過食症を経て、一つ一つの日常を見つめる記


by jengsauman

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私の従兄は、「何かを第一原理としない立場から本質を見る」可能性をさぐって、
必死だったのだとおもう。
私が何も言えるわけがない。でも、だからって何もしないんじゃだめよ。と最近はおもう。
できることがないの、と、だから何もしない、というのは、ちがうことだ。

今日、のりちゃんがそんな私を見透かしてか、偶然か、のりちゃんのお兄さんの話をしてきた。塀の向こうにいるお兄さんとのやりとりの話。
わたしは、「塀」というもののことを、一体どういうものなんだろうと分かりもしないのに思いをめぐらしている。しかも気が向いたときだけ(思い出したときだけ)。今塀の中にいる人が背負っている罰を、なぜ彼らだけが背負わないといけないのか。目に見える世間的な「罪」と、罰されない「罪」のちがいはなんなんだろうか。

のりちゃんが、お兄さんと話したことを聞いてみた。

「誰にでも、尊い仏性はあるし、これに貴賎など関係はありません。でも、自分の仏性に気づき、磨こうとするかそれを隠す自分本位な考えで物事を行うかが、本当の意味での業です。」

塀の外にいる人だって、みな業を積んでいる。犯罪としてつかまらないからこそ、それは犯罪よりはまし、というふうに考えられたり、いいことだとさえ考えられたりしているかもしれない。
でも、のりちゃんが言うように、何を罪とするかは、人がつくったもので、塀だって人がつくったものなのだから、それですべてが善悪に分けられてるわけがない。

「真実は曲がらない、曲がらないから真実であり、真実は尊い。」という、その中の真実というのは、キャリアを積むことや、人から賞賛されることや、学歴や職歴を飾ることや、高いものを身にまとうことや、金持ちになることではない。なんなのかはわからないけど、ひとつずつ、消去していっている感覚だ。残ったものは、結局とてもシンプルなのだろうな、と想像する。

塀の中に入ることになってしまった人、しかも、もう二度と塀の外に出られないかもしれない人にとって、毎日を生きなければならないことはどれほど苦痛だろうか、とよく考える。でも、そんな想像、なんにもならない。

塀の中にいようが、外にいようが、わたしたちは自分に与えられたものを背負っていくしかないのかもしれない。
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by jengsauman | 2008-06-21 14:22

大阪出張

2ヶ月ぶりに大阪出張にいってきた。
今回はすべてひとりで、訪問、打ち合わせ、をしてきた。ぜんぶ一人ははじめてだ。
グチャグチャだった。思い出すのもいやになるが、完全に見下された空気のなかで、
アンタはなんでもやって当たり前、偉そうなこと言うな何もできへんくせに、という顔で
みんなが私のことをみていた。
今回はいつもより準備もしたし、あんまりグチャグチャ言われるとは思ってなかったが、
結局グチャグチャだった。相手に言われる筋合いのないことまで言われるのはともかく、
それを毅然とさえぎれなかった自分にがっかりだ。

でも、「ちり」「ちり」と自分にいいきかせていた。
自分はだめなんだと考えることを少しでも減らして、現実を見て、対策を考える癖をつけないといつまで経っても、眼の前のことから逃げるしか方法をもてないまま。
とりあえず、これをやめれば、という考えを捨てるために。

おそらく、見下されている、と自分が感じるということは、きっと自分がそういう考えの持ち主
だからだ。きっと、自分も同じ場面になったら、同じことをしてしまうんだろう。
だから、腹が立つんだ。

最近うすうすわかってきていたことだが、今回確信したことがある。
それは、無駄を避けていたら何もできないということ。
「こんなこと、私がほんとにやりたいことじゃない」という思いは一日に何回もよぎるが、
だからといって、じゃあやらないという結論に達してしまうと、何にも残らない。
そして、すべてが苦痛な作業になるだけだ。

ひろちゃんに会って、あいかわらずフレンドリーへいって、延々と話そうということになった。
そしたら、数ヶ月前に行った時に、真後ろに居たらしき、おじさんがまた居た!
そのおじさん、ひろちゃんいわく、「『少林サッカー』の監督にそっくり」らしいけど、
ぜんっぜん似てへん!呉孟達に失礼や!それで、前回もかなり議論になったため、
いくまえから「前のあの監督さ~めっちゃ似てたよな」「ってか似てへんって」と言いながら入店。
したら、目の前に座ってた!!!しかも、めっちゃこっちをガン見してる!
この状況のおかしさに笑いをこらえるも、なんとか席につく。近いけど、パーテションの
で見えない位置に着席。その後、少林サッカーの話でまた盛り上がり、30分くらいゲラゲラ笑う。
あまりにくだらないが、おかしくてしょうがないので、腹がよじれそうになった。
しまいには、「ま、そんなことどうでもええわな」といって会話終了する。
どうでもいい話をここまで楽しめるのもなかなか貴重やなと笑う。
しかし、あのフレンドリーのおじさんのことが気になってしかたない。

それはともかく、ひろちゃんは今、ジュエリーの販売の仕事をしている。
なかなかうまく売れなくて、悩んでいる。
で、私に言うた。
「あんな、なんでこんな客に頭下げなあかんねんっていう場面はなんぼでもあるねん。
でも、それをやらんと、ほんまに良い客にも出会われへんねん。」って。

わたしは、ほんまにその通りやとおもった。
なんで私がこんなことせなあかんの?って思っても、顔に出したらあかん。
それでやらんかったら、なんもならんのや。
無駄やと思っても、自分の頭で勝手に判断したら、もったいない。
ほんまは無駄じゃないかもしれないのに。
で、万が一無駄だったとしても、無駄だと分かったという収穫がある。
眼の前にある壁が、いつも自分の思い描いてる人生とは全く関係のないものだと
思ってきたけど、そうではなかった。
その思考を改めるために、ずっとずっとその壁はそこにあったのかな?なんて
思ったりもする。だからといって、壁を乗り越えられるかどうかはわからないけど。

嫌なことや違和感を感じたことは、その場でぶつける。分かってくれることなん
てありえない。
少しずつそれをしていくことで、自分が生きている時間を1秒ずつ増やしていく
ことができる気がする。今日は、少しだけそれができた。

それにしても、引き寄せの法則は本当にあるらしい。
強く強く願う、疑わずに信じることで開ける。
考えすぎて、自分で可能性をつぶすサイクルを止めるには、まず
疑いたくなる不安を認めて、それでも信じてみることだ。
今日はおかんがそれをしていたことで、絶対に乗れないはずの電車に、乗れた。
一回閉まったのに、また開いた。
前に歩いてたおばちゃんがいたことさえ、引き寄せなのかもしれない。
まるで奇跡のようにおもえた。新鮮だった。
ただただ、信じること。引き寄せるんだと強く思うこと。

セブンイレブンの店員さん。あえて、お客に話しかけて、挨拶をして、対話をしていた。
新大阪のりくろーおじさんの店員さん。商品を渡すとき、お客の横まで毎回行っていた。
別にやらなくてもいいんだけど、あえてやっている。
やったからといって給料は上がらない(と思う)けど、やっている。
やったからといって特にいいことがあるわけじゃない(と思う)けど、やっている。
出し惜しみをしない。それが結果的に人の心に残っている。
何かのために打算的にやることは、表面だけでつるりと流される。
でも、出し惜しみをせずに、全力を出している人は、残るものだ。
あらためて、「煩悩なき実践・没入」という意味をかみしめた。

やりたいことをやればいい。
やらないといけないことなんてない。
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by jengsauman | 2008-06-21 01:27

人間ってすごいんやなあ

何かを変えるということは、何かを支配下に置くことでもなければ、何か今まであったものをすべてなくしてしまうことでもない。
今そこにある、わたしたちとは違うものから、引き出すこと、まぜあうこと、でもやっぱり生かすこと、押し付けないこと。そんな気がする。
でも、やっぱりむずかしい。いつのまにか、強烈な日本人的常識を侵されることに、腹立ちをおぼえたり、こちらが押し付けようとしてしまう。

先日、姉と父の日&誕生日のプレゼントをかいにいった。
姉の家の近くの百貨店は、私と同じような貧乏ペーペー人間は見当たらない雰囲気がある(偏見だけど)。そういう場所では、こう、なんていうか、ここでは絶対に殺されないっていう安心感がある。一歩外にでると、自分のあらゆる弱さやだめさをつきつけられ、そして、誰にいつ殺されるか分からない混沌とした世界。
でも、ここにいると、外の社会とは一線を画した、非現実的な整然さと統一感と安全感。そんなことを感じる。

以前は百貨店に行くたびにそう感じつつ、それに逃げ込む自分はだめなやつだと思っていた。
自分で考えなくてもそこにある程度のものが用意されているという環境は、私にはだめなんだと思っても、そこへ行けば、1時間でも2時間でもは、命がおびやかされることがなく、また、自分が問題を棚上げしていることを責められることもないと感じていた。だから、百貨店は、私にとっては、自分を保つために必要であって、また、自分の殻を破るためには乗り越えないといけない場所でもあったのかもしれない。別に、百貨店に限ったことではない。やっぱり「レッテル貼り」が問題なのかと思う。

百貨店が悪いわけではない。便利だし、地方でしか買えないものが簡単に手に入るし、直営店にいかずに買物もできるし、大変いいのだ。でも、やっぱり順番なんだろうなあ。まず、百貨店だから安心→そこにある何かを買おう。というのではなくて、○○を買いたいから、それをおいている百貨店に行く。そういう順番でないと、自分が本当は何が好きか、相手は何を喜ぶだろうなあ、これって「人気第一位」って書いてあるけど私には必要ないな、おおこんなのあったのかすご
い、などという感動や想像や現実との距離感を測ることがどんどんできなくなる。
しなくても、生きていける。しないほうが楽。しない。しないことさえ気づかない。次第にそういう坂道を転がっていく気がする。それに対して、ひとりで「これはだめだ、ここを変えるんだ」とやっても、それは全体の1%で、99%は知らないあいだにまた転がっている。どんどん楽なほうへ、どうしてもこの状況から逃れたい一心で。やっぱり、人と力をあわせていきたい。

買ったものは、バーバリーの帽子と、一升瓶の日本酒。どちらも、父が必ず喜ぶに違いないものだ。だから、そういうときは百貨店こそがふさわしい買物場所なのだけど、なんだかそこにいるときの自分は後ろめたさを抱えてもいる。それはそれで、ほっとこう。

姉の息子は、4ヶ月半で、とても大きくなった。2週間くらい会わないあいだに、声や音に反応し、振り向くようになり、ものをしっかり掴むようにもなった。そして、寝返りができるようになった。人間って、何者なんだ、と驚いてしまう。誰に教わったわけでもないのに、必死で自分の身体で全力を尽くそうとヒーヒー言っている。寝返りを打つのもまだたどたどしいのに、必死で挑戦して、ハアハアゼエゼエ言っている。

別に、「寝返りできることは良いことだ!」とか「寝返りできたらすごいんだ!」とか誰から聞いたわけでもないのに、めちゃくちゃ必死に、果敢に挑戦している。

どうして、価値があるかどうか分からないことに対して、やって何になるのか?
という疑問もなく、こんなに必死になれるのだろう。
素直に、うらやましかった。
わたしも、かつてはそうだったんだろう。
そして、うちの母親は、私のその姿をずっと見てくれていたんだろう。寝返りしただけで、きっと今の私みたいに、すごく感動したんだろう。おねえちゃんが、数時間に1回おむつをかえて、おっぱいをやって、あやして、だっこして、写真とって、かわいいなあってスリスリしてる姿を自分の母親とダブらせて見ていた。うちのママも、そうやって私のことをだっこしてくれてたんだろうな。記憶はないけど、記憶にあるような気もしてくる。
しかも、うちの父は、姉の夫ほど積極的に家事をやってはいなかっただろうので、母の苦労とはいかばかりか。

そして、父や母が、節約して、あまり派手にお金を使わず、口癖のように「教育にはお金を惜しまない。本代と文具代は要るだけ言うように」と私たちに言っていたことは、決して当たり前のことではなく、私たちが彼らが使えるはずのお金をたくさん使ったんだ、と分かった。子供をうまなければ、もっと裕福に自由に暮らせたであろう2人は、私と姉をただ生きるだけではなく、より多くの選択肢を与えようとしてくれた。

姉を見ていて、父と母が私たちを産んだばかりのころの生活を、具体的に想像できるようになったおかげで、ますます感謝の念は沸くのだけれど、その一方で、「それなのに、なぜ私はもっとうまく、そして勇敢に自分に挑戦して生きなかったのか。」という後悔を捨てきれない。いや、それは今からでも遅くはない、気づいたときにもう一度歩み出せばいいんだ、と思うしかないのだろうけど。「でも。。」が付いてしまう。

私は甥っ子が、いつの日か、「オレなんて生まれてこんかったらよかった。なんの価値もない」って言うたりしたら、どんなに悲しいだろう、と思う。彼は今こんなに力にあふれていて、こんなに素直に、自分の身体の限界を更新していこうとしているのに、「どうせオレなんて。。」なんて言うたら、卒倒しそうだ。
「何いうてんの?あんた、まだこれからやん」って、私は自分が過度に思いいれをした他人事のように言うだろう。でも、自分だって同じこと考えてるやん、人にだけ「これからやん」という正しさを押し付けて、自分はどうなのよ、って言われたら、きっと何も言えない。

本当は、やるべきことはいつも足元にあるんだ、と、彼は教えてくれる。しかも、それに対して、余力を残さず、徹底的に挑戦するもんなんだということも。
だけど、いつからか、「正しいらしいもの」とか「こっちのほうが人生得かも」とか「これは人に賞賛される」「人より優位に立てる」そんな要素が、人生には絡んでくる。それを一蹴できるだけの必死さがあれば、こんなウダウダ人間にはなってないんだろうけど、ウダウダになってしまったからといって、それが個人の弱さであるとはやはり思いたくない。そんな攻防を頭の中でやっているうちに、一つの答えにたどりつく。やっぱり、現状を飛び越えることなんてできない、ということ。

それが、中1から大2まで英語の授業を受けといて、中学1年の英語レベルさえもあやふやな悲惨な現状や、もう数え切れないほどの検定試験を受けても必死になれず、仕事で使うというのに努力しない中国語の幼稚園レベル。まず、それしかないんだ、と知る。私は、それしかない。でも、逆に言えば、それは持っている。字は読めて、本も買えて、時間もある。今のところ死ぬ病気でもない。現実とはただ、それだけのことだ。その自分だけの問題の解決法を、自分だけの方法でやっていくしかない。というか、それこそが人生だ。その一瞬一瞬に、正しいも間違いも、良いも悪いも、何の答えもない。ただ、その一瞬でしかない。数字や具体的な獲得物は、分かりやすいからモチベーションUPにはなるけれど、それは本質とは違う。本質に近づくためのツールではあっても、本質ではない。

あかんわ、って思うと、簡単になる。現状認識も、苦しい理由も、全部自分がだめな人間だからと思ってしまえばすむからだ。でも、その瞬間に、シャッターがしまって、閉店になる。それ以上、何も起こり得ないし、誰とも出会えない。あかんわ、は謙虚な言葉に見えて、じつはかなりの慢心である。あかんも何も、何を判断できるんじゃ、不完全な人間のくせに!そんなこと考えてるくらいなら、ちょっとくらい身体を動かせっちゅうねん。

自分はできるという暗示をかける。思い込む。
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by jengsauman | 2008-06-21 01:00

それぞれの生き方

1ヵ月半前に出産した高校の友達の家に遊びにいって来た。
鹿島まで。東京駅からバスで片道1時間半のみちのりでした。

友達は、すっかり母親になっていた(ように見えた)。
いやなやつかもしれないけど、今までなら普通に会話のキャッチボールしていたことも、
今は意識のほとんどが子供にいってるため、私の発言の多くが独り言化していて、
一抹の寂しさをかんじた。。アハハ。
そうやって、また自分のことばっかりかんがえているじぶんに気づいて、ボエって思ったが。
でも、彼女とは約束したはずだ。「それぞれの人生をわけあって、2倍たのしもう」って。
そんなこと、どうすればできるのかわからない。
今だって、まったく見てるものも考えてることもちがって、まるで自分の友達をこどもに
取られたかのような軽い嫉妬まで覚えているアホなわたしだ。
そして、「やっぱり、これくらいの歳で結婚して出産するのがいいんだよね・・」なんていう
ことまで、つきつけられてる気がしてしまう。30代半ばとかで、これはきついだろうなとか。
仕事してたらどうするんだろうとか。

どこまでも自己中心的で、自分がかわいくてしょうがないやつだなとおもう。
なにより嫌なのが、「すべき」という義務感で動いてる自分である。
なぜ会いに行ったかというと、98%会いたかったんだけど、2%は会いに行くべきだと
思ったからだ。「会いに行って、子供に会って、出産祝いを渡して、一緒に写真を撮って、
常識的な大人のふるまいをしたい」からだった。

なんでそんなわざとらしいんやろう。なんでそんな自分自分自分なんやろう。
でも、ぜんぶがそうじゃないから、余計に、もやもやを抱えたまま、あかちゃんをだっこして
ニコニコしていた。うれしいんだけど、。。。なんなん、オレ。。

わたしは、結局何も選んでない(現状維持をのみかろうじて選んでいる)ことが、よっぽど
ストレスなんではないか。自分の幹を太くする要素がないから、必死で取り繕って、
まともな大人を装いたいのだ。ハア。

晩御飯も一緒に、といってくれたけど、今日は姉の家に寄らないといけないからと言って
帰ってきた。なんとも言えない気持ち、だけれど、メールでお礼をいうて、また1時間半爆睡した。

姉の家にいったら、甥っ子がこっちを見ていた。かわいいな。
よく考えてみたら、どこもかしこも、出産の話ばっかりではないか。
わたし、完全にマイノリティ。そして、そんなことを気にしてないふりをして、
自分のライフスタイルはというと、へんてこな固執と現実逃避でリアリティなし。

そうこうしてるあいだに、ダンナがかえってきた。ここでも家庭団欒。
わたしなんて、いうてもオバサンだもんな。家族というか親戚だよね。。サミシ。
姉は私を家族の中に入れようとしてくれるけど、ダンナはどう思うのかとか思うと、
あまりあつかましくいけないしな、とグチャグチャ考える。

友達も姉も、出産前から仕事をやめて(休んで)、家で子供とすごしている。
これから働くことがあるかどうか聞いてみると、もっと大きくなったらパートでもしようかな、
とか、働きたいけど保育所に預けるの不安やしな、とか言っていた。
子供が中心の生活になるんだなあ。

過保護・過干渉と、深く愛することのちがいや、
放置と、自分で考えさせて自立を促すことのちがいや、
一緒にいる時間が長ければ長いほどいいのかどうか、や、
分からないことがたくさんある。まあ、産んでみないと、産んでみても分からないのだろうけど。

わたしは、自分にたいして、明日こそは自分に厳しくとか思うのだけど、
結局具体的に決めないもんだから、甘い習慣を引き継いで、ずるずるしてしまっている。
その1つが、「人のことを心配して、自分のことの詳細と具体的に向き合うことから目をそらす」
だ。自分と向き合わない理由を見つけてしまうと、それを手放すのはむずかしい。
甥っ子にはぜったいそんな人間になってほしくない。
だから、私はそういえるようになりたいんだ。
でも、このままいったら、おそらく、彼を甘やかすことと、彼を愛することを混同し、
手放すのが寂しくて、手放したら今度は自分のことを考えるのがこわくて、
自分が親に「こうしてほしかった」ということを、結局やってあげられないのが目にみえる。
愛してるからこそ、突き放すことができるだろうか。

私はまたまた、人は全員死ぬ、ということを忘れていた。
そして、やれることしかできないし、やれることは限られているし、やりたいことをやればいい、
ということも忘れていた。
一歩を出さなければならない。そして、自分が何も何にも持っていないということを
自覚して、考えて工夫して、やらないといけないんです。

のりちゃんが言っていた、「煩悩なき実践」「人間が頭で考える煩悩なんて塵のようなもの」
を身体にすとんと落とすのは容易ではない。実践の前に考えてるんだもの。
そう思って、「塵」と書いて机の前に貼ってみた。頭でわかってもしょうがないよ、って
わかってるけれど、少しでも塵の時間を減らすために。


2003年に中国から帰ってきてから、何回自分をあざむいただろう。
これからは中国が熱い、先見の明があったね!といわれるたびに、私は中国ビジネス
をやらないといけないんだ、中国とかかわらないといけないんだと思った。
今の会社に入社してから、ほんとは大好きな広東語をおろそかにして、
大嫌いな北京語にまみれてるふりをして、Wの裏切りをしていた。
やりたいことをやらないこと、人が良いという理由でやりたくないことを手放せないこと。
もう嫌なのだ。縁があれば、また会えるだろう。いや、きっといつまでもいろんな形で
中国とかかわっていくに違いない。その確信があるからこそ、不自然な形で関わり
続けることをやめたい、と思う。誰がなんといおうと、自分の目で見て判断するんだ。

2003年に見て以来、香港のドラマ「衝上雲霄」を見直してみた。
相変わらず、ありえない展開と、イラつく設定だけれど、やはり特別の響きだ。
最終回でアイザックが「你話係咪先~!」と言うて、両手人差し指ゲッツをした瞬間、
たおれそうだった。なぜか、たまらなく、すきなのだ。

わたしの一番のねがいは、広東語をつかって、専門を生かしていくことだ。
そして、私は、数字や報告書をこねくりまわして、プラスαを作っていくことがしたいのではなく、
眼の前にいる人のために、直接的にできる、さしせまったことがやりたいのだ。
それをもとに、もし自分がやりたいと思えば、10年後くらいに政策やプロジェクトを作る立場
になりたいけど、別に一生現場でもいいじゃないか。
わたしは、組織が苦手だ。理念をかかげて、税金対策のために寄付をして、
やってることは金儲け。金儲けできればまだしも、利益が出なくてもがいている。
一体何の活動だ。組織はいくらでもかわりがいる。私より優秀でない人を探すほうが難しい。
まあ、毎日そう考えて、自分がやめてもいいという理由づけをしているんだけど。
ほんとは、辞めるにしてもなんにしても、今やっている限りは、それを一生懸命やらないと、
何も残らないんだけど。何だって経験になる、何だって無駄にならない。でも、いつかは
覚悟しないといけない。

最近まったく見なくなった中国香港台湾の映画や音楽ビデオだが、
なぜかyoutubeで、周杰倫のピアノシーンを見てしまって、その映画を全部見てもうた。
ようわからん映画だったが、Jayのピアノはすごかった。
ちょっとイタくてオメデタイ人と勝手に思ってたけど、そういえばピアノがうまいらしかったっけ
と思い出した。そうかあ、わたしって世界の誰誰が何が得意で、自分よりすごくて、
あんなこと言っててアホやなとか思って、
常に自分と他人の順位くらべみたいなことばっかりしている。
しかも、その判断基準はとってもうすっぺらい表面的なもの。

彼のピアノは、うらやましいほど、きれいだった。
さらにyoutubeをたどっていくと、李雲迪と連弾してる映像もあった。
それに、彼の歌はわけわからないけど、結局頭から離れなかったりする。

好きなこと、得意なことを、誰がなんと言おうと磨いていけばいい。
やっぱりそれしかない。1個でいいんだから。今は1個さえないんだから、
とにかくその1個を作ろう。

いろいろ心配しても、考えただけでは何にも起こらない。
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by jengsauman | 2008-06-16 01:57
不動産屋は、結局解約後の返金さえしてくれなかった。
もう自分で交渉するのは限界だったので、頼んでやってもらった。
本当に揉め事は大嫌いだ。
なんで、ちゃんとやってくれないのか。ちゃんとやってよ。
ちゃんとやってあたりまえやろ。という相手への期待があるから、余計ショックを受ける。

でも、人間は完璧じゃない。だから、もめる。揉め事はいつも起こる。
わたしは、法律関係の仕事をしている人を心から尊敬する。
自分のことでなければ、まだ冷静に判断・交渉できるのかもしれないけど、
日々、揉め事にはさまれていきていくなんて、相当なストレスである。

そう考えると、わたしってほんとに使えないやつだなあと思ってしまう。
打たれ弱く、冷静に交渉もできず、希望だけは立派で、すぐに正論を
かざす(相手を批判するときのみ)。ほんと、会社組織とかだと、一生昇進できない人みたい。

実際、今日気づいたけど、まわりを見回してみたら、私より後に入社した人の多くは、
既に昇進していた。わたしは、永遠にヒラな気がする。うまく立ち回るなら、せめて
もうちょっと社会の役に立つことをやりたい。

会社の利益のためになんでもいいから売上を、みたいなので
日々吐き気がする。会社行きたくない。

だから、早く次の進路を決めなさいっていうてるのに、毎日毎日、先延ばし。

ばかじゃないの。いや、このままでいるなら、せめてもっと楽しめば?
ダークな気持ちで、やらないといけないことリスト作ってるわりには、
その後の行動計画表がなくて、やるべきことに圧倒されて、見ないふりして、
いつもプレッシャーの日々、という意味不明な悪循環はもうやめれば?

さて、そんなことを考えながら、今日「ほんとうに必要なものはなにか」なあって
かんがえた。自分が収入や地位を得たいから、弁護士になろう♪などという非現実的な
型はまりではなくって、わたしが見えてる世界で、今すぐ自分がかかわっていけることで、
社会に必要なものって何だろう、と。

私はやっぱり摂食障害、国際協力、途上国、公衆衛生、難民、教育、医療、身体
というキーワードあたりを日々ぐるぐるしているが、とりあえず決めよう。
何かを決めたら、一歩を出して、また修正すればいい。
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by jengsauman | 2008-06-05 23:28

1ポコ1ポコ

結局摂食障害というものはなんなのか、分からない。

けれど、食べ過ぎて、顔がパンパンになったとき、いつも思う。
「私は何を間違っているのだろうか?別に人を傷つけようともしてないし、
自分もできるだけ誠実に生きようとしてるのに、どうしてこうなるんだろう」

じゃあ、摂食障害というのは、やっぱり主体的に生きてこなかったことを誤魔化す
ツールであって、つまりは自分の人格形成に問題があったということなのか?

でも、たとえそうだったとしても、それが悪いとは限らない。
それに、人生はまっすぐでないほうが、時にはいいかもしれない。

しかし、上のようなことを考えるたびに、27歳になった自分には、
ある部分はもう取り返しのつかない失敗をしてしまったように感じてしまう。
思春期に自分の形にはまることで、私は自分で自分を活かさなかった。
その罰のようにも思えてしまう。

本を読んでいて、幼いころから、疑問を持つことを忘れずに、
時には周りや大人から批判され、抑圧されても、それを捨てなかった人に
出会うたびに、言いようの無い劣等感と罪悪感に襲われる。
自分は一体何をしてきたんだろう。
その思いでいっぱいになる。

でも、それも結局私はその人でないから、苦しみや葛藤など分からないし、
それがいいかどうかも分かるわけがない。
私はやっぱり自分しか動かせないのだから、今この状態からどうするか、
ということしか考えても意味が無いことなのだと思う。

そうして、いろいろと振り返ってみると、私の摂食障害との付き合いは、
新たな挑戦、なのだろう。
とってもシンプルなのに、すぐに後ろを向きたくなってしまう。
ごまかしたくてしょうがないのだ。
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by jengsauman | 2008-06-05 23:15
食べ物が、自分のおなかのなかで、とても消化しきれずに、ただただ在ることを感じる
しかない夜中の絶望。でも、それを見ないふりする鈍感さはあって、だからこそ、
余計にあれはなんだったのか分からなくなる。
いつも思うけれど、この同じ時間帯で、同じように、食べ物とうまく付き合うこ
とができずに、絶望感となんとか止めたいという焦りに苛まれている人が、
もし近くにいるのだとしたら、抱きしめあいたい。などと考えてしまう。
人に頼るのはよくないかもしれないけど、ひとりじゃただ呆然と時間を過ごすしかない時もある。
そうしてまた自分への信頼を失う。

発展途上国の人に対して、ときどき気まぐれで映像を見たり、本を読んで、現実
と近づいたとき、愕然としたり、驚いたり、なんとか力になりたいと思ったりしてしまうけれど、
実際それは違うのだ。
「自分はある程度なんでも手に入る環境にいるのだから、途上国の人のために何
かをするのは人間として当然のこと」というのも、とっても違うのだった。

わたしは、彼らのことを考えるとき、彼らに救われたいのだと思う。
厳しい環境にいる人たちが、ただただ生きている、という現実(らしいもの)を知り、
またその生活の中に笑顔があるらしいということを知ると、
ほんとうにどうしてそんなことが可能なのかと思ってしまう。羨ましいとさえ。
数年前までは、私は生きる目的について、自分の生を活かし、人のために役立つ
こと、などと言ったけど、そういう答えを持っていたのは、多分とても高いところから、
必死でどこにあるかもわからない低いところと思われる方向に向かって自分の存在を
顕示したかった。けど、あまりに的外れで自分のことしか考えてなくて、
誰の人生とも交差しなかった。
やっぱり自分は他とは違うって思いたかっただろう。違うのは当たり前だけど。
優劣ではないのだ。
そして、いまや、何の答えもなくなってしまった。だって、わからない。

物事、バランスが大事なのだろうなと頭では思う。でも、そうじゃない人だって
いるんだろう。
バランスよくできれば、若くして命を落とさずに、ある程度お金や地位も手に
入ったであろう人もいたのかもしれない。でも、そういう要領のよさを捨てることが怖い。
それらしさを捨てるのが怖い。失敗したら、自分のせいになるのが怖い。
バランスがいいほうがいいのか、よくなくてもいいのか、と頭で考えている時点で
われながらあきれてしまう。どっちでもいいのだ。

命にかかわる仕事がしたいと思うけど、私は耐えられるのかなどと考えてしまう。

アフリカに行きたいと思うけど、本当に私はアフリカに行って、ひとりで踏ん張
れるのか、などと考えてしまう。

そうしてまた分かりやすいものに手をつけようとする自分をバカだと思ったりも
するけど、それでもいいから何でもやってみて欲しい、と自分に対して強く思う。
そういう他人事的な問答をやってるうちは、尻が重たい証拠だ。

最近、少しずつ人がやっている自然保護プロジェクトの商品を買ってみたり、
興味ある医療系のNPO法人に寄付をしてみたりしている。
でも、自分は何もしていない、という強いだめ感にがんじがらめになってもいる。
でも、何もしないよりはいいのだ。何かのきっかけがあるかもしれない。
そう思うことにして。

もしかしたら、世界は相互補完でしか成り立たないのかもしれない、と
思った一日だった。
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by jengsauman | 2008-06-05 23:09