過食症を経て、一つ一つの日常を見つめる記


by jengsauman

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愛情について

「愛」ってふしぎだなあってさいきんよく思う。
人を愛すること、自分を愛すること、が甘えにならないような関係が理想だ
なんて言ってはみたものの、やっぱりなかなかむずかしい。
だけれど、いろんな人たちの間のいろんな関係、いろんな形をみて、
いいなあと最近よくおもう。
そして、むかし考えてたような「こういうのがいい」「こういうのはいや」っていうのが
自分の実際と何も相容れてなかったことを痛感する。

たとえば、依存しあっていると言う人たちに対して、「それは共依存だ」なんて
言える権利などない。だって、自分が見てるものしか見ずに判断してるんだもの。
人の関係っていうのは深くて深くて深いもの。
深ければ深いほど、うわっつらの思考停止が浮いてしまう。

いわゆる「だめなこと」「いけてないもの」と世間で言われているものに対して、
バツ!と言って見たところで、「それがなんやねん」っていう話や。
私の親はよくそういう反対の仕方をする。それは、私を心配しているからなのだけど
私は、今はそういう考え方をしたくないなって思うようになった。
別に親を批判してるわけではなくて、親を安心させるだけの実績を作れば
いい話なのだ。私はこうしたいから、これまでもこうしてきたので、こうするね。
応援してね。といえばいいのだ。

なんだかんだ、親不孝ものの自分、という責め方をしてきた記憶があるけど、
それって自分の考えがぐらついているときが多い気もする。
数年前に、自分の目指していた正しいキャリアが、親が実際まったく求めてなかった
ものだっとわかったときのショックは鮮明に覚えている。
なぜショックを受けたのか、というと、いつも自分の心の中と相談する前に外に相談
していたからだ。チラチラ外を見て、「正しいよね、私の道間違ってないよ」っていう
確認を、思い込みを、強制的に済ませてきていたために、それが実際は求められてない
ことだとわかったときのショックは、漫画でぐるぐるうずまきみたいなのに落ちていく
主人公(?)みたいな気分だった。「ええ~~~~~~~~~~~~~」ってなかんじ。

そして親はいったのだ。「○○ちゃんがやりたいと思うことを一生懸命やってくれたら
それだけでいいんよ」。ガツーーーーーーーーン。そらそうやわな・・。

というわけで、私は親のせいにせずに、まわりのせいにせずに、自分のこれまでの
やりかたのせいにせずに、気持ち悪いと思ったことを一つ一つ直していこう、
そして、試してみようと思っている。簡単じゃない、けれど、何か思いついたら
やってみる。すぐ躊躇する自分の背中をそっと押してくれるような存在、が
いたらいいけど、そういうことを考えると、そういう人がいないせいだとまた新たな
言い訳を作り出してしまうので、考えないように・・(笑)。

話を戻すと、「だめなこと」というのは、法律的、倫理的、道徳的、世間一般の常識的
いろいろな種類があるだろうけれど、それに触れるからって「はい、ブー」という
人間は、想像力があまりにない(自分含め)のだなとおもう。

私の親友は、上に書いたような共依存だと自分で言っているが、
だからって「そらあかんで」なんておもわない。
今の彼女には、今から一歩を踏み出すために必要なものなのかもしれないし、
「だめなこと」なんて誰もが思考停止に思ってしまうようなことに目を奪われると
何も見出せず、何もできなくなってしまう。食べることしか自分にさせてあげられなく
なるような、がんじがらめだ。

なんだか、話がとびとびになってしまったけれど、ふと自分の周りの愛情について
考えてみた。書く前は、大阪の職場に転職しようか、なんて考えてたけれど、
書きながら、なるほどそういうことか、と思ったりした。
一緒にいる時間が長い、というのはいいことだ。
だけど、単にそれだけに甘えて、自分が親を大切にしている、ということはやっぱり
ちょっと違うような気がする。いや、大切にしてることは確かだが、自分の人生を
切り開き、自分にできることを一生懸命やる、ということから逃げてるように思えてしまう。
親に「産んでくれてありがとう」と心から頭を下げて、お礼を言えるように
なるには、自分とたたかわないといけないことがまだまだたくさんあるのではないか
と思ったり、未熟すぎるなあと思ったりする。
とはいえ、仕事で大阪に行くようなことがあれば、万々歳なのだけど。。
もちろん、いっしょにいたい。でも、一人でいさせてもらえるチャンスがあるのだから
それを生かさずに、戻るのは親に対しても運命に対しても、「無理でした」と
さじをなげることになる。できるだけ大阪に帰るようにはしたいけど、帰らないことを
悩む暇があるなら、今やるべきことを具体的に考えて行動したほうがよっぽど
実になる。

過食症のまっただなかで、ずーっと食べてたとき、夜中お湯をわかして乾麺を
3人前くらいゆでながら、パンをほおばりながら次に何をたべようか考えつつ、
自分の肉をつかんで鏡を見て醜いなって嘲笑しつつ、
私は実家を出たことを何度となく後悔した。
いつも一人で、一人なのは自分が選んでるとも思わず、人とまじわればまじわるほど
自分の知らない世界とぶちあたって、ひるむことがこわいからやらないんだとも気づかず
実家にいれば摂食障害にならなかったのだと思い込んでいた。
実家にいたときは、親友もそばにいて、細くて、食べることが楽しくて、お金にも困らず、
すべてがうまくいってたのだから・・と。そして、異常な食行動のみを問題を思っていた。

しかし、出てきた以上は何もなしには帰れないということで、今も東京にいる。
そして、最近になって、あの時家を出たさせてくれたことを、120%感謝する
ことができるようになった。私は、もしずっと家にいたら、過食症にならなかった
かもしれないけど、何も得られなかっただろう。身体で感じることの重要さ、
本当に自分に必要なものと向き合っていく過程の難しさ、
自分の無力さ、今知ってると思ってることの危うさ。
何も考えなかったのかもしれない。
これからも、難しいなあ~といっているだけかもしれないけど、
身体を通して感じたいろんなことを、無駄にはしないようにしよう。
きっとそうしてやっていく何かが、何かに繋がることなのかもしれない。

人生は、歴史の1点でしかないのだろうけど、でもその1点で出会えた
人、もの、環境は自分にとってオンリーワンだ。できることなら、すべてに対して
100%素直な自分で対し、力を合わせて足りないものを補っていくということを
したいけれど、すぐに殻をかぶって言い訳の方向に走ってしまうのが悪い癖だ。
でも、すこしずつすこしずつ、すこしずつすこしずつ、行動していこう。
愛情とは、愛そうとするものではなくて、自分の素直な気持ちにしたがって
行動した結果、ふりかえってみたらそこにあった、というイメージなのでは
なかろうか。などとそれらしいことを思ってみた。

「愛してる」なんて、考えてみたり、声高に言ってみたところで
なんだかウソっぽさが助長されて、むなしくなる。
ためしに親友のひろちゃんに言ってみたりするけれど、
なんだか違うなあって思ってしまう。ああ、私いまごまかそうとしたなって思っちゃう。
でも、自分の心の中にある確固とした信頼。少しずつだけれど
身体で感じられるようになってきた感謝。困ったときに絶対的に助け合う気持ち。
そういうものを言葉にできないので、愛情といったりするのかな、みたいな。
結局言ってるんじゃん。なんやそれ。

支離滅裂になってきたので、言葉が浮いてるようなので
そろそろ勉強たいむへ。
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by jengsauman | 2007-06-09 00:41

ひとのふりみて

正しい、誤り。
良い、悪い。
常識、常識はずれ。
思いやりがある、ばちあたり。

生きていると、そんな二択では、今まで持っていたような乏しい二択では、
どうすることもできないこと、というのがたくさんあるらしい。
そんな恐ろしく、どう恐怖を予測していいかもわからないような
事態に当たることを恐れて、私は先回りしてちいーちゃい世界の正しさを
握り締めて、握り締めて、呪文のように自分に「正しいからだいじょうぶ」と
言い聞かせてきた。

それは、現実を見ていない、という一言で済んでしまうかもしれないが、
それが、そのときにできる唯一の自分の行動であるならば、
それを頭ごなしに否定することも、本質から離れてしまう気がする。

目の前の、自分にとって本当に必要な、身の丈に合った目標を
ひとつひとつ達成していくことが、とにかく必要なのだと毎日思い返しはするのだけど、
けど、選ばないといけないときというのはあるようだ。
今、何をするかが、自分のすべてなのだから、自分のすべてがウソに思えるなら
まずひとつどこをどう変えれば、自分の実感・共感に近づけるかを耳をすませて
「ええー。それはないやろ」というどこで作られたかはわからないような限界や壁を
ひとつずつ、必要ならば壊すことが必要なようだ。

好きなこと、やりがい、本当のなにか、というようなものって
続けることからしか生まれないのだと、いわれたのだけれど、
まさにそのとおりで、そして決してきれいなことだけではないのだろう。
だから、今想像できることっていうのは、今の段階の可能性とリスク回避
やすぐに感情的になって動揺しないためのわずかな鎧でしかない、と思う。

おととい、中国の現地子会社の社員との考え方の違い、コミュニケーション不通、
あたまがかーっとなって、私は押し付け論をがああっといってしまった。
そういうことをしながら、私なにやってるんやろうって思った。
こんな小さい世界でさえ、すぐに自分の正しさを通そうとして、
そして通らなくて憤っている。
そして、こんな小さい世界でやってることなんて、世界全体から見ると、なんの意味もない。
と思っていた。やる気がどんどんなくなり、責任感のかけらもない仕事の仕方を
していた。

そこで気づいてください、自分、と今思うのだけど、その行動って自分がその中国人
にキレてる内容と同じなのだー。私はメールで、「あなたは仕事に対して何も信念が
ないのか!いい加減責任を持って行動してくれないと困る!」という内容を
書いたのだけど、その言葉、そのまま自分に返してください、って感じだよ。とほほ。

んでもって、壮大な夢を持つのは結構なことだが、それが一人で完結しているような
構想は100%失敗する。なぜなら、自分でできる範囲なんて、たったわずかしか
ないからだ。

今まで、その土地で当たり前として通ってきた言わば伝統的慣習のようなものを
「それは誤りである。」とか「それは効率的でないのでこうしてください」と言って
受け入れられるわけがない。
自分に置き換えて考えなかったから、イライラしたのだ。
多様な背景をもった人間のコミュニケーションということをすっとばして
自分の正しさだけしか見てなかったから、イライラしたのだ。
私が、「痩せるということに固執するのは意味がないのでやめてください」とか
「あなたがこだわっていることは人生において重要なことと関係ありません」
といわれて、「あ、そうですか」なんてずえったいにならないもんね。。

それでもって、その社員のことを考えていらいらしていた自分は、
時間を止めて、何も改善策を考えていなかったのだと気づきました。

自分の目標として考えていることと、今やっていることはあまりにかけ離れていて、
早く区切りをつけないと人生を無駄にしてしまう、と思っていたが、
今日気づいたことに、そういう「どうしようもないと思われること」を「どうすれば
変わろうと思うきっかけを与えられるか(自分含め)」という自分の知恵を絞るのは
どこに行っても変わらないだろう。
日本から一歩外に出れば出るほど、そういう機会が多いのではないかと思う。

よく考えれば、こんなようわからんことばっかりおきるのに
私はいつも目線が同じだったな。中国に行って直接現地の状況を見ようとか
思ったこともなかった。ゴウマン。経費削減とか、なんじゃかんじゃ言い訳が
無意識にされていて、私は同じところにずっといることを「まちがってない」と
言っていた。

それがたとえ、社内では正しいことでも、目線を「より多くの人により良い教育を」という
理念に基づけば、はなはだばかばかしいことである。

そうして、最近、私は自分の現状把握が少しずつできるようになってきた。
あまりに遅すぎるというか、よく就職活動の本とかにも書いているらしい自己分析
というものなのだろう。何が足りなくて、何があって、何を伸ばして、何を補充するか
っていうためのおおもとになること。
26歳でそんなこと考えてるなんて、口が裂けても言えない、と思っていたけれど
正直に素の自分を見れば見るほど、言わないとどうにもならないと思えてきた。
別に声高に言う必要もないけど、私は今までそんなことにまったく気づきませんでした、
けど、いろいろなことを経て、今こういう考えにいたりました。そうすると、
今自分がこうすることで、こういう可能性が生まれ、次の世代にこういうことを
できるのではないかということを考えるにいたりました。ばくぜーんと。

世間知らずの自分が今感じている勝手なことだけど、何かを任せられる人材
というのは、「その人にしかできない」からなのだろうけど、それってとても多岐に
渡っている。日常レベルから宇宙レベルまで。私は、とにかく、今はいろんな背景を
持った人のなかで、自分を卑下せず、自分の構想を持ち、他人を折衝しながら
現状を変えていくというようなプロジェクトにかかわれるような人間になりたい、と思う。

そうすると、その中国人社員とのやりとりというのは、なんの「魂」もこめられていない
作業だったということがわかります。私は、自分を信じられないがために
すぐに日々のことを作業に変えてしまい、できなくても流すことができるように
仕向けているのです。そこで、あえて自分に挑戦する機会をひとつずつ
つくっていこう、と思った第一弾が簿記ですが、またお決まりの「意味がない」という
思い込みによって、勉強が進まず、このままでは確実に落ちてしまいます。

夢想ではなくて、妄想でもなくて、ビジョンを描くことは、今の行動ひとつひとつを
明確に意味づけることなのだろうなと思いつつ、今もまだ数字を見たくない~
と思っている甘えた自分に喝!!

自分1:うう。苦しいから過食したいよう・・・アグ(涙)。
自分2:メッ!意味ないってわかってるでしょ。それより勉強せよ。
自分1:そうやけどさ、全神経で集中できへんねんもん。
自分2:それでもいいから、とにかくむかってみ。いろいろ考えながら、
いろいろ読みながら書きながらでもいいから。
自分1:せやな。とにかく、やってみるわ。

ヒトリゴチ・・・爆。
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by jengsauman | 2007-06-09 00:02

自分という船にのって

昨晩、ひさしぶりに、とにかく食べ物を摂取したい、と思った。
とにかく、何も前に進んでいないというあせりから、かなと勝手に想像した。
自分が行っていることすべてに対して、否定から入っているのでは、と思った。

私は、自分が自分であることをとびこえようとしていたのだなあと思った。
いろいろ食べて、どれもが自分を満たしてくれるものではないと
知っていたけれど、食べてみることにしました。
茎わかめ、アイスクリーム、チョコレート、あめちゃん、おまんじゅう。
やっぱり、どれも違った。
でも、最後に、冷凍庫を開けて、ごはんをみたとき、
なんとなくほっとした。

ごはんをチンして、ひじきふりかけをまぜて、おにぎりにして
食べた(夜中12時くらいやったけど)。
私は、罪悪感よりも、ほっとした感覚にほっとした。
なんていうんやろう、ほんのわずかなバランスが崩れかけたのを
やっぱりいつもの場所に戻ることで、ほっとできたときの感覚というか。
自分を無視してたんだなあ、自分のすべてを踏みつけて息を止めて
見ないようにしていたんだなあ、とふと感じた。

で、その後、私はやるべき簿記の勉強もせずにお布団に入った。
やりたくなかった。試験に受かって、合格したという名目がほしいための
勉強なんて何の意味もないと思ってたからだ。
でも、やると決めたことを最後までやらないと何も始まらない、
また投げ出すのか、と思った。
いつもこの繰り返しであるような気がした。

少し経って、私は、愛してると言ってほしいという衝動に駆られた。
でも、そこでふと気づいた。
私は、私に「愛してる」と力いっぱい抱きしめてほしかったんやないかなあ。
というか、大事にしているという実感がほしかった。

なにしてたんやろう。
毎日、人のせいにしたり、どんな経験も必要なんやって言い聞かせて
ただ何も動かさずに、そこにいて、しんどいふりしてたんやって思う。
私は、何も生み出してないし、何も感じてないし、何もつなげてない、気がした。

結局、今できることなんてたいそなもんじゃないねんけど、
私、あきらめすぎてたとおもう。
組織のせいにして、人のせいにして、自分の語学力のなさのせいにして、
何も問題はここにはないけれど、外部の問題のせいで・・という片付け方を
していたとおもう。
だから、外野のどうでもいいことを、聞き流すことができない。
本当に必要な点を見極めることができない。

しかし、こうなったら、おしりの穴まで見せる覚悟で
自分の稚拙さ丸出して、言ってしまえばいいやないの。
そうおもった。何したいの?っていう問いを持ってることが
恥ずかしくて、あほを出すのが怖いけれど、現実はここにしかないので
ありがたく、それを見るか、見なかったことにするかの二択しかない。
見るのは怖い。知るのも怖い。でも、別に一人じゃなくてもいい。
自分ひとりで、闘うんだ!なんてムリムリ。リーム。

ハハと呼んでる友達がいる。おかんみたいな子だから。そのまんま。
ハハは、早くゴルフを始めなされ、といふ。
ハハはとってもうまいらしいので、一緒に回ろうぜという。
未知の世界~~。ゴルフ。

どうも、体をあまり動かさない、しかも日焼けするスポーツは
意味がないとやったこともないくせに勝手に思っていた(ゴメンナサイ)けど
私は、純粋に、楽しみたいという衝動にかられた。
自分の体をしんじて、自分の体との距離をもっともっと近づけていくために
今できることをやろうと思う。とりあえず、簿記の試験が終わったら、
道具を買いにいく予定♪うほ。

今日、会社の人に、呼吸法教室(あやしげだが興味あり)を紹介してもらった。
あやしいんやけど、自分の意識や行動の方向が、今までの宙に浮いた
かんじから、少しずつ自分の足下に近づいている気がして、
それはうれしかった。結局、やってみな分かれへんねんけど。

少しずつ、自分の生活を、見直すことができるようになってきた。
食生活がいちばんやけど、化粧が気持ち悪くなってきたり(よしあしはともかく)
ヒールがいやになってきたり、スカートよりズボンをはきたくなってきたり
でも時々ワンピースが着たかったり、なんか自然にしたいなあって
思うようになった。
なんで油を顔にぬるんやろう、ってふと思うと、ファンデーションを顔に
つけるのがためらわれるようになった。まるで、高校のとき、はじめて
化粧品カウンターにいったときの、あの疑問をまた感じたようだった。

そんなこというたかて、あんた、すっぴんでようあるいてんなー26歳やのに!
って言う人なんて、実は誰もいない(たぶん。
私が気持ちいいやり方で、笑顔でいることが一番なのだと思う。
なので、当分、ファンデーションさま、サヨウナラ。
たぶん、合コンとかに行く前は、張り切ってつけてるだろうけれど。
そんな自分もご愛嬌。
わかってる。だから得られるものなんてないんだよ。
自分がこうしたい、今日はこうあるのが気持ちいい、そう思うから
そうするだけなのよ。

ふと、ネットサーフィンをしていたら、ひさしぶりに斉藤学さんのブログに
たどりついた。そこにとても共感できることが書いてあった。

体に悪いアディクションから、体いいいアディクションに変えていく。

悪じゃない。自分が悪と思うことは、いくらでもプラスに変えられる。
昨日、ひさしぶりの過食衝動に、ひるんだ。
でも、過食衝動におそわれたら、すぐに降伏する。へたにじたばたしようとしないで
穏やかに自分の発する信号を、受け取ろうとしてみる。
そうすることで、なんだかわからないけれど、私はわかっているらしい、と
思うようにしてみる。そうだろうと思うから。

人間は、忘れてしまった自分を体験し創造するために生きている、という
ようなニュアンスの文章が、『神との対話』にあった。
感覚でしかないが、私は私であることを知っているんじゃないか。
なんて感じたりする。

肌の手入れ。爪の手入れ。なにかをつけるんじゃなくて、いまあるものを輝かせる
ために何をするか、という動きが気持ちいい。

やっぱり思うけど、美しさってオーラだよなあって。
でも、それは、頭でわかってるだけなので、
自分の気持ちいいように、ちょっと歩いてみてから
言葉にしてみようとおもう。

斉藤氏のおことばの続きやけど
ステップアップというのは、いわゆる「ナントカ資格」をとるとか、そういうふうに考えてしまうとつまらない。いちばん肝心なのは、価値の転換みたいなものを、自分の中に起こしていくことだと思います

さて、がむばって勉強しよう。
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by jengsauman | 2007-06-05 23:20