
こなくなった。管理者をしていた人が、話したこともない人だったので、連絡も
しなかった。時々、友達が飲み会を教えてくれたけど、1回行ってからは
一度も行っていない。あのプログラムのことを記憶から消したいと思っていた。

けれど、先週の日曜日、新宿東口で友達を待ってたら、
遠くにそのプログラムの友達ととても似た人が立っていた。
別の友達と一緒に居てとても話し込んでいる様子だったから
話しかけようか、どうしようか、とても迷ったけれど、そのとき私の友達が
きたので、その場は離れた。でもずっと頭の中に残っていた。

そのプログラムに参加した人のうち、私以外全員、
きっと社会の中枢に何かしら関わっているのではないかと思う。
正直、それがとても怖い。しかし、だからどうというんじゃなくて、
そんな生き方を放棄したところで
あたしにはあたしの生き方がある、と言ったところで、
誰も聞いちゃくれない。
あのころの自分を反駁しなければ何の意味も前進もありえないのだ。
誰にも勝つことなんてできない。表面上、勝ったように見えても、
勝ち負けなんて自分の心の中の思い込みだ。
負けても糧にできれば、勝ったつもりで甘えている人よりも前に
進めているかもしれないし、そもそもその比較自体がナンセンスだ。
何を考えました、ではなくて、何をしました、がないと
何も語れない。
どこに所属しています、じゃなくて何をしています、がないと
何も語れない。

だから、私はあのプログラムのことを人に話したことがない。
きっと、私が何もクリエイトしなかったから、語ることがなかっただけだ。
どんなに意義あるものでも、それを自分が自分なりに消化しないと
何も語れない。

なんだか、とてもヨッシーに会いたくなった。
みんながどういう風に輝いているのか、見てみたくなった。
全く違う世界で生きているとしても、それは彼らの行動が作ったものなはずだから、
その行動力と努力に触れてみたい。
でも、今の自分じゃ、格好悪すぎる(笑。
せめて、自分でGOサインを出せるまでには前進したい。
それもまたちっちぇえ自分の証拠かな(笑。
でも今なら、自分の思うことを少しは話せる気がするし、
それが聞いてもらえなければ、ただ合わなかったと思えばいいだけの話だ。

Yがモテモテだったのは、Yがかわいかったからだけではない。
彼女は彼女の言葉を持っていた。
私は私の言葉を放てるようになるまで失敗を繰り返さないと
いけない。

なんて考えてると、自分の視野が狭くなりすぎていたことに気づく。
自分のまわりにはいろんな世界が存在してるんだね。

Yes or Noではない。
自己信頼が揺らいだとき、他者からの評価に逃げる割合を
減らせばいいのだ。両方が必要なことで、自分がよければそれで
いいわけでもない。自分で自分を信じても、誰も信用してくれないよう
では意味がない。内面と外見だって両方大切で、その割合が人によって
違うだけ。その割合の価値観が合う人と一緒に居ればいい。

自分を殺して責められないことが安全ならば、そんな安全の中で
これ以上生きている意味はあるのか?

筋肉破壊のように、ちょっとだけキャパをオーバーして、
それを新しい筋肉にしていけるような、そういう人との関わり方を
してみたい。同じ場所に留まっていてはいけないし、
同じ人の環境に留まっていても勿体無い。

目の前を一個一個実にしていこう。
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by jengsauman | 2006-01-27 14:28

変化

ここ数日のあたし。

仕事をはじめた。そして分かったこと。ものは考えようだ。流せばいいことは流して、
自分を高めることができるようにとらえる。

姉と離れて関係が元に戻った。そもそも全く違う人間だからこそお互いを尊重できて
いたのに、近づきすぎて、期待してしまって、私が甘えすぎて、いろんなバランスが
崩れただけだった。
あのころ、毎日外で音がするたびに帰ってきたのかと思ってドキドキした。
責められるのではないかとドキドキした。話すべきことをそらすためにしょうもない
ことを確信犯でいろいろ言った。今何かあっても悲しまないかもしれない、とまで思った。
でも、今が一番いい。あたしがもっと自分を大切にして、もっとがんばれば、
さらにいい関係になれると思う。とはいえ、お姉ちゃんの面倒見の良さに甘えて
しまっているけれど。あたしはあたしでできることを返せばいい。
目下の目標は、おねえちゃんを台湾旅行に招待する。一年以内に実現できたらいいけど
ちょっと無理かな・・。来年中には。

愛を信じられるようになった。依存を捨てようと思うだけでなく、行動にうつしはじめた。
先生がメールをくれた。「小さな女のこ・・そんな感じがします。」という言葉を見て、
自分の中にその姿を見た。そして、それでいいんだ、それがあたしなんだ、と
やっと抱きしめられた。やっと自分の小さな姿を否定することなく、それを
それとしてみることができた。すさまじい衝撃だったけど、
とっても暖かい瞬間だった。先生に、そう感じたことを伝えたら、
「『小さな女のこ』と打ちながら、○○さんを心の中で抱きしめていたんですよ。
感触も残っていますよ。通じるんですね」
という言葉を見て、もうドッカーーーンだった。
何か感情の堰が切れたかのような、なんかわからんけど、
それが美辞麗句ではないことが確信できたとき、
他人が自分の何も持たない姿をそのまま抱きしめてくれるということが
信じられるようになった。
きっと、愛ってこういうことなんじゃないか、と感じた。

マザー・テレサの言葉に、「愛の反対は無関心」というのがある。
今、あたしは日々その言葉を胸に焼き付けている。
自分が他人に対して無関心であることを制するだけでなく、
本当は自分に無関心な他人に拘る自分を制するためだ。
対人依存も、対食依存も、いろんな依存の正体は自分の頭の中にある。
自分に無関心な他人に拘ることは、一番卑怯で厄介な手法だと思う。
何かに必要とされている錯覚を起こしても、本当はそこには何の信頼も
発生していないから、壊しようもないし、傷つかない。
抜け出せるのは、自分が決意して、行動を変えることでしかない。
自分を大切にしようよ。自分をゆがめているものを捨てようよ。
人と向き合って、人を愛そうよ。きっとできるよ。そう感じるのです。

世の中にはいろんな人がいる。
でも、人を憎んでも、人をせめても、同情しても、何にもいいことなんてない。
関わらなければいい。関わらなきゃならないならば、反面教師にすればいい。
決して、自分と同一化して共依存になったり、人ばかり見つめて自分をほったら
かしにしたりすることで自分は救われない。人は変えられない。

新宿ジュンク堂で読書していたら、夜回り先生の本があった。
この言葉が印象に残った。
求めろ。出会いでしか人は成長しない。その出会いは求めなければない。
一歩お前が踏み出さなければ絶対手に入らない。
踏み出したらいやな思いをする。いやな思いをしたとき引くな。
もう一歩求めろ。だって寂しいんだから。
寂しさこそが生きる原動力。
寂しいから求めて傷ついて逃げたらもっと寂しくなるぞ。
この闘いは負けちゃいけない闘いで、前にしか進めない闘いなんだ。


これは一意見だとは思う。けれど、とても共感する。

韓国人のSと会った。ひさしぶりに、女同士で腕組む韓国スタイル。
でもけっこう楽しんでいたりする(笑。
そのまま新大久保へ行って、彼女のルームメイトのバイト先
に行った。オンニがいろいろサービスしてくれた。韓国語でしゃべってくるのは
嬉しいけど、何いってるかわかりません。。
クレヨとカムサハムニダ連発でごまかす(笑。
でも、勉強したいなら手伝うといってくれた。
Sはあたしよりも若くて、話が合わないことも多々あるが(笑、
彼女から得られることもこれまた多々ある。
なんちゅうか、そんな感じでいいんだろうなと思う。
人と人の関係を厳密に考えたり、意義を考えたりしはじめたら
もう独りよがりになってしまって、それは現実ではない。
私の心の中にその関係が存在するのではなく、
あたしと彼女のあいだに関係が存在するのだから。

先生が「小さな女のこ」と書いてきてくれたのは、
私が今の状況を99%くらい全部書いたからだった。
これからやりたいことを言うことで誤魔化してきた部分が大いにあったけど、
本当は「今陥っている現実」をそのまま言わなければならなかった。
先生は何度も聞いてくれたけど、いえなかった。
かっこつけだけじゃなくて、切実な存在肯定願望だった。
だけど、言っちゃったら、そこに自分がいた。
何も隠さなくてもいい。
何も悪いなんて思わなくていい。
そういう安心感の先にぽつんと居たのは、ちっちゃい女のこだった。
それが自分なんだ・・・・。へぇーって思った。
こうすればいい、なんて道はないのだから、
そこから人と一緒に歩いていきたい。
弱い自分でも、ありのままの自分を抱きしめて、
そして大切な人のためなら、強くなれる気がする。
そういう「人のため」だったら、自分から逃げるための誤魔化しでも
ないし、人も喜んでくれるかもしれないから、いいんじゃないかな、と感じる。
今、大切にしたいのは、想うことでも、考えることでもなく、
実際に人のために行動することであり、人のそばにいることだ。
誰でもない小さい女の子でしかないあたしだけど、
人を愛して、その人を支えるために強くなることはできる。
まだ孤独でも、まだ誰もいなくても、自分が求めれば
きっとずっと孤独ではないはずだよね。

愛なんて信じない。男なんてみんな同じだ。
友達だって利害で動いている。
どこかでそう思って、それを覆すことをあきらめていた。
でも、それを覆そうとするんじゃなくって、
今を生きたいと思ってみようと思う。
今の自分を変えたいのだけど、まずはもっと体重を落としたい。
と思ったら、そこで終わってしまう。
けど、体重は急には減らないけれど、化粧やスキンケアを
かえることはできる。人との関わり方をいろいろとかえて
反応をみることもできるよ。体重はロングスパンで考えるとしても、
それ以外のことって、結構今の瞬間から変えていける事に気づいた。
体重、と思うと、それ以外のこと全てが無意味に思えて、
それ以外のこと全ても放棄して、全てがとまってしまう。
いつもそうなら、永遠に何も変わるわけがない。
勉強のしかたも、人との付き合いかたも、ベターな方法があるなら
どんどん変えればいい。
持ち物も、好きな色も、人への言葉も、いろいろ試してみればいい。


夜回り先生が言っていたけど、
可能性、可能性というけれど、もともと可能性があるんじゃない。
今を重ねていく上で結果として生まれてくるものなんだ。って。
自分の可能性や挑戦を信じることも大切だけど、
見えないなにかに押しつぶされそうならば、まずはそれを置いておいて、
今日一個だけ昨日から何かを変えることに尽力してみたら
30日経ったら、30箇所違う自分がいる。
私は長い間、見えない可能性、挑戦、から逃げていると思い込んで
現実を見られなかった。でも、そんなもんなかったんだ、と気づいた。
同時に、今目の前にあるチャンスこそが、あたしの可能性だと。

そんなあたしはぬぼーっと生きているようで、
心に翼が生えた気がする。少しだけ。
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by jengsauman | 2006-01-24 14:24
先生は帰り際に「今日は元気なかったですね」とそっと私に言った。
自分に恥ずべきところがあるとき、私は先生の顔を見れない。
しんどそうなふりをして、ただもくもくとノートをとるふりをする。
そんなあたしをいつも見てくれている先生に会うたびに、
このままじゃいけないと、自立しようと思うのに。

「愛しい」とはいろんな形があるのだと知った。
忘れられないといってうな垂れる友達の痛みがやっとわかった。
誠実ではない行動ばかりしている人なのに当人にとっては大切だ
ということが、たとえ自己正当化でしかなくてもそういうことがあるのだということも。

世の中のこと全てに明確に正しい答えがあり、人がそれに基づいて
行動していれば、世界は愛に満ちて平和なのかしら?と想像したけど、
なんだか違う気がした。矛盾に満ちて、感情に翻弄されて、馬鹿なことを
繰り返して、それでもそんな人間がかかわりあうから、化学反応のように
何かを生むことができるのだと。だから、人を愛し、自分を愛するチャンスを
得ることができるのではないかと感じた。最初からそこにあるものに価値なんて感じない。
欠乏して、失って、渇望して、そうして初めて気づくことが往々にしてある。

けど、どんな過程を経たとしても、いつかは現実を見なければならないことは同じだ。
いつも現実と一緒に生きていかなければいけない。

「自分を持て」といろんなことを通してずーーっと言われている気がする。
周りで起こることの多くは、あたしにそれを伝えるシグナルだと感じる。
「気づけるもんなら気づいてみろ」と言われている気がする。
もしかしたら・・と気づきたくもないことに気づきかけたとき、「そんなはずはない」と
自分を護って生きてきた自分を変えられるもんならやってみろ、と言われてる気がする。
人に自分を晒し、人に感情を伝え、人にチャレンジして、人に期待して、人に裏切られて、
人を裏切って、人に利用されて、人を美化して、人を渇望して、人を信じて、人を愛する。
奇麗事なんてもういやだ。そのかわり、自分を誤魔化すことをして逃げてるのならば、
それはひとまずそのままでもいいから、全部を捨てようとしなくていいから、
何か違う化学変化を起こそうと動こう。

ふとした時に感じる「あ、もしかして・・」は大抵図星だ。
もしかして今言い訳してるかも?逃げてるかも?美化してるかも?・・・
全部気づきたくないこと。だから、気づかなければ一生気づけないこと。
勇気を持て。負けを認めろ。今は負けでもいいから。
そう自分に言ったり、言えなかったりする。
一歩進んで、また下がって、また進んで、を繰り返している。
でも、きっと無駄ではないし、絶対に変えることができると信じている。
その確信だけは失いたくない。

あらゆる物事は多面的だ。その一面だけを見ていれば、何とでも物語をつくって、
美しい物語を展開できるかもしれない。けれど、その奥にあるいくつもの汚さや
弱さを見ようとしなければ、その事柄は自分にとって飾りのようなものでしかない。

自分という未熟な人間が起こすことなんて、大抵しょぼいことで当たり前なんだ。
自分を閉じて生きてきたのだから、知らないことや失敗がたくさんあって当たり前なんだ。
人を信用してみようと思って、触れ合ってみても、いつの間にか物分りがよい人間を
演じていたり、必要以上に何も言えないだけの状態を人を思い遣っていると勘違い
していたり、「あーまたやっちゃった」って思うことがあっても、そんなこともあるさ。
でも、失敗してもいいけどそこで止まらないで。それでも、また新しい風に触れなければ。
「これこそがあたしにとって必要なことだ」と答えを決めることなんて、できないのが普通だ。
だって、死ぬまで知らないことだらけ。だから、「今はこれが一番大切だと思っている
みたいだけど、こっちにも何かあるよ」といつも横から客観的に自分に言ってあげられるように
なりたい。どんなに不安でも、安定していても、そこで止まらなければ、もしかしたら
明日何かに出会えるかもしれない。

自分を救ってあげられるのは、自分の足を動かすことから始まる。
一面的な物語を終了させて、認めたくないことを認めることから始まる。
自分が被害者ぶっていることも、よく考えてみれば自分も加害者だったりする。

自分の心の拠り所だと思っている場所は、自分が殻を破らずにすむぬるま湯な
だけかもしれない。

自分の感覚を信じて。違和感があるなら、それが答えだ。

ぶつかるとは、闘うとは、稚拙な自分を出して挑み、たとえそれでぼろぼろになっても
最後までその姿勢に誇りを持ち、その自分を愛し続けることだ。
そして、負けても負けを認めること。負けから学ぶことだ。
固執を持ち続けることは忍耐強いのではなく、ただの弱虫だ。
それがそのとき必要ならば、固執対象に頼ればいい。
でも、いつかは離れないと。固執してる間も、新しいものを探してる間も、
大切なものと共存してる間も、同じように時間は流れていくのだから。

自分が行き詰ったとき、無意識に思い出し渇望する食べ物たちと同じように、
自然に思い出す依存固執対象は決してあたしを救わない。

食べたい!そう心が叫ぶとき、自分が舞台にいることを想像する。
するとすごく落ち着く。誰でもない自分が自分のために生きていることを
思い出せるから。そして、この身体は、ただ男に抱かれるための人形ではなく、
あたしという人間を形にした神聖なものなのだと思う。
孤独でもその不安に負けないで。
あたしは「自分は表現主体だ」と心から思えるようになりたい。

何を経ても、行き着くところは「自分を持て」ということ。
そして、「その自分を愛し、人を愛そう」ということ。

その過程で失敗しても、それを人の痛みが少しだけ想像できるという糧に
できたらいい。だけど、そこで甘んじないで。止まらないで。
自分を信じて。きっとできる。きっともっと解放できる。きっと出会える。
そのために必要なのは、身体を削ることでも、自分を押し殺すことでもない。
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by jengsauman | 2006-01-17 01:57
正月に帰省したときに父親が話す中で、唯一「負けん気」を表す発言がこれだった。
悪循環のスパイラルって何か同じこと二回言ってる気がしなくもないけどご愛嬌。

うちの家はどちらかというと、勝ち負け、上昇志向、などをよしとせず、
「何事もそこそこが一番」という価値観です。確かに欲をかきすぎることは
よくないかもしれないけど、そんなんで納得できる人生が送れるのか?とどこかで
思っていたし、私は勝負したかったのだと思う。
そんな自分の欲求の抑圧への反省も、今への原動力にするしかない。

父の言葉は嬉しかった。
親自身が実際はそういった思いで仕事に臨んでいるんだと知ったから。

1年前の自分を狂気というと思っていたが、決してそうではなく、むしろ正常(=現実)に戻る
ための変化だったに過ぎないのかと感じた。

自分を何も変えないでただ事態だけが変わればいいと思っているさまを狂気という (伊藤守)

という言葉を教えてもらって、何となく、でもとても納得した。

苦しい時に驀進をやめて立ち止まることが上のいう狂気ではなく、立ち止まる
勇気を持たないことをさしている気がする。
だって、そうじゃないと何か変えるべきだということにさえ気づかなそうだから。
そして、立ち止まるなら思いっきり立ち止まり、立ち止まるという辛い状態を経る
んだという覚悟を持たねばならない気がする。それは、表面的には何もしていない
ように見えて、えげつないくらいしんどく、孤独で、もどかしく、苦しいことだと思うから。
中途半端に半分立ち止まって、半分は外でいい顔を続ける、ということは、有用だった
のかどうか、私にはよくわかりません。
もし、潔く立ち止まることと向き合っていたら、もう少し早く再スタートできたかもしれない
と思わなくもない。きっと、自分が立ち止まることを認めるのが怖かった、そのあと
何も持たない自分が社会で何ができるんだろうと恐れ、いつもどこかで誤魔化していた
気がする。今のところ、どうするのが一番いいか、分かりません。ただ、自分は
もっと早く現実を見るために、自分の負の部分に目を向ける勇気を持てばよかったと
少しだけ思っている。そしてもっと人に意見を聞ければ、と。簡単なことではないけれど、
本当に重要なのは、人に自分の弱さを知られることではなく、自分の弱さを肯定した上で
どうしていくのが最も良いかを考えて行動していくことだから、その際に人の客観的な
意見は財産だ。でも分かっちゃいるけど、難しい。難しい、けど諦めない。

人にはそれぞれ使命がある、というのが最近の最大関心事です。
私の使命はなんだろうか。と考えて、答えを出して生きてきた25年。
しかし、逆にしはじめたここ数週間。

知らなければ、問題意識も持ち得ない。
動かなければ、自分が何をできるか、何がしたいかも分からない。
そして、時間は有限であることを忘れがちになる。
時間は経っていってしまうんだ。
時計針が刻むたびに、死へのカウントダウンである。
しかし、それは逆に言うと、「生きろ、生きろ」という声でもあるのではないか。

しがみついてでも生き抜いてやる、という意識がなくても生きてこれた。
戦争がない。兵役もない。命の危険も少ない。1秒後にも命が終わる
かもしれないことを幸か不幸か感じずに生きられる環境。

それはすばらしいことではある。けど、きっと戦争や革命のある時代
に生まれていたら、何も疑問をもたずに社会に翻弄されていただろう。
自分の生を活かすことから逃げても、生命を維持できる現代に生まれた
から今まだこうして生きられているだけだ。
そして、だからこそ気づいて動かすのが億劫なのだ。動かさずとも死なないから。
だから、どこかでゲバラにあこがれるのかもしれない。
保身に走らない。信念を通す。これがいかに大変か。

「自分の考えたこと」の枠の中で、「自分が行動した結果」のまま、
人生は形づくられていることを知らぬ阿呆であった。
どこかで人生は好転し、どこかでチャンスに出会い、
どこかで素敵な人と出会え、いつか自分は幸せになれるんじゃないかと
何を根拠にかどこかでそう思っていた。
きっと、親が私に温かさと、安定、愛情、存在の肯定を無条件に与えて
くれたからだろう。ありがとう。でも、それをエネルギーに自分らしく
生きてこず、ごめんなさい。と思う。
やっとこさ、「自分」は探すものではなく、与えられるものでもなく、
作るものなんだと気づいた。

どこまでいけるかを知る方法はただ一つ。歩みを進めること。

船は港にいるとき、最も安全だが、それは船が作られた目的ではない。
(パウロ・コエーリョ)


私たちは、保身するために生まれてきたのではない。

うちの父は前に、「大切なのは自分が知識をどれだけ持ってるかやなくて、
いかに人をうまく使えるかや。」と言った。
目から鱗。
自分があれもこれもと得ようとして、モゴモゴして、そのプレッシャーと
重荷につぶれそうになって、その瞬間をダークに過ごしてしまうよりも、
人の助けをうまく利用することのほうがよっぽど賢明ではないか。
しかも、何もかも得ようとしてるときは、それら各々に魂が込められていない。

悪循環のまま終わってたまるか。自分を輝かさずに終わってたまるか。
負けん気も結構。しかし、敵は自分なのです。
敵が自分だと思えない時は、きっと、このことを忘れているからだ。

人生は、自分が考えた枠の中で、自分が行動した結果そのものだ。

人は歩みを止めたときに、そして挑戦を諦めたときに年老いていくんだと思います。
この道をいけばどうなるものか、危ぶむなかれ、危ぶめば道はなし。
踏み出せばその一足が道となり、その一足が道となる。
迷わず行けよ、行けばわかるさ。 (一休ベースの猪木)


これは26歳でプロサッカー選手の夢を実現したYくんの口癖でした。

26歳でプロデビューはあまりに絶望的だとみんなに言われても、
彼はあきらめなかった。そして自分をつくりながら、進化し続けた。

25歳だからしっかりしなければならない、ではない。
25歳だから結婚して子供を作らなければならない、でもない。
自分が生まれてから25年経って今があり、
その今をどう作っていくかを真剣に考えて行動した先に、
自分の現実があるだけ。
経験だけが自分を語る。

行ってきます。
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by jengsauman | 2006-01-13 15:03
PCをいじっていて、これ何のフォルダだっけ?と思って見たら、
以前messengerで会話したものを保存したものだった。
なんだか、新鮮だった。
いつもそうだけど、自分が思ってるほど過去は闇に
満ちたものでもなかった、と思う。
自分の記憶がそう作っている部分だって多々ある。

昨日、大学の友達のことを考えていたら、
今日、多分半年ぶりくらいに、二人から突然電話がかかってきた。
それに、教授から葉書もきた。
なんという偶然。というほどでもないけど、なんだかいい風が
ふいてる気がした。あのころの自分を穿り出すわけではないけど、
あのころがあって今がある。そして今を未来に繋げるんだ、と。

そのmessengerの会話を少し見てみたら、
ああ、自分が思ってる以上に、人に助けられている、と気づく。
そのときは全然見えてなかったけど。
そして、この詩を想いました。


「知命」         茨木のり子
他のひとがやってきて
この小包の紐 どうしたら
ほどけるかしらと言う

他のひとがやってきては
こんがらかった糸の束
なんとかしてよ と言う

鋏(はさみ)で切れいと進言するが
肯(がえん)じない
仕方なく手伝う もそもそと

生きてるよしみに
こういうのが生きてるってことの
おおよそか それにしてもあんまりな

まきこまれ
ふりまわされ
くたびれはてて

ある日 卒然と悟らされる
もしかしたら たぶんそう
沢山のやさしい手が添えられたのだ

一人で処理してきたと思っている
わたくしの幾つかの結節点にも
今日までそれと気付かせぬほどのさりげなさで



沢山のやさしい手。
思い返してみる。あの人がいてくれたからあの時生き続けられた。
あの先生のおかげで、あの人のおかげで、あの友達のおかげで。。。
溢れるほど出てくる。忘れていた。たくさんの優しい手に感謝すること。
たくさんの優しい手に支えられて生きてきたことを。
一人でなんて生きてない。とんでもない勘違いだ。
たとえ、連絡をとらなくなっても、その人から教わったこともある。
月日が経って、初めて気づく。

友達との会話の中で、その子がこういっていた。
「今日ね、居酒屋行ったら、そこの掛け軸にこんなこと書いてたよ。
『本当の出会いに別れはない』って。」
そのときは、「へえ、熱いね」とか返してたみたいだけど、
じぇ~んじぇん身にしみてなかった。
総じて、言葉がただの言葉として宙に浮いていた。

でも、今日その言葉を見て、「ああ」と心から想った。
本当の出会いとは一体何か?と言い出すときりがないし、
全てが本当の出会いであるはずなんだけど、
その中でも特に自分の人生に深く関わっている
縁の有る人とでもいうのだろうか。
その人との出会いには、別れがないのかもしれない。
表面的には離れたままで終わろうが、また再会しようが、
連絡しようがしまいが、そんな事実の有無ではなく。

その掛け軸の言葉を発した友達が今日私を思い出してくれたことと、
彼女との3年前の会話を見て、
なんだかとても身にしみた。(単純ですね(笑)

なんじゃかんじゃでであった沢山の人。
離れても、切れても、また繋がったりする。
その数は決して多いわけではないけど、その存在を知るたびに
縁はずーっとそこにあるんだよ。って教えてくださいます。
自分が勝手にじたばたしているだけ。
勝手に思考をこねくりまわしてるだけ。
あるもんはある。ないもんはない。
あるもんを無視したり、ないもんをあろうとするから訳がわからんくなる。
現実を見つめる能力。これは本当に大切だなあと改めて痛感した。
どんなに「考えることも大事だ」と言ったって、思考で世界を変える
ことは不可能だ。

なんだかあのときよりずっと臆病になっている自分に気づいた。
諦めるための壁をより高くしたことにも。
まるで、実験で、長い間ふたをして飼っていたら、
ふたをとってもそこから出ることさえありえなくなった虫のように、
自分の可能性を極端に低く見積もっている。

彼らの能力と、自分の能力は関係ない。
彼らが優れているから友達なわけでもない。
けれど、昔は激しく混同していたと想う。
周りが優秀で、ああいうことをやって、あんなこともできて・・
と言うことと、自分がこうあるべきだという像を。
そもそも全く関係のない二つの個なのに。
だから、誰と付き合うか、誰と仲良くするかさえ、
自分の感覚に頼れなかった。

けど、実際は、客観的に見れば、とっても分かりやすく、
そこに答えは出ていた。
自分にとって大切な人、自分と縁のある人は誰か。
一体何に逆らっていたのか。

彼らと同じことはできない。
だから、私は私の道を生きなければならない。
この期間の間にたくさんの他者から与えられた変化のチャンスがあった。
私はそのほとんどを「自分で自分を変えないと意味がない」と突っぱねた。
けど、一人で自分を変えることなど不可能だ。というより、もし可能としても、
そんな変化は大して意味がない気がする。結局は、人は人の間で生きる
生き物だから、人とのかかわりの中で変化していくのが良いんじゃないかなと。
あのときああすればよかった、ではなくて、あの時ああしたから今の自分が居て、
今の自分をどう変えたいから、今どうするのだ、という行動に移せる人生を。
きっとこの期間が、私にその覚悟を与えてくれたのだろう。
そうしなければ、この期間さえも嘘になる。



「苦しみの日々 哀しみの日々」   茨木のり子

苦しみの日々
哀しみの日々
それはひとを少しは深くするだろう
わずか五ミリぐらいではあろうけど

さなかには心臓も凍結
息をするのも難しいほどだが
なんとか通り抜けたとき 初めて気付く
あれはみずからを養うに足る時間であったと

少しずつ 少しずつ深くなってゆけば
やがては解るようになるだろう
人の痛みも 柘榴のような傷口も
わかったってどうなるものでもないけれど
    (わからないよりはいいだろう)

苦しみに負けて
哀しみにひしがれて
とげとげのサボテンと化してしまうのは
ごめんである

受けとめるしかない
折々の小さな刺や 病でさえも
はしゃぎや浮かれのなかには
自己省察の要素は皆無なのだから

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by jengsauman | 2006-01-11 03:30

つるつるの肌

4月下旬に昔大切だった友達(自分が音信不通にしていたため5年以上会ってない)
が結婚する。そんなあたしを式に呼んでくれるのはなぜ!?と思ったけれど、
ありがたく出席させてもらうことにした。

半年くらい前にその知らせを受けて、私はとても動揺した。
けど、そのときは日本に居ないだろうという意味不明な予測のもとに
「行けたら行くね~おめでとう~」などと言葉を無責任に投げて
その話題を自分の中で終わらせ、ほっとしたのを覚えている。
なんて友達甲斐がないやつだ・・・。

でも、今、会って「おめでとう」と言いたい自分がいる。
こんなに長い間私の自分勝手で会ってないのに、そんな大切な日に
私を同席させてくれることへの感謝と、自分自身を見つめていこうと
思った時、彼女の人生は自分と全く違うところでキラキラ輝いているように思えたから。
大切なパートナーを見つけてまた人生を新たにスタートさせて築いていくことは、
有る意味とても羨ましいと思うけど妬ましいとは全然思わない。
だからただ、「おめでとう」と言いたい。それが率直な思い。

そして、その日に、私は自分が「あたしもぼちぼち幸せやでー」ってちょっとでも
思える姿でみんなに会いたいなって思っています。
昔、よく一緒に出かけておしゃれも恋も勉強もいろんなことを話し合ったHも、
毎日一緒に帰って、人を褒めることがとっても自然にできる太陽みたいなAも、
すさまじいポジティブっぷりが面白すぎるけど人への気配りを忘れない可愛いFも、
そして今回結婚するMも、
MとかYとかWとかNとかHとかKとかYとか・・・・・・もうみんな全員会えるんや!
誰にあってないって、ごく近い3人以外全員やもん(爆!!
この数えてもようわからんブランクさえ笑って流せるほど月日は経って、
みんながみんなの道を歩んでる。
そんなみんなと、またげらげら笑える(に違いない)日がもうすぐそこだ。
みんなにどうやって会おうか。土下座か?アホの坂田の歩き方で登場?
もうなんかわけわからん。けど、みんないっぺんに会えるとなると、
もう腹をくくるなんてとおりこして、正直楽しみです。

せっかくの結婚式、せっかくの再会、なんやから思いっきりお洒落して
行きとうございます。
多分、髪の毛はちょっとだけ明るくして、トリートメントかけて、
ワンピース着て・・と妄想はふくらむ。
でも何より気合入れたいのが、筋肉とつるつるのお肌!
ってどんだけはりきっとんねん。しかも3ヶ月も前から(爆笑。
いやいや、美は一日にして成らずですもんね。
それに、どんな出会いがあるかもわからんし~(アホか。

なんていうか、今までとは違う、強迫観念のないわくわくです。
きっと、会いたいんですわ。会いたくて会いたくてしゃーないんですわ。
こんなに会いたい友達が、「あいつアホやな」といいながらも、私の
ことを忘れずに居てくれたことを幸せに思います。
今まで、一体何を特別がって閉じていたのだろう。
いや、それも必要なことだったんだ。

結婚のこと、お母さんになること、夫婦のこと、いろいろと
教えてもらおうっと。先達はあらまほしきことかな、ですわ。


ふと、いろんなことに首をつっこもうとしてる自分に聞いてみた。
「で、どうなりたいの?」
それが具体的にないと動けないんだよ。ぼやーっとしてたら
きっと一生それは実現しない。

先生に聞いた。「先生はどんなときに快感を感じるんですか?」
そしたら、「貴方が思っているよりもずっと低いレベルの話ですよ」といって笑った。
日常の一こま一こまで感じる小さなこと。
けど、あたしの人生で一瞬一瞬を大切にしてきたことなんてあっただろうか。
一瞬一瞬を大切に、と口にしながら、大分先を見てため息をついていたのでは?
一歩一歩を大切に、と口にしながら、100歩くらい先を見て焦っていたのでは?
そして、今はどうだろう?

先生は、「きっと苦労せずに今まで来たんですね」といった。
痛いところ突かれた。「はい、そのとおりです」とかえした。
「そんな苦労はしないでいいと思うけどね、・・・・・」と話してるときに
クラスメートが来て、話は終わった。
先生は「本当にいつだって時間とりますからね」といってくれた。
忙しすぎてメールも返せないし、寝る時間もないのに。

ふと思った。今自分が感じているフラストレーションは、
無駄なことに時間を費やしている自分に対してではなく、
越えるべき壁なのかもしれない、と。
そうか、これか!?と思った。
何が有意義なことで、何がそうでないなんて知らない。
しかし、自分が好きなものだからこそ、それと向き合って
どこまでもいってやる、という根性と、それを形に残していくことが
自分を創っていくんじゃないかと思った。
そう、絶対にこれは越えるべき壁だ。

そう思ったら、やたらとウキウキしてきた。
何を越えていけばいいかさえよくわからなかったけど、
今はこれと向き合い続けることが一つのミッションだという確信がある。
辛いけど、楽しい。きっとこれが自分を創る。
絶望の先に喜びがある、というほどのとこまでもいってないけど
きっときっとこれは手放してはいけないチャンス。

そしたら、また「できる」という思いが溢れてきた。
「やってやる」「やりたい」という思いも。
きっとその思いはあらゆるこを可能にする力を持っている。
それがたとえ、大分先だとしても、今とその未来とつなぐものは
「できる」と自分を信じること。

人のまねするんやなくて、
そうしたほうが格好ええからでもなくて、
そうしたほうが世間体まもれるとかでもなくて、
そうするのが普通やからでもなくて、
自分という存在が生まれた必然←(この言葉ハマッっている。)
を自分で感じるために、チャレンジしていったほうが
面白いんちゃうかな?っておもう。

笑われても、狂ってるといわれても、
新しいものを開拓していくには、むしろそういうものがあって
当然かもしれない。
そんな大それたことをしてやる!とは思ってないけど、
諦める必要もない(笑。
25歳で早々と諦めるなんて冗談はよし子。
これからっすよ。
でも、新しいことをやるには、基本を学ぶことがまず必要だと思う。
だから、2年はとにかく自分にいろんなものを染み込ませる期間に設定。
いろんな人に出会い、いろんな場所に行く。
きっとまた人に期待をしてしまうだろうし、自分の弱さとも対面するだろう。
けど、それを受け入れたとき、その先が決まるんじゃないかと思う。
いつも、今が自分の将来を作る。

というわけで、この3ヶ月はどうなるでしょうか(←また話戻ってる。
こうして、区間を区切って、毎日をじっくり見ていくことは
地に足をつけるために有用かもしれません。

過去の栄光より現在の問題と対面。
愚痴や悲観よりも野望と可能性。

何でこうなっちゃったんだろう?という思いは、時間とともに
必然だと気づくのでしょう。そのときこそ、いかに
「今」を大切にして生きていくかにシフトできるかが
大切なんではないかと思ったりします。
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by jengsauman | 2006-01-10 02:38

無駄な労力

あの人は私を疎ましく思っているだろう、と思い込んでいた友達からメールがきた。
その内容は、その子が主催するパーティーのお誘い。
「あれ・・?嫌いちゃうかったんかいな・・
ってか自分で勝手にそう思ってただけやっけ。。」
ぐあーー。またやってしもてたよ。嫌われてると思い込んで後々
傷つくことを防ぐ線引き!!

人は自分が思うほど自分のことを気にしてませんです。


最近、姉とかなり険悪です。
その原因の大半は自分にあるのだけど、そう思えば思うほど
姉を避けようとしている自分がいた。
議論することもない、などと逆切れして啖呵きってはみても現実は
自分が不甲斐ないのです。それを認められなかった。
しかし、実際は、その私の不甲斐なさに切れてるだけで、
私自身を嫌っているわけではない(当たり前か・・)ときづく。
そして、久しぶりに帰ってきて、「おみやげー」といって
私が心からこよなく愛する関西風だし(関西ではうどんのだしの
液体のものが袋入りで売っているそれ)をどこかの百貨店で
見つけてきて、買ってきたらしい。
がつーーーん。
本当に自分ってちっちゃすぎます。
傷つくことを恐れるあまり人と向き合うことを更に避けるんです。
自分を守るために何だってするんです。
しょぼーーーーーーーー!!
ってか自意識過剰ーーーーーー!!
ってか自己中ーーーーーーーーーーー!!!!!!

さあ、自分を笑え笑え。そして、それが現実と知れ。
それこそ無駄な労力ではないか。上の友達のなんて、
笑っちまうくらいアホじゃないか。
誰が私のこと嫌いやって?そんな関心ありませんがな。
ってかそこまで仲良なってへんやん。
ってか自分出してへんやん。
そんなんで嫌われるもクソもあるかー。
そんなん人間関係って言えへんっちゅうねん。
姉と自分は合わないって?アホか。
自分が後ろめたくて、自分を肯定したいだけやろ。
自分がやるべきこともやらずに、人に権利ばかり主張してるアホがここにおる。

いかに自分が普段石橋をたたきすぎて自分で壊して自爆して非合理的に
生きてるかよくわかりました。
人のことを気にしてるうちは、自分の現実と向き合わずに楽チンしてるん
やから、それこそ時間の無駄やし、労力の無駄や。

とってもどうでもいいことかもしれませんが、そんなことを考えて、
私は今日、初めて大学の友達に自分のことを話そうと思いました。
話して、相談して、アドバイスをもらおうと思いました。
大学の友達には、まだ「負けたくない」と言うアホなプライドが捨てられなかった。
けど、そんなことどうでもいいと初めて思ったのが今日です。
人の目を気にすることは無駄な労力、だと思いました。
そういって簡単にそれが捨てられるわけではないかもしれないけれど、
そうなんだと私の魂は今日言ってくれました。
ブラボーだと思いました。
「今ここにいることを精一杯楽しむ」ことを1%もできていなかった自分に
気づいたのです。そして、いっそのこと、何も立派なことはできんくても、
「あー楽しかった」といえる人生にしてやろうとシフトチェンジしました。
でも、私の「楽しい」には、人が必要だから、というか人の存在なしにはありえないから、
それでちょうどいいような気がします。人のために何か、と気張りすぎると、
結局足が地につかないまま上ばかりを見てしまうから。

最近、いろんなものが雑多に共存していることこそ自然だと思うようになった。
AでなければB、とかじゃなくって、AもありだしBもCもあってよい。
と言う感じです。Aが半分でもよいし、Bが90%くらいでもよい、とか。
ハハ、意味不明(笑。
たとえば、政治の話、(香港人の)男の話、少子高齢化社会について、
性の話、お肌の話、摂食障害の話、自然の話・・・・どれも同時に世の中で
存在してるものだし、どれに優劣もないと思う。どれも自分にとって大切なトピックだ。
だから、そういう状態が理想だと思うようになった。雑多でいい。あれはいいけど
これはダメ、としていくと、場面場面によって自分にとっての正しさが変わって
しまうからだ。そうして結局自分が何を信じているか分からなくなる。
頭を使わないから。取り繕うことで抽象的にして結局何も形にならない。
大切なのはその場その場の正しさではなく、自分が何をしたいかです。
つまらない恋愛だと言われようと、自分がその関係を必要としていれば
周りの雑音は流せるはずだ。それで痛い目にあっても本望です。
それはそのとき私に必要なものなのだから。人生だってきっとそうだ。
周りのアドバイスは必要だけど、雑音は雑音だときちんと判断しなければ。

だから、自分に素直でいたい。でもそれだけじゃなくて、少しでも
多くのことを考えられるようになりたい。自分から。
だから、いろんな多様なものの共存が自然だし、そういう世界の中で生きたい。

現実を見ること。そしてやるべきことを重ねること。そして楽しむこと。工夫すること。
必要なことはとてもシンプルだ。でも時にとても勇気が要る。
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by jengsauman | 2006-01-09 01:38

自分の現実の欠如

自分と徹底的に向き合うことが今年の目標だと書いたけれど、
それは本当に難しいことだという感覚と出会った。

人は自分と向き合うのが苦しい時、他者や社会や世界に眼を向けるという。
私のしてきたこと、書いてきたことの多くもそうかもしれない。
私の人との付き合い方も同じく。
そこに私の現実が決定的に欠如している。
えらそうにいろんなことをほざいてる割には自分のことを語らない。
そのおかしさに気づかない人、もしくはどうでもいいと思う人だけが
私を「いろいろ考えている」とか「そんなに好きなものがあっていいね」
などといって、私の自己欺瞞をそのままにしてくれた。

けれど、違います。それはすり替えでした。

戦争に憤ること、貧困を考えること、男と女について考えること、
友達や家族や好きな人を思うこと、政治や歴史について語ること。
それらは意味のあることだけど、それ以前に私の現実がなければ
ただの根無し草。

斎藤学の本で(どの本かは忘れた)読んだけど、
「もしあなたの親友がとても悩んで落ち込んでいたら、
あなたはどうしますか?その友達を責めますか?意志が弱いとか、
頭が悪い、不器用だ、などと言って責めますか?
いいえ、きっと味方になって励まそうとするでしょう。
それをどうして自分にはしてあげられないのでしょうか?」

という感じ(一字一句合ってはないけどそういう内容のこと)
のことがかいてあって、はっとしたことを思い出した。
憤りや同情、涙すること、喜ぶこと、励ますこと、
それはまず自分の現実に向けるべきなのだ。
何より大切な自分に対して、味方になってあげるべきなのだ。
そうして、自分の現実を嫌というほど見なければいけない。

国際協力、聞こえはいいけれど、国際協力する前に自分に協力しろよ。
外国語。なんだか視野が広がるようだけど、自分とさえコミュニケートできてませんよ。
教育。なんだか意義あることのようだけど、自分の現実を直視することもできない
人間が一体人に何を教えるんですか?恐ろしいわ。
それらの問題を避けて飛ぼうとしても、またそこに戻るのでしょう。

秘密主義だとよく言われるそれをまず壊そう。
秘密主義なんじゃなくて、現実を見ないで逃げてるだけなんだから。
何かを語ると、自分のうすっぺらさがばれると恐れていただけなんだから。

さっき、話していて、気づいてん。
「この人、あたしのこと、ほんまに何も興味ないねんな」て。
私と彼が均衡を保っていたのは、私が自分のことを言わずにすむことと、
彼も自分の領域に入ってこられるのが嫌だという、利害が一致していたから。
二人のあいだに歩み寄りなんてない。
お互いが相互不可侵条約を暗黙の了解としていて、都合のいいときだけ一緒に居た。

勝手に利用されたと思っていたけど、自分こそ人を利用してたと思う。
本当の汚い部分を隠したままで、みかけをとりつくろって、利害が合致する
人と一緒にいることを正当化しつづけたのだから。

人や他のことを考えてれば、自分と向き合う必要がない。
それが自己欺瞞の壁を崩さない正当化の理由となっていることを
自分で指摘できなかった。

人と居ることはいい。けど、それは、自分と向き合うという意思を持ちつづけてこそだ。

今の自分に「これだけは譲れない」というものはあるのか。
頭で考えずに答えることができない。

それでいい。それが現実だ。
そこを起点に、自分と向き合う。
本当に私が求めているのは何か?
私の現実はどうなのか?

解剖学のことでお世話になったSさんがメールをくださった。
「勉強楽しんでくださいね。知識の詰込みではなく、想像力と創造力と行動力(実際に覚えようとしている筋肉を働かそうとしてみたりとか)を駆使して、全身で身に付けていってください。今間違った知識や観念が少ないほど、実際のカラダの能力が伸びると思います。知識ほどほど、実践重視してみてください。」

私は、自分のからだと一生かけて向き合おうとおもう。
さっき、足をずーっとみて、触っていた。自分の足という意識が薄い。
ここにどんな筋肉があるのか、いまだよくわからない。
でも、知識を詰め込む勉強の仕方はもうしない。納得して自分の実にしていきたい。

玄米にしてみようと思う。「食で人生を変える」というマクロをやっている方の
メルマガで少し自分の身体に思いが及んだ。

私は自分のからだをどう変えていきたいのか?
私は何を食べたいのか?
私は今どこに行きたくて、誰に会いたくて、何を話したくて、何をしたいのか?
まず主語を自分にして納得できる瞬間を重ねないと、
どんなに人のために何かしても今のようなむなしさから離れることはできないと思う。
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by jengsauman | 2006-01-06 03:55