過食症を経て、一つ一つの日常を見つめる記


by jengsauman

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sassy

今日は定時間日だったので、さっさと帰った。
ますます「わたしって何でもっとがつがつ、さっさとやらないの。ほんとダメだ」感が
蓄積されていくが、へこんでもしょうがないし、へこむほどでもない。どないやねん。

会社を出て、いったん家によって、タイガースの試合をちょっと見て、
そこから代官山におもちゃを買いに行った。
甥っ子の出産祝いに何がほしいかやっと決まったとのことで、「sassyのおもちゃ箱」を
買いにいってきた。

ベビー用品やらブランドやらの世界はまったく未知の世界で、
sassyも知らなかったが、前に「かわいいなあ」と思って何度も通っていたお店が
sassyだったことに今日きづいた。ひとりで興奮。

ほんとは、友達の出産祝いを買いに、actus kidsにいくつもりで、そのビルに行ったのだけど
偶然actus kidsの隣がsassyだった。
なんというか、代官山だなあという感慨にふける。
私の生活区(というか視野)には、こんなにpopでおしゃれでかわいいものなんて
ないもの。貧相やわあと自分でおもってしまう。私、浮いてるわ、と自意識過剰になる。
代官山やら恵比寿がおしゃれな街だというけど、ほんとはそう思い込まされてる
だけなんではないかと思うけど、まあやっぱり静かでほかとは違うなとおもう。
必要なときに、必要なだけ利用すればいいと思うのに、自分のことに取り組んでないときは、
ついつい形を求めてしまいたくなる。

しかし、甥っ子ができたおかげで、こんなにウキウキするものかとおもう。
あまやかしてはいけないと思うけど、かわいくてかわいくて食べてしまいたいくらいかわいい。
sassyの店員さんとも甥っ子のかわいさについて盛り上がった。
「自分の子供よりもよっぽど甥っ子にお金使ってますよー。自分の子供じゃないから、
泣いたりぐずったら親(姉)に返せばいいので、いいとこどりなんですよね~(笑)。」
などと言っていて、ふんふんとうなずいた。

こういう世界もあるんだなあとおもう。
あかちゃんや子供を笑顔にするものを売る商売。
どこでも、結局「売上」というのはついて回るんだろうけど、お客さんがこんなに楽しくなる
ならそれもいいなと思ったりする。
ひさしぶりにリラックスして楽しい時間をすごせた。

でも、こうしてたのしいおもちゃに囲まれて育って、
彼らはいったいいつくらいから生きにくさを感じてしまうのだろうと思うと、
なんともいえない気持ちになる。
私とは違うんだよ、のびのび生きてたくましく育つかもしれないじゃん、一緒にすんなよ、
と自分でつっこんでもしまうけど、でも杞憂に終わったらいいなと願わずにはいられない。

日本でも、どこでも、みんな自分の正しさを主張することに必死な場面が多くて、
それがたとえ会社の中のちいさないざこざや、自己顕示やプライドのためのものだったり
しても、結構笑えない。だって、聞いてたら「あほちゃうか」と思うことでも、
実際自分の身にふりかかると、必死で相手の批判してるんやもん。がっかりする。

それでも、「争いやいざこざはあるもの」なんて思いたくないあまっちょろい自分と、
そんなこと気にしてるから小さいんだと思う自分と、そんな理想が重なって、
必要なときに必要な主張や闘いができない自分にでくわす。
何かあるたびに頭の中を支配してしまって、なさけねーな、とおもう。

そんなときに、世界に出て奮闘してる友達を思うと、恥ずかしくなる。

いつもそんなことを考えている。

なんか、いつも焦っている。あれもこれも、あれもどれも、しなければならない。
だから、すべてが事務的で、たのしくなくて、気持ちをこめてる場合じゃないという
あわてっぷりだ。

だけど、いくら焦ったって、こうしてひょうんなことから心が開けた瞬間、そのまずさに
気づいてしまう。
ああ、もし今日死んでも、上から何か飛んできて下敷きになっても、大地震がおきても、
パワフルに生きたな~と思えるのかなあ、って思うのだ。

何かを得るためにではなく、何かを自分で開いていくために、何かに取り組むことしか
できないのかな。

ここではないどこかじゃなくて、ここにあるちっさいこと。

それにしても、Natural Lawsonのメロンパン、めっちゃおいしいわ~。
最高。だいすき。
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by jengsauman | 2008-05-28 21:03

身の丈

愚直にもなれず、かといって融通がきくわけでもなく。
結局何も選んではいない。

何かうまくいかなかったら人のせい、自分のことより人の批判。
そして、人の愚痴の聞き役。そうして、なんにも見つめてはいない日々。

なんかに夢中になって、魅了されて、つっぱしることがまだ怖い。
でも、身の丈で、とことんトライしてみたい。それが幸せなんだって
少しずつ少しずつ感じている。
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by jengsauman | 2008-05-26 23:52

結婚祝い

今日は大学ゼミのカップルの結婚祝いの会を催した@恵比寿。

大変うらやましかった、とおもう。
2人はすなおに、足をつけて生きているという感じがした。
私がそれをうらやましいと思うのは、きっと自分がまたふわふわして
どこか違う正しさを探しているからなのかもしれない。
ちょっと前までは何てことなかったのに、結婚出産というものに追いかけられて、
それしか正しさが見つからない自分がいる。
やっぱり、結婚出産しない人間は、不完全だという意識が自分の中にあるのだ。
違う違うと思おうとすればするほど、目の前で「幸せです」と言っているふたりのすがたが
突き刺さる。嫉妬というわけではないけど、劣等感なのだろうか。
やるべきことを完了した、1抜けたという感じの友人が、
「やっぱり結婚はすごい重くて大事なことだと再認識した」と言うにつけ、
遠い世界のように思い、気が遠くなる。

その友人も、一年前は家庭のある人と付き合っていた、らしい。
それが、今や財閥銀行の先行き安定男と幸せに結婚である。
そして、「私も半年前はまさか結婚なんてしてると思わなかった~」
という発言にボエーと思う。そんなことを思う自分に最もがっかりだ。

そうかあ、私はまたレッテル貼りの、形求めをしてるんだなあって
思った。正しい形がほしくてしょうがない。
銀行だろうが、なんだろうが、相手がやりがいのある仕事をしていて、
生活していければそれで十分だと考えてるくせに、結局は「でも、それじゃあ、
正しくない選択をしてしまうかも。自分が傷つくかも」というリスクの前で、
「楽をしたいよう~」と叫ぶ自分がいる。楽をして正しさを手にいれたいのだ。
そんな風に目に見えるものは全部違うんだ。しっかりしろ。

それ以上に腹が立ったのは、つかの態度だ。
あいつ、こないだ二人で会ったときは、もう彼女と別れる勢いだったくせに、
昨日は結婚モード全開だった。
おいおい、うまくいってんのかよ。結局、なんでもない存在なんだよなあと
痛感した。その後も話題は、結婚結婚結婚。ボエーーーーーー。
しかも、4組の夫婦とカップルでBBQしようとか言い出して、
吐気で倒れそうだった。

私は、きっと楽に「人にとっての頼れる人」になりたいのだなあと思う。
いや、「誰にとっても信頼できて近い人」だろうか。
仕事においても同じだ。
だから、人が自分のことなんてそんなに信頼してないとか、
そんなに必要としてないとか感じると、当たり前のことなのに、
がっかりしてしまう。それが、思いいれが強いとがっかりで止まらず、
腹が立ってしまうのだ。勝手に。ばかだね。

そんなことしなくていいんだ。
っていうか、そんなアプローチじゃだめなんだ。
自分が自分の方位磁針に基づいて動き、
その中でできる範囲でがんばればいいんだ。
そうじゃないと、またふわふわして、空しくなって、
ないものねだりをしてしまうよ。

私は言葉に責任転嫁をしていることがとっても多くて、
言葉を発すると、余計に腰が重くなり、何もしないことが多い。
だから、それなら、言葉でまとめようとしないほうがまだまし、とも思う。
友人の結婚について、私は何でこんなに心が揺れたのかというと、
彼らが幸せですと言っている形は彼らにとっては本当に幸せかもしれなくて、
でも、私が同じことをしても幸せではないかもしれなくて、それは分からないからだ。
だから、「結婚して幸せです」という言葉に、みんながわあ~となっているのに
対して、ぽかーんとしている。
だって、分からないんだもん。
だけど、結婚をして幸せですと言っている友達は、より多くの賛同を得て、
祝福されて、多数の人が望むとおりの形の結婚をして(とレッテル貼りをして)、
それが彼らにとっての幸せだったら、なんてうらやましいんだろうって
思ってしまう。
そんなぐちゃぐちゃ考える自分にとって、結婚はとっても遠い世界のことで、
「結婚せずに自分らしく生きる選択肢もあるよ」っていう自分への問いかけが、
とっても弱弱しい。
多数の幸せ≒自分の幸せだったらなんて楽なんだろうって
やっぱり思っている。でも、それは違うのだ。それに、そんなのつまらない。
私は楽をするために生まれてきたのかっちゅうねん。

こうして書いてると、私は「楽に」と「認められること」に執拗にこだわって
何も動いてないじゃないか。もう、さいあくやー。きしょいー。

言葉に責任転嫁じゃないけど、やっぱり何事も「所謂価値あるもの」ありきで
自分が判断して動いてるから、こういうことを考えるんだろうなと思った。
結婚はするべきだ、結婚はいいことだ、というのがまずあるから。
だから、実際悩んでることは、その決め付けた自分と、
決め付けたくない自分の間のせめぎあいであって、結婚のことではない。
当たり前だが、相手がいないと結婚なんてできないんだし、
実際結婚で悩んでないのに結婚の話をするとあたかも悩んでるかのように
とらえられやすいからだ。

なんてぐっちゃぐっちゃ考えて、でもあのふたりが幸せそうなのはやっぱり嬉しいと
思ったりしながら、「次は誰かな~」なんていう暴力的な言葉がMLで流れると
PCの前で憤慨しているわたしがいる。自分のことばっかり考えてるなあ。

つかれた~。
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by jengsauman | 2008-05-23 01:19
うちの母親は、なにかと、「ありがとうございます、感謝します、ツイてます」と言っている。
どうやらおばん(おばあちゃん)から回ってきたようだ。
播州うまれだから、言葉がわるくて。ホホホ。
で、なんか問題があっても、これを唱えればうまくいくからね、と言ってくる。
私にも、電話をしてきては「なんかあったら、例のやつとなえときよ!」って言う。笑

全くもって平和だなと思うけど、あながち馬鹿にはできない。
やっぱり、ツキは引き寄せるものなのだろう。

最近の自分は、「権利意識」にとらわれすぎていたとおもう。
自分をないがしろにされる体験があるたびに、憤慨していた。
東京は殺伐としているから、仕方ないのかと諦めかかってもいた。
だまされちゃいけない。お金をだましとられてはいけない。あのときああ責めればよかった。
そんな思いでうずまいている。
だから、「権利」と「義務」にとらわれて、クレーム言うたり、契約書を持ち出したり、
全然紙みたいにうすっぺらい日々や。

でも、今日、ツキがきた!と思うことがあった。
先日、参加した大阪でのドラムコンサートの主催者の人から、封筒が届いてて、
なんと、金本の2000本安打記念下敷と、コンサート当日の写真と、一筆箋が入ってた。
「また堺にきてください」とかいてあった。
え!005.gif005.gif005.gif
自分でも覚えてないけど、私、金本のファンって言うたんかな。
きっと言うたんやろうな。
どっちにしても、なんていう心遣い!倒れそうになった。
しかも、写真は私が写ってるものや、先生のものや、私が長いあいだしゃべっていた
おばちゃんのものや、いろいろを組み合わせて9分割みたいにして1枚にしてあった。

こういう親切なひと、いるんやね・・・。
自分がこういうことを自然にできないから(すぐに見返りをもとめるか、盲目的になってる)、
こういう体験をすると、そういう出会いをほんとについてるなあっておもう。
人をこういう気持ちにさせられるプラスの気に乗れるきっかけはなかなかないから。

そこでおもったけれど、類はともを呼ぶわけで、こういう連鎖をつくっていくことに
注力すればいいんだ。
非常識なものに対して、毅然とした態度でいることは重要だけれど、
それに引き摺りこまれて感情的になるということとは違う。
わたしは、やつらと同じだったんだ。

人を信用せず、自分なんて運が悪いと思ってて、どうせいいことなんてないとか、
心のどこかで思ってた。だから、引き寄せていた。

そこまでは分かっても、じゃあ、どうすればいいのか?っていうところで、
なにもせずにぐるぐるして。

(今、香港のインターネットラジオ聞いてたら、「♪羞恥心、羞恥心~」と聞こえてきた。
こういうの、日本の代表みたいに流すのやめてくれ!)


で、感謝しつつ、まず自分も同じことを返そう、とおもった。
そして、別の誰かにもやってみよう。
もしかしたら、こういうことじゃないんかもしれないけど、
行動の出し惜しみしてもしょうがないし。

どうすれば、事態が好転するのか、なんて考えてるよりも、
いろんな上下左右の動きのなかで、いつかスコンと分かるものではないかな。
日野先生もそんなことを言ってたやろ、また考えやがって!>自分

先週金曜に風邪と生理のだぶるパンチで丸3日寝まくったら、
また元気になった。

不思議なことに、今日の夜には、炊きたてのごはんと味噌汁が食べたくなった。
きっと、きちんとおうちで食事してなかったから、体調が崩れたのだろう。

それに加えて、昨日の夜中にやってたTV番組で、
小林聡美ともたいまさこが、めっちゃおいしそうなお弁当作っててん!
あれみてから、もう頭の中が「おにぎりおにぎりおにぎり」になった!
http://www.ntv.co.jp/2cool/story/story06.html
この絵もすてき。

あれもこれもは無理だから。
あれもこれもを追うことで疲れるまえに、眼の前の1個をきちんと吸収することだ。
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by jengsauman | 2008-05-12 01:32

心で感じること

先日、仕事で同じプロジェクトを進めていた大学の先生の訃報をうけた。
出張講義中に突然倒れ、意識不明のままお亡くなりになったそうだ。

わたしは、そのしらせをうけて、すごくショックだった。
1回会社に訪問してもらったときに会っただけだけど、
突然だったこと、死がやっぱりリアルに存在すること、このプロジェクトの中に
死という要素がありえるなんて信じられない、という気持ちで、
死はやはり大切なものを遠くへもっていってしまうんだという恐怖感を感じたからかも
しれない。死と自分が繋がる瞬間というのだろうか。

必死で平静を保とうと、「命はつながれていくもの。死は悲しいことではない」と思おうとした。
でも、死は悲しいことなのだ。

東山魁夷があの絵を描いたのは、きっと晩年だったのだろう。
きっと、大切な人の死、また誕生の中で、あの絵を書いたのではないだろうか。
だから、あれだけの輝きがあり、人を納得させ感動させる力があった。

でも、今のあたしは、大切な人の死におびえ、自分の死にもおびえ、
頭で死はこわくない、かなしくない、と理解しようとしている。

きっと、死はいつだって悲しいだろう。
でも、ひとつひとつを受け止めていかないと、いつまでも幻想の世界だ。

のりちゃんと話したら、「死は頭で考えることやなくて、心で感じることやで」といわれた。


ミャンマーのサイクロンの被災者は軍事政権の下で十分な支援を受けられずにいるらしい。
多くの方が亡くなったという。私が、ひとりの人の死にしょんぼりしているあいだに、
とてつもない数の人の命が奪われた。これは、一体どう受け止めればいいんだ。
どうせ、他人事か。なんていう自分の声がきこえる。

自分があたりまえにあると思っているものが、ない場所がある。
たべものや、のみものや、いえや、たべものを調理するものや、医療や、自由や・・。
それなのに、人的支援を受け入れない軍事政権もある。
「信じられない!」と思っても、わたしは不謹慎ながらいつもこういう独裁者を見ると、
自分の摂食障害のときの心境を思い出さずにはいられない。
自分の保身が第一で、内部の脆さがばれないようにするためなら、どんなことだって
切捨て犠牲にする。自分の弱点を隠すことを、無意識的に最優先する行動をしていたこと。

もちろん、それが多くの人の人命にかかわるとなると、犯罪ともいえるが、
ただただ、外からの「おかしい!」という声への全くの不感症とか、
もっともな矛盾の指摘に対して逆上することとか、
ありもしない結びつきを勝手に妄想してしまう。

それはさておき、自分には何ができるだろうか。
それをきちんと決めよう。

私のマンションの上から土砂崩れの可能性なんてなくて、
家がなくなるかも、っていう危険もいまのところなくて、
自己実現とかうだうだ考えていることに嫌気がさしていて、
人のために、と自分のために、が半分はかぶることがあればいいななんて考えていて、
でもそんなのんきな平和ボケとは違って、
世界は今も自然の力に従うしかない現実がたくさんあって、
誰を責めればいいかも分からないことがたくさんある(のだとおもう)。

でも、あわあわして、あまりの複雑さに、「まずは現実を知ってから」なんて思って
流して終わり、な自分はもうやめよう。

今、たとえば、募金しかできないかもしれないけど、
何かをアクションしていく。今できるベストをやる。

生きている以上は、今を生きる使命があるのだとしたら、
「だから何になるん?」とか「そんなことしても意味ないって」なんていうことは
考えないで、今できる最大限がそれなら、それをやろう。
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by jengsauman | 2008-05-08 00:36

JOHANの黒糖パン

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この黒糖パン、めっちゃおいし~~~~~~~~~~い!

おねえちゃんが並んで買ってきてくれて、食べてみたら・・・016.gif

よくよく調べてみたら、このJohanというパン屋は、三越に入っているらしく、
私がしょっちゅう通っていた新宿三越(ジュンク堂があるから)のB1にも
そういえば、いつも人がたたかっていたパン屋があった!!

ほんと、おいしいものって、どんなにそばにあっても気づかず、
人に教えられて特別になったりする。

今度は、コーンパンをゲットしにいってみよう。
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by jengsauman | 2008-05-07 00:07 | 食事

かがみ

両親と一緒に東山魁夷展にいってきた。
うまれてはじめて、美術館で音声ガイドの機械を利用した。
500円だったけれど、本当にすばらしかった。

東山魁夷は、多くの山の絵を描いている。
その中の1つの絵《残照》に関して、彼ははじめて自然とひとつになった実感を得たと
いっていた。すべての肉親を失い失意のうちに登った山で自然につつまれる中で、
万物は流転し、無常である、と。
そして、不変とは死をあらわすことだ、とも。
なんだか、すごく響き、気持ちが楽になった。

いつからか、わたしは、正しさを含めた多くの枠のなかに
自分をはめこもうと必死だった。
自然さえも、自分のために利用しようと、利用できると思っていたのかもしれない。
自分の世界が自分だけで成り立っているかのような。
こどものときに、キャッチボールをしてすごくたのしかったのに
女のくせにって思われるのが嫌で、あまりやらなくなったときみたいに
誰もそんなこと言っていない「ただしさ」を自分が一番レッテル貼りしてた。

また、《行く秋》では、「荘重で華麗な自然の生命の燃焼」という意味をこめたそうだ。
かえでの樹と周囲に敷き詰められた黄金色の落ち葉を描いているんだけど、
その落ち葉は次の年の新緑が出てくるころには、その落ち葉はすっかりなくなっている。
そうして、いのちはつながれていくと思えば、死はかならずしも悲しいことではない、
と言っていた。

まいにち、そういう気持ちで取り組めたら。
両親が死んでしまうことを毎日どこかで恐れている自分にとって
すてきな出会いだった。
絵なんて興味ない、と思っていたけど、全部そう決めてるのは自分なんだと
最近つくづくかんじる。

そんな最高にいい気分だったときに、先日の最悪な不動産屋MMから留守電が
入っていることにきづく。
休日に何の用事だ、しかもいまさら!と一瞬で心が乱れる。
留守電を聞いたら、「お休みのとこすいませ~ん。(超軽い)お電話聞きましたら折り返し
お電話ください~。」と入ってたので、かなり腹が立って(もうかかわりたくないのに、
こんどは何じゃ!もしかして退去のときの費用をいまさら請求してくるとかか?とか
いろいろ考えたら、吐き気をもよおした)、しょうがないので電話した。

そしたら、「外出してまして、20分で帰りますので、折り返します」と別の担当者。

で、待っても待ってもこない。結局2時間経った。もうイライラしてしょうがないので
大人気ないとわかってても、もっかいかけた。
そしたら、「今、席はずしてまして」といわれた。ハア!!

ぶちぎれた。

「休みの日にすいませんとかいってかけてくるから何か用事かと思って待ってたのに
2時間も待たせて、会社に戻ってるのに連絡もなしですか。もう今までどんだけ迷惑
かけられたと思ってるんですか。御社は、何も仕事してないですよ。いつもこうですよ。
:@@<>L‘*_*}{~=P*‘」と言いまくり、最後には

「重要な用事じゃないなら、書面で連絡してください!もう電話してこないでくださいよ!」と
まで言ってしまった。

私は、最近こんなことばっかりしている。
でも、相手に怒れるようになったのは前よりましになったと思うけど、
なんか、とっても気分が悪い。

上のことは、2日前にあったことなのに、いまだに重く心の中にどーんとある。

なんでかな。

で、母親にその話をしてたら、なんとなく分かったのだ。

「あんな、あたしただ怒ってるだけちゃうねん。なんで嫌かっていうたら、
あの人たち、自分の仕事をめっちゃ適当にやってるねん。
サービス業なんやからお客様ありきのはずやのに、自分の都合で仕事してるねん。
自分がしたいときに電話して、自分がやれる範囲で連絡報告してるから、
それによってお客様にどういう影響があるかとか全く考えてないねん。
仕事してる上で、そんなんプロっていわれへんやろ。
それやのに、あの会社、みんなそろって同じ対応やで。
みんな、自分が責任持ってやってるっていう意識がないねん。
それでも、ちゃんとやってくれてたらいいけど、ちゃんとできてへんねん。
だから怒ってんねん」

母は、最近わたしが切れやすいことを心配してたけど、その話を聞いて、
「そんな会社つぶれるわ」っていうた。さすがおかん・・。でも、ほんまに、そうかもしれへん。

それと同時に、私は気づいてもうた。
なんでこんなにこんなに気分が悪いかというたら、
その相手(敵)は、自分を投影してるものやからや。
自分の仕事への取り組み。自分のもののとらえかた。その場さえよければ
なんとかなるやろっていう甘さ。そういうのが、自分とめっちゃかぶったんや。

自分は摂食障害やから、(時間にルーズでもしょうがない)。
自分は研修や教育をあまり受けてないから、(あれもこれもできなくてもしょうがない)。
自分はこれに興味ないから(こんなことやりたくないし、やる気がなくてもしょうがない)。
自分はこんな仕事やりたくないから、(効率よくできなくてもしょうがない)。
自分はブサイクやし太ってるから、(友達(特に男)と信頼関係と築けなくてもしょうがない)。
自分は英語ができないから、(だまっててもしょうがない)。
自分はクールやから、(初対面で自分から打ち解けなくてもよい)。

そんな自分だけの勝手なルールや都合を決め付けて、
どれだけ多くの人の気分を害したのだろう。
それに、今だって姉に「あんたは時間にルーズや」といわれる。
まったくもって、相手を尊重してない。
自分本位のくせに、からっぽやから、絶望感で気が遠くなる。


おねえちゃんは「あんたの周りはありえへんことが多いな」という。
ひろちゃんは「あんたは基本的にめっちゃ厳しいくせに、ある一点だけはめちゃくちゃ甘い」
という。

おそらく、こういう最悪な出来事って自分が引き寄せてるんやろうなと感じた。
NOといえない部分について、相手をつけあがらせてしまって、結局結果を悪化させるの
だけど、なぜNOといえないかというたら、自分もそうやからなんちゃうかな。
なんて思ったりした。

相手にえらそうなことをいうためには、自分は当然できてないといけない。
だから、NOといえないんかもしれへん。そうやとしたら、やっぱり敵の存在は
自分のため、でもある。
そして、結局は、自分とのたたかい、である。

なるほどなあ、と納得しようとする。
待て待て!わかったつもりになるな、やろ。

結局、行動しないとなにもかわらないんやから。
とりあえず、気持ち悪いままでもいいから、ポイって捨てて逃げないようにしよう。
ちゃんと受け止めるまで。


この数日を通して、自分(のからだ)との距離がまだまだとても遠いことをかんじた。
自分のつもりで言葉を発してる人間は、わたしではないような感覚。
なにかをごまかして、なにかを棚にあげて、なにかをそらそうとしているときもあった。
でも、やっぱり変えられるのは自分しかいない。
そう気づいた。

電話に向かって怒鳴ってたとき、わたしは相手に分からせようとした。
相手に、気持ちを汲んでもらおうとした。
でも、全然むりだった。あたりまえ。

まずは、みんなに自分のことを分かってほしいなどという、幻想を捨てることだ。
相手が変わったら何もできなくなるような自分ではなく、
自分はいつもそこにいる、そんな山のような人間になれたらかっこええな。
でも、人だから、答えが分からないままでよいのだ。
人間世界は、複雑で矛盾に満ちている、と分かればいいのかもしれない。

この夏は、たくさん山に登って、しぬまでに自分の身体に少しでもちかづいていきたい。
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by jengsauman | 2008-05-05 18:36

野の葡萄

両親上京第3日目。

朝から、私は父とBunkamuraのルノワールルノワール展へ。
会社で無料招待券をもらったのに、もうあさってまでだしいけないかなと思ってたところに、
父が行こうと言い出したので、念願かなった。よかった。

渋谷は思ったより人が少なく、GWは都心から人がいなくなってしまったのか
とも思うほどだった。父と渋谷の街を歩くのもとても不思議な気分だったけど、
近くに住んでたらこうして休みの日に一緒に出かけることもできるのにな、と思った。
ああ、またこうして自分のやるべきことをおいといて、「良い人生」を生きることに
必死になってるのか?とおもった。

テクテクあるいて、文化村につくと、父は一階のおみやげコーナーで
母が大好きなモーツアルトのめがねケースとコップをかった。
母の日のプレゼント買うのなんかひさしぶりや、とはにかみつつ
めっちゃウキウキしてるように見えた。父はかわいい。

ルノワールルノワール展は、思ったよりもとてもよく構成されていておもしろかった。
父の画家ルノワールと、息子の映画監督ルノワールが、どのように影響を受けたか
作品を並べて説明してあった。音声ガイドも借りた。


東山魁夷とは全然違うんだけれど、ここでも画家ルノワールは、
「自然は人を包む」というようなことをいっている。
また、「生きるよろこび」も描いていたようだ。

東山魁夷も、北欧の厳しい自然を描きながら、「過酷な条件の中での生命の輝き」
といっていた。

何かを通して、多くの芸術家はそれぞれ深い洞察を持っていたのだと
27歳にして、やっと知った。
芸術を分かることがかっこいい、と思っていたころは、しるよしもなかった。
分からなくてもいい。
でも、感じたことや学んだことがあれば、それをしっかり自分がうけとめる。
そんなスタンスがいいじゃないか。とひとりでうなづく。

ルノワールルノワール展のあとは、国際フォーラムでコンサートにいっていた
母と姉と甥と義兄と合流。
トキヤの自然食バイキング「野の葡萄」へいってきた。
野菜をたくさん使った料理がわんさかあって、うどんやてんぷら、スープや
カレーなどもりだくさんで、とってもおいしかった。

午後は、また父とふたりで浅草へいったが、おそろしい人の波で動かない。
イラチな大阪人ですらすり抜けられない人人人。
なんとか浅草寺までたどりつき、帰りはもちろん別ルート。
わたしは、自然にいきられますように、というようなことをねがった。

帰りしに、せんべいを買って、地下鉄の駅へ。
父は下町がだいすきで、とても楽しんでいるようだった。
その後、父のだいすきな古本屋と登山グッズ屋のならぶ神保町へ。
あんなに古本屋を堪能したのははじめてかもしれない。
でも、ものが人へどんどん受け継がれていく文化は本当に貴重だとおもう。
たとえお金があっても、ものを大切にすることができなくなったら
なんか心が空洞になるようなあ、とおもう。

山グッズの店石井スポーツに着いて、見てたとこで母から電話。
私のあたらしい部屋を見たいというので、父にいうたら「いっといで」やて。
私のすんでる環境にはまったく興味ないらしい(爆笑。

最寄の駅についてちょっとしたら母が到着した。
部屋を見て、駅前でお茶して、東京駅へ。

姉家族と合流し、ホームまで見送りにいった。
甥っ子のおかげで、両親ともよろこんでいた。

いろいろと、観光地へいって、おいしいものを食べたけれど、
それ自体はどうってことないのかもしれない。
家族のために、おもいやり、素直になり、そういうことがいいのかもしれなかった。
その点、わたしは、いまだ形にこだわってて、殻をやぶろうとしてない。
でも、たのしい2泊3日だった。

また、おおさかへかえろう。
わたしはやっぱり関西がいい。
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by jengsauman | 2008-05-04 23:08 | 食事

ネタ

父と母の上京第2日目
(ジャイアントカプリコ いちご味を食しながら)

朝、父と母の泊まるホテルへいって、一緒に朝食バイキングをたべた。
普段、朝ごはんたべないけど、なぜか家族と一緒にいたら食べられる。
昔の習慣に身体が勝手に戻るのだろうか。

ごはん、うめぼし、みそしる、ヨーグルト、さけ、のり、パイナップル、冷奴、温泉卵、
ひじきの煮物、きんぴらごぼう等をたべる。
おいしかった。家族と一緒にたべたら、もっとおいしい。

部屋にもどって、準備して、さあ出かけよう!とおもったら雨。
ホテル前からタクシーに乗って、竹橋の東京国立近代美術館へいき、
「東山魁夷展」を鑑賞。

その後、地下鉄で築地までいって、お寿司を食べる。
父も母もうれしそうだった。
はりきって頼みすぎておなかいっぱい。

その後、築地から銀座へ歩いた。
東京は、一駅歩くだけで街がぜんぜん違った雰囲気に変わるなあと
いつもは気にもとめないことをおもう。

銀座で、キムラヤのあんぱんをかって、山野楽器でママがCDを買って、
その後銀座ハンズへ。そこで、あたらしいお弁当箱をかってもらった。
うさぎつき。フフフ。うれしい。

その後、近くの雰囲気の良いカフェへ入って、お茶をした。(すごい銀座価格)
おーっと外を見ているとデモ行進がはじまった。
そうか、今日は憲法記念日だった、と気づく。
すさまじい数の人が、憲法9条を守れ!というデモをしていた。
大人から子供から、おぼうさんから、おばちゃんまで。
自分の意見を外へ発信する彼らをみて、はずかしくなった。
この国はどういう状態にあって、どこへ向かおうとしてて
自分は何をしてるんだろう。

そうしてるうちに、姉家族がやってきて合流した。
一緒に地下鉄で六本木へ。
ヒルズについたころから、父が気持ち悪いといいだした。
吐き気がするとか、腹がだるいとか。
とりあえず、座ってみたものの、顔色悪いしなおらないので、
インフォメーションのところへいって、救護室を使えないかと聞いてみたら、
すぐに連絡をとってくれて、案内してくれた。
救護室には看護師さんがいて、とても丁寧で、親切にしてくれた。
父はベッドに寝て3時間くらい休んだら、だいぶ顔色がよくなった。

こうして、休みの日に出勤してて、何かあったときに親身になって対応してくれる
人に接すると、本当に尊敬の念をいだく。ありがたいし、うれしい。
父は、ホテルにもどってから、おなかがすいたといってカップうどんをたべたが、
また気持ち悪くなったらしい。ガボ。
でも、狭い部屋で、ドラマ相棒を見ながら、なんだかとってもほっとする時間だった。

明日は、河口湖にいこうと言っているが、いけるかな、
富士山が見たいらしい。私もぜひいきたいが、父がなおってるかどうか、
そして早起きができるかどうか。
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by jengsauman | 2008-05-03 23:31

平田牧場

今日から両親が東京に遊びに来た。
毎年の恒例のよう。

姉夫婦と、甥っ子(3ヶ月)と、両親と、わたしで食事へいった。
つかれた。
最近、自分がつかれると思うのは、自分が作り出してるんだとやんわり気づいたけど、
やっぱりその場になると、自然体でいるようでどこか気張ってしまうのかもしれない。
でも、やっぱり嬉しい。そんなごちゃまぜの気分に、いつもなる。
細かい言葉がひっかかる。友達相手や彼相手なら、激怒したり熱くなったりするのに、
家族の前だとそれをしない自分。
だって、言ってもしょうがないし、変なこと考えてるまたおかしくなってもたんか?なんて
思われたら心配させるだけやし、とか思っている、傲慢な自分がいる。
結局、家族ってなんやねん、って思ってしまう。
けれど、3ヶ月の甥っ子に対して、こうしてアホみたいに大の大人が4人も集まって、
愛しさ全開でいるのを見てると、そのことの重大性っていうか、いや家族なんてそんな
ことしかできないんじゃないか、と思う。そして、それでいいんじゃないか、と思う。
それがいいんじゃないか、と思う。

いろんなことを人や家族に期待すると、これが足りないあれが足りないとなるけど、
社会に混ざって生きていくためには、それでも人のせいにしないで、
与えてもらったことに対して感謝するというスタンスで十分ではないか、と
今は思う。なんてえらそうに。けど、そうでなければ、きっと歪みが出るんだろうな。

だから、そうおもうと、私の家族のなかで私が疲れるのは、
結局今あること、与えてもらったものに感謝できてないからかあ、などとおもふ。

無理しなくていいんだ。役割を演じることもあろうが、一人で頑張ってるつもりが
一番勘違い。とブツブツ。

家族や、姉夫婦と甥を見ていると、やはり「結婚」を強く意識する。
いつも出る話題は、あたたかい家庭や、老後の過ごし方、両家の交流、旅行、そんな話。
そして、家庭を作るということは、自分の居場所を名実ともに獲得することであるかのように
感じてしまう。そんなときに、今したいこと、例えばアフリカにいきたいとか、ヒマラヤに
いきたいとかを思い出すと、なんだかとっても現実逃避感が濃くなってしまうのは
どうしてだろう。わたしったら、なんだかんだいって、家庭を作って子孫を残してない
もんなあ、っていう気持ちがどこかである。しかも、今の状態を続ければ、残せそうもないし。
という自分への「クソー、アホ!」という気持ちと、「いや、結局それを選んでるし」という
のが両方あって、とほほ、とおもう。
で、日野先生のことや、自分のからだのことをおもいだして、
そうや、そんな遠いところのことに気をとられて、何もしてへんやんって気づく。
いいのいいの、大丈夫。死にゃーしない。とつぶやく。


今日、行ったお店は、「平田牧場」というお店。
とんかつ・しゃぶしゃぶのお店らしいけど、もうめっちゃくちゃおいしかった!
久しぶりに食べ過ぎておなかをこわす、という体験をした。
(食べ過ぎて下痢をするなんて、すごいな、けなげだなあわたしのからだ。
いとおしい。とか思っていた。)

ここのしゃぶしゃぶは、とびうおのだしというもの(そばのつゆみたいな)と
昆布とネギでいただくのだけど、昆布もネギもお代わり放題で、たまらん!
ネギ好きの私はおそらく今日3本くらい白ネギ食ったんじゃないか、と思い
帰り道でめちゃネギくさかった。今も飴ちゃん食べてにおい消しにトライ中。

でも、しゃぶしゃぶとこの昆布とネギとだしがたまらん。
しかも肉がおいしいから、いくら食べてももたれない。特に、豚バラ。
めっちゃおいしかった。
コースだったから、前菜や串かつやデザートもあって腹12ぶんめくらい食った。
しかも、そのうちネギと昆布がかなりの量をしめてるし笑!
ともかく、ぜひ、ここはまた来たいと思った。
お祝いによさそう。



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by jengsauman | 2008-05-02 23:17 | 食事