過食症を経て、一つ一つの日常を見つめる記


by jengsauman

<   2006年 06月 ( 10 )   > この月の画像一覧

悪い癖

できない理由を探す癖、発見。

事業が進まない、どうやって進めればいいかわからない。
毎日、意味不明だが、とにかく具体的に何かアクションを起こそう。

と思っていたここ数日。よく考えればまともに何もしてない。
中国側からああしてほしい、こうしてほしい、という話が来るが
それらがすべて現段階では無理なことなので、あたしはずっと
彼を論破して、納得させようとした。
が、逆効果・・・。当たり前だ。何も向き合おうとしてなかったからだ。
何も伝えようとしてなかったからだ。
自分が正しいと思い込み、自分のやりたいことしか正しさの中に込めて
なかったからだ。

そうか、これがあたしの思考回路の癖なのか、とはっとした。
無理なこと、前例がないこと、どうしていいか分からないことを
いかに無理かを語ること。
そこには何の可能性のかけらもない。
何の夢もないし、何の楽しさもない。

Cちゃんと話していて、いわれた。
「でも、苦しくても、やらないと何もならないんです。がんばって」
当たり前のことじゃん、と思うが、あたしの行動そのものじゃん。真っ青。

これから、分からないことは分からないという。
やりたいことはやりたいという。
疑問に思うことは質問する。
時間を使って、手数をかけて申し訳ないという思いは捨てる。
気持ちのもちようで、行動を続けていれば、きっと何かに出会える。
そう信じて。
[PR]
by jengsauman | 2006-06-30 03:19

因果関係

家族の悲しい決裂を目の前にして、悲しい気持ちはあるが、ふとNさんのことを
おもいだした。目の前の現実を悲観したって、酔ってるだけで何も変わらないよ。
それは自分に与えられた運命なんだから。ちゃんと本質を見ないと。って。

あたしは、今まで自分のことで、自分の体型や自分の将来や自分の人生について
頭がいっぱいで、まともに家族のことを思い遣ったことなんてなかった。
そのせいで親にも姉にも迷惑をかけたのは事実だし、それを償わなければ
ならないとも思う。しかし、これは一体なんの因果なのか?
家族が仲良しです、などと言葉で言う必要などない。
ただ、何かあったときに、ともによろこび、ともに悩み、いろんなことを共有
できることが家族として大切な、有難いことじゃないのかと思う。

残念ながら、今はそれができてない。
何の因果で、何の前兆で、何の運命なのだろうなあ、と考える。


今日は超~~~~ひさしぶりにスタバでバイトしてた時代の友達と会った。
たぶん、3年ぶり。
会った瞬間、「あんた~、ちょっと全然変わってないじゃん!ギャハハ」
魂がおちついた。ほんと、ひさしぶりに素になった。
彼女とあたしは、とても仲良いというか、とてもどこかが合う。
全然価値観も生き方も環境も違うけど、ほんまにおもろいやつで、
ほんまにあほで、ほんまにすきな子である。
先週誕生日だった彼女のためにお店を探して、一緒にいった。
「全然かわってない」という言葉は、脅威だったかもしれない。
お店を探すということも、とても苦手だったかもしれない。
でも、できるだけ頭で考えたくなかった。
あたしは、彼女ともっと向き合いたくて、もっと素でいたかった。
体型がどうじゃなくて、今何してるでもなくて、あの空気をごまかしたくなくて。

最近の自分は、頭で考えてばかりだった。
どこかで自分の枠をはずそうとしない、かたくなさを固持したまま。
そんなんやったら今までと一緒やないか、とつっこんだ。

彼女には、あたしをみてほしかった。
これから会う人、今会う人、社会、世界と、できるだけ触れ合う
表面積を広くしたい。広くすれば痛いことがたくさんあるだろうけど。

あたしを見て欲しいというんじゃなくて、あたしはあたしが考えたあたしを提供する
んじゃなくて、ここにいるあたしでしかないということを。

ひさしぶりに気づいたら時間がたっていた、という体験をした。
話すことを用意するんじゃなくて、頭を使うんじゃなくて、
思ってるばかなことをずーっとはなしていた。
今日は「パッション!」と30回くらい言った(笑。
Yもあほやから「パッション!」といっていた。
あたしはパッションという言葉がすきだ。

Yはとっても素敵な婚約者がいると教えてくれた。
この人とずっと一緒にいるんだろうな、と思ったと言っていた。
そういえば、クラスの人もそんなこと言っていた。
きっといるよ、という言葉を楽観視しすぎず、否定せず、
ありがたく頂戴した。

また会おうねーといってわかれた。
自分と少し出会えた瞬間だった。
たのしかったなあ。

現実から逃げないとは、どういう行動をすることだろう。
見たくないことはなんだろう。
のどから手が出るほど正しさがほしい。
でも、そこに落とし穴がある。
だから、自分が正しいと思うことを疑う勇気を。
自分がやりたいと思う気持ちを進める勇気を。
もちたい。
[PR]
by jengsauman | 2006-06-30 02:58
現在、我が家は残念な状況です。
親と姉が決裂状態。姉は親を結婚式に呼ばないと決断。
私は間に入って、ああでもないこうでもない、としているが、
結局、お互いが譲らないのでもうどうしようもない。
正直、こんなにコミュニケーションがとれてないとは思わず、
愕然とした。

姉の話も一理あるかもしれないが、明らかに自分で作り上げたストーリー
以外のものが存在しうる可能性を想像するカケラもない話し方に泣きそうになる。
母も母で、自分の言動の何が姉をこうさせているか、想像していない。

っていうか、全然向き合ってないし、向き合うつもりもない。
客観的に見ているからかもしれないけど、「相手に期待しすぎ」というのは
こういうことかと思った。

姉と結婚する人を批判するつもりはないし、申し訳ないとは思うが、
姉と親のやりとりを、姉からの情報を100%拠り所に判断している様子を
脅威に感じた。それはまるで姉というメディアに洗脳される視聴者のよう・・。

家族は分かり合って当たり前。
これは幻想だと気づいていない。というか、現実はそうではないというのを
どうしてあんなに悲観的にとらえるのだろうか。
違う人間なんだから、わかんないよ。言わないとわかんないし、
自分の思うことだけを正しいと思って、ただぶつけてるうちは
相容れるわけないよ。ほんと、悲しい。とにかく、悲しい。

向き合って話してほしい。
あたしは何をすべきなのだろう。
関われば関わるほど、無力さに情けなくなる。
[PR]
by jengsauman | 2006-06-30 02:36
神戸にいってきました。
ここのところ、とっても関西が恋しかった。
だから、とっても嬉しかった。
ナイスなタイミングで
「今後の勉強のために一緒にいく?」といわれたとき、普通の顔して「はい」と
言ったけど、心の中でガッツポーズ!(笑
正味、神戸に居た時間は数時間やったけど、やっぱり普通に交わされる
関西弁がもうこりゃたまらん。神戸にいるNさんとか、三宮で働いてるNとか、
Cafemmeちんとか、Sevenちんとか、大阪にいる家族や友達や
大切な人に物理的に近づいた感覚がとても心強くて、
関西に帰ったことがこんなに嬉しかったのはひさしぶりだ。

そして、一緒に行った上司Sさんと2人きりの楽しい時間。
というのは半分冗談で、半分冗談。
どうやら、Sさんはうちの父親に性格が似ているらしく、
だから、あたしはとっても親近感を感じるのかもしれない。
Sさんはとても家族を大切にしているが、とても優しくて時々恨めしくなる。
「乗せられるな、何も考えずにいってるんだから」、と自分に言い聞かせるも、
寂しいせいか、ついついあの余裕にフラフラ~となりたくなる。
とかあほなことを考えている横でSさんは対象年齢6歳以上とか呟きながら
オマケのようなものをいじって笑っている・・。
Sさんは交渉しながらもとても自然体。会社の中でとても高い地位に
いるのに、全く偉そうぶらない。実力でここまで来たからこその本質なのかも
しれないけど、偉そうぶらなすぎて、フレンドリーすぎて、有る意味超怖い。
ビジネスの世界は騙されたものが負けだ。
などと訳の分からないことを考えないと、ついつい気に入られようとアホな
ことをしてしまいそうで、必死に冷静になる自分はほんとにアホだ。

親友に、あんたを愛してくれるならどんな人でもいいけど、とにかく
既婚者だけはやめろと言われたのが脳裏をぐるぐるする。
今回は神戸やからいいけど、来月は一週間の中国出張。。。
通訳してな~ははは~と言うSさんのために、一ヶ月中国語特訓じゃー
とか思ってるあたしって何も進歩がない!あー主体性ゼロ。

というと、つまり、あたしは出会いがないみたいです(笑。
だから寂しいみたいです(笑。
だから、こないだ会ったバツイチ子持ちの中国人とか、
ふたりも子供がいるSさんとか、トラブルで徹夜続きでやつれてる
上司とかに気に入られようとしてしまうのだろうか。
何がしたいんやろ。だいぶ情けない。
そうそう、ここに拘ることで、私は逃げようとしてるってことなんやろうな。
今、何か逃げたいことがあるんだろう。対面しないといけない何か。
上の人や経験を積んできたと関わることで楽をしようとしている。
と、分析するも、そんなことは絶対にありえないが万が一
何か言われたらあっけなく落ちて、依存して、固執して、恐ろしいこと
になりそうだ。目に見えすぎて笑えるくらいなのに、それでも、どこかで
それを期待している自分がばかだと思う。
こんな妄想してるとばれたら。。。あいやーはずかしい!

それにしても、帰りにSさんが「せっかくやから三宮よろっかー」と言ったので、
「わーい」と行って、餃子を食らった。夕方からビールに餃子って・・。
と思うも、これが超う・ま・い。チャオチャオ餃子。
あー食いすぎたーといってたくせに、「結局帰ってから寝れなくて
ビール飲んで、冷凍庫開けたら餃子あったから、また焼いて食った。」
と今日聞いたときぶっとんだ。どんだけ餃子好きやねん。。
そんなお茶目なSさんがにくいぜ。

それに、打ち合わせしてる間、クーラーきいてなくて、蒸し風呂みたいやった
部屋で、資料をぱらぱらするSさん。担当の人がちょっと席をはずしたとき
一言「あっつーーーーーー。資料みてるふりしてこれで風起こしててんけど。ハハハ」
ってほんまか嘘かしらんけど、仕事できる男って恐ろしい。ちゃんと仕事して
るのに、力が抜けてるっていうか、その具合が脅威だ。

今読んでいる本の中で今日出あった言葉を今日のタイトルにしたが、
まさにそうだと思う。冷静に考えれば、というかもうちょっと勇気を持って自分
の現実を見つめられれば、そんなことが何度も何度もあったはずだ。
ただ、「いつもこれがベストなのだ」というのも真実かもしれない。
分からないが、もしそうだとすると、今を一生懸命するしかないのだろう。

大学時代に全然興味とは違うゼミに入ることになって、
私はそこでの学びをいつもどこかで軽視していた。というか、自分とは
関係のない世界だと思っていた。しかし、そこで取り上げた内容は今思えば、
私が当初やりたいと思っていたことよりも、ずっとずっとあたしの興味に近く、
なんというか、私に必要な課題であったのだと思う。
あのゼミでいろんな思想家の文献に出会ったけど、
あたしは結局中途半端にそれらと付き合ってしまった。
自分に必要なことだったと気づいたのは、卒業した後で、摂食障害を摂食障害
と認め、自分とはどんな人間か、少しだけ分かった頃だった。
私は、自分に与えられたそのときのベストを受け入れる勇気がなかった。

そして、あれはベストだったんだ、と気づいたのでした。遅いけど、遅すぎるわけ
ではないと言い聞かせている、それは今も。じゃないと、もうその過去から目を
そらせてしまいそうだから、それだけはなんとか抵抗したい。
とても見たくない情けない過去ではあるけど、あたしはそれでも、
そんな風に過ごしてしまった自分を認め、もう一度、いや何度でも
向き合うチャレンジと本当に向き合わないといけないらしい。

つまり、「今がベストだ」と本当に思ったとき、今の現実を活かすように動くのだろう。
きっと、「今は何かがおかしいだけだ」「今はあかんけど、いつかは」のような思考を
逃げ道として用意することを放棄したとき、あたしはとてもリスクを抱えるとともに、
あたしの使命に近づけるのだとおもった。
使命とはそんなに甘いものではないようだ。得るものがあれば、失うものがある。

そして、今日、超ーーーひさしぶりにゼミの時のMLがきていた。もう機能してないのに
半年に一回くらい誰かが書いたり書かなかったりするML。
その内容は、「今年からOBと現役生の交流を目的とした夏休みキャンプを行う
ことになりました」という現役生からの連絡だったらしい。
先生に会う、と思った瞬間、あたしはお尻の穴から脳天に突き抜けるほど緊張する。
多分、今の自分にとって一番怖く、一番顔向けできない人。
でも、このままじゃいけないとずっと思っていた。
いつか、先生に何を言われても、先生と向き合って話ができる自分になりたいと
思っていて、でももうチャンスはあるかないかと思ったり忘れようとしたり。
そこに、このML。これは行けということでしょう。前兆だ!と勝手におもった。
予定が合えば、ですが、何とかいきたいです。

しかも、その内容が、ここ数日やりたいなあと思って調べていたダイビングと来た。
これはもう運命だ。「今がベストだ」なんて、思えないほど情けない歩みの自分だけど、
今はそう思い込むようにする。とにかく、前に進む。怖いこと、こそ飛び込むために
用意されたものなのだろう。

しょっちゅう徹夜やら出張やらのSさんはいつも笑顔なのだが、
「空元気でもいいから、元気に仕事をしてみろ」といっていた。
多分、気持ちの問題で変わること、がいかに多いかを
あたしはまだ分かっていない。ああだこうだと理由をつけたがる。
世の中シンプルだということと、自分が思いたいように結論付ける
という根拠無き矮小化を混同してしまって、結局自分の見たいようにしか
世界を見ていない。

自分がしたいことはなんだっけ?
自分が今からできることは何がある?
なんのために?そして、自分は幸せかな?

なんて思うと、あたしの出会いはまだ他にあるはずだ、と我に返り
明日からまたがんばろうと思うのでした。トホホ(笑

なんというか、たとえば、もし自分が有名な会社に入っても、
たとえば、とてもお金もちになったとしても、
たとえば、「すごいねー」と世の中でいわれやすいことを手に入れても、
あたしは何も変われないということを、思い知らないといけない。
だからといってそれが悪でもない。
むしろ、影響力を拡大するには、そういう力も必要だ。
でも、それは、意思があるところには自然についてくるのだと思う。
人望も、お金も、人脈も、チャンスも。
あたしはいろんなところで(自分以外の)、そういうものを見たけど、
なるほど、そういうものはガツガツして手にいれるのではなく、
ガツガツ目の前の使命と向き合う人のところに自然に訪れるものなんだと
思った。

あたしが恐れていることの一つは、目の前のことに一生懸命になるということが、
目の前の狭い世界で安住してしまい、数年後にそんな戦うことをやめた自分の
姿に数年後、数十年後に気づいたときの落胆だ。
まさに、「摂食障害がいろいろと教えてくれたのに、生かせなかった」
という恐ろしい結果を恐れている。
けど、それこそ、存在しないものに怯え、目の前の学習機会を見逃す、なのだろう。

誰かに見せるためではなく、本当にやりたいから、本当に知りたいから、
やる、その意識が少しずつわいてきた。自分ができないことは他の人に頼んで、
自分は自分のやることをとにかくやる。広東語も、中途半端にしない。

Sさんはいった。
「何事も結果にこだわってほしい。結果とは、必ずしも成功を意味しない。
失敗も一つの結果である。一番最悪なのは、中途半端にうやむやにすることであり、
それは次に何も繋がらない。一つ一つのことが、どういう結果を生むかを
しっかり認識し、しっかりそれと向き合ってほしい」

さすがやわ。と朝から良い気持ちでした。まさにそのとおり。

どんな智恵も、学んだことも、それを現実の世界で生かせたとき、
初めて意味を持つ。のでしょう。

韓国、7月いけたら行く。7月が無理なら8月。
先生、友達に会って、できれば板門店にいきたいのだけど。
そして、韓国という国のすがたを少しでもみたい。
絶対、これからも関わり続けるはずの隣国。
自分の目で見て、感じたい。
[PR]
by jengsauman | 2006-06-22 00:56

アイデンティティ

ふと、アイデンティティについて考えた。
日本人であることと、自分であること。
最近、日本のことをしらなすぎると焦って、歌舞伎を見に行ったり、
来月の野村萬斎の狂言を見に行こうとチケット取りに躍起になっていたが、
その行為自体は何ら日本人である自分と向き合う行為とはいえないだろう。
でも、触れること、学ぶこと、見ること、そのチャレンジの回数を一回でも
多く持つことと、それと自分の繋がりを考えることが必要なのではないかと思う。

国を超えて、言葉を超えて心に何かを感じさせる舞台や表現は
何が伝わっているのだろうかと思う。多分それはその人の言葉なのだろう。
生まれて、そこに用意されてるものではなく、
生きていくうえで自分でつくりだしていくもの。
それがアイデンティティなのかと思うと、あたしのものの
見方はなんて他力本願だったのかと痛感した。

中国人がどうのこうのといっぱい書いて、大反省。
香港人もどうのこうのと考えて、大反省。
ってか、世界中や日本中に対してそういう偏見を持ち合わせてると思う。
そうそう、物事の単純化。矮小化。
そういう思い込みに頼っているうちは、分かり合うなんて不可能。
信じることはしんどいことや。裏切られることは悲しいことや。
でも、その人の「アイデンティティ」に触れられるように、
信じてぶつからなければ、何も起こらない。
そうよねえ・・。

男の人の関西弁をひさしぶりにきいて、「ええなあー」(大阪ストラット風)。
でも、いっぱいしゃべっても、正味何もしゃべってへん。
これからあたしがからっぽの自分を見せても「しょうもなー」と
思われたらそれまでやし、でもそれもやらんと何も起こらん。

なんでもそうやわな。
偏見はらくちん。
文化は大切。
でも、どちらも各個人のアイデンティティを直接的に説明するものとは限らない。

満員電車の中で、後ろの人と背中と触れ合ってるときに
その人が声を発するたびに私にまで振動がくることに
いたく感動した。なんとなく、「共鳴」という気がした。
物理的に人と繋がるという感覚。勝手にかんじていました。
[PR]
by jengsauman | 2006-06-17 21:38

かたち

行きたいところがたくさんある。
たくさんの人に会いたい。
そうして、自分の殻をもっとやぶりたい。

でも、そのアプローチ方法が、逃げ腰なのだ。
その機会を何度も何度もとらないと、その逃げ腰すら治らないとは
思っても、同じことを繰り返すたびに(少しでも自覚があるなら)、
自分を磨くために時間を使ったほうがいいのではないかと思ってしまう。
そうしてうだうだ考えるのが一番無駄なのだが。。

4月にあった高校の友達の結婚式のことをおもいだす。
彼女のおかげで、たくさんの人とまた会うことができた。
とってもありがたいし、素敵な時間だった。
でも、あたしは、カメラを持っていったのに、出さなかった。
周りの友達は全員号泣して、とめどなく写真をとりまくっていたけど、
何かわたしはそのわざとらしさがたまらなかった。
とってもひねくれていると思うけど、そうしてカタチに残すことに必死になり、
現在を感じられないことや、未来においてこの時間を思い出すことがあっても
この写真に頼ることしかできない、そういう行為がとても本末転倒ではないかと思ってしまう。
きっとずっとこういう違和感を抱いていたのだと思う。
でも、ずっと「これはこれでいい」と誤魔化してきたのだろう。
だから、今は、形は所詮形でしかないことを理解することと、
それを残したからって、現在を感じなくても大丈夫というような責任逃れは
意味が無い。思い出しても空虚な思い出としてしか残らないのだと思う。

ふと、友達が「あそこの場所は思い出がつまっていて、行くと心が満たされる」
というようなことを言った時に、私にはそういう場所がないことに気づいた。
香港とか、大阪とか、大切な場所はいくつかあっても、そこに居たときの自分が
欺瞞に満ちていて複雑な思いに駆られる。大学にしても、旅で行った場所にしても、
私は自分を正当化するために、物事を極度に単純化した思考、を利用していた。
だから、その思考から外れる事項には対応できない。
そして、それがいっぱいいっぱいの逃避だったことを今は認識する。
だから、思い出してもどこか空虚なのだ。

あんな人いたね、あの人今元気かな?あそこは今どうなってるんだろう?
そういう話を話しても、心の奥では自分に強烈に問いかけるものがある。
「そんなことより、あの頃お前はどれだけごまかして虚栄をふりかざして、
事実を矮小化して、自分を自分が作った「正」の中にとじこめようとしたけど、
ごまかしきれなくて、食べ物やその他に依存してたのか?
そして、心から何かを感じたことがなかったことをなぜ誤魔化したのか?」と。
そうすると、いたたまれなくなって、思い出すのがいやになってしまう。
大切な思い出もたくさんあるはずなのに、それよりも私の根本はその問題
を無視していたということに意識がとられていたのだと思う。

だから、どこかに行くにしても、誰かに会うにしても、形で安心するような、
思考停止の空間を重ねるのは嫌だという気持ちはとても強いつもりのくせに、
実際、そういう場に面すると、自分のセンサーが視野を極狭にしてしまう。
まずは、その場で自分が傷つかないことが第一義的になってしまう。
例えば、女らしさを振りかざすことだけはしたくないと思いながらも、
そういう服に頼ろうとしたり、香水とか、スカートとか、全部を捨ててしまうこと
への恐怖、というかそれらを捨てても、魅力ある人間とはかけ離れているから
怖くて捨てられない。

さっきcafemmeちんの日記を読んで、とっても共感した。
人とのかかわりにおいて、最初から「おんなおんなしたかっこう」で行きたくない。
その人とは、いろんな話がしたいからだ、っていう。
そして、彼女がとても素敵な時間を過ごしたことを知り、とても嬉しくなって
心があたたかくなった。

あたしが街でみかけて「素敵だな」って思う女性は、大抵パンツ姿です。
昨日も一人印象に残るひとがいた。
やや大きめのリングのピアス、白いノースリーブかタンクトップかの
下に、カジュアルなベージュのパンツ。化粧は結構しっかりしていたかもしれんが
後ろから見てたので(ストーカーちっくに)、顔はようわからん。
ただ、そのいでたちから「かっこええなあ」と思わせるオーラがあった。
一つは、姿勢、そして身体のカタチだと思う。ファッションもそうだけど。
身体のカタチというのは、痩せてる云々ではなく、その身体が語るものが
あるかどうか、というか。力強くて、自分に責任持っている、というか。
それでいて、女らしい、というか。誰やねん、うち。

江角マキコや夏木マリや萬田久子や桃井かおりや、かっこええなあって思うけど、
私がまねごとをしてみても、すぐにめっきがはがれる。
多分、かっこよさは日々の中からにじみ出るもんだとおもった。
精神、肉体との向き合いやトレーニングなど。

と、だいぶ話がずれたが、昨日はまた新しい出会いがあったけど、
また後味悪かった(勝手に)。たぶん、「カタチで誤魔化した」のだろうなあ。
その場の話がとても表面的でも、何度も自慢する上司(「それこないだも言っとったって!」)
の話を聞いても、へへへと笑う自分があほだと思った。
うまく流して、自分が新しく提起すればいい話だが、そこまで責任を持って
新しく作っていくことから逃げたい&自分が傷つくことを避けたい。

いつも思う、自分から出る「逃避のために作り出す傲慢さ」というか、
そういうものを一刻も早く捨てたいのに、まだ捨てらていない情けなさ。
たとえば、高圧的な人の偉そうな話に、対抗したくなってしまうこととか、
本質が見えていればそんなの笑って流すのに、そういうときにギャフンと言わせたり、
「へええー」って言わせたりしたくなってしまうことで、どこかで安心したい欲求が
捨てられないのだ。あたしはそうして人と交わらずに、人とかすって
生きてきて、その手法で自分が人と関わっていると思い込んで自分を
騙してきたことを、そしてそのくせ、「わかってほしい」などと心のどこかでは
都合よく人を求めていたことを、諌めなければならないのです。
表面だけで楽してうまいこといきていきたくないなら、何かを変えていかないと。

たとえば、私の友達が再来月からカンボジアに駐在することになって、
私はきっと彼女を尋ねていくだろうと思うけど、前の時のように
彼女に全てをまかせっきりな旅では意味が無いことを知らなければならない。
中身のない自己満足の経験を振りかざして、自分があたかもいろんなものを
見てきたかのような逃避方法を作り出しては絶対にいけない。
カメラを向ける前に、自分の身体で感じなければ。
そういう癖をつけたい。毎日、そういう瞬間を作り出す努力が必要なのでしょう。

もしも、偶然にもこのページを目にしてくださった方がいて、私の未熟さゆえの
防御のための「傲慢さ」に不快感を感じることがあれば、ぜひその気持ちを残して
欲しいです。何でもいいです。もし思ったことがあって、気が向いたら
何か残してくださいませ。よろしくおねがいします。
[PR]
by jengsauman | 2006-06-17 19:02

とうひ

「どうしよう」と思ってるうちは、立ち止まっているのだといわれた。

何にしても、何かに没頭しているふりほど楽なものはない。
一生懸命仕事しているふりをしているが、私の心の中は誤魔化しで
いっぱいで、例えば、遅くまで残業して逃げてるのだ。
それをしているうちは誰も文句を言ってこないのだが、それこそが
不幸な状態に自分で持って行っているに過ぎない。

Nさんの会社がついに倒産してしまった。
彼は、ここ一年で本当に強くなったと肌で感じる。
というか、余計なもの、みせかけの逃避、などを全部振り払い、
本質と対峙することを有言実行してきたのだ。
そんな彼が、ここ一年で一番かっこよく思えたのが今日だった。

意志というより意地かもしれない、
でも、苦しくても生きて行動して責任を取らなくてはならない。
太宰は好きだけど、波はあるけれど、それでも
辛い思いに酔いしれてしまうことはただの逃避でしかない。
自分が父と母を支えないと誰が支えるのか、だから自分は
そんな詰まらないことを絶対に考えません。

そういわれて、あたしはとても衝撃をうけた。
彼の置かれている立場がどれほど辛いのかは想像できない。
自分が最も尊敬していた父という経営者が、目の前で逃避しよう
としているのを、命を絶って逃げようとしているのを戒めなければ
ならない役割、親を支えていかなければならない役割。
けれど、そんな状況にいるときこそ、今までよりも増して
痛い痛い本質と向き合おうとしている姿に、
何もいえなかった。
「本質をみなあかんねん。アホや」という言葉を
どういう表情で放っていたのだろうか。

パソコンの前に座って、涼しい部屋の中で、外で雨が降っているかどうかも
分からない場所で、誰にも叱られずに飄々と居る自分は、何とも向き合っていない
気がして、普段から積み重ねていた欺瞞が爆発しそうだった。

夢というのは叶うんです。
たった一つの敵は、それを無理だと思う自分の心なんだよ、と言われて、
それでも私は信じられなかった。いや、信じたくなかった。
もっといろんな要因があるに決まっている。
たとえば、この世の中で「常識」とされていることとか。
そういったものに過剰に反発するふりをするくせに、
心のどこかでは過剰に迎合している。
誤ることを心底恐れていた。

Nさんはいう。
過去には一切拘らない。
そして、自分は未来志向というよりむしろ、現在志向である。

私は、その言葉を少しずつかみ締めている。
それは、頭で考えることとずっとずっとずれがあるに違いない。
けれど、怖いのだ。へとへとになったふりをしているが、疲弊している
最大の原因は、私が誤魔化して生きていることに起因する。
疲れてるんじゃなく、ただ疲弊。
会う人会う人やメールを書く度に「お疲れ様です」と皆が言う文化に
心底違和感を感じているのに、自分も言ってしまう。
それは何か一種の免罪符のようにふりかざしている気がして、
でも自分もそれにしがみつきたいのだ。

毎日考えているのだけれど、発信発信といいながら、自分が一体何を
発信したいのかが分からない。痛すぎ。
ので、考えてるだけじゃたぶん一生分からない。

だからしょうもない自衛に走ろうとする。体裁だけを整えようとする。
でもそうすればするほど、電話で3重敬語とか4重敬語みたいになったりとか、
もう「できない人」丸出しになるのだ(笑。痛い痛い痛い。

だから、そう気づいたときは、それにもう一度トライする。
いやでも、嫌な思いは克服するためにあるのだ。

私は、自分の心と身体の間にある壁をつきやぶって
その奥にいるかもしれない鬼か恐竜かはたまた腐りきったゴミか
醜い何かか、恐ろしい何かか、分からないけど、
それと対峙したいとおもいはじめた。
それをすることで自分が壊れてしまう恐怖は
ありつづけるだろうけど、多分今なら少しずつできるんじゃないかと
思い始めた。
もしかしたら、とても穏やかなものかもしれない。

親のことがとても気になる。
パパの誕生日と父の日をかねて、DVD機をおくった。
あたしのせいで、これまでいろんな出費をさせたことを
一生私は心に刻み付けなければならないし、
親の生活が私のせいで制限されたものであったことを
心から申し訳なく思う。
それでも、彼らが一番望む「そばにいる」ことさえしない私は
本当に親不孝だと思う。
でも、少しずつ少しずつ返していきたい。
ものでも、行動でも、言葉でも。
パパもママも喜んでくれたけど、「こんな高いもん、あんた」
とずっといっていた。
あたしは親への罪悪感が苦しくてこういうことをするわけ
ではないつもりだったけど、本当に喜んでほしかったけど、
親は本質を突く。

そういったプレゼントも大切。でも、もっと大切なことは
私が親に胸を張って「幸せだよ」と言える生き方をすることであり、
彼らも、私もそれだけを望んでいるにすぎない。
だから、私はやはり「ごめんね」とまだ思ってしまう。

生き方を変えなければならないという前兆だろう。
そんな大げさなことじゃなくても、少し角度とアプローチ方法を
変える必要があるのだろうと思う。

手紙にかきました。
今年中に一緒に富士山にいこうね、って。
そのとき、あたしは今より少しだけ堂堂と自然と向き合っていたいです。
[PR]
by jengsauman | 2006-06-15 20:52

適当

言葉を振り回すことに逃げてはならないが、有る程度は言葉に頼らないと
いけない部分もあり、でもそれは身体で感じるということへの入り口に
もっていくためのアシスタントなのかもしれない、と思う。
だから、思考をやめることもできないし、言葉を放つことも必要だと思う。
何でもかんでも、やるかやめるかちゃうなあってまたきづかされた。

最近、よく思う。全力でやってへんなあって。そして、また一人の世界に
閉じこもってみようとしてる、と。
追い込まれてるつもりして、実際は何も追い込まれちゃいない。
ただ、不安や矛盾とうまく適当に付き合えてないだけ。

席に座っていて、自分の欺瞞をほじくりだそうとする。
でも、目の前のことを何か変えるほうが先だと思う。
価値が多様で何でもありならば、それを否定する前に
自分で動かしてみようとしなければと思う。
という大義名分を振り回して、ただ単に連絡が途絶えていた
友達に電話したかっただけだ。

電話したら、「誰?」って言われた(爆!
でも、普通に話せた。
私はその子に多くを期待し、自分を理解してくれることを求め、
価値観の溝が全然縮まらないことをいつも嘆いていたけど、
そもそもそれもアホっちゅうか傲慢な考え方だったなと思う。
何かを求めたり、何かを刺激しあったり、学んだりすることは
大切だ。でも、目に見えるそれに価値判断を頼りすぎると、
肝心の既にそこにある大切なものを踏みつけて、通りすぎてしまう。
そして、「私には何もない」などと思ってしまうのだろう。

そういう状態だと、きっとどこまでいっても、目に見える何かを
どれだけ手に入れても、人脈があっても、いつもいつも不安で、
いつもいつも何かが足りないと思い続けるのではないだろうか。
そして、そんな自分が間違っていないことを確認するときだけ周りを見て、
自分が周りよりも何を持っているかを比べて安心する。
決して他者と融合することのない孤独な状態は、痛くて寂しくて不安で、
でも崩すことができない。

私は、その友達の声を聞いて、とてもほっとした。
その子は、間違いなくあたしに必要な人だったことを身体で思い出し、
これからもそうだと身体で感じた。
家に帰ってから、素直に思ったことをメールした。
「ここのところずっと緊張していたけど、あんたの声きいて
力が抜けるような感覚になった。ありがとう」
そしたら、返信が来ていて
「電話してくれて嬉しかったでー。何か力になれるなら
全力で何でもするからなー。また連絡してや。」と。

きっとその子に物理的に何かを頼ることはないだろうけど、
こうして、またふと電話して、どうでもいいことをしゃべったり、
会うことがあれば、その瞬間を楽しみたいなあと。
私の勝手かもしれないけど。
でも、毎日の形式的なあいさつより、一年に一回の連絡でも、
顔が緩んでしょうがないような、そういう連絡は有難い。

昔のバイト先の先輩からメールがきた。
ずっと自分からも連絡してなかったからほんとにひさしぶりで、
「今、何者なの??」と聞かれた。
その言い方に深い意味はないとは分かってても、ふと自分は何かと考えた。
べつに、何でもいいけど、「これ」というものが必要だと思うのが本音で、
でもせめて「これを目指してます」はいえるようになりたい。
結局、他者とかかわり、力を交換していくためには、「これ」がないと
ピントがぶれると気づいた。ただ、「これ」=自分や自分の一部、ではなく、
「これ」の役というか席を借りて、社会と関わらせてもらっています、というべきか。
暫定的に言えることがないなら、別に何も言わなくていいと思った。
先輩をはじめとして、他の人に自分の思考回路を押し付けたり、
脳をぱかっと割って見せたくなるほど説明したくなったり、
人に自分の正しさを押し付けようとしたり、いくら正しくても言わないほうがいいことも
あるということを納得できなかったり、あたしはそういうことをしてるうちは
孤独から出られないのだ。
孤独とは、孤独を味方にするために訪れるのだと読んでとても納得した。
何者?と聞かれて、何をしてるか答えた。今の自分にはそれしかない。

昨日、上司に頼まれて、とある中国の方に会いに行った。
Cちゃんと一緒に行ったから、その場は中国語のはずなのに
あたしのために日本語会話。ありえないが、それに甘える自分はもっとありえない。
その人と話してて、気づいたことがあった。
その人は大学1年の時、学費で貯金がなくなり寺に住み込みながら通ってたらしい。
そこの寺の住職は、彼にこう聞いた。

「君はなんで日本に来たのだ?」
「日本で働いてお金を稼ぐためです」

「君は周りで見かけるサラリーマンを羨ましいと思うのか?」
「いいえ。」

「君は中国人として今日本に居る。それを、自分の目で見たことを
発信することが必要だと思わないか?」

そういわれて、彼は自分が生きることとは?を深く考えたという。
そして、いつも物事を一歩引いて見て、それを自分の
頭で考えて発信することに取り組み始めたらしい。
広東語が母語で、北京語と日本語と英語もネイティブのように使うが、
そんなことは重要ではなく、「何語を話すかではなく、何語で話すかであり、
何を伝えたいか」なのだと無言で語っていた。
自分が普段しんどいなあと思うのは、何を伝えたいかが欠如してるから。

その寺に無償で住まわせてもらう条件として、
毎日五時起床→一時間座禅→枯山水の庭の手入れ、お墓の掃除
→仏像の掃除→毎日新聞読んで住職と議論→門限九時。
偶然同じ大学出身だとわかったのだが、あのキャンパスの中に
こんな毎日を送っている留学生がいたなんて、と自分が恥ずかしくなった。
とともに、とても羨ましく思った。とても大変だろうけど、
人と対峙し、自分と対峙することを日々意識させられる環境。
その寺での住職とのやり取りが彼の人生の原点だといっていた。
それが今の彼を築き、自信に繋がっている。ああいう自信に触れたのは
久しぶりだった。とても刺激をうけた。

多分、いろんなカタチで人それぞれにそういった前兆は訪れると思う。
だから、その声を殺すようなことをしないように、人に発信し、
人に指摘してもらえる関係を築き、人から学ぶことができれば
すぐにカタチを作れなくても、何かはできていく気がした。

最近カロリーより栄養素が気になる。というかそう思うようにしている。
貧血の薬のせいで、吐き気とめまいがあって、
薬のまんほうがええんちゃうの?と思うくらい、仕事も上の空になりがち。
だから、ごはんを食べて、薬を飲んで、体質を変えないと困っちゃう。
というわけで、できるだけカロリーより栄養を、と思うように。
半ば無理やりでも。

Cちゃんが、「そうだ!上海人の友達を紹介してあげる」といきなり言いだした。
「その人顔はきれいなのに、ずっと彼女いないんだよー」って・・。
顔が綺麗なら彼女がいるものなのか・・?というつっこみはおいといて。
Cちゃんは既に興奮して、その人がやってるMSNのコミュニティ?
を見せてくれて、「どう?どう?かっこいいでしょ?」というので見てみたら、
私が大好きな歌手にそっくりだったので、ブツブツ言いながらもちょっと嬉しくなって
「似てるね」といったら、Cちゃんは「そういえば、そっくりだねえ!!!!」
と大絶叫して興奮が更に加速。

しかし、その人の日記を読んでいたら、自分の好きなもの・嫌いなもの、という
項目があった。会ったこともないのに、そういう文を読んで勝手にイメージを作る
のはいやだけど、ついつい読んでしまった。

最も嫌いなもの:超太った女が短いスカートをはいている姿

どきっとした。と同時に、落胆し、不安になった。
そんな自分がまたいやになった。

世の中の多くの人もこう考えているかもしれない。
私だってなんだかんだその意識を捨てられない。
それに、彼が好きな歌手に似ているというだけで、勝手に+の
イメージを持っているじゃないか、と思う。
でも、こういう場に、こういうことを書く思考回路に恐怖を覚え、
自分がまだそこに踊らされ、責任転嫁していることを知る。
約束したし、どんな人かも分からないから会うけど、
あたしはきっと会っている間何度も上の一文を思い出す気がした。
でも、そこにこそ負けちゃいけない、と思うし、
少しだけ、負けない気持ちも持てる気もする。
今まで逃げてきたこと、人と、今から一個ずつ、一人ずつ向き合い直す。
その場から逃げない。その場をあえて自分から作る。
苦手だ、怖い、と思う相手にこそ、もう一度自分から発信する。
[PR]
by jengsauman | 2006-06-10 20:50

タイ

おねえちゃんとひさしぶりにあった。
前みたいに普通に電話してきて、「一緒にご飯たべよ」っていって
あたしの最寄り駅まできてくれた。
うれしかった。

ひさしぶりにあったおねえちゃんはまた痩せてた気がした。
もともと、40キロを前後しているのだけど、
対処のしようがない病気を持っていて
身体があまり強くないので、私の体重への意識とは全然違う、
でも差し迫った問題であることは変わりない。

うろうろとしていたら、いろんな国のレストランがあった。
いつも私は自分の興味のある場所しかいかないけど、
人といるだけで、違ったものが目に入るようになる。

結局、タイ&ベトナムレストランに決定。
タイスキをたべる。
これが、超~うまーーいーーぞーー。
とミスター味っ子状態。
そこのホールのお兄ちゃんが超うける人で、
随分印象のよい店だった。
ずっとタイのMTVが流れてたんだけれど、
なんかいつの間にか頭に入ってて、
フフ~ン♪と鼻歌を歌っている始末。
タイのこと、何も知らなかったけど、興味を持つきっかけになりました。

昨日の昼間、友達が貸してくれたDVDを見て、とても感銘をうけました。
サイードと、バレンボイムが作った、イスラエルとアラブ諸国の合同
オーケストラのドキュメンタリー&コンサートのDVD。
まだドキュメンタリーのほうしか見てないけど、2人や学生たちの
発言で印象に残ったことがたくさんありました。
今頭に一番うかぶのは、
「無知を克服し、互いに理解することが重要なのだ」
「対面することで、自分の頭で考え始めた」
「互いを知らなければ何も始まらない」
「共感する心を育てるための教育」
「他の文化との交流は不可欠で、それによって世界はより豊かになる」
「自分の人生は自分で作り上げるものだ」
等等

これを見て、私は中東地域が自分の想像をはるかに超えたレベルで
複雑な問題を抱え、皆がそれに翻弄され、苦しんでいるのだということを
実感しました。
バレンボイムは、
「音楽がたった一瞬でも人の心から憎しみを取り除くからだ」
とこの活動の意義を語っていたとき、芸術の持つ可能性と限界を
自分は頭で考えていただけだったと思いました。
どうして、すぐに他人事にしてしまうのだろう。
想像し、共感し、人の苦しみを理解しようとできないのだろう、と自分に思うけど、
それは、無知の無知なのだろうと思った。

同時に、私は自分自身とアジアのことを想いました。
もう、ほとほとうんざりしている中国という国を、一体自分はどれほど知ろうとしているのか?
日本の外交が、謝罪外交を続けてきたことも含め、自分の今までの考え方は
すべて「対面」を避けてきたことだった。
たしかに過去にしてしまった過ちは忘れてはならない。
けれど、今後を共生していくにあたって私たちは全く対面してはいない。
自己中で食べ物のことばかり考えて麻痺していた自分でさえも、感じた違和感。
「中国人は日本を見ていないし、日本人は中国を見ていない」
身体で感じた違和感だった。

韓国人は日本人と違ってどうこうという話をいろいろと話し、聞いたけど、
私も随分それに甘えてきたと思う。
違うのは当たり前だ。そして共通点があるのも歴史を見れば想像できることだ。
大切なのは、だから何?そしてじゃあそれをふまえてどう相互に視野を広げ、
相手を想像し、尊重するか?という視点であるのに、私はそこで思考停止する
理由を見つけてきただけだった。

香港と向き合うことから距離をおいたのは、私がステレオタイプに負けたからだ。
ずっといろんな人から聞いてた香港論に耳を閉じてきたのに、
自分の目で見て、自分の感じたことを大切にしようとそれだけは
頑なに守りたかったのに、そのステレオタイプに近いことが実際
自分の身にふりかかっただけで、いともあっさりそれを採用し、
あほ丸出しの逃避論を展開している。それが現状。
それでも、毎日香港のラジオを聞いて、香港のニュースをチェックして、
広東語を聞いているのは、矛盾してるやろうが。
それこそが、よわっちい人間が、責任逃れする方法を振りかざしながらも、
自分の本心はただ向き合うのが怖いだけという最低の格好わるい状態である。

随分低レベルのことを書いてしまったけれど、
思ったのは、「無知を克服し、理解することが重要」であり、「互いを知らなければ
何も始まらない」ということであって、つまり私はまだ何も始まっちゃいないの
ではないか?と自分に問うたのでした。

違和感を抱えたまま、自分はそれから逃げ続けている。
怖いのだ。他に対面することも、自分が感じたことを追求することも。
失敗するのではないか、騙されるのではないか。

辞め際に部長が言った一言
「自分がいくら信頼していても、昨日まではあんなに堅く信頼関係を
築いていたのに、と思っても、実際はそれを裏切るようなことは世の中にいっぱいある。
でも、大切なのは、それを防ぐように自分が努力することと、起こってしまった
ことをふまえて、どうするかだ。憎しみを持っても何もならない。」

DVDの中で、イスラエルとアラブの間にある壁がどれほど厚いものか、
そしてそれが人間の心によってより強固なものとなっているか、
そうなってしまったら、何かのきっかけがないとお互いと向き合おうとする
ことすら思いつかないのだと、相手を同じ人間として共感し、想像するという
ことすら思い得ないのだと、恐ろしく思った。

それを克服するためには、無知の克服しかないと痛感した次第です。
しかし、それが何より難しいということも、それが一番逃げたくなること
であることも、忘れてはならないのですね。本当に。

どんな素晴らしい環境でも、どんなに恵まれてないように見える環境でも、
そこでせいいっぱいやらなければ、その先はそれ以上あがりえない。
だから、今がどんな状況でも、とにかく精一杯やってみよう。

そして、自分が恵まれていることを認識しながら、
それと優劣、善悪、幸不幸は全く無関係であることを認識しながら。

バレンボイムが言っていたが
「わたしは「寛容」という言葉が嫌いだ。
それはまるで、上のものが下のものをゆるして受け入れてやるという
ような傲慢なイメージがあるからだ」(←正確な語句は覚えてない)
というようなニュアンスを言ったとき、どきっとしたのです。
あたしは、少なくとも自分の心の中にそういう思いがあるのだと思う。
そういう思いに、甘えている部分が。
そういう思いで、自分が立つことから逃げている部分が。

だから、知ろうとしても、向き合おうとしても、途中で逃げる。
それらしいことを言って、逃げる。

それでも人生は進んでいく。
だから、怖いのよね。

だから、あたしは毎日のたくさんの誤魔化しを、
一つ一つ減らしていかなければならないのだと思う。
本質は何かということと、表面的なものが持つ影響力の間で
ゆらゆらして、もがいているけど、どちらも捨てられない、それでよい。
それならば、その不完全な論理に見えるが、それこそが
大切な姿勢なのかもしれないということを受け入れなさい、と
いまだ二者択一の癖が抜けない自分に強く思うのでした。

私は日本に生まれてよかった。
隣国との関係は良いとはいえない。
でも、それを権力に頼らずとも改善できる道があるはずだ。
自分のできることを。
今はこの姿勢を捨てたくない。
[PR]
by jengsauman | 2006-06-04 10:10

単純化と信念と夢

新聞に書いてた。「分かりやすさ」がもてはやされているが、それはいいことなのか?と。
私は、○○は~だ、とか、私は○○だとつい思いがちである自分の都合の良い
単純化と固執を何と未熟で、なんて危ういのだろうと思う。

単純化は楽だし、思考停止になれる。
でも、そこで止まっちゃう。
そこに固執することで、それ以外の困難を避けてる自分に気づけなくなる。
悲しい。それに気づいた時の虚しさ。
でも、そこでまた悲しんで終わり。その虚しさと向き合う勇気がないからずっと変わらない。

私は、最近人と会うとき、どうすれば「対面」できるのだろうと思う。
まっすぐ目を見てみる。身体ごとむいて、自分の内的エネルギーを向ける努力をする。
けど、全然違う。声がうわずる。声が小さくなる。誤魔化しているのが丸分かりだ。
それは、長年してきた逃避。対峙からの逃避癖だなと思う。
表面的に簡単に向き合おうなんて甘いのだ。
そんなことが簡単にできれば、そもそも逃げたりしない。

会社でいろんなことがあって上司が変わった。
今度の上司は、私の感覚にとても合うし、とても温厚かつ有能な人だ。
けど、自分がもっと楽をするのではないかと怖い。
前の上司みたいに、感情的で厳しい言葉を発する人のほうが
あたしのこれまでの環境にいなかった人で、
そういう人と「対面」しようと努力するべきだったのに、
今度の人は仕事ができ過ぎて自己完結している。
それに優しすぎる。
あたしはそういう人と対すると、「対面」ではなく、よっかかりたく
なってしまうのだ。自分が、こうして書いていることを全て
裏切るような無責任な丸投げをして。
そして、もう早速美化し、依存し、自分の頭で考えることから
逃げようとしはじめている。危ない。超危ない。
上司と出張したときのために、仕事のために、
もっと勉強しよう。もっと言葉も話せるようになろう、と思うのは
完全に思考停止。
携帯の待ちうけの可愛い子供の写真を見て、はっとする。

みんな孤独とどう共存しているのだろうかと思う。
毎日、またいろんなことにふたをして、しょうがないよ、今はそんな余裕ないよ、
と思って見過ごしていることへの後ろめたさをどう受け止めているのだろう。
私はあまりにずるすぎて、そういう生き方を誰にも否定されないように
かくして逃げて生きてきたから、25歳になっても、小さい子供よりもずっとずっと
現実を見ることを恐れてしまう。情けないけれど、それが事実。

行動しないと変わらない。けど、ふと心に針がささったような
不安と痛みに駆られることがある。そんな夜、誰かと一緒に居られたらと
思うのは、それも丸投げなのだろうか。
寂しさを紛らわせるための誰かは、余計寂しくなるだけだけど、
それを超えた存在と出会うことを諦めてはいないけど、
今はその存在がどこかにいるということは信じられるだけで、
感覚はつかめない。

私は夢を大切にしないといけないのだ。
その先にしか、見えないものがある。
その先にしか、この何をしても罪悪感と無意識の逃避の柵を
とっぱらえるものはないのかもしれない。
ありのままでいいというのは、そういう姿のことをいうのかもしれない。
希望を持っていいんだよ、自分のやりたいようにやっていいんだよ、
間違えることなんて、否定されることなんて、怯える必要ない。
それがないと前にすすめないのだから。
時には疲れて弱ることもあるかもしれない。
でも、そんなミクロのことで自分の歩みを止める理由を探してはいけない。

精神年齢とは、思考停止でない時間・年月を足し合わせた年齢だと
書いてあったのに激しく共感した。

最近、貧血がだいぶひどい。
こないだの熱も貧血による免疫力低下が原因と言われて、
昨日も飲んで帰ろうとしたら、立ちくらみまくって歩けないし、
またCちゃんに迷惑かけた。満員の山手線車内で地べたにしゃがんでても
誰も何も言わないのね。すんげー怪しい体勢で座ってんのに(←必死のため)
みんな周りをぜんぜん見てないみたい。
あたしがテロリストや変態だったらどうするのか?と思うような無防備っぷり。
みんな周りを無視するのに必死なのかな。いろんな情報が入ってくると
その分生きづらくなるし、その分辛い思いをするから。
東京に居て虚しさを感じるのはそういうのに触れた時というより、
自分がそういう流れに流されていると気づいたときですが。

Cちゃんはいつも心配してくれて、昨日も貧血に超心配して、
「何か手伝いたいんですけど、何もできないよううう~」と山手の中で
叫んでいた。超声がでかくて、超感情的で、超人に優しい、超素直な子で、
私とは正反対。だから、いつも助け合っているらしい。ここは日本だから本当は
あたしが多く助けてあげなきゃいけないのに、いつの間にか彼女の立場に
立って考えられず、心の中で自分を正当化して、相手を責めているときもある。
でも、あたしは何度彼女の笑顔とでかい声と優しさに救われただろう。
そんなことを思って、ちょっと情けなくなった。
もっと勉強して、もっとしっかりしよう。

今日は裏の小学校の運動会。
こんな都心で、土じゃない狭い競技場のような緑の運動場で育った彼らは
閉塞感を感じてないだろうか?
あたしに言われたくないだろうが、伸び伸びと生きてほしいなあ。
[PR]
by jengsauman | 2006-06-03 10:44