過食症を経て、一つ一つの日常を見つめる記


by jengsauman

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やまのぼり

先週の土日で富士山に登った。

今年の夏にどうしてもしたかったこと、というより、ずっと「いつかしたいなあ」と思っていたことだ。きっと、そう言ってる限りは永遠に登れないだろう、と思って、いってきた。

思っていた以上に、必要なものがいろいろとあったので、新宿の「好日山荘」というお店に
2回通って、そろえました。楽しかった、けどいろいろとお金がかさむものでした。

登山は思っていた以上に、とても苦しかった。つらくて、痛くて、苦しかった。
普段から体力づくりをしていないせいもあるだろうし、私が山をなめていたのもあると思う。
なめていた、というか、「ヤマ」という全くリアルのない世界で勝手に考えていただけだった。

実際の富士山は、岩場や砂利や砂で、「ヤマ」ではなかった。何度もめげそうになった。
一番つらかったのは、なかなか頂上が見えなかったことで、一体何を目指して
こんなに苦しい思いをしているのだろう、と気持ちが何度も切れそうになったことだ。
夜遅くなっても、予約していた8.5合目の御来光館にはなかなかたどり着かず、
大雨は降ってくるし、風もはんぱなくて、ぶるぶる震えながら、それでも「一歩一歩」と
何度言いながら、足を前にだしただろう。

やまのぼりって、日々の日常と一緒だなって、なんだかふと感じた。

目指してるものがわからない時、人はほんとに歩く力を失う。
でも、歩き続けられるのは、自分がそれをしようと決めたのだ、という信念があるから。
それを失うと、きっと簡単に足を止めてしまうだろう。なんのために、今を生きているのか
わからなくなる。

苦しいとき、もう一歩、あと一歩だけ、更にもうちょっと、そうして自分に対して
「限界を決めるな」と何度も言った。わたしは、あきらめることに慣れすぎて、
きっとこうだろうという自分の頭の世界に安住することで、リアルをどんどん失って
いたと思う。それも思うだけで、ほんとは感じてなかった。

結局、本当に知るためには感じるしかないんだと、言葉だけで生きようとしていた
自分のあさはかさに気づいた。そして、苦しい思いをできることが、ありがたかった。

6,7年前、NHKの「地球に乾杯」で、ロシアのワガノワバレエアカデミーの特集を
放送した時のビデオを、すりきれるほど見たけど(引越でなくなってしまいました。(大涙))
今でもよく思い出すシーンが2つある。

1つは、1人の生徒の言葉。
「人生は下りのエスカレータに乗って上に上がるようなもの。立ち止まるとただ
下がっていくだけ。でも一歩一歩あがっていけば、いつかは上にたどり着けるかもしれない」

もう1つは卒業する生徒たちに対して、先生が言った言葉。
「つらいときこそがんばりなさい。そういうときにこそ、人は第二のパワーが出るのよ」

私は、このビデオが大好きだったけど、富士山に登りながら、やっとそのことを
身体でかんじたのだった。
一歩一歩進むしかない。とにかく、それしかない。つらい、苦しい、それがないと
人は歩けなくなる。

夜に山小屋で数時間寝て、夜中2時に起きて、頂上を目指したけど、
自分もあまり熟睡できなかったせいか、ひどい吐き気で歩くのも無理だと
何度もおもった。このままでは、御来光に間に合わない、というペースだ。

数メートル登って、休んで、を繰り返し、絶望的に座り込んで空を見上げたら、
空には、目がおかしくなるんじゃないかと思うくらい、星がかがやいていた。
そのとき、初めて「星屑」という言葉がある意味を知った。
空が近かった。人間ってちっぽけだなあ、と感じた。

そこから、少し休んで、空を見上げ、を繰り返した。
夏休みで人が多く、渋滞で止まりながら、上を目指したが、
9合目か9.5合目くらいで、もう空が白んできたので、そこで座って
ご来光を待つことにした。

そういえば、当初は、頂上で御来光を見るつもりだったのに、
私は、「間に合わなかった」なんてあまり思わなかった。
いつのまにか、目的は「頂上へいくこと」というより、「自分で決めたことをやりとおすこと」
にシフトしていたからだ。時間がかかってもいい。予定を変えてもいい。
でも、自分の決意を簡単に捨てないで、とにかくそれだけを心においていた。

やまのぼりは、人生に似ている、ということを感じたのは、
周りの人を見ていてもそうだった。
歩いていると、つらくなって休憩する。いつもの温室ではとてもありえないような
ギリギリ感でいっぱいの自分になる。
でも、周りを見ると、みんなは自分よりも元気で、自分よりも早く歩いているように見える。
休憩さえしてないんじゃないかとも思う。

でも、そうではない。みんな、休憩が必要で、みんな自分の歩みを重ねている。
自分は簡単に周りと自分を比べて、自分の世界で自分が勝手に見たものだけで
判断するが、そんなものは自分の殻にとどまるための利用にすぎない。
勝手に劣等感を持つのも、勝手にライバル視するのも、嫌悪感を持つのも、
ただ、逃げたいだけなんだ。まもりたくて、現実がこわくて。
それぞれの人は、みな自分のペースで休んでいる、自分のペースで苦しみ、
それでもまた立ち上がり、前に向かって歩く。
体調が悪くなって下山する人もいる。でも、それは負けでも悪でもない。
また、歩けばいいんだ。
いつもと同じように、ふてくされて、あきらめて、自分の可能性を自分でつぶしてしまったら、
私は山の中から出ることができなくなっただろう。
つらいけど、やっぱり歩くしかないんだ。と。

富士山の御来光はとても美しかった。まんまるくて赤くて熱いエネルギーが
雲のあいだから、あがってきたとき、毎日こんなことが起きていることさえ
知らない自分は、本当に生きていたのだろうか、と思ったりもした。

くしくも、今日は私の27回目の誕生日で、0時過ぎに電話をくれたのは、
22歳のときから、ずっと同じように電話してくれる香港のともだちだ。
私に広東語をおしえてくれた人。「最近広東語どう?」と聞かれて、
また自分にがっかり。こういう感情、もう持ちたくないな。
もう、自分に失望したくないな。というか、失望しても何も変わらないから、
その次の手を打つ人間になろう。

27歳は、経験の1年、忍耐の1年、訓練の1年、行動の1年にしたい。

次の目標は、筑波山、高尾山、槍ヶ岳。
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by jengsauman | 2007-08-22 00:39

ひとりたび

日曜、高校の親友2人と新宿でご飯をたべた。終電近くまでずっとああだこうだ、と。
ひろたんは、私のことをけちょんけちょんに言ってくれる貴重な友だ。
その日も、自分の幼稚さを徹底的に批判された。
「あんた、そんなんやからあかんねん!」って何回も言う。

私は、自分から人に歩み寄ることをとても面倒くさがってきた、とおもう。
というか、そんなことしなくても人が自分のことを理解してくれるはずだ、
とどこかで信じていて、人と向き合うことなど本気でしたことがなかった。
そういう厚かましさに加えて、壁を作るということで、努力を怠る理由付けをしてきた。

だから、一人間として、誰かと対峙することができない。
何かと対峙したことがない。それらしい言葉をまとうしか、方法を探そうとしない
楽ばっかりしようとする人間だ。という批判もそうだけど、何より、楽しくないだろ、
そんな生き方。そうおもう。

思い立って、やるかやらないか。できない理由はたくさんある。それでもやるから
意味がある。

というわけで、早速、一人旅を練ってみた。カンボジアにいる友達に会いに行く予定。
今、思ってるのは、香港→ホーチミン→プノンペン→シェムリアップ。
ほんとは香港からベトナムを陸路で移動したいんだけど、
時間もかかるし、要調査ですね。東南アジアは初めてです。
何をやっても、どんなに一生懸命立ち向かっても、すべてを知ることはできないし、
すべてができるようになることもない。
でも、せめて、自分から、ひとつひとつの歴史に、文化に、歩み寄って
自分の狭い価値観を、広げ、行動のきっかけとしたい。
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by jengsauman | 2007-08-16 00:23

問いを持つたび

人がなにか行動を起こすのは、問いがあるからなのだなとおもう。

こうやったらいいと思うから、かっこいいと思うから、偉いと思われるから、
正義っぽいから、思慮深いと思われるから、いろーんなことを考えたけど、
何も実にならなかった自分の保身作業。

そこには、問いも、情熱も、なかったから、当たり前。

原点にかえって、私は一体何を知りたいとおもったのか。
思い出そう。どうして、どんな苦しさを通して、どういうことを目指して、
何を知ろうと思ったのか。

あまりに大きすぎる漠然とした問い、に対して、私は完全におびえきっていた。
自分なんかにできるはずないという恐れと、きっと今描く夢は理想でしかないという
あきらめ。でも、なんかひっかかってて、でもそれに手をかけるのがこわかった。

だから、創造性と正確性と忍耐が求められる社会で、私はしっぽを巻いて
逃げようとしていたとおもう。いろーんな言い訳をまとって、人のせいにして。
辞めることは簡単だ。去ることがベターな選択肢な時もある。
でも、やっぱり、継続なしに、説得力はもてない。

恥をかくのがいやで、ええかっこしいだったけど、
27歳を目の前にして、恐ろしい無知をさらすのもいやだけど、
言わないと、提起しないと、永遠に葬り去られる。
そんな一人間として、真剣にぶつかれない人にはなりたくないから、
おびえながら、チャレンジしよう。よわっちいながら、足を一歩でも踏み入れてみよう。

今日、よく見ているサイトで、自分にできるかどうか考えるのは無駄だ、とあった。
なーるほど、と思った。
自分ができるかどうか、その器かどうか、はやってみて駄目ならそういう結果が
出るだけ、やってみてできないところを修正してまたチャレンジするのか、
そこから別の何かを見出すのか、いずれにしても考えても無駄なのだ。
言葉ではいやというほど理解しているつもりで、「つもり」なのだ。
リアルがないから、実感がないから、自分を信じないし、鼓舞しない。
そんな自分とまた出会った。

摂食障害とはなんだったのか、考えることもしんどい。
というか、何から考えればいいのか、わからないし、考えて頭の論理を
連ねるなんて無駄だし、なんてまた考えてるわけだ。アハハ。
それが無駄なのだ。
そういえば、私は、身体についてとても疑問を持ったのだった。
自分の身体を知ろう、と思ったのだった。
お金がかかるから、という言い訳で止めていたこと、
ほんとか?

何かを成し遂げることより、自分の細かい一つ一つのチャレンジを
きちんと最後まで見守ってあげる自分でいたい。
○○がしたい、と心から思った自分に対して、全身全霊で応える自分でいたい。


感情を忘れないひとでいよう。
感受性あふれるひとになりたい。
でも、必要なときは、感情論をふりまわさないひとになりたい。

めをとじて、想像して、感謝をリアルにもちつづけるひとでありたい。
これが瞑想というものなのかな。すうっと落ち着く。
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by jengsauman | 2007-08-15 22:27

ちかみちはとおみち

失敗することが、こわかったんだなあって思う。
今もこわいんだなって思う。

けど、失敗をからだで感じて、なにができないのかを
知ることは、スタートにすぎない。
できないことに、おじけづいて、絶望したら、
それ以上の壁をやぶる感覚をからだ全体で感じる希望を、
二度とあきらめてしまうことになる。

頭でわかって、それらしいことに手が届いたつもりになったら、
私は、そこで一生生きていく覚悟をするか、そこを捨てて
どうなるかわからなくてもリスクをおかして足を別の大地に
もっていく覚悟をするか、いつもその二択しかないのだと痛感した。

という言葉のうすっぺらいうそ臭い重ねはどうでもよくて、
経験を。頭で間違ってるとわかっても、それを本当に感じて
認識できるまではどうにもならないこともある。
私はそんな日々のなかで、あまりに立ち止まりすぎた。
あれも間違い、これも間違い、あれも違う、これも違う。
しかし、何が正しいのかわからないから、ずっとそこにいる。
少なくとも、間違いはおかさないという、何の生産性もない
保身の日々だった。

でも、ほんとは保身してるつもりで、自分を一番欺く方法。
一番、身を守れない方法。一番自分を傷つける方法。
そうだったのだときづいた。
近道をしているつもりで、一番の遠道なのかもしれない。

私は、経験のなかで、知りたい。

そこにいけば何かがあるという考えは、もうもたないようにする。
あの人にあえば、という考えも、もうもたないようにする。
いままでそうやって期待通りの答えを得たためしがない。
うそくささと、リアルのない、表紙と裏表紙だけの本のよう。
自分が課題を持つんだ。自分が目的を自覚するんだ。そして動くんだ。

しごとで、とてもうまくいかないことばかり。その上、達成感とリアルが
どんどん離れていくため、悪循環だ。
そのなかで、信頼していた中国人の仲間が、突然辞職した。
「深入りするな」という上司の言葉に、私は耐えられなかった。
どうして!!!と全力で止めたいのに、もう無理だとあきらめた。
そうして、私は、人を変えることはできない、ということを知った。
周りはどんどん変化する。どんどん予想外のことがおきる。
でも、地球は今日も回り、世界は今日も今日がある。
信じられないような猛暑で、温暖化を言葉じゃなくて身体で感じ始め、
いろんな問題を抱えたまま、今日も今日がある。
でも、自分はベストを尽くすしかない。いつも、何があるかわからないんだから
いちいちそこに入り込んでいる場合ではないのだ。
とっても悲しい、でもそれを感じて、それをもったまま
さあ、じゃあどうしようか、というタフさがないと、何もできなくなる。

私は、こんな脆弱な自分が大嫌いだったけど、もう隠さないことにした。
すぐに正義をふりかざして無責任なことを言ってしまう自分も隠さないことにした。
格好悪いけど、それを受け止めてくれる人がいる。会社にも、身近にも。
だから、もっと話して、もっと話して、もっと稚拙さをより生産的に
変えていきたい。
「お前あほやな」なんて言葉、前よりもこわくなくなった。
私がほしいのは、言葉よりも実感。
自分が本気で取り組んでいれば、無責任な言葉の軽さなんて蹴り飛ばせる。

今日は、今から東京湾の花火をみに、おねえたん夫婦のおうちへいき、
明日は、心から愛する親友ひろたんと、れいたんと東京で会う。
それとともに、来週末の富士山登山の準備をしに、かいものにでかけよう。
大切なのはかたちじゃない。
大切なのは、それに対する自分のひとつひとつの実感と、行動。
と、また軽い言葉になった。とほほ。

いっぱいとおみちしてると、いつのまにかちかみちになってた、
そんな人生がいいな。
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by jengsauman | 2007-08-11 17:11