過食症を経て、一つ一つの日常を見つめる記


by jengsauman

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錬金術

熱が出た。体温計には40度って書いてたけど、実際はそんな感覚もない。
ただ、身体がおかしいほど震えて止まらなかった。
会社の先輩が病院に連れていってくれて有難かった。
夜の飲み会に参加せずに帰宅した。

私は、身体と向き合ってないんだなと痛感した。
自分の身体が訴えていたこと、何も聞こうとしてなかったんだな、と。
そんな特別なことじゃない。毎日の一瞬一瞬を取り繕ってやり過ごしていたのだ。

会社で起こるいろんなことを飲み込もうと、食べ物を飲み込んでいた。
トイレで久しぶりに吐き出したとき、自分がどこに立ってるかよく分からない
ことに気づいた。
将来が不安で、自分が孤独で、今を変えたい思いと今ある正しさを
捨てるべきかどうかわからないもやもやで、訳が分からなくなったり、
というより、現実を直視する勇気がない。すぐに恐怖センサーが作動して、
今までと同じように、萎縮して、警戒して、それと同時に食べ物で自分を保つ。
「私は食べ物に依存している」と堂堂と認めている自分を恐ろしく思った。
しかし、それ以外の方法、特に人にさらけ出し、そこに何かの変化を見出す
可能性にかけるのが怖くて、それで失敗し、失態をさらすのが
怖くて、一番自己完結する方法を選んでいるのだ。
だから、認めて開き直ってしまったら終わりなのだ。誰も責めてさえくれない。

なぜ諦めるのか?
それは、追い求めて失敗することを恐れているからだ。
だから、いろんな言い訳を用意して、それがいかに不可能かを語る。
でも、実際は運命はそこに用意されているのに、勇気がなくて、代償が怖くて、
逃げる。でも、自分の心の中にあるこの違和感は、そんな生き方を許してくれない。
だから、罪悪感なんだ。何をしても、楽しいはずの時間を過ごしても、罪悪感が
離れない。親に対して、世界に対して、自分がこういう風に生きていることを
申し訳なく思う気持ちばかりで、その時間を全く楽しめない。
映画を見てても、旅行に行っても、誰かと居ても、舞台を見に行っても、
自分の真上から圧力を感じ、そんなことして逃げるなよと言われてる気がして堪らない。
そういったことは、全て意味があることなはずなのに、それ以前の自分の姿勢に
自分が一番疑問を感じてるからだ。

心の声に耳を傾けよ、と「アルケミスト」の中にあった。
前兆に気づきなさい、とあった。
起こる全てのことは、自分の運命への道であるという。それに共感する。
でも、ずっとそれから逃げ、それにふたをし、それを封印していると、
その警笛は鳴らなくなり、自分の運命への道も見えなくなる。
それこそが一番怖いことなはずだ。
目先の利害で自分が頭で判断することなんかよりも、
自分の心が一番分かっているはずなんだ。
いつも、その警笛が段々遠のいていくことへの恐怖と、それと真正面から
向き合うことへの恐怖があって、どっちも選べない自分は同じ場所に居続ける
のか。それが一番「生きてない」ことなのだろうに。
強く強く感じる違和感、それと同じくらい強く存在する運命があると、信じたい。
ほんとはそんなものなくても、そう信じないと、身動きが取れない。

人に力を借りることが必要なのだと思う。
今までこうして一人の殻に閉じこもって、傷つきを最小限に抑えようとして、
摩擦や不恰好を避けてきて、他者に発信しないことを正当化しつづけてきたけど、
自分の稚拙な世界の限界に気づいていながら、頭では分かっているとかいいながら、
行動を変えないことは、気づいてないのと同じことだ。
しかし、あたしはあわよくば自分の問題を丸投げして
甘えられる場所を探そうとしてるのだ。頭では、そんなのは意味が無いと言いながら。
ほんと、しゃーないやつやな。張本さんに「喝!」といわれたい。

身体を壊すと心細くなるけど、今回はそんな感じもなかった。
そして、身体を休ませるべきだよという信号とは違うと思った。
でも、数人の友達に伝えてみたくなった。
ただ、しんどいねんって言いたかっただけかもしれない。
大丈夫?って心配してほしかっただけかもしれない。
また、自分の感覚にふたをして分からなくなってることに気づいてない
ことへの恐怖かもしれない。
でも、何か他の何かがある気がして。
何に気づくべき前兆なのだろうってそればっかり考えていた。
きっと、何かに流されそうになっている私への警笛だと思った。

伯父が東京に来るというので、喧嘩して以来、ずっと電話さえしていなかった姉と
会うことになっていたが、いけなさそうなので電話した。
そしたら、お姉ちゃんは「あ、そうなん。」って。
でも、普通に話せてよかった。と思って家に帰ってきたら、おねえちゃんが
電話してきて、「今、○○駅やねんけどー、どうやって行くん?あんたんち」
って・・・。家に来て、ドアあけたら、ひさしぶりにお姉ちゃんの姿がみえた。
お姉ちゃんの彼もそこにいて。あたしたち、家族なんやなあって思って。
何があっても、信頼を失うようなことをしてしまっても、迷惑をかけても、
思考では何一つ理解できなくても、そういうんじゃないねん。

あたしは、子供は親を選んで生まれてくるというのを信じてる。
そして、兄弟姉妹も同じだと思う。
この人たちと同じ血で繋がってる意味は、私の魂が分かってるはずなのだ。
それ以上の説明も、理論的正当性も、必要ない。

自分を発信させなければ、何とも共鳴しない。
自分の一方的共鳴は、相手には届かない。

大学時代から「発信、発信」と口癖のように言ってたあたしを
よく知る友人は、あたしがいまだに「発信」という言葉を使うのに笑っている。
その言葉を聞くと、あんたを思い出すよ、と。。
そうして一生懸命自分に「発信」の大切さを言い聞かせようとしているうちは
同じようにそうしない言い訳も持ち合わせてることに気づいた。

その友達が、どうやら電車の中でR25を読んでたらしく、そこからの引用で
「自分から発信し続けていると、道は見えてくる」(東儀秀樹インタビューより)
とメールをくれた。
なんだか、それが感覚的にビーンと感じた。
ずっと、その言葉をこねくりまわしてたはずなのに、その言葉を発することで、
人との距離を近づかせるフリをし、それ以上は騙せない人とは距離を持ってきた自分を
また痛感し、自分が人の軸で生きてきたことを知り、自分が発信することを
未知のことのように感じると同時に、やっと自分が実際に行動するということを
感じた。

発信し、行動することで、やっと他者がそこに存在する。
自分が、頭で勝手に考える人との繋がりは、自己の域を出得ない。

こんなに広い世界の中で、自分はたった一部をかすることしか
できないまま一生を終えるだろう。でも、それを嘆くのはナンセンスだ。
そのたった一部は、まぎれもなく自分の運命ではないか。
韓国、韓国、と思いながら、ずっとほったらかしの韓国語。
忘れた頃に韓国との繋がりがあって、私は結果的にいつも韓国のことを
どこかで考えている。それは、警笛なのかもしれない。
東アジアばかりに拘ることが、自分の世界観をとても狭くしている気がして、
もっと広く、広く、と思ってじたばたするが、足元さえしっかりしてない人間に一体
どんな広い見方ができるのだろう。

仕事で中国と関わるたびに、中国が遠のく気がする。
上司が「日中友好!」とか叫ぶたびに、頭が痛くなる。
が、仕方ない。だって、縁があるんだもの。
離れようとしても、離れられないんだもの。
そういうものとは、とことん付き合うしかない。
その先にしか、何も見えやしないし、その先でも見えない気もする。
けど、それをすっとばすことはやっぱり無理だ。
それが、多分縁。
何かが広がるとしたら、その先だろう。

友達が電話してきてくれて、いろいろ話していたら
「多分ね、今やってること、考えてることが「あーこういうことだったのか」
って繋がるのは天国に行ってからじゃないかって最近思うんだよね。だから今は
目の前のことを一生懸命やるしかないね」といった。
あたしはどこかでとても腑に落ちて、とても共感した。
それくらい、自分の魂と向き合うことは難しく、目の前のことだけで自分の人生
を判断することは危険で、それでも目の前のことをやってしくしかないという
のが人生なのかもしれない。

それの可能性を広げられるもとは、発信ではないか、とまたそこに戻る(笑。
そして、感謝の気持ちと行動。

今の目標は、自然との繋がりを感じること。

インドネシアの地震で亡くなられた方のご冥福をお祈りします。
でも、ニュースを見て、正直あの地震で3千人以上の命が突然失われたことが
とても信じられず当惑している。それくらい私は平和ボケし、自然や死を遠目で傍観している。
食べること以外、何だってコントロールできるはずだという思い込みが、
自分を自分の世界から出れなくしている。いや、食べることを完全にコントロール
できないということに意識過剰になりすぎて、他のことの重大さを看過して
しまうのだろうか。浮世離れしていると言われる所以はそういうことか。
でも、人間の自然との関わり方が歪み、害するものになっていることが
なにか繋がっている気がして仕方ない。自然が人間を生み、育て、殺す
力を持った存在であることを、私は忘れるどころか気づいてさえいない。
阪神大震災のときの、三宮のあの情景を覚えているはずなのに、
無責任で、そして生かされていることに感謝が足りないのだろう。
でも、やはりそういうときこそ、身体と向き合うことが必要なのだと思ったりするのだ。
それがあたしの固執なのか、直感なのかは分からない。

まず、自分ができるところから発信・行動しなければ、何もかわりゃしない。
でないと、少し経ったら、この地震のことさえ忘れ、また人間は自然に
生かされていることすら忘れ、傲慢に、そして違和感を抱えたまま、
誤魔化して生きていくのだろう。

アルケミストによると、
全てのものはそれぞれの運命を持っており、それは必ず実現する。
そうなったらそれぞれのものは自分をより良いものへと変えて、
新しい運命を得なければならない。そしていつか大いなる魂と
一つになる。


すべてのものは一つである、というのは、きっとその先に感じられることだろう。
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by jengsauman | 2006-05-28 01:56

すべては一つ

引越してから、やっとネットが繋がりました。
毎日があっという間に過ぎて、私はいろんなことをそのままに流されています。
やらなければならないこと、できること、やりたいこと、並べたら何も達成できてない。
その面は、反省しなければならないし、もっと改善できるはず。
だけど、少しずつ、見えたり見えなかったりすることもあって、なんだか嬉しい。
そんな生活を正当化してるわけじゃないけど、やっぱり嬉しい。
ひとりでちょっとさみしいけど(笑。

ここ数週間、自分の言動がまわりにどういう影響を及ぼすかにとても敏感だった。
それは、自分がこれまで見過ごしてきた、本当に直さないといけない欠点で、
でも気をつければ直すことができるはずだと気づいたことでもあります。
自分がてんぱっている時に、いつものようにとにかく殻をかぶろうとすることや、
自分が楽をしたい時に、結論をはっきりさせたくてすぐに100を語ろうとすることや、
すぐに魂だけその輪の外から出てしまうことや、
無責任なことや、いろいろです。
おととい、面と向かってはっきり「だからお前くどいんだよ。一言でいえばいいだろ」
(←標準語なのが余計痛い。)
と言われて、随分ガーンと思った挙句、そんな自分を正当化しようと心の中で
言い訳を始めたが、よくよく思えばそれは有難い指摘だなあ、と。
その言い方はむかつくけど(笑、私はよく1言えばいいことを、言葉がうまくみつから
なくて、ああでもないこうでもないと話し、自分の中では少しでも心にあることを
相手に正確に伝えたいと思っているつもりでも、相手にとっては迷惑かもしれなかったです。
自分が正しいと思い込んでいることほど、周りへの影響を考えられないです。
他の指摘も同様で、別に全てを甘んじて受けることは必要ないけど、
それを一度受け取ってみよう、と思った。
苦手(と勝手に思っている)人と一緒にいること、コミュニケーションをとらなきゃいけない状況、それは有る意味でとても貴重だと感じました。今でもあまりできてないけど、本当に相手の話を聞こうとすれば、きっと相手にも伝わると思う。聞いているつもりで、勝手に自分の頭で自分の正しいと思う思考に翻訳して聞いてるから、その不誠実さ、自分勝手さが相手にも伝わっていて、そのせいで壁を感じるんだろうな。それは直さないと。
でも、それでも通じなければ、通じないままでしばらく置いておくことにも意味があるのかも
しれないと思ったりもしました。

あーくどいーー。ってかまとまってねー(笑、

最近読んでいる本が、きっとこれからも大切に想うであろう素晴らしい一冊です。
ブラジルのパウロ・コエーリョ著『アルケミスト』。
毎日、朝の電車の中で数ページ読むだけで、何度も「はっ」とする、そんな本です。

ここ数日ではっとしたのは、
☆人はみなうまくいかないこと、困難を環境や周りのせいにしているが、
  本当は全て自分が引き起こしたことだ。
☆幸福の秘密とは、周りの世界の全ての素晴らしさを味わい、しかも手に持った
  スプーンの油がこぼれないようにすることだよ。
☆多くの人は他人の人生を否定、判断、批判、客観視することには必死だが、
  自分の人生とは向き合えていない。
☆ここは見知らぬ場所じゃない。新しい場所なんだ。
☆お前は人生のすべてには代価を払わないといけないことを学べてよかったじゃないか。
☆自分も人と同じ。世界を自分の見たいようにしか見ていない。
☆自分の意思で決定すると約束したんだ。
☆前兆に気づきなさい。

本当にたくさんあって、書ききれないけど、たった数十ページ読んだだけで、
何度もどきっとして、何度もうなずき、何度も恥ずかしくなって、何度も勇気をもらった。
この人生で今この本に出会えたこと、それも有難いことです。

その本の中に、「すべては一つ」という言葉があって、とても視界が開けたような
気がしました。なんとなく、自分の心の中にあった感覚と、いろんなことがあいまって
その言葉がすーっと入ってきた気がしました。でも、まだまだ私の中には、感覚の
かけらのようなものしかなくて、上にあるような「周りをきちんと見て、周りと調和
しながら、自分の手元もしっかり見なければならない」ということが、
ダブルスタンダードのようなままで、今なお「どちらを選ぶか」という
ゼロサムゲームをやってしまいそうな脆弱な状況です。
だから、安易に全ては一つと思うのはとても危険。でも、きっとまたいつか
そう思える日が来るような気がします。
そう思えるような生き方をしなければならないと思います。

ここのところ、たくさんの人に助けてもらいました。
会社の中で、友達に、親に、姉に、世の中のたくさんの人に。
今なおいろんなぬるま湯に助けられていて、そこから出ようと
してない自分がいる。けど、少しずつ、少しずつ、気づいたときに
思考と行動を変える意識は持っている。
私は理解力が低いから、人が遊んでるときも勉強して当たり前。
私はおっちょこちょいだから、人の倍確認して当たり前。
私は技術力がないから、専門知識もないから、他のことでプラスアルファを
持てるように努力して当たり前。
それは卑下や追い込みではなくて、当たり前なんだと思った。
誰かとの比較ではなくて、自分がこの世界で生きていくことの意味は、
自分ができることを伸ばすこと、自分にないものを持ってる人と協力して
誰かの力になれるようなレベルに自分を持っていくこと、
人に感謝すること、人の話を聞こうとすること、自分がただしいと思うことを
決して押し付けないこと、いつも新たな扉を開く準備をしておくこと、
そんなことが自然と心に沸いてくる。

まだまだ自分が自分の見たいようにしか世界を見てないことを痛感します。
そんな時、それを気づかせてくれるのは、やっぱり人、そして世界のあらゆる
自分以外の他者です。もっと、いろんなものに触れたい。

明日は友達と歌舞伎を見に行きます。
あと、秋の日本語教師試験も独学でチャレンジしようかと。
私は日本人である責任を全く果たしていないし、果たそうともしていない。
試験日、日本に居たらの話ですが。でも、ほんとは、試験より勉強したいという
気持ちとそれを少しでも多くの人に伝えたいという思いが大切なはずだけど、
まだまだ甘いなーわしは。モチベーションが他力本願。
考えると、私とっても非効率。
目の前に追われすぎ。余裕なさすぎ。余裕ないと分かってるなら余裕ない分を
さしひいて計算しろよ。
目標に日付を入れて差し引いて行動する。

多分、必死で我を通そうとしてるんだろうなと思います。
それを手放すと、本当に不安で、ぐらぐらになってしまいそうだから。
我を通すことと、信念を持つことの違いを、もっと感じられるように
なるには、まだまだですなあ。
目の前に起こっていることを正しく認識するためには、
怒り、嫉妬、驕り、無知で自分を守ることを捨てなければならない。
そして、目の前のことがどんなにしょうもないことに思えても、
それに全力でぶつかることで道が開ける。
そんなかんじです。

最近、引っ越した先は結構治安が悪い場所の近くなので、
いつも警戒しています。眉間に皺よってます。
家に居ても、もしかしたら誰かが侵入してくるかも、とうっすら思ってます。
自分が好きな街だからいいんだけど、それだけでも身の危険というのは
結構なストレスなのかもしれません。日本の場合は、万が一、だけど、
戦争が起こっている場所、起こりそうな場所、冷戦中の場所、いろんな対立が
有る場所では、何があってもおかしくないのが日常なのだとしたら、
私たちがこうして平和な国に生まれたことも、きっと何かのめぐり合わせと
思います。自分ができることを考え、実践する。難しいけど、選択する自由を
持っているのは、やはり幸せだし、その分背負う義務も大きいのだと感じました。

人生、いつ終わるか分からない。
だから、何かに必死であることを、自分の大切なものをおろそかにする正当化に
使うことは絶対にしちゃだめ。きっと後悔する。あれもこれもは無理だけど、
大切なものから自分の中に入れていけばいいではないか。シンプルシンプル。
多分、一番効率よいのは、大きいものから順番やよね。

いやー、恋したいと想うけど、予感すらないぜ(痛)。
でも、思いこみや、思考停止のための恋愛をするくらいなら・・
とか言ってるから頭がかたくなるんよー。クソー。
今度こそ、素敵な相方を見つけたいぜ~フォ~。古・・。
みなさん素敵な恋してますかー?
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by jengsauman | 2006-05-20 01:57

優しさ

引っ越すために、片付けをしていたら、いろんなものが出てきた。
今回は、「不必要なものは捨てる」がテーマ。
カタチだけのもの、等身大の自分を誤魔化す飾り、名前が一人歩きしているもの、
読みもしない本、いつかやると言ってやらない勉強道具。
それらは、今駆逐すべし。なぜなら、それを自分が逃げ道にしているから。
それを完全にゼロにすることは恐怖でもある。それでいいのかな?とも思う。
極端すぎるんじゃないかとも思う。
でも、最近思う。人間、使命を感じれば、何だってやる。何だってやれる。
やらないと居られない。やらないのは、責任を感じてないから、使命を感じてないから、
表面を飾ろうとしてるから。そんな先に、自分が求める価値観はない。

自覚する。私に足りないものは、ハングリー精神。
私に足りないものは、使命感。
そして、漠然としたそれを具体化させてみせるという執着心。

今の環境では変われない。変えないんだ、自分が。
だから、この引越を機にチャレンジしたい。
表面的な豊かさなんて要らない。所有することに興味もない。
それで何かを得たような錯覚を起こすくらいなら、何も持たないほうが幸せかもしれない。

最近思っていたことは、愛は憎しみのそばにあるということ。
それから、優しさは厳しさのそばにあるということ。
恋愛や人間関係が、建設的な相互補完関係になれないのは
どうしてだろう?と思っていたが、その答えはきっとそこにある。
私は、優しさを差し出そうとする。
私は、愛を差し出そうとする。
でも、それらは客観的に見れば、弱い人間の自己正当化行為に
過ぎないのだろう。
そんな簡単に差し出すものに価値はあるのだろうか?
否。

優しい人、とはどういう人だろう?
きっと、正しい道を生きようとする自分を厳しさで見守ってくれる人ではないだろうか。
私は誰かにとってそんな存在になれるだろうか。
今の段階ではそんな要素皆無だ。
「○○と居ると落ち着く」という人は、きっと逃避したいときの休息場所として
私を利用してくれていたのだろう。それを私は勘違いして、こういう在り方を
優しさと正当化していた。違和感のもとはきっとそこにあるのだろう。

一人で部屋を整理していて、日が暮れて、なんともいえない寂しさに駆られた。
こうして今まで生きてきたことと向き合うことの苦しさと、それでも行動していく
しかないんだという現実と、自分の周りに人がいないことを痛感して。
人が居ないというのは語弊があるけれど、これまでの人間関係の構築方法を
変えることができるだろうか、変える必要などないかもしれないが、やはり
あるだろうと思う、という一人禅問答。

人と一緒に生きることへの憧れと希望と恐怖と拒否。
いや、今の自分がそうすることで、自分の歩みを止めてしまうことが最も怖い。

食べることはいい。脂肪がつくこともいい。
でも、ダメなのは、逃げるために食べること。
それを容認しつづけてはダメなのだ。
そこをどう調整していいか、分からないときもある。
けど、とめられるときは、なんとかとめてみる。

今回のことで友達との繋がりが深くなった。
だから安心、ではない。
だから自分を信じて行動する、のだ。

要らないものは捨てる。
そうしたとき、自分に残るものは厳しい道かもしれない。
でも、その道がある限り、私は前に進むチャンスを持っているのだ。

人の痛みを想像でき、人がつらいときにこそ力になれる人になりたい。
だた、優しいふりをするような思考停止人間はもう卒業しなきゃ、
いつまでもここにいるままだよ。

私が、今年最も誇れることは、大好きになった人に好きだーといったこと。
あんたにあえてよかったなんて思ってたけど、とんでもないわ、と思うくらい
憎しみを持つくらい、近づいたこと。
後に、深い愛情が自分の周りにたくさんあることに気づけたこと。
全力でぶつかれば、人に対して持つ感情の幅が広がる、そんな気がします。

恋せよ乙女!来月からは中国に行く(はず)だけど、
どこにいるか、なんて関係ねー。

なんだか、最近、連絡とってなかった友達からよく連絡がくる。
それも嬉しい。それも今度こそ、大切にする。
でも、そこで止まっちゃいかんぜよ。
求めろ、苦しいときこそ、失望したときこそ、行き詰ったときこそ、もう一歩。

Nさんに言われた。
「三悪をしないこと、人と和合すること、我を通さないこと」が大事だよ、と。
実践って本当に痛いくらい難しいだろうけど、きっとそこに道があるんだよね、と言ったら、
じゃあ実践してみてください、と言われた。
そう、そうだ。そこで、「じゃあ実践」という思考、行動にならないと意味が無い。
逆にいえば、そこでそう少しずつ変えていければOKだ。

飢餓感、ハングリー精神、厳しさ、執着、闘い、和合、共存、思いやり、
使命、積み重ね、実践、素直・・・

いろんな言葉を心におきながら、世界を見よう。
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by jengsauman | 2006-05-01 00:01