過食症を経て、一つ一つの日常を見つめる記


by jengsauman

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久しぶりに、夜中に目が覚めた。なんだか、うれしい。得した気分。ルンルン

先週末、沖縄離島へいってきた。小浜島と西表島と石垣島。
どこも、空が澄み切って、雨も降ったし、風もふいたけど、とても空が高く、
風が吹きぬけ、自然と伸びをしたくなるような場所だった。

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西表島の星砂の浜という場所。ここは、砂浜に星砂(実際は有孔虫の殻)が
混ざっていることで有名らしいが、実際思った以上に星砂は少なかった。
結構あるんだけど、きれいなんだけど、なんだか感動すべきところはそんなとこでは
ない気もして、しばしたたずんでいた。結構ある、から星砂の浜なのか、
もしかして、昔はもっとたくさんあったのかな?
だいたい、殻を星砂というのも人間の勝手だし、それにのっかって何も考えずに
感動するのも気がひけた。こんな綺麗な場所に来て、そんなことを考える自分が嫌だ。
けど、海と空がきれいだったのは言うまでもなかった。
できることなら、大の字になってねっころがりたかった。砂浜が濡れてたのがざんねん。

しかし、ひっきりなしに入っては出て行く観光バスが激しくて、
なんだかとほほだった。実は、星砂を記念に少しだけ持って帰ってきた。
これは、私の悪い癖である。感じた違和感、感動、新鮮さ、気持ちよさ、
すべてを忘れることへの恐怖を、そこへ託すのだ。そんなことしても、
ほんとは自分の姿勢がすべてなのに。ごめんなさい。。自然。

今回は、初めて沖縄離島へ行って、思った以上に開発が進んでいないことを知った。
NHKドラマ「ちゅらさん」の舞台となった小浜島は、石垣のタクシーうんちゃんに
「なんにもないで、なにしにいくの」といわれたが、行ってみたら意味がわかった。

しかし、小浜島にもリゾートホテルができて、ちゅらさんの家の前にバスが止まり
写真をとり、なんにもない島にも人が来るようになったらしい。
西表も、リゾートホテルができて、いろんなアクティビティやクルーズが開催されて
いるけど、実際それらを開催する地元の人でも、このような開発に反対し続けている
人が少なくないと聞いた。仕事がなくなったらどうするんだろう、という「こちら」の
勝手な余計な想像とは違うところに、何かの思いがあるのだと思った。

本当に必要な開発とは、なんだろうか。
ただ、多くの人が来たら、それでいいのか、お金を落とすことに第一義的意味があるのか。

本当に必要なビジネスとは、なんだろうか。
ただ、今までにないお金が儲かるシステムを作れば、いいのだろうか。
そんなわけはないのだけど、企業として何かに取り組む限り、利益を出さなければならない。

毎日の仕事に対して、どうして傍観者なのだろうと思うが、
どうして傍観者だと考えても実は一生答えがでないことにきづいた。
傍観者である以上、何も賭けてないからだ。
だから、何も失わないし、何も自分の責任ととらえない。
事業が失敗しても、うまく進まなくても、いつも誰かのせいにする。
そりゃ、理由はごろごろ転がっているから、誰かのせいにするのはとても簡単。
探すまでもないほどだ。
でも、そんな作業、無駄なんです。

私の思考の慣習として、「これをやるには経験が必要だから、まだできない」
「これをやるには、○○の資格が必要だから、まだできない」
「○○になるためには、○○の試験に受からないといけない」
こんな縛りばっかりである。

でも、「やりたいなら今やれば?やりながら勉強すればいいじゃん。
本当に意思があってやっていることなら、足りないものを助けてくれる人が必ず現れる」

そんな言葉に、撃沈した。

毎日自分がやっていることは、生きるために必要なお金を得るためにだらだらと働いて
いるだけに過ぎないからこそ、周りのしょうもない波風にすぐに揺らぐ。
すぐに腹を立てて、すぐに失望する。
ぶつかるのが怖くて、中国の社員に強く指示ができない。なぜなら、自分の
意思がないからだ。ただの「ふりかざし」はもっともたちわるい。
だから、せめてもの免罪符のように、「相手を思いやるふり」でごまかす。

自分が机上で考えたことではなく、少しでも肌で感じたことをもとに、
信念をもちつづけ、何者かになろうとせずに、ただ自分へと挑戦しつづけることが
短い人生の意義なのではないかと、最近考えるようになった。

先日のバングラデシュのサイクロンで、多くの被害が出たというニュースを見たが、
そんな中、とある会社の社長さんは、自分の足で、被災地まで行き、
彼らが今本当に必要としているものを聞いて、それを寄付したそうだ。
どこかの援助機関に属していれば、なかなかできないことなのかもしれない。
けれど、私は素直に、その姿勢と意志を形にしようとする実行力に、感服した。

本当に必要なもの。頭で考えるだけで、独善的に練りだした答えは
そこそこ必要でも、本当に持続的な価値を持たないのかもしれない。
相手のことを考えないで、自分のエゴのためにすることは
もしかしたら自分の自信のなさの裏返しなだけなのかもしれない。

マザーテレサのいうように、「まずは自分の近くにいる人に、自分ができることを」
っていうことができてないのは、その最たる例ではないかと思う。

限りある時間だから、いろんなことができる人といろんな話をして、
否定されても批判されても、ありがたく受け入れられるように、
まるで岡本太郎の本にあったように、「災難は、恋人を抱くように受け入れる」
ようになりたい。できることは、考える以上に多くあるのだと思う。

たのしがることじゃなくて、衝撃、ショック、心が動く経験を、少しでも重ねたい。

そこで、今日のミニショックなできごと。
中国子会社の社員に、「著作権保護」が通じないこと。
何回いうても、勝手に契約以外の用途に使い、しかもよければ事後報告
通常は、こっちが見つけない限りそのまんま。
別に悪いことをしたという意識もない。

どうすれば?と思うけど、「だめなんです」と言うだけではだめなのはわかる。
本当に双方にとって必要なぶつかり、対話をしてないから、
お互い納得しなくて、「なぜいちいち禁止するの」「なぜ勝手に使うの」
という二つのある意味それぞれの土地では「当たり前」の思いがうずまく。
来週、北京にいくことになったから、話してみたいとおもうけど
私が自分の中で詰めれてないから、表面的な会話で終わる可能性大。
ハア。。しっかりしろ。

しかし、双方にとって必要なことって、考えてわかるもんじゃない。
葛藤して、腹たって、でも自分だけの常識で閉じてはいけない。
うーまた言葉がひとりあるき。
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by jengsauman | 2007-11-29 03:54

仮想敵

想像力のなさから、いろんなぶつかりがある。
あれも無理、これも無理、と無理なことばかり挙げている。
相手を責めることだけいっちょまえで、自分は正当化の準備をちゃかりしている。
そんな日々。

けど、素直に心の中のことを話して、不安だ、これは間違っているのか?どうすればいい?
私は自信をもつために目標と覚悟を決めることがまだこわいのだ、
だから人と向き合って話せない。まるで、土曜にゼミの仲間の中のひとりが
職場のすごいという人を紹介するときに「東大の大学院卒で建築専攻だった」という
何の説明にもなってない無責任な言葉を吐いたときに覚えた違和感と怒りを
私はきっと自分の中に感じてもいるんだと思う。だから腹が立つんだ。

中国から一部情報をもらって作った資料を中国子会社の社員に参照してくださいと送ったら
この資料の情報は、私がおくったのと違うから、私が情報元だとはくれぐれも言わないで
ください、とだけ返信されて、唖然。
みんな何のために仕事をしてるの?なんて一体何回言っただろう。
でも、言葉で言っても伝わらないんだよなあ。自分だって、うすっぺらい動きを
たくさんしているのだから。

そして、今日言われたのは、「まずはとにかく自分が変われ」
まさにその通りだ。人をああだこうだ言っても、何もならない。
反省もしないもんだから、成長もしない。それこそしょうもないやつやで。わし。
方法論も、アイデアもなく、現状の文句を言ってるやつ。

自分がしんどいふりして、実はみんなしんどい。
いろんな立場で、いろんなものに挟まれて、あっちにもこっちにも説明をしないといけず
あっちにもこっちにもいい回答をしたいのに、全然それどころじゃない状況。
そういうとき、私はすぐに仮想敵を作る。自分だけが追い込まれていると勘違い。
みんな自分が悪い、自分は何もしてないから責められるんだ、と思ったりする。
しかし、そういうのはぜんぶ思考停止やから。話してると途中で気づく。

髪の毛逆立って、自分の無力さや諦めてばっかりなこと、自分の努力不足を
棚に上げて自分の時間を無駄にしない。

とにかく自分が変わる、それが第一義的目標だ。


昨日の広東語の授業で、先生に叱咤された。(いつものように仏のようだが)

外国語学習というのは、よっぽど本気にならないと、どうにもならないもの。
外国語を学習するとき、最大の敵(というか障害)となるのは、母語である。
母語は、自分のなかにしみこんでいる本能のようなものである。
われわれはまさに、本能と闘わないといけないという挑戦をしながら、
なんと無防備で、甘い取り組みなのか。
追い込んで追いこんで、さらに追い込んだとき、あるときボコッという多次元に
移る日がくる。それまでは、細胞のすべてにかけらも残さずにしみこませる、
ひたすらその訓練である。

そのためには必要なものは2つある。
①は下ごしらえ。(ただ闇雲に聞いたり書いたりしない。正しい発音、文法、息継ぎの場所
ニュアンス、声調すべてをたたきこんだ上で、ひたすら聞くための準備)
②は自己暗示。自分はセンテンスすべてをしみこむーしみこむー、いけるんだと暗示。

「自分が天才と信じてください」って先生は言う(爆)。
無理すぎるよ、先生・・。という顔で見てたら、
疑うから無理なんですよ。100%信じたときの人間の力は何でもできます。
そういっていた。

自分の脳を100%信じて・・・。

時間を2重に使いながら、映画のセンテンス暗唱&ドリル暗唱に着手しなければ。

おそらく、「超空間勉強法」が有効と思われる。目下は、仕事中にどうやって
少しでも効率を落とさずに、勉強にもあてられるかを考え中。


先日、ひょんなことから突然テレビに映った。
おぞましい絵だと思っていたが、普通だった。
普通というか、あたしやった。
しゃべってる声はてんぱってて、うわずってて、かっこわるかったけど
なんや、あたしやん(爆)。
実は、そうおもえたことが何よりうれしかった。
私が私をみたときに、否定せずに、いられたこと。
デブやん、とか、ぶさいくやん、とか、そういう切り口じゃなくて
わたしやんって思えたのが、うれしかった。

人はすぐには変われない。毎日失敗ばっかりや。
でも、自分を見て、「あーあたしやん。ガハハハ」って笑い合って
そんな時間を過ごせることは、1年前でさえ想像できなかった。
私なんて、っていつも思ってた日々。
今だってそう思う。
でも、それでもいいんよ。それでいいねんよ。
でも、否定を少しずつやめよう。そう思う。

こないだ、すごく勇気のもらえる言葉にであった。
「否定したくなるよなことばかりだ。でも否定はよくない。なぜなら
それは飲み込まれている証拠だからだ。だから肯定で立ち向かおう。」
そういう文章。

私は、ここのところ、仮想敵に出会うたびに、おもいだしている。
それでも仮想敵は消えはしないけど、共存することはできるようだ。
そんな学習も、遠回りではないと信じて。
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by jengsauman | 2007-11-19 23:15

ドキュメンタリー

土曜日、友達の結婚式2次会へいってきた。
2週間前に挙式をあげた、ともだちの2次会@飯田橋カナルカフェ。

カナルカフェといえば、飯田橋駅のすぐ横の川の上にあるあのおされなカフェだが、
あたしは、1年くらい飯田橋に住んでたくせに1度も行ったことなかった。
なんでかって、めっちゃこわかった。
テレビやドラマで取り上げられて(るらしい)、「特別」で「おしゃれ」な場所で、
なんとなく選ばれた人しか入っちゃいけないような気がして、
(多くのカフェにそういう先入観を持って怖がってしまう自分。ほんとは入りたいくせに。。)
こわかって、いまだに時々おもうけど、こんな場所にふさわしくない人間やって
思ってしまうと、どこにも入れない。そんな場所やった。
それと同時に、なんだかリアルさを感じられない場所だと勝手に思っていた。
なんでだろう。どろどろも、ぐちゃぐちゃも、ないきれいな世界に見えた。
いまだに、おしゃれといわれる場所は苦手だけど、
入れたら喜ぶ自分でもある。どないやねん・・

久しぶりに会ったゼミの仲間は、あいかわらずのアホで
さらに磨きがかかってた。私は何回も「おばはんか」とつっこまれたので
ほんとにおばはんなのかも、と思ったりした。
しかし、なぜおばはんと言われてショックを受けるのだ?
現に、私はあと2ヶ月ほどで本当の「叔母さん」になるではないか。
いやいや、そんなことやないよね。

なぜ「おばはん」と言われたのかというと、私がいつもどおり突き抜けるような
「ゲラ笑い」をしたからだ。何度も何度も。
だって、おもしろいのにそんなに上品に笑うなんて、そんなことができる
ほうがある意味人体の不思議だ。
アハハハ、キャハハハというより、ガハハハハ。
ガハハの何が悪い!
「豪快だねえ」ってなんやねん。お前も一緒くらい豪快にわらっとるやろがー!

限りなく独り言の愚痴のようだけど、私は自由でいたい、とおもう。
十分自由ではないのはわかっているが、それでもやはり自分が心地いいわずかな
一部分だけでも、自分が感じるならばつきつめたいとおもう。

誰が、女子はガハハハと笑ってはいけない、と決めたのよ。
誰が、おばはんはガハハハと笑うと決めて、誰がそれは悪いことだと決めたの?
私は、そうやって考えていくと、もしかしたらそれをダメだといっているのは
彼らでもなく、誰でもなく、あたしなんちゃうかなと思った。今気づいた。

世間からよし、とされるために、自分が無条件に侵攻を許している数々の自分の拠点を
ひとつずつ取り戻す。それは、たいそなことじゃなくて、それが自然だから、
それがきもちいいから、そっちにいきたいから、そうするだけなんやけど
ちょっと大げさに言ってみたい。だって、とっても気持ちいいことなんやもん。
すごいうれしくて、みんなに言って回りたいくらい興奮することやから。

だから、いろいろ考えてるあいだに、あたしはこれからもガハハハ笑いを楽しもうと
一人でおもった。自問自答終了。


ところで、今回は私は初の試みに足を踏み入れた。
その名も、「映像編集」ミッション。(おおげさ)
昔留学前に、今回結婚した友達にみんなの写真が入ったアルバムを作ってもらったのが
とっーーーーーーーーーーーーーーってもうれしくて、アホで思いやりに欠けすぎる
みんなの顔を一体何度眺めて、にんまりしただろう。ほっこりもしただろう。
私は、みんながとってもすきらしい。

それで、今回は私がビデオを持参して、映像を作ろうと思い立ったのだ!
出たーーええかっこしい。ふふふ。
出来もしないくせにたいそなことをやろうとする女の本領発揮!(アホやなあ、あたし)

ということで、たくさん映像をとったが、みんなまともにしゃべってくれない!
もおーーーーーーーー。思い出を語れといってるのに、旦那が切れそうなこと
しかしゃべらない空気の読めないというか、わざと読まない輩どもめ!

と思いつつ、あたしはやはりガハハハハと笑っていた(映像にガハハハ音声だらけ)。

それを持って帰ってきて、さて編集と思ったけど、そこでふと疑問が。
私は何を作りたいのか。
お涙頂戴系のきれいな物語?あたりさわりのない写真や映像の羅列?
ちがうなあ。

そこで、私はクリエイターという世界のおもしろさと難しさというのは
とっても深いんだろうなと、やっと想像することができた気がした。

前に、森達也氏が、ドキュメンタリーというのは決して本当のリアルではなく
作者が恣意的に作ったものだ、というようなことを言っていたのを思い出した。

私は、きれいなものでごまかすのはもうやめるのだった。
旦那さんのことも気遣って、いろいろとってつけたようなことも考えたが
やっぱりぐちゃぐちゃも、まとまりのなさも、冷たさでしか表せないあたたかさも
弱さも強さも、なんだか今まで繋がっているこの意味不明な集団への愛しさも、
できるだけそのまま、つくりたいとおもった。

それにしては、私の編集技術はほぼ0に近いので、無茶ではあるが
やってみよう。

私たちのドキュメンタリー。
たいそやな!たいそすぎるわ。そんなことを語るには100年早い。
けど、映像に触れることで、世界が広がるならば、なんだって経験だなとおもう。
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by jengsauman | 2007-11-19 22:15

なんのために

さっきから従兄に手紙を書き始めた。
書こうと思ってから、もう1年くらい経つんじゃないか。
しかし、書くことが浮かばない。

彼に対しては、ほかの誰よりも、それらしいこと、正しいらしいこと、
虚勢が通用しないからだ(と思ってるから)と思う。

誰に対しても、本来はそうなはずなんだけど、そこにはまだ甘えがある。

話は戻って、私の従兄。
なぜ、手紙を書きたいのかなあ、
なんとなくずっと、書かないといけない気がするから。
あーうそくさいな。

うーん。

まあ、手紙は別にそこまで明確な動機がなくても書いていいとは思うけど、
なぜ躊躇するかというと、自分で言いたいことがまとめられもしないのに
相手に何かコンタクトするということは、必ず相手に何かを求めていて、
しかも「何かをもらえるかも」という甘え満載な下心つき。だからだ。


いやいや、それ以前に私は従兄のことをよく知らない。
だから手紙を出そうとしたんだ。
失敗学についても、自分も考えたかったからだ。
(それはとってつけたみたいな理由だな・・・・)

私の従兄は、優秀だったらしい。
彼はとてもまっすぐすぎたらしい。
彼は真理を追究したかったらしい。

ぜんぶ、伝聞。


それにしても、何を書こうかな。。
ちょっと気を抜くと、すぐに構えようとする自分。


なんで、怖いかというと、ぜんぜんわからないからだ。
彼の生活が、彼の今考えていることが、彼の苦しみが。
なのに、私はそこにずかずか入っていこうとしている。
なんて自分勝手なんだろう、なんて浅はかなんだろうって思う。
勝手に彼の物語を自分の中で作って、語ろうとしていることに
強く違和感を覚える。

そんなんだったら、最初から何もしなければいいじゃんか!
といいたくなる。

自分が救われたいだけか?自分が正しいことをするふりをしたいだけか?
そんなの、底は見えてる。
でも、だからって、何もしないの?
そんなことを1年も考えてきた。

結局、どうすればいいのかわからないから、ペンをとってみた。
でも、彼のことがわからないなら、自分のことを書けばいいか、と思った。
自分が感じたことを1つでも、ありのままに言葉に乗せれたら
それを彼に伝えたいということは、うそではないだろう。
でも、それを書くまでにめちゃくちゃ時間がかかりそうだけど。。。
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by jengsauman | 2007-11-14 03:23

自分らしく

結婚式なんてうざいと思ってて、どうし出ないといけないのか、などと考えていた。
自己満足の押し付けなら、もう見たくないと思っていて、
できることなら、このまま一日家にいて、だらだらとDVDでも見て思考停止していたら
どんなに楽ちんだろうか、と。

それでも、Nさんの結婚式で見た同じテーブルの空席を見て、こんな寂しい風景はないなあ
と思ったことを思い出して、なんとか起き上がる。
美容院にいこうとして、湘南新宿ラインに乗ったら、恵比寿とまらんし。
美容院遅刻するし。すっぴんやし。あほやなあ、あたし。注意不足でまた自己嫌悪。

でも、美容院で見た雑誌にこんなことがかいてあった。

「いつも人のために。」

お風呂にはいってて、お湯を自分のほうにもってこようとして、自分のほうへ動かしても
お湯はは逃げていくように。向こうにもっていこうとするとこっちに動いてくるように。

人と人は網の目のように繋がっている。のだとかいてあった。


私は、また決め付けしてるやん、とおもった。
彼女は何でも手に入れて、私は何も持ってない。そんな決め付け。
あのころ、私たちは同じように、何ももっていなかったのに、
私は自分を隠し、傷つくことを避けることにエネルギーを注いで、
過食症とどろんこになって、ひとりでいるうちに、まったく生産的でない日々を過ごし、
間違った道を歩み、いつのまにかこんなに差がついていた。そんな決め付け。
そんなこと思ってないのに、思いたくもないのに、声を大にして言うことができないから
簡単に否定して、済ませようとするのだ。

わたしは、そんな決め付けや、人の立ち位置で人生を見ることに慣れすぎて
自分はこの場所にいない傍観者か、評論家か、ようわからんけど、えらそうで
さみしくて、かなしくて、ずるい、そんな場所にいることを許される場所を選んで
生きてきたけれど、私は傍観者になることで、自分を殺しただけではなくて
友達のとも、正面からぶつかっていなかったと思う。

だから、わたしは、彼女にあいにいった。

結婚式は、すばらしかった。白金台のハウスウエディングで、目が点になるほど
の豪華でアットホームな式に、たおれそうやった。
しかも、スピーチとかだけやなくて、各テーブルの代表者に質問リレーとかいうて、
なんと、引き出物袋のなかをみたら、あたしが代表者やん~~。ヒーー。

わたしは、正直、めちゃくちゃうれしくて、でもめちゃくちゃてんぱって
しろワインを3杯一気飲みした。ふふふ。緊張した。

わけのわからんことをしゃべっている間、友達は昔とぜんぜん変わらん笑顔で
爆笑してた。その横にいるだんなも、にこにこしていた。

私が結婚式が苦手な理由は、あの作られた感満点なワールドに
ついていけないからだ。結婚式とはそういうものだよ、とはいえ、ひねくれものな私は
「おめでたがる」わざとらしい行事だとおもってしまう。
もちろん、感動して涙する場面もあるが、それは数時間のうちの数十分・・・。

あそこまでお金をかけて、時間をかけて、何かを「作る」ことに意味があるのか?
いつもそんなことを感じつつ、感じないふりをしていた。ただの妬みやんって言われるから。

でも、別に「正しいかたち」なんてないんだ、と彼女の式でわたしは知った。
とっても、彼女らしい、楽しい、周りをまきこんだ時間。
決め付けてたのはお前やないか、と私は自分に言うた。

結婚もしてないのに結婚を語ることはできないけど、
結婚式のために式をするんじゃなくて、必然性があるからするんだ、と初めて思った。
感謝という言葉を、ただ言うんじゃなくて、空気で、笑顔で、気遣いで表すことが
できるんだと知った。

私がひっかかっていたのは、きっと必然性なんだろうとおもう。
なぜ、それが必要なのか、なぜそれでないといけないのか、全然わからないことへの
違和感。
それは結婚式だけじゃなくて、自分の選択、発言、行動すべてに対して。
自分が自分に違和感を感じてるから、外からのものに否定で返してしまう。
ただ、それだけだ。感じられない不感症なだけだったのかもしれない。

友人の結婚を機に、いろんなことを思い出して、思いをめぐらした。
あちゃーと思い出すのも嫌なことがほとんどだけど、
なぜ嫌かというと、違和感ばっかりだからだ。
誰かから借りてきたような正しさをかざそうとして生きていたあのうそ臭い、
でも必死な自分が目に浮かぶと、もうどうしようもない気持ちになる。
あほやなあ、でもあほでいいねんで、もっとあほになろう、って言いたい。

誰かと一緒にいて、誰かと籍を入れて、家族を作っていくことは
おめでたいことなのだと言う。でも、結婚=おめでたいことだからではなく、
友達が、自分が自分らしくいられる場所を見つけて、また新しい生活を
はじめたことに、感慨深さを感じた。

私は、あと2ヶ月くらいで叔母になるけれど、うまれてくる彼に対して、
何かを見せるのではなくて、一緒に考え、感じることができる存在になりたいと思う。
かっこいい叔母ちゃんっていうのも憧れやけど、そんな器ではないもの。
それに、○○な○○さん、っていうレッテル貼りは、思考停止のはじまりやから
甥っ子には、一緒になんでなんでって考えよう、体験しよう、っていう叔母ちゃん
でいたい。姉が妊娠したときは、あと10ヶ月でまともな人間にならないと!って
焦ったけど、そんなん全然無理やし!あほか、オレ。

甥っ子だけやなくて、いつも人に決め付けを押し付けすることだけはしないよう
気をつけていきたい。自分の経験なしにものは語っちゃいけないけど、
経験があるからって、こうなんだということも恐ろしい。
そんなん言うたら、何も言われへんやんって思うけど、
自分が納得できたことは言えばいいんだと思う。
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by jengsauman | 2007-11-04 20:49