過食症を経て、一つ一つの日常を見つめる記


by jengsauman

<   2007年 04月 ( 5 )   > この月の画像一覧

恐怖を味わう

東北の旅は、ひさしぶりに苦しかったです。
私に何が足りないのか、一つ実感としてわかりました。
誰かと一緒にいることで、自分が鏡のように映し出される。
私は、主語を自分にしてないことに気づきました。
わからないことが多すぎて、でも、放置してる自分がいました。
知らない、考えたことない、逃げてきた、そう言うことができなくて、
私は最初の一歩を踏み出すことをしないまま、3や10や100を目指していた。

友達と一緒にいて、彼女が私にイライラしているように見えた。
少しずつ息苦しくなり、自分が悪いんだと思いたかった。
でも、私は、そうしてこのモヤモヤをごまかしてしまうことは
もうしちゃいけないんだと、思った。
そうして、私の会話を検証してみると、私は最後の最後に相手に押し付ける
ようなしゃべりかたをしていることに気づいた。
自分で責任を取ろう、自分の言葉を放とうという目標とは正反対の現実。
ガボーーンだった。

仕事でも、同じなんだ、と気づいた。
私は、しゃべり方を工夫しようとしはじめた。
なんという稚拙な現実。でも、我慢。
私は、いつもいつも考えていた。26歳なのに、こんなにできないことばかりで
知らないことばかりで、恥ずかしい、こんな無知を知られたくない、こんなに
仕事できないやつと思われたくない、「今からなんて遅いんだ」と
どこかで思っていた。どこかであきらめることを習慣にしていた。
だから、99まで苦しんでも、あと1が空中に浮いた。
それは、実感のない痛み。踏みしめた感覚のない大地。
真空状態で生きているようだった。

苦しまないと、幸せもない。それは頭でわかってはいても、
私は、苦しむのがこわかった。
弱いね、って言われることがこわかった。

でも、きづいたんです。
恐怖っていうのは、逃げるためにあるんじゃない。
たたかうためにあるのでもない。
それを本当に自分の運命として受け止め、
味わい、一緒に生き、楽しむものなのだと。
その過程が人生である。
何もないところから、何の実感のない理想など目指しても
何の実も得られないのではないかと思う。

私は、ここ数日考えています。経営、企画、数字に強くなること、自然への畏怖、
知恵、言葉の習得、話し方、伝えること、選択肢のない状態から希望を持つ状態へ、
本当に一番欲しいもの、身体。
一人の力は限られている。でも、一人一人が、主語を自分にしないと
何人集まっても、知恵を絞ることはできない。
私は、甘えていて、自分の意見に責任を取ってきませんでした。
そして、話すことが苦手だからって、話すことを避けていました。
でも、話したいんです。誰かとたたかうためにじゃなくて、誰かと力を合わせるため。

私は、「もう手遅れだ」、という自分に、自分をもう一度信じさせるため
動き、人に会い、勉強し、批判を受け止めたいとおもう。
まだまだぺらんぺらんだけど、一枚の紙くらい薄くても、
実を重ねていきたい。
[PR]
by jengsauman | 2007-04-24 20:52

季節

東北旅行に行ってきました。
桜を見る目的で行ったけれど、桜とはあまり会えませんでした(トホホ
でも、自然のなかで生きているという当たり前のことと身体で出会えた
3日間でした。

食べることと自分の体型とまもることが自分のすべてだったとき、
私は四季の中に生きていることを見ないようにしていた。
美しいといわれる日本の自然に目を向ける余裕すらなく、
それとどう向き合っていいのか、わからなかった。
そんなことよりも、と、いまの自分のからだのことばかり考えていた。
花見に行くにしても、そうするとのまなきゃいけない、食べなきゃいけない、
そしてこの身体をさらさないといけない。
そんな思いをもって何を観賞し、何を楽しむというのか、という思いだった。

でも、この3日間で、私は、四季を楽しむことができるまでに
自然体に戻れたのだなあというある種の感動と、
自分が知らないことがあまりに多すぎるという謙虚さ、畏敬の念、
思考停止の自分をきちんと認識すること、
いろんな感情がぐるぐるしていた。

豊かさ、とは何だろうかと考える旅だった。

あー遅刻するー!
また帰ってから書きます。
今日も1日がむばろう~!
[PR]
by jengsauman | 2007-04-23 08:55

想像力

やっと、携帯で撮った写真をPCに転送できた(パチパチ)。
携帯が新しくなってから、あまりの最新式機能にフリーズ状態だったので、
とりあえず思いつくままにやってみたら、できたー。
まさに、猫に小判。状態。

早速、最近食べたおいしかったもの。

私のだーーーいすきな会社近くのお店ののり味噌汁。これ、サイコウすぎてヨダレが・・。
むこうがわはもつ煮込み。ウヒヒ。しかしばかでかい写真(爆。
d0062933_21235686.jpg


わかめうどーーん定食。こちらお昼の部。関西人万歳の味。炭水化物セット。
d0062933_21261759.jpg


トンカツさま。あぶらたっぷり。もりもり食べて、仕事ももりもり。
d0062933_2128155.jpg


ウオオオオーーー。タコヤキー。スキスキー。いきていく上で欠かせないソウルフードのひとつ(オオゲサ)。
d0062933_2142446.jpg


山頭火のしおラーメンです。あぶらっぽすぎて困るのだが、おいしくて困っちゃう。
ちなみにこれは今日のお昼でした。ウヒヒ。マシッソッソ。
d0062933_2131474.jpg



家で作ったのを撮った写真は、机がガラスのため、その下の
惨状がまる写りでして、名前が書いてある資料とか・・。(片付けてから撮れよ)
ちょっときれいにしてから、また撮ります。ププ。

最近、何でも食べるなあと気づきました。
食べ過ぎることも、やけ食いをすることもあるけれど、
それは、罪悪感を伴わない。
あまり考えないようにしている部分もあるかもしれないけど、
今の私にとって、食は味方なのだなあと感じました。


今日、「A」という映画を見ました。
オウム真理教の荒木広報担当を撮ったドキュメンタリーだけど、
Aとは荒木、麻原、オウム、そして匿名の意のAだそうだ。
この映画を見て、感じたことは、オウムの是非、善悪という問題ではなく、
オウムとは一体なんだったのか、ということを考えようとしたことは
あったのだろうか、という自分への懐疑だ。
オウムをただ批判するだけで終わっていいのか。
彼らは「私たち」とは違う「あちら側」だから、関係ない世界の話だ、と。
真実は、裁判という場ではきっと知ることはできないと思う。
起こした事件の存在はやはり事実だと思うけれど、その経緯とそれに絡む
人間の動きについて、何の想像もしない、何の疑問も意見もないまま
悪や憎という感情で流してしまうことは、その行為こそが、形を変えたオウム
事件の二の舞になりはしないか。と考えた。
彼らは洗脳されていたから異常な行動をしていた、判断ができなかった、
だから自分とは違う。
何も見ず、聞かず、感じないまま、耳に入ってくる情報から
まとめて判断をしてしまうということを、自然に行っている自分への危機感。
執着と他人事、それは無責任というだけでなく、自分を陥れてしまう危機でもあると
強く思う。

なぜ、そう感じたかというと、荒木さんが最後らへんで話していた言葉が
自分の今の目指していることと、同じだったからだ。
まるで、自分の心を覗かれているのではないかと思うほど、彼が淡々とした
表情で語る言葉は、自分と重なる部分があった。
それで、どうする、というところが違うだけ。
だから、私だって、いつ彼と同じ立場になってもおかしくない。
そう思った。
それは、殺人事件を起こした元信者にも、通じることだ。
自分も、彼も、彼女も、同じ人間だから。

事件に関わってない信者の人が、教祖が逮捕された後も、信じることを
続ける姿を見て、私は確かテレビで報道されていたころ、なんであんな
状況になっているのに、まだ信じているのか?と思った記憶がある。

だけれども、語弊があるかもしれないけれど、まるでそれは「痩」という
絶対的なものに執着する自分に、そこまでするのはおかしいよ、
と言ってくれる誰かのような、想像力のないとても普通の感想でしかなかったのだ、
と思ったりする。なぜ、捨てないのか、それは自分がいつのまにか取り込み、
いつの間にか血となり、肉とした、自分と切り離せない、切り離すなんてありえない
絶対的な善だから、捨てるということが考えられない。そんな状況を思い浮かべた。

だから、人事ではないのだ。
私があの時、簡単に判断し、調査も分析も想像もせずに、悪と決め付けたのは
まさに、思考停止。だからこそ、何かのきっかけで何かにすがり、妄信する。
5年後には、何かの宗教を妄信しているかもしれないし、事件を起こしていない
なんていいきれない。だって、人間だもの。いつもベストではない、いつも孤独に
勝つこともできない、簡単にしょぼくれ、怒り、無力感にさいなまれる。
ほんとの正しさが欲しい、と渇望するんだもの。

数日前に見た映画に、「ブラッド・ダイヤモンド」がある。
正直、ここまで衝撃を受けた映画は、稀である。私は、集中力がないので。
世界のあちこちで、みんなが自分の正義だけで、いろんなことをごっちゃにして、
一つ一つを整理できないまま、力のあるもの、暴力を持つものが弱いものから奪い、
でも実はその裏に、先進国の利権争いが絡んでいたりもする。
特に苦しかったのは、少年兵の描写だ。
どうしてこんなことが!と映画館にいる他者である私は思って心がワサワサして
今すぐ立ち上がりたくもなるけれど、結局何もしないのだ。
知ることが第一歩、とは思うが、現場からはほど遠い。
しかし、全てのことに関して、10年以上経ってから「自分は思考停止だった」と気づいた
のでは遅すぎるのだ。想像力を持とうと努力せずに生きていくと
一生、レッテル張りと無知のままなんだなあ、とガツーンときた。
私は、今できることはないけれど、「知識」ではなくて「知」を得たいと
思う(この2つについては、BY糸井重里氏)。自分が身体で腑に落ちた理解。
どこかからの拝借ではなくて。

恐ろしいことだけれど、私は自分の中の暴力性を知っている。
ひょこひょこ顔を出す。それは、今は表に出ていないが、ヒトが傷つくことを
全くリアルとして感じず、ヒトが死ぬことを淡々と見ている自分もいる。
前は、そんな自分を「異常」だと認識し、封印しようとした。
でも、恐ろしいが、それは人間として避けられないことなのではないかと
思い始めた。封印しようとしていることのほうが恐ろしいような気がしてきて、
見つめようと思い始めた。


もう一つは、人前で極度にあがること。
今はしゃべりはじめたら普通、ということもあるけれど、私は昔、立って話せなかった。
少し話したり、読むと、声が震えて、自分がどこかに行ってしまって
全くコントロールできなかった。
いまだに、あれがなんだったのか、今もまたああなるのではないか、
そう思うだけでブルブルする。
自分の言葉で語る、なんてえらそうに目標にしているけれど
緊張することが本当に恐怖だ。


でも、物事には原因がある。
見たくないことも、見る必要がないこともあるかもしれないが、
私は、これ以上自分を見失うことがないよう、たとえ孤独になっても、
自分の目標に向って歩いていけるよう、自分の中の自分への不信感を
一つ一つ、見つめてみようと思う。何もわからないだろうけれど。

そして、見ないよりは見る、やらないよりはやる、使わないよりは使う、
行かないよりは行く、そうやって、自分の頭で考えて、足で感じて
判断する人間とふれあいながら、自分を構築していくしか今はできない。
でも、いつも160キロ直球じゃなく、フォークも、牽制球も、要るんだなあとも
思ったりした。

いつも、自分の今の答えが正しいわけじゃない、と知ること。
[PR]
by jengsauman | 2007-04-14 21:30

行動

女の子の日の前なのか、どうしようもない無力感と情けなさに潰されて
昨日、ボケーっと歩いて帰ってきた。
弱気になった時に、いつも思い出す「3歩進んで、5歩下がる。5歩下がっても、
その5歩をしっかり踏みしめていればいいんです」というOの言葉さえも、
宙に浮いている気がした。ただ、一つだけ、絶対に、今、過食はしないなという
気持ちを確かめられたことがうれしくはあったけれど、行き場のない、どういうものか
さえも知るのが怖い不安、恐怖、否定的な気持ちには変わりはなく、
ボーーっと遠くを見つめながら、歩いていた。
私は、生きて、何をしているのだろうか。なんてまた考えてしまった。

今こそ、きちんと自分の心の中のもやもやを言葉にしてみようとするときだと思い、
人に話そうとしてみた。が、やっぱり、その言葉の稚拙さに、違う~~バタバタ!
と一人悶え、でも、だんだん、気持ちが落ち着き、眠りについた。

山のように(ほんとにタワーになっている)積み重ねられる広東語の教材。
仕事でつまらない失敗や、本質からはずれた動きばかりする自分への
情けなさ、いろいろある。こんなことして、私は夢みてることに何一つ
向おうとしてないじゃないか、という批判とあせり。

でも、ちょっと落ち着いたら、そう、やっぱり、一つずつしかやっていけないんだなって
また思い直して、教材の一つ目に手をつけて、先生の声を聞くと、課題がより
リアルになり、もっと対するのが楽になってきた。

リアルになればなるほど苦しいんだと思う。でも、私たちは、リアルから
離れれば離れるほど、自分の足の感覚を失うんだと思う。
足の感覚がないと、どんどん不安を頭で増殖させる。
だから、私は、仕事に関しても、もっと現場主義であろうと努力しようと
思いました。べつにやらなくていいことだけど、べつに誰かにほめられるため
ではなくて、自分が少しでも価値あるものを生み出せるように、
努力すること、それは自分への課題であり、期待でもある。
だから、決して、その過程でつまずくたびに、ああ、だめだって思ったとしても
それをだめなこと、と決めてしまうことだけはしないようにしよう、と思った。

過食に関してもそうだけれど、そのときの苦しさは、希望を持つにはあまりに
過酷に思える。でも、それを、意味のないこと、と決めてしまうことは
とりあえず保留にしてみる。たとえ、そう思ってしまったとしても、
その自分の身体を酷使したたたかいは、自分の中に残っていて、
それを糧に生きていくんだと決意した時、そんな自分も含めて
抱きしめられるときがくるかもしれない。
全ては、今、わからないんじゃないか、と思う。
だから、意味がないと思うことでも、とにかく、思いついたらやってみよう。
そんな、毎日にしたい。

ボーと歩いていたら、ジャマイカでサッカー選手をしているはずのYくんから
携帯に電話かかってきた。留守電を聞いてみたら、
「今、東京につきました」といっている。
そういえば、彼はよく動き回っていたなあ、と思い出した。
そして、いろんな思い出がまたひょこっと出てきた。
とても大切な友達。ぜんぜん会えないけど、大切な友達。

今日、朝であった言葉に、
「なぜ、正しい道、導きにたどり着けないかというと、それはあなたが
まだ苦労していないからです」とありました。
私は、なんとなく、自分が言わんとしていたことがここに語られているような
気がしました。
本当の苦労というのは、自分を痛めつけることや、卑下することや
否定したり、追い詰めたりすることじゃなく、
ひっかかっていることときちんと向き合っていくこと。
決めたことを重ねていくこと。
自分の習慣とたたかうこと。

今日は、レディースデーだったので映画を見に行きました。
とてもいい映画だったので、また後で書こうと思います。

今から、ご飯タイム♪
[PR]
by jengsauman | 2007-04-11 23:25

自分の足場

昨日は、帰り道で、随分前に心に刻んでいた言葉をふと思い出した。

「自分とは、どこにもない。自分とは、構築していくものだ。」

私は、昨日、きづいた。
それは自分の自信なさゆえのごまかし。人への批判。
人とくらべない、と言いながらも、いつも頭の中に自分の考えた
他者との比較があること。

知りもしないくせに、人のことをあれこれ言う人に嫌悪感をあらわにするが、
自分が知りもしないくせにあれはああだ、これはこうだと勝手に決め付けている
ことの矛盾。
口だけだなあと思う。ほんとに、うすっぺらいなあ。必死だなあ。護りたいんだなあ。と。

会社の中で、私が他部署の人にあれこれ言われていると耳にして、動揺したのだけど、
それを聞いて、上司はこういった。

「ほんとに、目標があって仕事をやっている人は、人がどうのこうのなんて言わない。
人を見てる余裕がないくらい一生懸命だからだ。
俺が見てきた中で、本当に出来る人は、人をどうのこうのなんていわない人だったよ。」

だから、ほっとけ、っていう文脈だったけど、本当は私自身につきささる言葉。
ちゃんと、目標もってやってるか?本当に、自分の言葉を語ってるか?
それに向うために努力してるか?ほんとに、自分の心の奥にある欲はなんなのか
明確にしているのか?

それが明確であるならば、なんでそんな簡単に軸が崩れるの?っていう警告。

私は、恥ずかしかった。
そして、まずは、人に批判する理由を与えない範囲できちんとやり、
あとは、まずは自分の言葉に語りかけるようにしようと、おもった。
まいにちのあらゆる瞬間を、そうしてきちんとむきあっていくのは
しんどいし、時間がかかるし、骨が折れる気もするけど
結局それが近道なのではないかと、おもった。

だから、今日から、人のことを言ったり、人の話をすることで、時間かせぎや
ごまかしや自己正当化をできるだけしないようにしよう、
したら、その自分をちゃんと改めていこう、と思いました。

人は、癖がある。それに、感情にひきずられる。間違いもおかす。
弱い存在だ。なにかにすがりだすと、そこから出ることが難しい。
だけれど、必要なのは、そんな自分を「だめなやつだ」と責めることではなくて、
その行動一つをきちんと認識して、選びなおすことだ。

むしろ、それのほうが勇気が要って、苦しかったりもする。
私も、食べて食べて押し込んで、何も言わずに、全てを拒否しながら、
その自分を真正面から認識することだけは避けていた。
それは、怖くてできなかったし、あれを奪われたら、どうやって保てばいいか
わからなかったからだけど、今は形を変えて、同じ問題にあるのではないか。

この壁を、また一つ乗り越えよう。

簡単に批判しない、簡単に否定しない、簡単に絶望しない、
簡単に判断しない、簡単にあきらめない、簡単に卑下しない。

わからないことを認識する。
想像力を持ちたいと思っても、わからないことがわからないのでは
わからないのだ。

どこにも本当の自分なんてなくて、
もっとわかってるはずって思ってた自分は全然世間知らずってことばかりがわかって、
人の何倍ももの覚えもものわかりも悪いなんて、なんでこんなに馬鹿なの、
いっそ丸覚えして、きれいな言葉を借りたほうが効率がいいんじゃないかって思って、
でも、そんなこと意味ないんだって諌めて、頑張る頑張るっていっても視点が
ぼやけてる自分にいらいらして、
でもでもでも、そう考えてる時点で、私は自分を信じてない。
自分ができない理由ばっかり探してる。

目標は明確でないと意味がない。
その目標は、自分の言葉によって語られないと意味がない。
その言葉は、自分の欲、希望を語るものでないと説得力がない。
じゃないと、私は誰かのクローンか?
誰かの言葉を代弁するのか?
自分が、勝手に、表面だけをなでて判断したことに甘んじて
人生をこれからも過ごすだけに終わるのか?

友達がたくさんいていいなあ、って誰かをうらやんだとしても、
そしたら、今、ここに友達がたくさん増えたら、私は幸せなのか?

細くていいなあ、ってうらやんでも、今細くなったら、次は別の理由を
探すだろう。おそらく、間違いなく。

本当に自分が必要としてもないのに、或いは自分で努力もせずに
簡単に手に入れたものは、その価値がわからず簡単に忘却する。
本当に、自分が苦しみ、自分の言葉をさがし、自分の身体と向き合おうと四苦八苦し、
自分にいらつき、思い通りに行かないことを知る過程は、
きっと忘れない。

その記憶は、ただ、自分を語るだけのための道具にするのではなく、
そこに、自分のスタートがあることを、いつも思いださせてくれる味方として
大切に大切に、共存していきたいと思う。

毎日、構築するのだ。ちっぽけな目標でもいいから、明確に。明確に。
[PR]
by jengsauman | 2007-04-06 23:20