過食症を経て、一つ一つの日常を見つめる記


by jengsauman

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ありのまま

ありのまま、って本当にむずかしい。
ありのまま、って成長しないことだと思ってた。
けど、ありのまま、でしか前に進めないんだときづいた。

今月は、いろんなことがあった。
いろんなところへ行って、いろんな思いとであった。
そして、到達した結論は、
ありのままで生きること。

何度も何度もそう頭で思ったのだけど、Nさんにもいわれたように、
頭じゃなくて、ここに(心を指差す)おりてこないとだめなんやで、ということ
なのだろう。

仕事で失敗、自己嫌悪、逃避。
ほんとに毎日がいやになっていた。
毎日、年末の休みまで何日って数えて、あとちょっと、あとちょっとだけ
がんばろうって思いながら。
けれど、実際休みになってみたら、ここで穏やかに過ごしている時間が
とてももどかしくて。どうしていいかわからない、けれど、どうにかしたい。
いつものあの思いがより強くなる。

数日前に仕事がおわったあと、神戸空港に着いて、Nさんと会った。
Nさんは、随分変わったという感じを受けた。何が、なのかは分からないけど
何かを諦めてしまったのか?何かを達観したのか?何かいつもより目に力ない
ように思えた。けれど、ずっと話しながら、私の家まで送ってくれる数時間の間に、
私は、彼の変化とは、「自然」なのだときづいた。
今まで考えなければならない、考えることが当たり前、と思っていたことは、
もしかしたら必要のないステップなのかもと思った、のだという。
ラクやでー、と何回も何回もいわれた。

ありのまま、とはこのままぼーっと突っ立っていることではなくて、
自分が今持っているもの、自分の大切な人、自分のつながり、
自分を存在させてくれているすべてのものとの関係を見つめながら、
自分がこうだと思う道をストイックに歩いていくことなのだろうか。
だから、美しさも同じで、誰かの、そこにあるものを取り入れても、
何も美しさでないように、誰かのすごい生き方をまねっこしても仕方がない。

すごい人とたくさん触れ合う中で、そこに自分が感じるもの、
自分がひっかかること、そこから思考すること、いろんなキーワードが浮かんでくる。
それは、稀にしか出会えなくても、そこでじーっと我慢することが必要で、
表面的な動きだけを見ている人の評価に無関心になれるように、
自分がありのままを大切にすることが必要なのだろう。

Nさんは、あたしに対して、「自分を見ようとしてないね」と微笑んだ。
「あんな、自分ってな、そんな安いもんやないねんで。何億つんでも
そんな金でどうにかなることじゃない。自分の存在の重みをわかってないね」
と続けたNさんの言葉が、ほんとにうれしかった。

Nさんは、私と私の従兄のことをとても気にしている。
従兄に対して、きっと私なら何かができるはずだと思っている、という。
けれど、つづけてNさんは
「でもな、人を救うためには、自分が自分を偽らないことが必要
やねんで。今はまだ無理やね」と笑っていった。

そう、自分を偽らないこと。
大好きなSさんが「そのままでいいんじゃねえか?」ととってもやさしい顔で
言ってくれたこと。
これがスタートなんだ、と思ったあの安堵感。

従兄のことを書いた本が出版された。
私は、頭だけで動いていた。その作者は、従兄のために、すさまじい
エネルギーと時間を費やし、あの本を書いた。まだ途中までしか読んでないけど、
私は、読んでいくにつれて、自分が何もしてなかったことに気付く。恥ずかしい。
けど、「いつか自分が救われたら」「自分が立ち直ったら」「自分に余裕ができたら」
ではない。それを待っていたら、たぶん何もできないまま一生が終わる。
自分が抱えていること、それは一緒に生きていかないと意味がないことなのかもしれない。

世界をとりまく大きな問題があまりに多すぎて、
それをちらっと見ただけで、すぐに諦めてしまう。自分が何かをしても
無駄だと思ってしまう。
しかし、食料は買うことができるけど、住むいえもあるけれど、
まともに食べることができなくて、アルコールでごまかして、
人ときちんと向き合えなくて、自分を大切にできないで、
いつも息が止まりそうに生きている人間は、豊かなのか?
私は、自分の特にここ1ヶ月の生き方をとても貧しい生き方だと思う。
毎日のようにお酒を飲んで、理想だけ頭のはしっこに残したまま、
目の前のこと以外しない。いろいろ、ぐっちゃぐちゃに考えてはいても、
ある点からは、放棄する。
あげくの果てには、家庭のあるSさんと毎日朝まで一緒にいた。(話してるだけだけど)
罪悪感と、何してんねん感で壊れそうだった。

Nさんは、「これは悪いことだから、と切るんじゃなくて、
あなたが彼と居ることで、彼が業を積むことになってしまうんじゃないかな。
彼を救うためにも、何かをはっきりしたほうがいいだろうね」とやさしくいった。
あたしは、自分がされたらいやなことをやっている。
自分も業をつんでいる。
だから、早く離れないといけない。
だけれど、離れるのが怖いのです。

こんな逃避や矛盾を抱えたままではあるけど、
少しずつ少しずつ、自分が歩いていくということが
わかってきた、そんな日々でもあります。
悪いことをしたら、悪いことがかえってくる。
自分の辛さは自分だけのものではなく、
自分の幸せも自分だけのものではない。
自分が思っている以上にあらゆることは広がりをもっている。

私は、自分を正当化する逃げ道を作りたくない。
きっといつかわかるときがくる。
けど、気付きは行動のあとにくることが多く、
行動なしには、道理がわからないままでもある。
失敗を重ねて、格好悪くて、それでも、本質はこうではない
という自分の違和感に嘘をつかない生き方をめざして。

大阪はいい街です。
でも、他の街にもたくさんいい場所がある。
今自分が持つものは大切なものだ。でもそれがすべてではない。
大切な人の大切な場所、人、もの、そんなふうに
自分とつながっている大切なもの、を
一つ一つひろげていきたい。
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by jengsauman | 2006-12-31 12:43

タイミング

日曜日、友達の誕生日会にいったら、思いもよらない出会いがあった。
その方は、T大助教授を経て、現在K大教授であるらしい
とってもとっても魅力的な女性。

多忙を極める先生がなぜ、一学生の誕生日会@自宅に来てくれたのか、
きいてみた。

そしたら、先生は飾ることなく笑顔ででかい声でこういった。
「出会いなんて、行ってみないとわからないじゃない。
私も、今まで何度もそういう経験をしてきたわよ。
思いもよらないところで人生の重要な鍵となる出会いがあるの。
それでね、今とある新聞の連載で、自分が影響を受けた
女性について文章を書かないといけなくて、
いろいろと考えてたところだったの。
私にとっては、30代に出会った2人の女性がとても大きかった。
そういう風に、それぞれにそういう出会いがあるはずなんだけど、
それは別にたった一度だけの出会いでもいいわけ。
とにかく、その後の人生に繋がる大きな出会いであれば。
そういうことを考えていて、何かできることはないかなと思ってたところに
彼女から誕生日会の誘いがあったから、来てみたのよね。
それに、私だってあなたたちからたくさん吸収して
たくさん学んでるんだし。」

その言葉をうけて、あたしは、タイミングということを思った。
たとえば、どうにもならないと思っていること、
うまくいかないだろうと思っていること、それがうまく完全にうまく
いかないのであれば、私は恐らく考えないのだろう。
考えるうちは、恐らくチャンスがある。ただ、その成功確率はとても低い。
けど、タイミングによっては、成功するかもしれない。
成功、というか、自分の道を開けるかもしれない。

どうしても気になっているO塚のことを思い出す。
きっとあいつは、いろんなことを経験して、いろんな人と会って、
大切な人と一緒にいるだろう。そして、日本に帰って来て
婚約者として紹介されるかもしれない。第一、誰も特別な
人がいないとしても、私は彼と真正面からぶつかる勇気などない。
だから、ずっと連絡しなかった。
けど、投げてみることに意味がある。自分が思い出したときに、
必要だと思ったときに、発信すること。
タイミングだけが、運命を切り開く鍵を握っているようにみえて
それも決まっていることなのかもしれない。
そう思うと、人生って面白いかも、とかふと思ったりする。
すべてがぜんぶ分かってしまったら、生きる気力を失うだろう。

そして、今、彼にメールをかいている。
けれど、決して女を押し出し、ただ思考停止に綺麗な言葉を投げない。
けれど、クールぶらない。会いたいんだもの。
会いたい会いたいー。日本にかえってこーい!

先生の話に戻るが、彼女は私に一つの光をくれた。
物事は、いろんなかかわり方があるということをきづかされた。
そして、クリエイトしなさい、スケールのでかいことを考えなさい、
面白いことをやりなさい。といった。

先生はどうして魅力的なのか。
その場にいた人すべてをひきつけるのは、肩書きではない。
稚拙な思考を持つあたしたちすべての話を聞いて、
「それは面白い」といってくれるのだ。
言うだけじゃなく、どうすれば実践できるのか。
どうすれば意味のある実践が可能かをいつも考えている。
だから、いつも何かをしているのだけど、いつも大変そうなんだけど、
いつもとびっきり楽しそうなのだ。

「飽きないわよ~ホホホ。」といって帰っていった。

本当に素敵な女性。また会いたい。
いつか、先生にぶつかっていきたい。
先生が開講しているプログラムに参加したい。
あと、この日を境に、理系に興味を持つ。
現場の技術協力に興味を持つ。
めっちゃ遅いが(笑。

出会いはすべて意味がある。
ありがとう。先生。とってもとっても素敵な時間をすごした。

かわって、今日。22時過ぎまで仕事して、Yちんと飲んで
かえってきた。思いっきりぐちった。仕事が始まってから
一度も会社の人に会社の愚痴をいったことがなかったけど、
やはりおかしいことはおかしいことと言っていいんだ。
そして、変わらない部分は、諦めるしかない。もしくは
自分が変わるしかない。
次を見据えて、今を生きる。今を生きることで次につなげる。

ほとんど話したことがなかったYさんに一つ質問をした。
「こないだ、話していたNHKの『プロフェッショナル』っていう
番組、先週の分ビデオとってません?」
Yさんは、いきなりナンジャ?!って顔を一瞬びっくりしていたが、
「あー○○さんも好きなんですか。でもあれ先週みてないんです。
そのうちビデオ化されるらしいんで、また情報あったら
教えますよ」といって帰っていった。

と思ったら、1,2時間後、メールが届く。
Yさん@自宅より、『プロフェッショナル』について調べて
くれたらしく、丁寧なメールがきていた。
びーーっくり。ちなみに、次の週の夜中に再放送があるらしい!
とっても楽しみとともに、Yさんの気遣いにほっこりした。

待ってるだけじゃ何もない。
自分の中にある愛を信じて。

それから、人と一緒に力をあわせていくこと。
たとえば、自分ひとりじゃどうしようもない建築関係のことを
生業としている専門家がいる。
心理学に精通していて、いろんなことを投げかけてくれる人がいる。
学校経営の経験が豊富で、いろんな知識をくれる人がいる。
誰もが、新しいものを作り出す可能性をもっている。
すべての存在がひびきあえば。。
そんな一助になりたい。
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by jengsauman | 2006-12-06 01:24
自立したい、という気持ちと焦りのせいで、ついつい軸のない
表面的な虚勢を身に着けようとしてしまう。
そして、魂もなく、感性を働かせることもなく、楽して思考停止の言葉を放つ。

けれど、大部分が見たくもない逃避の無様な姿だとしても、
私の日常のなかで、自分の意思と向かう時間も、ないことはない。
重要なのは、それを、どうすれば増やしていけるかということで、
日常のどこを変えていくことが、必要な変化で、
どこはそのままでいいのかを明確にすることだ。

何となく、これはいいんじゃないかと思ってたことと合致する文章にであったので
すぐ忘れる自分への自戒として書いておこう。

まず、選んだものを、
「自分にはこれしかない」
と、腹をくくること。

そして、取り組んでいると、
どんなことも必ず苦労や苦悩がともなうも
そんな、苦しみの絶頂のときに、
踏ん張って一歩進めることで、達する境地がある。

人間はおどろくほど気まぐれだから
そのためにも、毎日毎日決心しなおせるかどうか。

そういうことができる人の感性は
一番苦しいときに楽しめる、とか、
こんな大変な思いをしたから幸せ、とか、
自分の人生をはらはらどきどき楽しめる感覚。

こうして継続し続けていくには、
自分を立て直すシンプルな習慣を
身に付けている人が強い。


精神科医の名越先生という方の言葉らしいが、
そうそう、それやねん!とひとりで膝うち。

今までは、人生80年あるとしたら、そのうちの全ての時間を
「意義ある生き方」をしないといけないと強迫めいていた。
けど、「意義ある生き方」という定義がひとりでできず、
そこで人とむきあってぶつかって溝通して思いあうことをせずに、
正しそうなものに安直にとびついて、いつかそのしがみついている枝が
ポキンと折れるんじゃないかと、ひとりでブルブルしていた。
けど、そこにとびついた以上は、それ以上に苦しい作業を伴う、
傷つく可能性のある方向に歩みだすことができなかった。

しかし、なんとなく、そうしてしがみついてるのは、この世界の実情と
とても離れた、ポツンと意味もなく時間を止めている行為に過ぎないのでは
ときづきはじめた。
たしかに、傷つかないのだけど(自分では苦しくても人からは責められない)、
何かが違う、と。何とも共鳴していない。

そして、日常を思い返す勇気をもった。
自分の日常が、実は全くもってリアルではないこと。
かかげている理想と、まったく違う次元で止まっていること。
けど、高い理想を持つことで、実践しない挑戦しない生き方に言い訳を持ってること。
同じところを循環していること。
なにをしているんですか?と思った。

もちろん、変化したこともある。
それは、大事にしたい。

けど、変えたいのだ。根幹とむきあう生き方に。
こころから。

そして、日常、実践、信頼、習慣化、というキーワードにぶつかって
そこでとまっていたところ、上の言葉にであった。
そう、80年すべてを「意味あるもの」に先にさせようとしなくていい。
「人生は、バランスだよ」と映画祭の語学ボランティア面接(←結局落ちた)
で出会って意気投合したJさんが、いろんな経験をへてそう感じたという話を
してくれたことが印象的だったように、
私は、先に目に見える結果を出すことに焦りすぎていた。
また、それは同時に、とても浅い観察、考察に基づいていた。
とても分かりやすいもの、目に見えるものを一義的に理解し、
そこに固執していたのだから。
けど、往々にして、やったことは何か意味がある。
そして、そのうちの一部は、後になってその意味がわかることがある。
今のこの浅い頭しかもたない自分の「意味ない」という判断を
どうして信用することができようか?

そのために、日常の今、今、で「またやってもーた」に負けないことだ。
この26年間、「またやってもーた」はもう数え切れない。
もう、思い出そうとするだけで吐き気を催すことだ。
が、「またやってもーた」からしか動けない。
そこを、どうすれば減らせるかという、自分主導の冷静化の方策を
自分で模索していくことが必要なのだろう。
過食はそれを麻痺させるだけだ。
一時的な応急処置ではありえても、時間を止めているだけ。
時間を止めることに気づくことをどんどん遠ざけているだけ。
そしてそれを必要とする時間はもう終わった。
もう十分、過食に頼った。
もう、いいよ。

日常のなかで、何をしてるときが、自分でいられる感覚に近いかなと思って、
今まで「意味ないこと」と排除していきたいろんなことを、
選択肢に戻し始めた。
たとえば、映画を見ることとか、お菓子を作ることとか、料理することとか、
運動することとか、ダンスをすることとか、人とたわいもない話をすることとか・・・

全体的なバランス、マクロな目でみたとき、そうしたいろんな要素を取り入れながら
日々を過ごしていくことが、すぐに限界に達して過食して麻痺して時間を止める
習慣を手放すことへ意識させる道である気がしてきた。
手放す必要があることすら、手放したいという自分の望みすらも気づかなかったが。

そこで、人とのかかわりというのがとても重要になってくると思う。
Nさんにたびたび言われるような
「怒らない、妬まない、業をつまない」というのとは程遠い。
日々、人と比べて、人に劣等感をいだき、ねたんでいる。
人に依存したくて、正解の人を見つけたくて、そこに落ち着きたくて仕方がない。
そういった自分の希望の投影みたいな人がいないことを嘆いている。

しかし、それは、自分が自分を受け入れてないから、そういう存在を
理想に掲げているということらしい。
縁や因縁はあると思う。
けど、頭を使って誤魔化してるうちは、すべてが「いつかはがれるもの」
ときづきはじめた。それが無駄だとは思わないが、
避けることも必要、と思う。

粘り強くあらなければならない、と思う。
正しいことをやっていれば、必ず、必ず、見てくれている人はいる。

そして、信頼とは、意識してするうちは見返りを求めているだけだ。
無条件に差し出すこと。裏切られたと思うことは、見返りが
得られなかったという打算によって生まれる。
本当の信頼関係はそんな次元にはない、と想像する。

そんなことをいろいろと考えてて、昨日会社の朝礼で思っていることを
しゃべったら、何とも説得力がないということにきづいた。
そこで、Sさんのいってたことを思い出す。
「とにかく結果にこだわれ」ということ。
精神論を一人で満足してしゃべっても、分かってくれる人などいない。
分からなくてええわい、なんて思うのは、また一人の枝しがみつきでしかない。
結局、その人の日々、一つ一つの実践の積み重ね、その取り組み方の積み重ね
でしかない。
「本当はすごいんだぜ」なんてありえない。
Nさんによくいわれる。
「奇跡なんてないんやで。全てに原因があって、結果がある」
そして反省しました。
誰かに見せるための結果ではなく、自分が一つ一つを実践しているという
確認のために、また頭の中で都合のいいように考えているだけということを
避けるために、一つ一つの事実を重ねていく重要さ。

何となく、「ありのままを受け入れる」とか「受け入れてもらう」とかいうのが
よく分からなくて、愛するというのとか、護るということが、
受け入れるということと、思考停止に何でも許すことがごっちゃになっているような。
なんかよく分からないけど、腑に落ちない感覚があった。
けれど、なんとなく今思うのは、表面的に目に見える形で「護っている」という
ことではなくて、普段は別々でも、あまりかかわりが少なくても、「護っている」
ということが可能なんじゃないか。ということ。
もし、私が親の愛情不足によって摂食障害になったとしたら、
世の中のほどんど全員が同じような状態になるのではないかと思う。
親の愛情には感謝している。
けど、愛情不足ではなく、社会や他人との衝突、対面、危険から極力
遠い場所にいさせてもらえたことが、有難かったけれど、それを自分自身も
選んだことが一つの分岐点だったのではないかと思う。
親がそうして危険から護ろうとするのはいわば普通のことである。
けど、状況に応じて、挑戦できることだ、と自分が判断して
そこにとびこんでいくこともできたのだ。その点に関していくつか思い出すことがある。
親に反抗することも、親に意見を言うことも、できたのだ。
それは、私の意思によることなのだから、もうそもそも親がどうのこうのという
次元の話ではない。だから、やはり、バランスなのだ。
そこで、自分で努力して、自分のやりたいことを、説得力を持って他人に
説明し、解決していくというプロセスをふんでいきてこなかったのは
まさに、自分の生き方の結果。
摂食障害は、親とは関係ない、と私は思う。
あえていうなら、親を含めた、自分の社会とのかかわりかたの
見つめなおす機会であるのかなと感じる。
前に本で読んだ(題名、失念)内容だけど、「摂食障害は、結局社会の中で
なおしていくしかない」ということに、同意する。

昨日も会社の人と朝までいたけど、あたしはしょっちゅう衝突している部長と
話が少しできた気がした。
しょうもない冗談や、気遣いや、カラオケや、飲み会や、そういったこと全て
の意味を否定していた自分だけど、ただSさんと一緒にいたいがために
そういう場所にいた自分だけど、そんなとらえかたはなんとも一面的だなと思う。
彼は、たしかに、めちゃくちゃなことを言う。けど、彼にしかないものがある。
そして、意味がないと思っても、足を運ばないと何も生まれない。
意味がないと思っても、話してみないと何も伝わらない。
ましてや、言語が100%問題なく通じあうわけではない関係において、
気持ちをぶつけあうことは必須だ。
「あー難しい!もうやーめた」で終わったら、もう終わり。
多分、これからも、同じように日々を過ごしていくんだろう。

だから、私は決めた。
この事業を軌道に乗せるまでは、この会社で頑張る。
誰かと比べたり、失敗をおそれたりしながらも、自分の思う働く意味を失わずに
その先を見据えた行動を重ねていくこと。
そして、今は、とにかく、腹をくくって中国とつきあってみること。
もっと恐ろしいことが、もっとありえないことが、たくさん予想される今後の展開に
逃げることはできるが、自分から絡んでいきたいのだ。

父が言ったように、「自分に回ってきた責任から逃げるのは、恥だ」と戒めつつ。
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by jengsauman | 2006-12-02 18:22