過食症を経て、一つ一つの日常を見つめる記


by jengsauman

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執着の克服

昔の彼Mが結婚した。と知った。

感じたこと。

乗り越えなければいけないことは私の心の中にある。
それが、少しずつわかり始め、そして起こることから何を考え、感じ、
自分がどっちの方向に歩いていくべきか、少しずつぼやけつつも
見えるような気がする。

Mには幸せになってほしい。
でも、それを95%くらいしかおめでとうと思えない自分は、
まだフェアでないのだ。
彼とはもう会うことはないだろうけれど、彼との出会いがあったことは
私の人生において事実なのだし、それを少しでも
今の自分の違和感に働きかけられるよう、大切にしないといけないと思った。

あの頃と今は違う。けど、全てはつながっている。
だから、私は今起こることすべてにのっかってみようと思う。
決して、酔わないように。決して、感情論に走らないように。

執着から、前にすすむために。
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by jengsauman | 2006-08-27 14:27

執着の克服

私は綺麗事ばっかりいう部長の話をききたくなかった。
それは一つ一つがイライラするだけではなく、
私の中に一本一本刺さってくる気がして
耐えられなかった。

「もうそんな綺麗な言葉なんていらないんですよ。
それで一体何をするんですか?具体的に言ってくださいよ」

こういう言葉をあたしはこれ見よがしに、部長にぶつけた。
何度も言った。
責任を放棄しているような言動が許せなかった。
ほんとに腹が立った。

でも、その言葉は、違和感から逃げるためのものでしかなかった。

相手を攻撃するために一番効果があるのは、自分が一番
傷つく言葉を使うことだと私は自覚していたのだ。
だから、わざとああいう言い方をした。
私は、部長を責めて楽をしたかった。
その批判が適切であろうとなかろうと、私はああいう言い方を
すべきではなかった。

ほんとは自分が一番言われたくない言葉。
だから、私はここぞとばかりにふりかざした。
だから、私は責められないために毎日朝一番に行って、
夜中まで残業をする。「頑張ってますね」といわれるたびに
心が痛い。それが本質だ。

最近、人と対するときに、知識で対抗しようとしたり、
何気なく責任を逃れようとしたりするたびに、
自分に「何やってるの?」というようにした。
分かってるけど、やってしまう、ではダメなのだ。
人を責めて、人を使って、人に意識をもっていって、
人を軸にしていたら一生このままなのだ。
だから、私は自分の逃避行為を徹底的に見る。
自分が一体何をしているのかを見る。

見たくないことも逃がさないという気持ちがないんだ。
いうても、逃がしたところで、違和感によってすぐ分かる。
何がそれかは分からなくとも、分からないように細工しても、
私のからだはその違和感に支配されている。

自分の現実を変えられるのは、自分の意志。

執着と逃避を乗り越える。
それが26歳の目標。
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by jengsauman | 2006-08-26 18:50

感謝

またわすれていた。
感謝のきもち。

だから、私の心の中で、特にこの一週間、
「違和感」が溢れて溢れて、口から出てきそうだったのだ。
あたしは、本質からはずれるとすぐにもう
気持ち悪くてはきそうな違和感を感じるのだとすると、
なんとなく自分の感性を愛しく思うようになった。

感性が乏しいことは確かだが、ある一部では
なんとなくとても正常に機能している気がする。
それが、過食なのかもしれないし、
それが、肉体を削ろうとすることなのかもしれない。
同じように、様々な依存的行為、表面的行為も。
それは悪ではない。けれど、それ以上に自分が
欲しているものがあるとしたら、やはりそれを見ようと
したい。

Nさんはおしえてくれた。
家族の中に、兄弟の中に、友達や恋人や、周りの誰かが
たとえば法を犯したり、自分で命を絶ってしまったり、
姿を消したり、自分を傷つけるようなことをしてきたとしても、
その状況を見てまず思うのは、「感謝」やで。と。
なぜなら、自分自身がそういった因縁に巻き込まれずに
こうして健康に健全にこの世で生きられているのは、
その人たちが因縁を背負ってくれているから、だと。

私はずっとその点がひっかかっていたのだ。
どうして、残忍な事件に巻き込まれる人と
巻き込まれない人がいるのか。
どうして、戦争、差別、殺戮、冷戦、民族分断、
飢餓、教育が受けられない、そういったことが
自分の目の前にある人と無い人がいるのか。

私の従兄は、とても優秀な人だった。
とても誠実で、まじめで、聡明な人だった。
その彼が生まれた家庭は、とても冷たく、
彼はその中で違和感を感じ、同時に真理を求めて
学問に入っていったのだろうと思う。
けれど、正しさを強く明確に求める気持ちが強烈すぎて、
彼はある宗教を妄信した。
誰も気づかなかったし、誰も止められなかった。
唯一、私の祖父が彼のことを本当に想っていた。
だから、祖父は彼を連れ戻しに行った。
祖父は「いつでも今から再スタートできる」とよく言った。
でも、これまで積み上げてきたことは事実として残る。

祖父亡き今、私が彼のことを思い出すのは
ただの偽善だと思っていた。そういうことを考えているふりして
思考停止するための道具に使っているのだと思っていた。
でも、Nさんは、「あなたが救ってあげないと」と言った。
それがあなたが背負っているものであり、
それがあなたが祖父を思い出すゆえんであり、
それがあなたが生きるうえでの責任であり、
生きる意味の一つなのだ、と。

私が従兄のような家庭に生まれていたら、
私はどうなったのだろう。
どうして、私は今の両親のもとに生まれたのだろう。
「あたしは幸せな家に生まれてラッキーだった」
「あたし平和な日本に生まれてよかった。」
「従兄はかわいそう。でもあたしはそうじゃなくてよかった」
そんなこと、口には出さないけれど、思っている。
それがあたしの本音だ。
だが、言い訳だが、それ以上に違和感を感じるのだ。
それは違うだろう、と思う自分がいる。
そう思うべきだからそう思うんじゃなくて、
どこかに本当に、この違和感が、自分の過食やその他もろもろ
と繋がっている気がして、この思いは簡単に解明できないし、
自分の不確かな頭で理解してはいけないのだと思う。
ただ、何かをしなければいけない。

Nさんがどういう言葉を使ったか忘れたが、
「人には、進みやすい人とそうでない人がいる」と。
因縁を背負う人は進みにくいらしい。
だから、因縁を背負った人に対して、
進みやすい人はできることをしなければならない。らしい。
私は、進みやすいかどうかはよく分からないけれど、
何かをしなければいけないことはずっと感じているのだ。
それなのに、何をしていいか分からない。
そんな情けない言葉をどうしてもNさんにいえなくて。

Nさんは、本当に感謝できたら、何かするだろう、と言った。

結局、経験なのだよ、といわれた。
分からないのはあたりまえ。だから、経験して、その一つ一つを
憎まず、怒らず、嘆かず、感謝して受け止める。

そして、正しい方向に動いていれば、繋がってくる。
たとえば、普段ほとんどテレビを見ないのに、
つけたときに限って、こないだ参加したWSの特集が流れたり、
吉田都さんの映像だったり、安藤洋子さんの映像だったり。
昨日一番びっくりしたのは、残業して帰ってきたら3時前だったので、
テレビでも、と思ってつけてみたら、武道の先生が出てた!!(驚)
そういえば、今度夜中のなんとかっていう番組で特集されますって
書いてあったと思い出したが、このピンポイントは必然だ。
先生が言っていたいろんなこと、教えてくれた身体感覚、
そして鍛錬すること、が頭をよぎる。
それと、もういっこおまけで、私の大好きな香港歌手が
日本のとあるコンサートにゲスト出演することが急遽決まったらしい。
香港でも有名ではあるけど、日本公演は一生ないだろうと思っていたのに、
そういったニュースとの出会い方とかが、おもしろいくらいぴったりくる。
まあ、それはおまけだけど。もしかしたら、そこの場でその歌手とは
全然関係ないところで、何かあるかもしれないし。

誰がなんといおうと、自分の幸せの感覚を知っているのは自分だけだ。
違和感は感性であり、感性は人格である、としたら、
その先を見ることはとても苦しいはず。
でも、そこにしか何も無い気もする。

執着は執着でしかない。愛情とは執着に頼りたくなる自分を克服したときに
そこにあるものだと想像する。

26歳の誕生日に、友達がおくってくれたメールにこうあったのが印象的だった。
「26歳はいい年だ。子供でもない。でも、まだなんにでも挑戦できる。
そして、何だってできる年でもある。」

誰かと比べたら、若いかもしれないし、年上かもしれない。
でも、私は自分の年を重ねるごとに、自分の年を自分だと
卑下でも虚勢でもなく、素直に思えるようになりたい。
私はやはり私以外ではありえないんだなあとおもう。
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by jengsauman | 2006-08-26 15:01

愛とごまかし

26歳になりました。実感まったくなしです。
でも、少しだけうれしいです。
今年もまた、12時ちょっきりに電話してきてくれた私の香港朋友。
たぶん、23歳、24歳、25歳、26歳とずっとかわらず。
今年は、23:59にかかってきた(笑。
わたしのことを思い出してくれてありがとう、とうれしかった。

なぜか、昨日はいろんな人から連絡がきた。
高校の友達が大阪からあそびにくるし、
丸井のロートレアモンの店員さん(なぜか意気投合した)から電話あるし、
香港行きの飛行機で知り合って仲良しになったSさんからも電話あるし、
高校のときの友達からも数ヶ月ぶりにメールがきた。
みんな誕生日とは全然関係なくて、でも正直、誕生日なんてどうだっていい。
誕生日の前の日に、私のことを思い出して連絡してくれるのが同じようにうれしい。
形だけのおめでとうよりも、本当の想念が心にひびく。

今年の目標は、「ごまかさない、挑戦する、選択する、努力を重ねる、愛する」です。
愛するを目標にするなんて、アホだなと思うけど、でも意識しないとすぐに
自分で完結してしまうから。周りにある愛に感謝したい。

ごまかさないけど、なんでもかんでも白黒つけようとするのは少しずつやめたい。
人を許すこと、自分を受け入れること、完璧なんてなくて、そこから
ないものを嘆くんじゃなく、そこから創造する人生にしたい。

今日強く強く思ったことは、生きていればそれで十分だ。
欲は必要だし、努力も必要だけど、
大切な人にはそばにいてほしいけど、
でも、少なくとも、生きていてくれればそれでいい。
たとえ、遠くにいても、遠くにいっちゃっても、
形ばかりの関係よりずっと良い。
そこが本当に繋がっていれば、きっと大丈夫。
そこがまた自分も生きる原点になる、と思う。
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by jengsauman | 2006-08-22 01:40

わからないこと

今日、びびりながらこないだワークショップを受けた先生のクラスを受けに行った。
もう、なんでこんないちいちびびるねん、と思うけれど、その思いとちゃんと向き合うことが
これまでの現実の自分を変えるために必要なことなのだとおもって
「そうそう、この感情。不安で怖くて、逃げたくて、なかったことにしたいこの感情。
でも、これがあるから、私は稽古しないといけないんだよね」といいきかせてでかける。

先生は今日もすばらしかった。けれど、もっと素晴らしい出会いは、
私とペアを組んでくれた方。本当に3時間半、ずっとずっと教えてくれた。
あらゆる身体感覚を、正しく感じられるように、正しくそのまま動けるように、
細かいことをずーっと説明してくれて。お金払って出席してるのに、
教えてばかりでいいのだろうか、と心配してしまう自分はすでに邪念が入っているのか。
それにしても、今日感じたことは、私は何もできてない、でした。あはは。
そして、何もできてないことに対して、ごまかしてそれっぽいことをして
形になればそれを続けて生きてきたこともはっきりかんじた。

さらに、一番きづいたことは、人に頼りすぎ。
分かろうとするのだけど、いっぱい質問するのだけど、一生懸命なふりするんだけど
それがふりのとき、私はあらゆる感覚や言葉をスルーして、
人が自分のために何かをしてくれるのを待っている。
ぎゃーーと思った。それが現実。
わからないことを自覚するのはいい。けど、それをそのままにしたら終わりだ。

本質を追求するスタートにも立てない。身体をいっぱい使って今すでにめっちゃ痛い。
ほんま、このからだの何を見て、何を使っていきてきたんだろう。
でも、今日気づいたねん。
何を考えても、積み重ねには勝てない。
本気になるとは、身体が動いてしまうこと、なのだろうと。

今日、ワークショップでも見かけた人にあったので、声をかけた。
身体がとても細くて、筋肉質で、余計なものが何もついてない身体。
羨ましいと思っている自分がいた。
そして、彼女は、身体が不自由であると言った。
クラスが終わったら医者が向かえにきていたくらいだから、
多分、とても大変な病気なのかもしれない。
けど、彼女は習ったことを毎日毎日繰り返して、身体が動くようになったと言っていた。
その動きは、とても病気を持っているとは思えず、私は圧倒された。
結局そこでもまた、形ばかりの自分と対面するはめになった。
そして、人をとっても表面的なものでしか見れてない自分が今もまだいる。

彼女の様子をみて、そう、本気でやるとは、こういうことなのだ、と。
誰かのためとか、誰かにほめられたくて、とか、それもあってもいいけれど、
自分が自分のために動かずにはいられない感覚。
それをまた教えてもらった。
どれくらい、日常にその意志を行動化するか、なのね。
今日の出会いも、すばらしかった。
私にいろんなことを教えてくれた数々の人に、ありがとう。

ペアになってくれた彼は、本当にやさしかった。
手を使う練習で、手をずっと握って、「これがコネクトだよ」といった。
あの感覚が、わすれられない。
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by jengsauman | 2006-08-20 23:28

失敗

痛い失敗をした。
「まさか、伝え間違えた?」と聞かれて頭が凍る。
やってしまった。。。
ほんっとに、あたしはそそっかしい。甘い。
思うに、目の前のことに自分を賭けられないのは、
そこにリアルがないからだ。
何のために、何をいつまでにやりたい、その思いが
そうあるべきという思いに拠るとき、私は簡単に失敗する。
失敗どころか、話を聞いていても、言葉が頭に入ってこない。

何かに駆られるように、毎日仕事に向かうけれど、
会社に行くことなんて特に何の意味もない。
行くことで満足したって、何も残らない。
1日19時間とか20時間とか働いたからって、
Sさんに言わせれば、「だらだらやって楽してるだけ」だ。

自分の中の違和感がどんどん大きくなる。
何の違和感か分かるようで分からない。というか、分かりたくない。

閉じこもっていたとき、私は仕事と言う言葉を聞くのが怖かった。
けれど、今、私はあの頃から前進したとはいえない。
あたかも頑張ってるようで、ただ人生を誤魔化しているだけじゃないか。
睡眠時間なくて、会社のトイレで寝てしまったり、
毎日一番に出勤したり、一番遅くまで会社にいたり。
so what?だ。

夜中に、フロアに一人でいたとき、すごいむなしさに襲われた。
途中で、となりの部署の課長が入ってきたとき、
私の目を見て笑顔で、「おつかれさまです」と一言言ったのだだけど、
それがなんとも胸に響いた。多分、私に向けられた言葉だと実感したからだ。

今日、であったことば。
「大切なことは、「変えることができる」と信じること。
変えるために必要なことは、とにかく周りの人と話すこと。」
姜尚中の言葉だが、そうなんだろうなあと共感した。実感はないが、想像で。
平和を実現するとか、日中関係を改善するとか、
大きな途方もないことに見えて、結局できるのは一つ一つの
関係を大切にすることでしかない。

私は、上の課長のようになにげない言葉でもちゃんと人に伝えたい。
それは、事業や夢の実現に何の関係もないように思えて、決してそうではない。
私は、とっかかりがここにあるということを何度も感じたはずなのに、
また忘れかかっている。

いきなり世界を変えることはできないけど、目の前の人間関係を変えることはできる。
でも、それを続けていくことで、何かを変えることができるかもしれない。
だから、いろんなことを話せるように、勉強しないといけない。
そう思った矢先、中国人に東京裁判のことを聞かれて、あわててモゴモゴする。
歴史認識の違いが仕事にも絡んできたとき、あれだけ意気込んでた話題のくせに
逃げようとする。間違うことを恐れ、責められることを恐れ。
でも、待って。そこで政治を語れるようになることが重要なんではなくて、
そこでコミュニケーションするためには、政治が不可欠なんだときづいた。

現実と違うからってそれを削除しようとするのは、本質ではない。
近隣国のことを考えない首相だからって、じゃあ要らない、ではなく、
どうすればまだ許容できるのだろう。改善できるのだろう、を
考えられるようにならないと。
なんでもそうで。仕事も、からだとのつきあいも、人間関係も。
しなやかさとはそういうものなのだろうか。
まだまだ遠いなあ・・。
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by jengsauman | 2006-08-17 03:22

言葉

思ったことを言葉にしてみると、「あーやっぱなんかちゃうなあ」
という違和感がある。
それは、私のボキャ貧のせいもあるけど、それだけじゃなくて
言葉を利用する癖がまだぬけないからだ。
それをずっと気づいてたんだけど、少しずつ減ってる気がして
良い方向に行ってるからいいか、と思おうとしてた。

カンボジアに行った友達が、別れ際に手紙をくれた。
その中には、「○○の言葉は、とても気貴いのだけど、
どこか誰かにしゃべらされているような気がした」と。

私はそれを読んだとき、心臓がドキドキした。
彼女ほど近くて、思いやりのある人が、別れ際にくれた
手紙に書かれていた本質を突く言葉たち。
それは決して攻撃ではなく、彼女の誠実さによるものだったから、
心の中では有難く有難く思った。けど、どうしても身体が
ショックを受けてしまって、うまく消化できなかった。
こういう存在こそがとても大切なのだと分かるのに、
それから逃げてしまいそうになる自分をいさめるのが痛くて。

たぶん、違和感を感じながら、少しずつ変えていく方法しかないのだろう。
だから、笑われても、私は自分がそのとき違和感が少ないと感じる選択肢に
胸を張っていきたい。正しいか間違っているかはともかく、
自分が試行錯誤を経てたどり着いたある種の確信というのは
必ず自分の柱になる、と思うから。

最近、できるだけ出て行ってみようかな~と思っている。
ずっとやってみようかなと思っていたボランティアに応募してみた。
昨日その面接があったのでいってきた。
その面接自体はようわからんし、自分の反省もあったし、ハア!?
と思うこともあったが、その会場で一人の素敵な女性に出会った。
もう嬉しくて、その人が私に話してくれるのも、私の話を聞いてくれるのも。
エネルギーがこっちに向いてくることが嬉しくて。
彼女は、道で困っている外国人を見るなり、自分から話しかけて
道を教えてあげていた。そしてあたしに言った。
「自分も外国で多くの人に助けてもらったから、日本にいるときは
よっぽど急いでない限りこういう風にするようにしてるの」と。
日本のイメージを少しでもよくするために、日本人のことを知ってもらうために
自分ができることがあるなら自分からやる。というシンプルな行動を
私はなんでやってこなかったんだろう。「通じなかったらどうしよう」という保身か。
だいぶ話したあと、連絡先を交換して別れたけど、自分のありかたが
前より少しだけ素であったかなあ、でもやっぱり誤魔化してたの伝わったかなあ、
とか考えてたらメールがきて、今日はあなたに会うための一日だったかも!
と書いてあって、わたしは電車の中であまりに嬉しくて顔が緩んだ。

そのまま自由が丘に行って、昔アルバイトしてたころの仲間にあった。
帰り際にふと話したことに対して、「そういう考え方がやっぱり○○だよ」っていわれた。
あたしは、この数年ですごく変わったと思っていたけど、
相手には昔から見えていた部分もたくさんあるのかもしれない。
ただ、自分がつくりあげた理想の自分に合わない事象はすべて
否定し、切捨て、記憶に残さなかったのは自分なのだ。
なんだか力がぬけた。

そうして時間を経て、余計なものがなんだったかもあまり思い出せないように
なってくると、自分は何も失ってもないし、何もしてないことにもきづく。
今を構築していくことが、生きるということなのだ。

上司のSさんは、あたしたちが中国人の部長とやりあっているときに
静かに入ってきて「○○さんのことは俺が守るから!」と放った。
衝撃的だった。
そんな言葉、言葉だけなら要らない。
でも、私はSさんの歩み寄りが欲しかった。Sさんが自分の意志で自分の言葉で
何かいってくれるのをずっと待っていて。
でも、怖くて聞けなかったのはこの自分だった。
だから、バカでもいいから、論点からずれててもいいから、
幼稚と思われてもいいから、叫んでみようと思った。
あたしは信じたかった。
ここのところ感じていた違和感は、信頼がない生き方をしてたからだ。

何かを信頼すれば、すべてがつながり始めるという言葉を思い出して、
私は人生が広がっていくイメージを描いた。
私は、Sさんを信じる。そして、Sさんに頼るのではなく、Sさんのもとで
最大限の力を発揮できるように自分で考え、分からないことは質問し、
一緒に頑張っていくと決めた自分を信じる。

どこにいて、何をしていても同じなのかもしれないが、
身体への歪んだ見方や固執を凌駕する具体的目標がみつかったとき
あたしはそっちに走っていくのだけど、これまではそれが自分で決めたもの
ではなかったから、苦しくなって長続きしなかった。
でも、今少しずつつながりつつあるものを私は大切にしたい。
いろんな誘惑、逃避の誘惑をうまいことかわして、
「アンタなんてもう必要ないもんね~テヘヘ」と笑っていられるように
なりたい。身体を愛し、自分の周りを愛し、人生を愛し、起こることを
受け入れて感謝できるように。
いきなりそこを目指すと結局形だけなのだから、今は幼稚でもいい。
25歳のくせに、といわれても、表面だけ大人ぶるよりは全然いい。

来月、また中国出張です。
自分の意志も伝えたいけど、今はとにかくSさんの意志を
向こうの人に伝えたい。そのお手伝いをできるように
しっかり勉強するぞ~。

有縁千里来相会、無縁対面不相逢
縁があれば、どんなに遠くても会うことが出来る。
縁がなければ、向き合っていても出会うことはない。

偶然と必然。人の縁をとにかく信じて、目の前の流れに
身を任せたいと思うこのごろです。
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by jengsauman | 2006-08-13 10:08

コントロール

伝えること。
それがしたい。
ふりじゃなくて、形じゃなくて。
もしその思いが20%でも50%でも、その思いが存在することを伝えたい。

そう思って放つ言葉は、必ず誰かには届くのだと思った。
あたしは、いつも正しいことを言おうと狙ってしまうけれど、
今はその思いをどれだけ捨てられるか、との勝負をしていたりする。
簡単に敗北するけれど、敗北したことをしっかり受け止めたい。

誰かに認められることよりも、誰かに共感してもらえることのほうが嬉しい。
誰かが私の放つものに共鳴してくれることのほうが嬉しい。
今日も、大好きなかっこいい女性の同僚に話しかけられた。
私が朝礼で話した内容に関して「その武道の先生何ていう名前?」と。
カンボジア行きが数日後に迫っている友人Yの言葉を借りると、
発信しつづけていれば叶う。である。
何事も言ってみるもんだなあと思う。
最近は、自分が愛するもの、行きたい場所、思い入れのあるもの、
かなえたい願い、理念、そうしたものをできるだけ口に出すようにしている。
それに誰かが共鳴してくれたら、そこから何かの可能性が生まれる
ような気がして。

夢はいつかかなうもんじゃなくって、
今を生きているんだなあと思う。
そうして自分の現実を見つめなおすと、現実を止めていることにきづく。
ああ、またやってしまった。毎日毎日そう思うのだけど、
そればかりでもない。多分、私は人にたくさん助けられている。
寂しいけど、孤独ではない。そんな感じがする。
そして、近々良い前兆に出会える、そんな気もする。

身体を少しずつ見るようになって、コントロールするということが
分からなくなった。
たぶん、「快を実現するために、痩せることが必要
ならば痩せるし、他に必要なことがあればそれは実現する」
結局、からだの声というのは、快とつながっているとても素直なもの。
それを聞くことは今の自分にはまだまだ難しいけれど、
少しでも重ねていきたい。ちょっとずつ。ちょっとずつ。
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by jengsauman | 2006-08-08 00:32