過食症を経て、一つ一つの日常を見つめる記


by jengsauman

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最低限はやる

あれもこれもと欲張って結局何もしないならば、
最低限でもいいから必要なことをやろう。
一日だけで飛躍的に何かが変わることはないけれど、
こういう重っくるしい時にこそ、完璧を求めずに、冷静に「今できることはなにか」と
最低限やるべきことから問えるようになっただけ、ましなのか。
問うだけなら一緒やけどな。ハハ

やっぱり朝つらいとき、行きたくないとき、仕事が億劫なとき、自分がいやになるとき、
勉強しようしようしようしようしようとばっかり思って動かないとき、そんなときに
ずーんとなっても、「命をとられるわけじゃない」って思うことがあるけど、
最近はそういう自分への問いかけもどうかと思うようになった。
じゃあ「しぬ」ことが予測されるとき、どうしたらいいの?
そういう人はもう希望がないの?そんな自分ひとりだけ救われればいいような
問いかけなんて、腐ってる!とか思うけど、それで何もしないならやっぱり一緒。

少しだけあきらめた。どこかで誰かに認めてもらえることや、
どこかで誰かに特別と思ってもらいたいことや、自分の逃避だけ意味がある
逃避のように言い訳してしまうことや、頭の中でストーリーを作らないと
不安でしょうがないことや、もう全部無駄。というかマイナス効果。
だんだん、やらないといけないことが見えてくると、虚勢のためのふりをいちいち
フォローできなくなる。
そうや、せんでいいねん。そもそも、そんなよろいは、少しずつはがしていくものだ。

えー大変てんぱっている。
来日中の中国のとある高校の校長に、明日プレゼンとなった。
えーっと、どうしよう。
どうしようもない(笑。

というわけで、最低、これだけは、絶対に理解してほしいこと、を
今書き出している。
完璧は無理。でも、最低限ならできるかもしれない。
少なくとも、少し前なら、逃げ出すことしか考えてなかった自分が
こうして具体的に今できることをやろうとするのは、
蟻のようではあるけど、一歩なのかもしれない。

というわけで、やれることをやろう。


そういえば、最近、鉄分生活だ。
たべものも、鉄分のはいったものという基準で選ぶ。
ひじきごはんにほうれんそうのおひたしに、まぐろ、とか。
鉄分欠乏があまりにひどく、現在注射治療中。
毎週病院にいって鉄分を注射してもらっている。
しかし、体というのは不思議だな。
飲み薬なら副作用で吐きまくるのに、注射なら何の副作用もない。
内服するから消化器を荒らすのはわかるけど、ここまで違うと
なんでかなと思わずにはいられない。
鉄の数値が上がると、朝とかが楽になるといううわさをきいたが
どうやら今のところまったく変化がないらしい。
でも、続けることに意味があるんだろう。
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by jengsauman | 2008-02-22 01:05

せっぱつまり

ここ数日で、自分が発信するということを、やってこなかったんだと
うっすら痛感した。びっくりした。なんやオレ。なんで後ろめたさを抱えたままで
逃げ回ってたんや。そして、それをしなくても生きれるだなあって、
世の中ってこわい、改めて思った。逃げてるやつは一生逃げ続ける。
そしてそれでも生きれる社会。
逃げてるやつは自分の力で這い上がるしかないにしても、
挽回できるチャンスを。
逃げてるうちに、世間では無駄な時間を過ごしてるとみなされ、
そこから這い上がるのに、肩に力が入る。
決して無駄な時間ではなかったと自分では思ってはいても、
それを証明するために、余計に社会に迎合してしまう。
逃げることが必要な人もいる。逃げることは悪いことじゃない。
もっときらめいて生きたい、そのためにもっと選択肢があってもいいじゃないか。

塀の中にいる従兄に、私は一体いつから手紙のようなものを書き始め、
それをどうしても気持ち悪く思い、毎日持ち歩いていた。
書き直そう、書き直そう、そう思い続けて。

でも、何を書いてもうそっぱちに思えた。
いつか、送れる気もしなかった。
果たして、ほとんど顔も知らない親戚から、手紙をもらったところで
その手紙の内容のなさに気分を害するだけではないのか。
むしろ、私の自分が救われたい、そんな欲求丸出しのものに、
弱さだけが明るみになるだけじゃないか。
そんなことを考えると、日々死を意識している人に対して、
私は何の言葉も持っていないことを知る。
主語を自分にしない会話が許されないばしょで、
一体何を言えばいいのか、本当に分からない。

その後、森達也の本を読む。
極刑にまつわるいろんな立場の人の現実が書かれている。
私はますます混乱した。
自分の意見を言いたい。自分の声を放ちたいという欲求だけが高まり、
中身は何も変わっていない自分。
でも、どこかで、何かがゆっくりゆっくり動き始めているような気がした。
言葉では表現できない、わずかな動き。
感情論では済ましたくない。

自分でつかまえにいかないといけないとわかった。
何か、これだと思うものがあれば、必死になってつかみにいく
たとえそれがすぐに結果が出るものじゃなくても、
それが本当に正しいかわからなくても、
せっぱつまっていれば、手にとり、つかみ、飲み込もうとする。

ひとつでもいいから、毎日計画通りに何かを完了し、満足する。
そのつみかさねを、実践したい。
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by jengsauman | 2008-02-19 00:44

かみのけ

生まれてからこの方(8歳でバレエをはじめてから以降)、髪の毛をロングにしたまんまだった。
私は母譲りのすごい縮毛で(中のほう)、高校のときからありとあらゆる「コンプレックス隠し」をしてきた。ストレートがうらやましくて、さらさらになりたくて、いつも期待して美容院帰りにはがっかりする。そんな日々。「そんなうまいこといかんわなー」なんて思って。
たとえ、ちょっとばかしボリュームダウンやストレートパーマがうまくいっても、
髪の毛を洗ってかわかしたら元の木阿弥。毎日ブローするわけもなく、あきらめ、
大学に入って、縮毛矯正というものを知り、ずっとそれに頼ってきた。

でも、心のなかがなんかざわざわして、なんかいややった。ずっと。
たしかに、ストレートっぽくなるんやけど、ほんまにそれでいいん?っていうか。
っていうか、なんでストレートやないとあかんの。
うねうねもバリバリもふにょーもあたしとちゃうん。
そう思うまでに10年以上かかった。

なんとなく、もう縮毛矯正はいややなって思って、こないだ結婚式のセットで行った
美容院の人に相談してみたら、「えっ?縮毛矯正じゃなくてもいろいろ方法ありますよ」
からはじまり、私はよーしばっさり切るぜと決心した。

肩にもつかないくらいきってみた。
めっちゃくちゃきもちいい!
一番うれしいのは、ウオークマンを聞こうとして、イヤホンを首のうしろに通すときに
何も髪の毛がないこと!なんてすがすがしいんだ。感動だ。

それに、顔が丸いからってなんで今まできれへんかったんやろう。
短いのもとってもいい(と勝手に思ってる)ではないか!イヤッホー
ロングヘアはいい。でも、私はどんどん、モテヘアーから離れそうな勢いで、
自分の髪の毛を楽しもう熱に火がついた。
縮毛のあたりはぼあーんってなってて、ぴろーんってはねてて、
ちびまるこかとも思うが、前のほうはずっと憧れてた前下がりの感じで
なんともアンバランスでおもろいことになっている。

自分が決めた「これさえしてれば無難」をまたひとつ捨てた。
とっても小さいことだけど、なんてたのしいんだろう。


そして、年始に帰省したときに、大学1年以来連絡をとってなかった小学校の同級生に
ふと連絡しようと思い立ち、その子の実家に手紙を書いた。
そしたら、こないだメールが来た!
なんとなんと、結婚して東京で働いているとのことで、会おう会おうとなった。
一緒に遊び、駄菓子を買い、人生ゲームをし、毎朝マラソンを一緒にしていた友達が
結婚して近くにいるのかー。感慨深い。

こうして久しぶりにあっても、私はもちろん過食症のことは話さないだろう。
でも、同じように彼女もいろんな困難を乗り越えて今があり、
その先にまたこうして10年以上ぶりに会えるということが
何よりの可能性ではないかと思う。


最近、私は家族の不和についてとても悩んでいたが、
なんのことはなく、私が勝手に「家族とは演じるものである」とか
「家族だからこそ甘え、期待し、腹が立ち、ぶつかりあう」とか、それらしいことを
ずっと言っている間、両親と姉はだいぶ関係が修復していたらしい。
なんやねん!はよ言ってよ。一人でめっちゃ深刻になってたのに!って思うけど、
それってめっちゃ傲慢やなって思った。
必要以上に期待すると失望するけど、必要以上に深刻になると実は余計に事を
こじらすのだ。
その現場にいない人間は、距離を置く以上は、心配や何かあったら相談に乗ることは
できても、それ以上のことなんてできない。そして、する資格もない。
それを思い知った。私はまず、私の眼の前のことを精一杯やらねばならない。
でも、やっぱり、家族が(少なくとも対立せずに)おだやかでいるのは嬉しい。
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by jengsauman | 2008-02-17 23:40

当事者意識

大して人に影響がある仕事でもないのに、なぜ毎日こんなに憂鬱なのか
意味がわからなかった。
明日こそ休もう、と思いながら、毎日這うようにしておきあがり、
なんとか会社に足を運ぶ日々。
いろんなことをさらっとこなす(ように見える)人は、本当は何も考えていないんじゃないか。
考えていたら、立ち止まってしまって何もできなくなってしまうから。
なんて自分がおかしいと思い込もうとしたが、そんなこともないだろう。

しかし、「受身過ぎる」と言われ、がぼーんとなった。
「受身」じゃなくて、「受身過ぎる」。。。
そうか、わたしは受身過ぎるのか、と思うと、とても明瞭になった。

毎日会社に行くのが憂鬱だった理由は、私が「受身でいても許される領域」のなかで
なんとかそこを出ないで逃げ回っていたが、日々何度も何度もそれを超えないと
いけない局面が出てくる。しかし、この期に及んで、自分を主語にせずに生き続けられる
んじゃないかと甘え、期待し、逃げようとしていたからだ。
そういうとき、私は往々にして、主語を自分にしてない。

まるで、小学校から大学に入るまでのように、これさえしてれば大丈夫、という
既にある正しい回答のようなものへの取り組み方のくせが、まだ抜けていない。
それが、楽であり、それが、癖なのだ。
だから、頭でどんなに「主体的に生きる」と言っても、そんな長年培った癖には
到底勝てるわけがない。

毎朝、毎朝、私はそんな癖と出会い、「今日も仕事やだよう~~」という自分の声は
てっきり、「こんな仕事興味ない」とか「この組織もういや」とか、「早く自分のやるべき
ことに取り組まないと」ということだと思っていた。
でも、心のどこかで、今まで数え切れないくらい犯してきた「途中で逃げ出した」図を
思い出し、またここで逃げたら、同じなんじゃないか、と思っていた。

今まで出会ってきたものはすべて必要なものだった。
でも、私はそのとき毎に、まさに今と同じような「壁を越えることへの恐怖」にぶつかり、
「こんなこと今の私には必要ない」と斬ることで、
多くのものを中途半端で放置してきました。
今思っても、クウウ。。。という勿体無さばかりが思い起こされる。

でも、今もおそらくそうなんだ、と思う。
今の環境は、もし今までと同じように「こんなの必要ない」という名目で逃げ出したら、
また私についてまわるだろう。
そんな本気じゃないやつが、今後たとえ、どんな理想的に聞こえるものを手に入れても、
そのきらめきはきっと手にすることはできない。
そうおもう。

何をしたか、何を手に入れたか、じゃなくて、
何をどれだけ自分の頭で考え、自分の口で発し、人と議論し、改め、継続する
それが、生きるということなのか。

なんだよ!大学入るまでは、だれもそんなこと教えてくれなかったぞ!
成績がよくて、素行がよくて、いろいろなことに挑戦してれば、認められたじゃないか。
なのに、それは真剣に生きることと繋がってないなんて、あんまりだ。

私の心はときどきそんな声を発する。
大変幼稚で、大変他力本願だが、ほんとうだからしょうがない。

いや、おそらく私が過度のあまったれで依存的な人間であるというだけなんだろう。
人は生まれてからいろんな人に出会い、影響を受け、人格を形成していく。
その過程で自分が吸収していくものなんだろう。
だから、そんな機会があっても、そこに挑戦していかず、ただしいやり方がどこかに
ないかな~と探していた私は究極の「受身人間」なんだな、ハハハ。

それは悪ではない。だから、それでもいい。
でも、自分が変わろうとしているのを、自分の癖にひっぱられるというのは
やはりおかしな話だ。だから、乗り越えなければならない。

「なんにもできへんやんか」って、自分にほんまに言える?
ほんまにそんな自分を受け入れられる?
いまはそんなレベルだ。
受け入れられない障壁になっている過去を肯定したい甘えなんて
とっぱらうしかないのに。まだ、当分ぐちゃぐちゃやりたいみたい。
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by jengsauman | 2008-02-16 11:36

経験、具体、現実

どこかから何かを知った気になると、自分は近道をしたような錯覚を起こす。
でも、経験してないと、いつか忘れる。
そして、言葉が浮いてしまう。

たとえ、今属している組織に不満があっても、仕事に対して不満を持つ理由には
してはいけない。それは、「そういうもんだ」と割り切るということでは全くなく、
諦めることでもなく、私が人生の中の今を使ってやっていることなのに
責任転嫁をして向き合わないという無駄を少しでも避けるためだ。

組織の政治力なんてどうでもいい。誰かがどうしたかもどうでもいい。
一生懸命やってる(ポーズ)がほめられたりすることなんて、何も変えやしない。
自分の今をかけて経験すること、今すべきことをじっくりじっくり考え、
やっていくこと、それしかない。それは、大変めんどくさくて、意味がないように思えるが
結局そういう積み重ねなのかもしれない。

あいまいな抽象的なものを、少しずつ少しずつ手放していこう。
それは大好きだけど、今の私には温室みたいだ。

死、生、教育、自然、医療、政治、いろんなことが動きまくっているらしいけど、
私は自分の躊躇や戸惑い、あいまいさ、甘え、そんなものをかかえて
いつも世界の激動に取り残されて、何も選んでないと思ってしまう。

でも、そんな戸惑いも含めて、私だ。
おなかが出てきたら不安になり、おなかがへっこんだら安心する。
いまだにそんなこともあるけれど、それがすべてのものさしでなくなった。
それも今の私だ。

何に依存し、何に助けられて、何をごまかしているか。
何も知らずに生きてる日々でもあると思う。
でも、ひとつ何に注力するか、まずは決めてそれとぶつかってみる。
それでいい。行動し、経験し、悩む。
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by jengsauman | 2008-02-13 01:59

ゆーもあ

昨日は大学時代にスターバックスでバイトしてたときの友達の結婚式だった。
ホテルオークラが会場だったが、てっきりニューオータニと勘違いし(なぜ)
高い建物を目指して歩くも、全然違う場所に辿り着いた。
待ち合わせしてる友達に電話して、「歩いてたら迷った」といったら、爆笑された。
大学のときから、なにかしらよく笑いを誘っていたが、関西人としてはおいしいのか、
それとも、ワザワザ、なのか、結局よく分からないが、まあどっちでもいい。
着いてみたら、なんとすごい場所ではないか。。まるで晩餐会のような会場!!
テンションはあがりまくり、写真をとりまくっていた。悪い癖だ。

昨日集まったのは女子4人だったけど、なんというか、いろんな人生があり、
みんな悩み、一生懸命で、いつもはそんな葛藤や悩みを顔には出さずに
ひたすら頑張っている、そんな27歳の女子4名が素になったとき、
「どうしたらいいんかねえ」っていう議論(?)をわいわいしたのが嬉しかった。
まるで、SEX AND THE CITYではないか。4人だし。。

20歳のころ、バイト帰りに菓子パンを買い込んでは、夜中につめこんで
またバイトに通っていた。時間が経ってしまうと、そのころの仲間と一体何を共有したか
どんどんと薄れてしまっている。まるで、自分が摂食障害とだけ生きてきたかのような
錯覚に陥る。でも、数年ぶりに集まって、今のわたしたちの悩みや考えることを
交し合うと、なんだか過去のことも思い出され、また今も繋がっていることのありがたみを
感じたりもする。

最近、姉の出産後、家族内の不和(両親VS姉)はひどくなり、
私は仲裁を試みたり、内心いつかは理解しあうだろう、なとという自分本位な希望を
持ったりしていたが、家族とはいえ、当たり前だと思った時点でだめなんだと感じた。
そして、仲裁を諦めた。それでいいのかは分からず、もっとできることはあるのでは?
といつも思う。でも、お互いが自分の正しさをぶつけあう中では、何も生まれない。
それどころか、まるで正義を名目に他国に攻撃する世界の国のようではないか。

感謝というのは、理論的に正しいからするものではないだろう。
なのに、うちの姉は、両親が感情論ばかりで理論的におかしいから嫌いだという。
(そんな姉を親として持つ子供を心から心配する。)
そんな条件付の感謝や愛情なんて、やはり違和感を感じる。
もう少し、広い気持ちを持ってほしい。そんなメールをしたら、逆効果だった。ハハハ。
私も、自分のためにそんなメールをしたのかもしれない。だから、やめることにした。

友達でさえ、分かり合えなくても、やはり縁があって、どこかで支えてもらっている。
自然と、ありかたではなくそこにあるものに感謝するもんだと思うようになった。

いろいろと考えていると、リアル、現実、厳しい、不和、対立、争い、無関心、罪と罰
そんなことばっかり思いつく。世界で見るべきものは、そんなどろどろで、見えない
場にあるリアルなんだと思うようになった。
そんなもの、ほんとは見たくもないのに、それが本質ならばやっぱり見るべきなんだろう
と思ったりもして。

でも、そんなのはやっぱりうそっぽい。表面ばっかりの独善的な行動である。
たとえそれがリアルであっても、やっぱり世界はそれだけではない。
結婚式に出るたびに感じる他の何でも得られない安心感と人とのつながり。
どんなにハードな仕事をしていても、それに対してユーモアと楽しさを持って
取り組んでいる人。
たとえどんな形であれ、人に助けられること。
豊かさという面では、どんな便利さを手にしている私たちより、貧困に苦しむ
途上国の人たちにはかなわないと驚いたこと。

いろいろとあるけれど、いろいろと見ようとする。そんな自分でありたい。
決してこれはこうだと決めてしまわない自分でありたい。
そのなかで、自分がたのしく、きらきらできる場所を築いていくため、
日々の(苦しいと思われる)日常を重ねていくんだろう。

少しでも自分が何か形になるようなものを残すためには、志が必要で、
でも、そればかりだと偶然の重要さに気づかないのかもしれない。
やっぱりバランスで、なるようにしかならないのかもな、と思ったりする。

今日は、広東語授業で、先生に笑顔でおこられた。
「学校に通っているからといって依存するな。教材を当たり前と思うな。
あるものすべてをとにかく吸収し、自分の力で、自分の骨にするんだという覚悟がないと
なんにもならない。」

その通りです。ひとつの確信を持たないと、その次にも進めない。
先生の言う快感の域に達するまで、とことん暗記して、データベースを増やすぞ~!
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by jengsauman | 2008-02-11 01:41

2008

2008年こそ、といろいろ考えた。
もう一ヶ月過ぎた。
でも、本当はスケジュールありきではなく、何を問題ととらえ、何を価値あると考え、
何をし、何を生み出そうとするか、である。
だからやはり今までと変わらない他力本願に過ぎないと気づきつつ、
ゼロよりゼロでないものでればOKとして、頭で足を止めない1年にしたい。

日々、「あっ」という思いつきや
「じわー」っというなんともいえない感覚、
あれは忘れたくないなという執着、
うすっぺらいと分かっていてもなんだか気になること、
絶対に1日1個は自分のデータベースを更新すること。
そんなことを気にしながら、残してみてはどうだろう。
もしかしたら、一人ブレインストーミングができるかもしれない。
そんな、あまったるいことも考えてみた。

27歳になってやっと、自分が何も考えてなかったことに気づいた。
闇雲に信じられるものをさがしてあっぷあっぷになっていたが、
そんなものないから、分かりやすい感情論に走り、
論理だけでなく人間としても骨などなかった。
そして、ほとんどのことを知らないことに気づいた。

これはこうであると教えてもらったことは、事実でなかったり単なる記号だったと知った。
これはこうだと思い込んでたことは、誰かの言葉でしかなかったりした。
メディアが流す情報は、情報のようで情報でないとも気づいた。
先輩がジャーナリストとして活動していることを知ってから、
ひとつのものの見方を見せてもらえた気がした。

何かを知る(と思う)、ということは恐ろしいことである。
それが正しいと思えば思うほど、疑うことをしなくなる。
それが、集団になり、暴力に繋がることもある。
だから、私は声をあげることがこわい。
私はこう思うんだ、と主張することをしてこなかった。
いや、それ以前に、それはおかしいのではないか?と疑問を持たなかった。
でも、恐れてここに居続けるだけでは、何もしないも同じ。

そんなことばかり、頭で考えてると、ふと何のために生きているのか
分からなくなる。実はそれが一番避けたいことであるのに、
結果的にそこにすっぽりおさまっている日々なのだ。

でも、それでも、何か、心にひっかかることがあって、
何かを勉強しないとそこに辿り着けないような気がして、
よくわからないけど、改善していこうと思って。
でも、私は肝心な、原動力を忘れていた。

既に用意されている良いとされる何かは、それだけで価値になることはない、という感覚。
お金、スタイルのよい(といわれるがりがりの)からだ、学歴、他人からの賞賛、等。
それらの多くは持ったこともないから分からないけど、
正しいと思って追い求めてきたのに、得てみても何もない充実感。
結局、得ても、得てからまたレースが始まる繰り返しだ。

人生とは、自分の課題との闘い、なのではないかと思うにいたる。
しかし、自分の課題は何か、は分からない。
だから、気にかかったことから、広げていくより凡人には方法がないと
気づいてしまったところだ。

私は先週叔母になった。初めて甥っ子を見たとき、訳も分からず産まれてしまった
という顔をしているように見えた。複雑だった。彼は一体どんな人生を送るのだろう。
でも、やっぱり嬉しくて、かわいくて、いとおしかった。
私たちに与えられた時間が最大100年前後だとしたら、
一体何に時間を費やすべきなのか。
最近感じたことは、
わたしたちは、命を受け継ぎ、受け継いでいくものだ。(自分の子供とはかぎらず)
自分でぜんぶやってる人なんて誰一人いない。
目に見えるものを簡単に信じるな、見えないものを見ようとし、わからなくても
わからないと感じることを直視する覚悟を持つことが必要だ。

少なくとも、甥っ子には、少しでも世界の多様さを小さいときに見せてあげたい。
社会はこういうもんだ、なんて思ってしまう前に。できるかな。。それよりまずは自分やろ、
と思うけれど。
私自身、イスラム圏にいったこともなく(マレーシアは行ったが、モスクに入ってどなられた。
怖くて、イスラム=怖いというメディアに植えつけられたレッテルがここである意味形になった)
、紛争や貧困を目の当たりにしたこともなく、
アフリカ、南米、オセアニア、アメリカ、インド、いったことないとこばっかり。
みたことないことばっかりや。
せやのに、私の日々は日本と中国と香港で完結している。恐ろしい。
しかも、日本が本社、中国が子会社、だから日本のやり方を少しでも取り入れてほしい、
と思っている。彼らのやり方を知って、うまく融合する力量がない!無力で情けない。
いや、徹底的にやろうとしてない。上司にも止められて、それを説得する材料を持ってない。
またまた中途半端だ。

資料の文字のレイアウトがめちゃくちゃとか、半角がまざってるとか、
提出期限に出てきたためしがないとか、事後報告ばっかりとか、悪いことは言わないとか、
勝手に契約しちゃうとか、アポイントをすっぽかすとか、さまざまなこまごましたことについて、
いちいち腹を立てるのは無駄だと思い始めてきた。
本当に絶対にはずしちゃいけないことだけは徹底的に意識あわせが必要だが
「なんでもあり」がまかり通る世界は、実は大多数なのではないか?と思うからだ。
それにいちいち過剰反応して、分かってくれない!とイライラするのは無駄骨な気がする。
いや、どっちかというと、振り回されている気になって、実際は弄ばれているだけのような。
いろんな話を聞くにつれ、日本が特殊抗菌社会に思えてきた。

日本企業で、世界各地に展開しているところは、一体現地でどのような交渉をし、どんな経営をしているのだろう、と気になる。

たとえば、今とある途上国の支援(行政や教育)に携わるとしたら、
それは日本のやり方をどこまで入れて、どこまで別の方法を取り入れ、伝統的なものも
入れることが「よりよい発展」なのか。
そう思うと、日本や中国だけで一つ一つ細かいことを挙げているのは、なんだか
あまりに狭すぎるなと思う。日本もそうだけど、中国も、大学をはじめとする教育機関の
閉鎖的で保守的な姿勢が大変疲れる。
私立の学校法人経営なんだからお金のことが重要なのは当たり前である。
それなのに「教育的見地から」という美辞麗句を欠かせないらしい。
そういう伝統も大変だなと思ってしまう。
日本でも中国でもない別の場所で勉強したいな、と思いはじめている。

実際私が共感するのは、やはり現場の先生たちだ。広東語の先生をはじめとして、
徹底的に、とにかく徹底的に教育内容にこだわっている専門家に出会うと、
とにかく興奮するし、共感もするし、影響もされる。
でも、教えるほどの専門を持たないということ以外にも、
やはり民間の目を持った人間でいたいという、なんとも弱弱しい理由により
私はプロジェクトの進捗管理を行っている。
やっぱり、お金といろんな人の考え方、利益、裏、いつもうずまいているのが
リアルなのかなと思うのが今の実感だ。
大きな枠組みで、何かを動かしていく人間になりたい、という漠然とした夢。
そこには、理想がぐちゃぐちゃにされるようなことがたくさんあって、
「こんなはずではなかった」ということばかりだろう。でも、ひとりじゃない。やってみたい。

私の住んでいた街は、今日も中国人と韓国人を中心とする外国人であふれている。
それなのに、日本社会では日本人であることが当たり前のように見られる。
でも、世界はいつも多様で、世界はいつも動き、いつも可能性に満ちている。
ただ、人の視野が狭くなることで決め付けが起こり、排除が起こり、正義の議論になる。
いつだって、事実はそこに存在しているのに、私が見てないだけ。
世界をいびつにしているのは、人間の頭だと。。。

少子高齢化と叫ばれて、外国人の人材が必要とはいうけれど、
今のシステムにどうやって外国人を入れていくのか。
特に気になるのは教育だ。
今は中国人の教育、中国人側にばかり立っているが、本当は日本の教育にかかわりたい。
知識よりも、想像力、構築力、問題解決力、感性、忍耐力を重視するもの。
結局自分で塾のようなものを作るしかないのか。。。
いろいろ勉強しないと、分からないことだらけだ。

まずは今の仕事を進めていく上で、自分がどこまでやれるかに挑戦し、
それが会社の方針と合わないと悟った時点で、次の場所に移ることを考えよう。

所詮一人間としてできることなんて、たった1つあるかないかなのかもしれない。
明確な成果はあげられなかったとしても、摂食障害を経て、それをいつくしみ、人に助けられ、
ここまでやったというような自分の姿勢だけはこの世に残したい、という夢。
私なんて、何をしていいかわからない、傷つくのがこわい、そんな人間でも
目標を設定しきらめいていた、という証をのこせれば、いいなあ。





<2008 今のところのやってみる&考えてみること>
①完璧に外国語を大人になってからマスターする方法(できるだけ効率的に)
②文化人類学、異文化コミュニケーションについて文献を読む。
→見たことないもの、聞いたことないものに触れ、視野を広げたい。
③日本人と中国人の未来の協力形態。
→文献を読み、中国人と協力して文章にまとめてみる。
④情報リテラシーについて
(マスコミの暴力に市民が対し、より必要な情報を正しく得るにはどうすればいいのか)
→自分がマスコミから得ている情報は、かなり偏りがあると思うが、
ではどうすればいいのか。すぐに思考停止のレッテル貼りになる自分をどう制すれば
いいのか。今はどのようなジャーナリストの活動が行われているか。
⑤われわれが目指す発展とは何か
→国際協力に興味を持っても、どういう形で参与すれば、よりよい発展に繋がるのか。
「発展」のビジョンを自分の答えとして明確にする。
⑥死刑について
⑦仏像について
→今年はより多くの仏像を見て回ろう。
⑧摂食障害について
⑨戦争と平和について
⑩向き合う、本気、について
→自分のからだについて、知り(解剖学)、今年こそはバレエ、ヨガ、武道に取り組む覚悟を。
⑪女性のライフプランについて
→女性らしさ、ということを、考え感じ直してみる。
⑫日本の教育の現状について
⑬医学
⑭あたりまえを疑う



<2008年の目標>
①北京語、英語、広東語について、できるだけネイティブの感覚に近づけるよう努力する。
・外国人とばれない発音になるようトレーニングする。
・試験を受ける。
北京語-中検1級(11月)
英語-TOEFL

②1年で120冊以上本を読む。
・寝る前は小説
・社会科学系のほとんど読んでない本を読んでいく。
・歴史もの
・医学

③直感でいろんな人に自分から会いに行く。
・尊敬できる人と多くであう。
・失敗を予測して躊躇しない。

④物理学、数学の基礎をマスターする。
・まずはオンライン講座をすべて受講する。

⑤日本語の勉強をする。
・日本語教師試験を受ける(11月)

⑥ネパールへ一人旅する。

⑦香港へいく。

⑧ボランティア活動行う。あるいはNGOに参加する。

⑨10回は山登りする。(槍ヶ岳は必ず行く)

⑩バレエレッスンに通い始める。

⑪ヨガにも行く。

⑫武道の稽古にいく。

⑬解剖学の勉強をスケッチブックで行う。

⑭月に1回はお寺や歴史と関係の深い場所へ行く。

⑮中国関係のことにとことん首をつっこむ。

⑯茶道に挑戦する。

⑰サイトウキネンオーケストラ@松本を聴きにいく。

⑱着物を着る。

⑲何を研究していくか、どういう方向性で動くか、絞ることを意識しながら、
とにかく今年は情報収集。

⑳甥っ子と高尾山にいく。(今年は外国はまだ無理だろう・・)

目標:
「自分の言葉で話せるデータベースを増やすこととOSのバージョンアップ」
「分からなくて悩むことから逃げない」
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by jengsauman | 2008-02-03 02:06

有事鍾無艷,無事夏迎春

最近、謝安琪の「鍾無艷」という歌を延々と聴いている。
この題名を見て、私は鄭秀文と、梅艷芳、張柏芝の出ている映画を思い出した。

この映画、コメディのようだが、よく分からず途中で見るのをやめた数年前。
どうやら、これは中国の戦国時代の歴史に基づいたコメディの模様。
この映画自体は面白いのかどうか微妙だが、
「有事鍾無艷,無事夏迎春」という言葉があるらしいと知った。

「何か問題があるときは鍾無艷を呼ぶが、普段何もないときは夏迎春と
よろしくやっている」ということから、鍾無艷は都合のいい女ということなのか?
背景等が全然分からないので、ちょっと調べてみよう。
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by jengsauman | 2008-02-02 03:23

本1(『一瞬の光』)



なんだか現実ではありえなさそうな場面もありつつ、
すごくリアルでもあった。

最後のほうにある記述で、なんだか気になった部分。
眩しかった。降り注ぐ光を顔に受け、自分を取り巻く光景がふくらみ、
生き生きと輝きに満ちていく一瞬を感じた。この光こそが時間であり、
この瞬間こそが光なのかもしれない。

生き生きと、輝きに満ちる。
その状態とは、自分が頭で想像している「しあわせ」とは全く違う次元で、
実感が伴い、きらめき、輝かざるをえない、とても自然な姿なのだろうか。
人は、欲を持っているが、愛というものは余計なものをそぎ落とし、
感性を鋭く磨き、頭で生きることをやめる力をもっているのかもしれない。

文章を読みながら、これは単なる共依存ではないか、とも感じたが、
それぞれの存在にとって、一体何が「よりよく生きること」であり、「しあわせ」であり、
「成功」なのか、想像もできるはずがない。
ただ、人が人と深く結びつくことで、うまれるものが、清く美しくみえるものでなくても、
彼の選択が、私にとってはどこかで共感できるものであった。
そんな感覚が、今も余韻として残っている。
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by jengsauman | 2008-02-01 03:23