過食症を経て、一つ一つの日常を見つめる記


by jengsauman

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昨日は、留学時代の友達@8月末まで東京、と一緒に鎌倉にいってきた。
すげーつかれた。歩き回ったせいというより、きちんと向き合う&日本語
が使えないというダブルパンチで、へとへとなった。
彼は、私が「~はいけない」「~しないといけない」と口にするたび、
「どうして?」と聞くのだった。そして、度々答えられなかった。
どこで身に着けたのかわからないような正しさを、私はまだ手放せないんだなあと
何度か感じた。でも、「それを感じることでもう半分は克服しているよ」という彼の
言葉と、自分の中で「ま、いいか」と許せる気持ちにぷかぷかと身をゆだねて
湘南の海辺をてくてく歩きながら、海の先のほうが自分の存在とつながって
いるような気がした。ま、ええか、と言い聞かせつつ、どこをどうかえていきたいのか
と考えたりしながら、いろんな場所を歩いた。

私は北鎌倉の建長寺がとてもすきだ。
ゴールデンウイークにも父母と姉夫婦と一緒に行ったけど、
昨日はとても人が少なくて、ずーっと立っていても良かったほど。
あそこにある、釈迦の修行像の厳しくて優しい姿が、祖父にかぶって、
あそこにいると、「ここに在る」ということをただただ意識させてもらえる。

そういえば、昨日、鎌倉にいるとき、海外から電話がかかってきた。
でてみたら、どこの誰ともわからない香港人が、香港からかけてきたらしく、
猛烈なスピードで広東語でしゃべりまくっている!まったく意味不明。
あまりにきょとんとしてしまい、「あのー私日本人なんですけど。
おかけ間違えでは?」といったら、また更にスピードアップ。
何を言ってるのかよくわからんし、第一誰やねん!と思って切ったけど、
あれは一体なんだったんだろうか。
私の名前を知らなかったから、知り合いではもちろんないけど、
広告っぽかったけど、香港の広告の電話が日本の携帯にくるかっちゅうに(アゴーン。
もしかして、前に送った就職の問い合わせの返事か?とか
もしかして、香港ラジオに送ったメールへの返事か?とか
妄想してみた。きっと違うだろう・・・パオーン

そこで、なんだか不思議な感覚だった。
誰かに呼ばれてる気がした。ああ、やろう、って感じで。ああ、行こうって、感じで。
人の動機付けっていうのは、こういう感覚に基づくものならば、なんて自然なんだろう
って、分かったような、まだ誰かの思想にのかってるような、そんなことを考えたりした。

でも、身体との対話や勉強の放棄をしてみて、結局、自分のそうあるようにしか
どうにもならないんだ、ということを強く感じた。
やりたくないなら、やらなければいいのに、どうしてやらなければならないと思ってしまう
のか。そう思ってやめてみたら、結局時間を経るうちに、やりたいという思いは
どこかから拝借してきた思いではなく、自分の中のどこかから生じたものなのだと感じた。
それと同時に、どこかから拝借してきていたいろんな「やらなければならない」が
どこかにいってしまった。今はそれがなんだったかさえ思い出せないものが多い。
自分の中から生じたものは、それがどこから生じて、なんのために生じたのかは、
分からないし、分かれない。
でも、それは自分の問いであり、自分の課題であり、自分の一部なのだとおもう。
別に、勉強をやめても、仕事を何も考えずにやっても、運動をしなくても、
実際のところは、自分は大して変わってはいない。それは、本当に見つめるべきところは
自分の問いからなのであって、その過程に存在する(と頭で考えた)もののうわべを
触ってすぐに結果を求めたからって、自分の根は何も変わらないからだ。
そう分かってから、私はあせることを極力放棄しようと試みることにした。
明日死ぬかもしれないから、なんて考えても、それなら最後に笑って死ぬか、と考える
ようにしたらいい。もう時間がないからと自分の問いと向き合うことを放棄し、誰かの
提起してくれた既存の何かに頭を悩ませるふりをして、自分を主語にしない人生など
生きてはいけない。死ぬ瞬間まで、自分の訓練をやめないようにしないといけないんだと
わかった。

鎌倉で、友達は、私にいった。「この道路のまんなかのミミズ、こっちの草むらに戻して
あげようよ」私は、触りたくなかったし、第一どうでもいいと思っていた。
けど、彼は「これはミミズじゃないよ。誰かの声なんだ」という。
彼は、根拠のない道徳という名の「きまり」にNOを示すとともに、自分へ向けられた言葉を
たとえ虫や魚からでも、耳を傾けようと試みるひとだ。
もっと自分の考えを人と共有したほうがいい。もっと自分の今の姿を受け入れたほうが
いい、といってくれた。

自分の考えを人と共有するためには、自分が今どこにいるのか、何ができて何ができない
のかをきちんと把握できていないといけない。隠したり、できるふりをしても意味がない。
怒っても言い訳しても意味がない。
ほんとに、足を前に進めたいならば、自分の軸を育て、自分の言葉を増やす必要がある。
ごまかしてる、でもいい。でもそれをごまかしてる、と認める自分が必要なのだ。
そこから、じゃあなにをする、と考える方向にもっていく自分が必要なのだ。

そういうひとつひとつの細かい作業って、ほんっとにしんどいし骨が折れる。
そういうときに、あーもういやーって思って、壮大な漠然とした夢を思うと、不思議と楽になる。
なるほどなあ、こうやって私はある程度まで来たらそれ以上を追いかけてこなかったんだ
なって思った。しんどいもんね、傷つくのもいやだし、一生懸命やったことが間違ってたら
いやだもんね。でも、昨日の電話やお寺との出会い、友達との話を通じて、
恐れなくていいんだって思ったねん。
いつだって、信号を受け取ることができる。いつだって間違いを指摘する信号は受け取れる。
ひとりでとじこもりさえしなければ。

思い込みでもいい。自分で、よしって思うこの感覚に乗ってみよう。
とりあえずそうやってエネルギーをためるのだ。自分をしんじるエネルギー。
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by jengsauman | 2007-07-22 14:40

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ベーグル、うまい!
会社の近くのベーグル屋さんに、しょっちゅう行ってお茶をするのだけど、
昨日初めてベーグルを買った。うまー。
これ、おやつです。うひひ。晩御飯も食べるつもりな爆な自分。
自分の食欲を、とても愛しくおもう瞬間がちょくちょくある。
結局、いっぱいは食べられないけど、めちゃくちゃ前のめりになって
「おなかへったーー」と言うことの自然さを改めてかみしめると、
うおーーーと感涙の衝動にかられる。

先日、「神との対話1」をよみおわった。新幹線が人身事故で止まっていた間に
ちょうどその本を持っていたので。事故のせいで終電なくなって大変やったけど、
やっぱりなんかそうなっている気がした。(とはいいつつ、文句いってたけど。
だって、対応悪すぎやわ鉄道会社)
共感できる部分と共感できない部分と意味不明な部分があったけど、
これからずっと心に刻みたいと思ったのは、
「人生は創造である」「あなたに今必要なのは、自分自身のデータを見つけることだ。
そうすれば根にある考え方が変わり、自分の考えを根にすることができる。」
「あなたの心は他への反応でしかない思考で満ちている。他者の経験から生じた思考だ」
「自分が何者だと思うか、そして何者になりたいと思うか。それがすべての選択の基準である」
読みかえせば、また気づきがあり、反省があり、意味不明があり、創造があるのかもしれない。

習慣のようにしみついている、「どうせできないよ」という否定の思考を追い出すために
えいっと行動を起こすようにはしているものの、しょっちゅう出会う自分のリアルとのかけ
離れた距離に、がっかりする。でも、そこでまた思考している場合ではないし、
結局は、今「している」ことに問いかけつづけなければいけない、というか、
今「在る」ことを感じなければいけないんだろう。
わかるようなわからないような。
本の受け売りで、ほんとは理解してないんだけど、忘れないように。

主語を自分にして語ることは非常に難しいと気づいたが、
そうではない会話やそうではない思考は、なんだかそれとは見た目違うものとも
大して変わらないような気がしてきた。要は、違うもんはぜんぶ違うんだろうな。
ごまかそうと、ちょっと付け加えてみても、言い訳してみても、いっしょやねんな。
相変わらずわからないんだけど、でも自分の言葉を少しずつ、自分の感じたことから
絞り出してみることは、意味があるんじゃないかと思う。
それを世界に触れさせてみると、壮大なつもりだったものがすぐポシャっとつぶれる。
ガボーと思うが、それでいいんだ。

正直、とてもいやだった上司が、実は自分のことをとても考えてくれていたことを
薄々気づきつつ、改めて知った。私は、何に憤っていたのだろうか。
きっと、上司の傲慢に見える態度やいろんな予期せぬ出来事が対象ではなかった
のだろう。きっと、自分への苛立ちだったんだろう。何のために、今ここにいて、
何のために、今それをしているのか。考える時間と、手を動かしてる時間が
完全に分断されていたのだと思う。手を動かしながら、考え、改善する余裕が
なかった自分への苛立ちだ。

べつに、○○でなくていいんだ、ときづいた。というか、○○という、特定のなにかに
自分が合わせていくことなんてできない。むしろ、どっから見てもようわからん、
そんな人間になれるように、いきていけたら、そんな日々はきっと楽しいだろう。

先週末、大阪にかえって、おかあさんといったクラシックのコンサートは
いまいちだったけど、そのあいだに思いついたことは、「どうせむりや」を久々に
反駁するナイスアイデア(ぜんぜん普通のことやけど)!
そうや、いつだって方法はあるよ。間違ってても、やってみるしかない。
それが創造につながる、のかもしれない。
そして、ママとまたクラシックいこうね、って約束して、東京にもどりました。

もっと、まえのめりに、軽快に、フットワークが軽くなるには、どうすれば
いいんだろう、って考えてる時点で、もう重いことが確実な自分に苦笑しつつ
あしたもがんばれ、といってみる(笑。
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by jengsauman | 2007-07-11 19:53