過食症を経て、一つ一つの日常を見つめる記


by jengsauman

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甘えたい。
「とりあえず今日はいっか」という衝動は、自分のさっきまでの確固たる信念(と思っていたもの)を簡単に崩すものです。

ましてや、それが誰かとの関係に関することだったり、誰かの厚意や気持ちによったりするものだったら、「自分ではこうしようって決めたけど、相手にも悪いし、まあとりあえずは今日はいいや」と思いたくなる。実際そうしたほうがいい時もあるだろう。

それでも、今は、「自分の可能性を信じるための行動の積み重ね」が私にとっての優先順位1位であると思ってるんだから、心を鬼にして、はっきりしないといけないときもある。

苦しい。苦しすぎる。

だって、人の申し出を受け入れるのって、すごいラクだもん。
少なくとも、その人は喜んでくれるって思えば、自分が何を選ばなくても、従うだけでOK(でもないが)。

しかし、それでは変われない。これを続けてて、10年後の自分は果たして幸せなのか?
自分には何にもできないから、せめて人には優しくとか、人との約束を大事にしようとか思うと
聞こえはいいけど、ただの逃避でもある。

自分には何もできない、どうせだめだしという考えを捨て、決めたことをとにかくやりきる。
苦しい。けど、大事なことなんだ、きっと。


英語の発音クラスに通っている。まだ1回も休んでいない。
当初立てた目標(とにかく10回は休まずに行く)はクリアできた。
前に、広東語で何回も逃げ出したことを思えば、なんとか決めたことを続けている。
でもそれは、激しい課題もないし、授業へ行くプレッシャーがないからであって、
私が成長しているわけではないと思う。

今、「r」の発音で3週間くらい躓いている。わたしだけ、全くできていない。
ほかの人もいくつか指摘は受けているけどおおむねできている。
でも、わたしだけ、全くできていない。
舌の動きを観察してみると、私は舌をこんもりドーム状にすることができないと知った。
どんなに動かしてみても、奥へやってみても、高さが出ない。
だから、「r」の音が出ない。

自分のせいでクラスが停滞しているような気もするけど、それ以上に、
どうすればできるようになるのか皆目見当がつかないことが絶望的だ。
もう早速の絶望である。笑ってしまうけど、やっぱり弱虫なのだ。
なんとかできるようになりたい。

先生は、「絶対にできるようになると信じることが第一歩だ」という。
信じることは難しい。だって、現実は、雲をつかむような状態。もう何百回練習したけど、
その練習はただの「つもり」だったということだ。
的外れを続けても、自己満足しか貯まらない。

でも、なんというんだろう、先週は1000分からなかったのが、今は999くらい分からないに
減っているような気もする。広東語のときもそうだったけど、感覚をつかまなければ、どうにもならない。
とにかく、忍耐だ。忍耐と、希望と、継続。どれも、超苦手。だから、私の前に現れてくれたんだと
思うことにしよう。


昨日は、広東語の勉強会へ初参加した。
とても緊張した。なぜなら、逃げ出した言語だからということと、逃げ出した私を知っている人が
もしかしたら居るかもしれない、という自意識過剰だからだ。
でも、ぶつぶつと、「乗り越えるのは自分だ」と唱え続け、いってみたら、だーれも知ってる人いなかった。
みなさん親切だった。

なにより、広東語をひさしぶりに発して、香港人の広東語を聞いて、若干昇天しそうだった。
ああ、気持ちが良い。(変態)

「発音幾好」といわれた。これは、先生に言わせたら、一番サイアクな状態だといってたのを思い出した。
発音がいいね、とネイティブに言われるということは、外国人という認識で見られていて、
本当は正しくないからだ。本当に、ネイティブと(ほぼ)同じ発音ができれば、発音には触れないもんだ。

ま、それはともかく、楽しかった。
広東語は魂ですね。
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by jengsauman | 2009-02-28 20:03

ふらふら、ゆらゆら

心からえらぶこと、もとめること、が、つながっていく。それが、一見ぜんぜん関係なさそうで、世の中で成功するためには何の意味もなさそうなことであっても、心から選んだことは、かならず魂の次元で繋がっている、とふと感じた。頭のなかでは、今そう理解している。行動による実感ではないけれど。

焦ってもしょうがない。ずっと人生焦ってきて、今を見つめずに、今日に至っている。そして得たものは、からっぽであるということと、かろうじて手にした偶然の産物。自分がどっしりと取り組んで、何かを吸収した記憶はない。だからこそ、今更焦っても、何のことはないという感覚を手に入れたのだと思えばよい。それは、大きな後悔ではあっても、肥やしにすることも可能なはずだ。

今おもうことは、心が震えることが必要であるということ。だから、何をするにしても、心が震えることをやらずに、試験に埋没するのは絶対に失敗のもとである。また同じことを繰り返す。

執着がなければ粘れないのかもしれないとは思うけど、もしそれが私の運命でないのなら、誰かが代わりにやってくれるだろうと思えばよいのだ。その人に、よろしくお願いしますとおねがいしたらよいのだと思う。でも、なんとか自分が自分の手で携わりたい、そう思える対象ならば、大事にしよう。ちょっと触っただけで「わたしにはどうせ無理だ」というのは、大事にさえしていない思考だ。やってみる、がせめてもの尊敬・尊重の証だろう。

自分の可能性を信じられないというのは、はっきりいってこの人生これから絶望しつづけるということなのだろうと思う。そんな人生なら、生きなくったってだいたい未来は分かるではないか。なんのために生きているんだろう。

心から願うことに対して、宇宙は全力でサポートしてくれる、ということばは、本当なのだろうか?その言葉を意識しすぎると、妄信しすがりたくなり、現実を見失う。まるで、新興宗教のように、起こることすべてが必然であるなどと思い込んで、反省できなくなる。今すでにそういう状況であるが。

昨日は予備校で憲法の授業を体験受講した。おもしろかった。というか、久しぶりに授業を受けたので嬉しかった。久しぶりに、自分で決めて、何かに取り組んだというのか。無闇に「どうしよう、私なんかだめだ、また何もせずに時間を無駄にしている」と自己否定で時間を受け流さずに済んだからかもしれないし、法律なんて向いてないという固定概念の割には意外とそうでもないと思えたからかもしれない。でも、考えているところには答えはない。

今まで、法律という分野は思考停止の最たるものだと思っていた。決められた条文や解釈を暗記して、それを適用するだけだと。憲法とか、民法とか、刑法とか、大学で受けたけど、踏み込もうと思えなかった。よく知らないまま、終わった体験だった。今おもえば恥ずかしいけど、当時はとにかく「良い成績を取って、無難に良い生徒ちゃん」を演じることに必死だったから、内容が良くわからなくても、とりあえずはよかった。

しかし、憲法なんて別に日ごろの人生には全く不要と思われるものだから、それもしょうがなかったんだろう。先生と同じく、憲法なんて必要ないくらい守られた場所にいたから、意識もしなかったんだろう。今になってみると、自分の属している国のシステムがなんなのか全然知らないことに気づく。憲法で守られているもの、憲法で一番大事にしていること、など。そんなもん、机上のもんだって思いもするけど、そうでもないかもしれない、とおもう。

たった3時間の講義で、憲法に触れただけで、なんだかざわつきを覚えた。あれ、わたしは、何も見てこなかったのだ?
憲法は人権を守るためのもの。それを、ぐちゃぐちゃの現実の中で、どこまでリアルに受け止められるのか。

ひさしぶりにバレエに行ったら、相変わらず話し込んでしまった。
最近、おおむね不規則な食生活で、肌もかさかさで、むくんでぶよぶよだが、先生は「きれいになったね」といってくれた。のだめ風にいえば、「ギャボーーー」だが、先生、目大丈夫?といいたくなるが、やっぱりうれしかった。わたしは先生のレッスンの前になると、笑顔が素敵になるのだ。そして、効果は3日くらい続き、その後また死んだ魚の目に戻り、また2週間後にレッスンへいき、を繰り返している。できれば、毎週レッスンを受けたいけど、経済的に厳しいからしかたない。それでも、最近は、効果が少しずつ長引くようになってきている気がしなくもない。

身体を変えることが大事ですよ。と先生は言うし、わたしも同感するんだけど、できれば、そんなじれったいことはせずに、さっと取り組む対象を変えてしまえたらころっと人生好転するんじゃないか?とどこかで思っていたりもする。

まるで、人間性を見ずに、就職先や役職によってころっと態度を変える最低なやつらと同じ思考が、わたしの中にもある。一発逆転を狙っている。あのときは、ばかにしやがって、覚えとけよ!という思いがどっかでめらめらしている。ま、それはそれでほっとけばいいんだが、その一発逆転ぽいことを手に入れたところで、人間性は変わっちゃいないから、人生も好転しないような気がする。

勉強に没頭する覚悟はないこともない。あれだけ持ち続けたまた逃げ出すんじゃないかという自分への諦めは、今のところない。ただ、やることしかないんだ、と純粋に思えている。それでも、そこに埋没したら、また同じことを繰り返すと思う。本当は、自由に生きたいのに、やっぱり世間に合わせて、認められようと生きてんじゃん、って思う。

君は本当に肩書きや分かりやすいものがほしいんだね、といわれても仕方ない。ちがうよ、あのね、わたしは今はちがうんだよ。なんていうようなそれっぽいことはどうでもよいのだ、胡散くさいんだから。とにかく、全てを網羅することはできない。だから、人の力が必要だと心から思う。一人では到底生きられない。だから、ウソをつかない努力。迷っていることを素直に表明できること。いろんな分野に同時並行にアンテナをはることが、それを実現するための方法であるとは思うけど、なかなか・・・。

ふらふらしている。ふらふらしていたい。

心からやりたいことは、人の可能性を抑圧しない教育。
そして、取り返しがつかないと世間では思えることをしてしまった人と生きること。

しかし、何をするにも金が要る。金、金、金。教育だって金だ。
お金がないとやりたいこともできないじゃんか。
と憤ってみてもしょうがない。悔しかったら、ビジネスなんて向いてないと弱音をはく前に、稼げっちゅうねん。
でも、ふと、どうにかなるのかもしれないとおもう。
本当に、やるべきことなら、きっとどこかに打開策が見つかる。
それがとてもリスキーなものに思えても、当の本人にはそうでもなく感じたりもする。
そのときは、決めるときなのかもしれぬ。
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by jengsauman | 2009-02-25 20:16

香港男の夢

最近、無責任な仕事においても、なんとか「しっかりしろ!」と自分に言い聞かせるときもある。
大部分は、あいかわらず逃げ腰だけど、「自分で対応しよう、解決しよう」とするときもある。

それは、なぜかというと、今というときを、たとえ生活のためとはいえ、これじゃいけないとおもいつつとはいえ、この仕事のために費やしているのは自分の意志であり、まぎれもない事実なのだから、後から責任ある立場になったときに、全く使えない人間だったらだめだと思うからだ。

人の役に立ちたいといいつつ、人の意見もまとめられない、じゃあこうしましょうか?という提案もできない、資料も作れない、そんなんじゃ、ただの偽善の押し売りしか残らない気がするからだ。

なんだか、すごく胡散臭い理由だなと自分でも欺瞞を感じつつ、そうしないよりはましと思っている。そして、中途半端だから、やっぱりできてない。

そして、考える。
考えるより、知識を増やして、行動と経験を増やすことが先だと思っても、考えたくなる。
無駄なことさ、と思いつつも、考えてどうにかなると思ってるうちはそうしとけばよし。



数ヶ月に1回、香港人が夢に出てくる。あのボケ男は、ヌケヌケと夢に出てくる。
と思っては見たけど、きっとこれだけ時間が経っても、私自身が消化できていないのだと気づいた。
今でも好き、なわけない。憎んでいる、でもない。もうとっくに遠い過去。どうでもいい。
でも、わたしは、自分が許せないのではないかとおもう。
きちんと主張しなかった自分、自分勝手で被害妄想激しい男に「アホ!」といえなかった自分、
そんな関係でも必要なんだと自分を納得させていた自分、
相手を気遣っているようで本当は自分をごまかしだましていた自分。

毅然としないのは、偽善であって、ごまかしだったんだと思った。

バカな感情的な女といわれても、言えばよかったんだ。
「ばかにすんじゃねーーーー!自分勝手にもほどがあるわーぼけー」とでも。
そんなこと言ったってどうにもならないし、自分がむなしくなるだけだと私は飲み込んだ。
実際そうだったかもしれない。
プライドも何もかもぼろんぼろんになってしまったのかもしれない。
それでも、やればよかった。
飲み込んだのは、大人気ない批判ではなくて、自分と向き合う勇気だった気がする。

物分りの良い女を演じて、本当は自分をだましていたよ。
相手の立場に立っているふりをして、いつも自分が向き合わなくて良い道をさがしていたよ。
そういう意味では、彼とわたしは利害が一致していたんだなと思ったりもする。
でも、自分をごまかすことは、どんなに他人に傷つけられるよりも、さらに傷つく行為なんじゃないかと
なんとなくおもう。

人を傷つけてしまうかもしれないと思うと、言葉を選びすぎて逆に大きく失敗する。
こんなに考えているのにどうして?と思うこともあるが、今日ふとおもったのだ。
わたしが考えて、考えて、考えているのは、思いやりの心があるからではなくて、
自分が想定した綺麗な世界で人に嫌われずに日々を過ごすためだったからじゃないのか?
やっぱり、自分のためやん、って。

だから、人のためなんていいながら、自分の中でだけぐるぐる考えるようなやつを
わたしは信用するのをやめたいとおもっている。その筆頭は自分自身だけど。
べつに悪いことじゃない、悪でも善でもない。単に、いやなのだ。
ぜんぜん、できてないけど。やっぱり、いやなのだ。

だから、もしわたしはもう一度あの香港男に会っても、きっとヘラヘラしてると思う。
毅然なんていう言葉とは対極にあるばかばかしい態度を取るかもしれない。
それでも、「良い人」にはならない。

わたしは、この偽善の面をはがさないと、何もはじまらない、とおもう。
一体自分は何を考えてるの?って思ったら、ついつい、これらの面が出てくる。
それらしいことを思いつくと、脳はホッとする。
安全を確認して、危険にさられてないんだと察知して、安心する。
それでもだまされてくれる人もいる。自分をだませるときもある。
でも、それは本当に自分が見たい景色なのか?


なんだか、面倒くさくて、「はい、そうですね」って言っちゃえば会話が終わることが多く、
ついついそうして同調してしまうことが、毎日何回あるだろう。
それでも、それを一個ずつ捨てていくことが目標だ。
別に、だから何があるわけでもない。べつに、高尚なことでもない。
ただ単に、そうしたいのです。


香港男の夢を見て、あまりに腹が立って(なんでまた出てくるんじゃーと)、勢いでひろちゃんに久しぶりにメールを書いた。

「たぶん、わたしは後悔してるんやとおもう。ええ格好して、物分りええふりして、ほんとは何も消化できてなかった。めっちゃダサいよな。素直になりたい」とか
「偽善を捨てるのは勇気が要る。偽善は弱さとイコールなのかもしれない。でも、今を生きないと曲がるよな」とかそんなことを書いた。

めっちゃ女々しい内容を書いた。


ひろちゃんからは、今までの彼女とは違う、自分の行動の欺瞞を認めて、ちゃんと自分とみつめないとと書いたメールが来た。


強く、うなずいた。


でも、同時に、思ってしまう。


まじめに生きているといわれる人は、まじめの枠に入って、なんとか安定を得るかもしれない。
いろいろ挑戦している人も、本当はその挑戦は、今ここ、を見つめることへの恐怖から目をそらすためにやっていることかもしれない。
本当に大事なものを見つめようとする力、苦しくても自分の人生を見つめようとする力は、一体どこにおいてきたのか?
そもそも、わたしなんかにはそんな力はないのか?

もし、あるのに自分が踏みつけてきたから、あるはずもないと思ってるんだよ、としたら、
自分探しなんかしてもどこにもない、ここにしかない、だから、まずは現実を見ないと、としたら、
人と同じことして同じようにできるわけないんだよ、でも努力は大事、としたら、
それって自分の性格の責任?自分が緩い環境ばっかり選んできた責任?
ラクばっかりしてきた責任?
できないんだどうせ、という思いを雪だるま式に大きくしてきた責任?
考えてこなかったのは自分が悪い?人と議論してこなかった自分が悪い?
どうなんだろう。
もしかしたら、もっとうまく、能力を引き出せる教育があるんじゃないのか?って。

今日、のりちゃんが、バレンタインありがとうとメッセンジャーをしてきて、
「これまでは世間に認められることで満足してきたけど、それが我でしかないことにきづいて虚しくなった。精進して自分の仏性を磨くことで我を捨てていきたいと思うが簡単ではない。」みたいなことを言っていて、へえと思った。

我を捨てられないのは、私もそうなんだけど、仏教は素晴らしいらしいということもなんとなく分かるんだけど、私は宗教に抵抗がある。
なんか正しいことが決まっていて、思考停止になるのがこわい。実践することに意味があるんだって言われても、それでも出来てない人もたくさんいるし、宗教とは関係なく哲学を持っているひともいるし、いろいろがあっていいじゃないか。とおもう。これこそが真理、なんてよくわからない。
そんなこといったら、宗教家には怒られるというか、あきれられるというか、笑われそうだな。
でも、宗教を信じれば、どんなに生き易いだろうって思う。きっと、私なんかは、嬉々として受け入れる
タイプだと思うけど、だからこそ、自分でもがくことを選びたい。

あー稚拙。
でも、それをさらけださないと、一生稚拙。
さらけだしても稚拙かもしれないけど(笑)。
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by jengsauman | 2009-02-17 00:41

はくぶつかん

今日は、お茶の水にある、明大のはくぶつかんへいってきた。
入場無料、土日祝日もやっているらしい。

目的は、刑事部門の展示。
そこには、拷問や処刑の器具や資料・写真などが展示されている。
地下にひっそりとあって、なんだか胸騒ぎがした。

拷問について、処刑について、詳しく見たのは初めてかもしれない。

かつて日本で、こんなことが行われていたんだと思うと同時に、
そうすると、100年、200年後に人類がまだ生きていたとしたら、
その時代のひとたちは、「うわあ~、100年前、200年前って、死刑があって絞首刑だったんだ~。ありえな~い。こわ~い」と言っているのかなあ、と想像したりもした。
今の当たり前は、未来にとってはおぞましいことであるということを、まざまざと感じたからだ。

そして、悲しいかな、わたしは、歴史について思いをはせることがとても苦手で、
本を読んでいても、誰がどうしたとか、全く頭に入ってこないのに、
痛みや残虐性を伴うときだけ、現在との連続性を感じて、そこにしばしたたずんでしまう。

ひとは簡単に人を傷つける契機を持てるんだなと感じた。
そして、人は人を大事に思うがゆえに、人を傷つけることができる。
人を尊重することも、人を傷つけることも、同時並行でできちゃうんだ。
だからこそ、法律があって、道徳があるんだとしたら、人権の尊重ってなんだかとても夢物語にも思えてくる。
そもそも、不平等は事実としてあるんだから。


それにしても、今日の拷問器具の1つを見て、カンボジアのトゥール・スレンをおもいだした。
建物の前に、とっても高い(3~5メートルくらい?)鉄棒のようなものがあって、
クメールルージュは、人を逆さ吊りにして拷問のために使っていたのだ。


あれをみたとき、絶句して、足がすくんだ。
戦争や虐殺に関する博物館で、あそこまで胸騒ぎがしたのははじめてだった。


人は変わらないのだなあと思った。クメールルージュは20世紀後半だ。
わたしも、いつでも狂いえるんだろう。


ひとは、とってもあやうい、あやふやな、影響されやすくて、ちっちゃい存在なんだろう。


ところで、今日ふとアメリカについての映画の批評を見て、あれと思った。

人間は簡単に狂う。軍隊は、人間が簡単に狂うことを見越して設計される暴力組織だ。
上官は下っ端兵士に命令した。理由もなく捕まえてきたイラク人たちを「犬のように扱え」と。
怒鳴りつけ、裸にし、手錠をかけ、水責めにし、辱め、暴力をふるい、感電させ、拷問する。
兵士たちは叩き込まれた。「抵抗できないことを教えろ」「支配せよ」「アラブ文化を打破せよ」と。
彼らは安心していた。これは上官の命令で、つまりはアメリカ大統領は国防長官も望んでいることで、軍隊のS.O.P、管理運用規定にも沿っているから。
(ノンフィクション作家:吉岡忍)



わたしの、会社での思考と、おなじだなあと。「社長の指示だから、しかたないよね。」
わたしも、アメリカの軍隊に入ったら、簡単に人を殺すんだろうなと思った。
アメリカの軍隊に入らなくても、正義を標榜するきっかけさえあれば、いつでも加害者になるんだろうなと思う。
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by jengsauman | 2009-02-11 16:27

10年前と現在

大学1年生のときに始めたアルバイトの店舗10周年飲み会があったので、ひさしぶりにお店の近くへいってきた。

10年前、なぜそのバイトを始めたのかというと、「かっこいい」といわれると思ったからだ。
そこは私の初めてのアルバイト先で、それまでにやったことある縁故の家庭教師とはわけが違った。
なんにもできない自分がいました。

わたしは、すぐにてんぱってしまった。要領が悪くて、自分のかっこわるさを隠すことだけ考えていた。
どうすれば、できるようになるかと努力もせず、ただ「難しいポストにおかれたらどうしよう」とシフトにおびえていた。
それでも、アルバイト仲間には恵まれた。みんな、一生懸命仕事をしていた。
当時は破格の安さの時給であっても、みんな誇りをもって働いていた。

そのころ、本当は私は内心、「飲食店の社員って、かわいそう」と思っていた。
わたしは大学での勉強のほうが、こんな飲食店で働くことより価値があると思っていた。
なぜアルバイトをしたのか、それは「みんながやっていたから」そして、「やるならみんなにすごいね、格好いいね」といわれることをやろうとしたからだった。

だから、わたしは向き合わなかった。

ボケまくっていたので、面白い子とかわいがってもらえたりもした。
でも、いつも、本当にあの店が私のことを受け入れてくれているとは思わなかった。
それでも、「それでもいい。私の人生には関係ない」とどこかでおもっていた。


最低だったと思う。やめ方も、よくなかった。
ナアナアで仲良くできる子とは仲良くできた。でも、そうでない人とは相容れられなかった。


それは、私の取り組みに問題があったのだろう、と今はおもう。


今日、初代店長の人が挨拶をしたとき、わたしは一緒に働いた人ではないけど、
すごく威厳を感じたし、誇りや、苦しみや、深さがにじみ出ていたと思った。
「こんな店」や「飲食店」というわたしの分かりやすいランキングとは違う、現場で働いてきた人の重み。そこから、組織の中で這い上がっていった人のしなやかさ。


圧倒された。


私には到底まねできない。でも、もっとさらけ出して、もっとがんばればよかった、と思う。
現に、私を称して、「仕事ができる」とか「責任感が重い」とかいう人はいない。
わたしは、「関西人でおもしろい人」「中国に興味があるらしい人」でしかなかった。
なんにも挑戦しないでも、ちやほやされる人もいる。
わたしはいつのまにか、楽をすることを求めていた。
とにかく、認められ、受け入れられたかった。


こんなこともあった。
2次会で入った店が、最初のオーダーを取りに来たときに、「らすとおーだーです」と言われた。
30人くらいいたみんなが「ハア?」というような空気になったとき、
わたしのとなりに座っていた、とある店舗の店長Nさんは、すごくおだやかに
「今、取りまとめますので、もうちょっと待っていただけますか?」と笑顔で言った。


みんなが、しーんとなって、そして、「やっぱりすごいな」ってみんあが笑顔になった。
このバイトで出会った人たちは、学歴やら職歴やらなんかどうでもよく、何が必要か?を
考え、実践しているひとたちだった。お店にとって、お客さんにとって、なにが大事か?と。
Nさんのこの対応は、度肝をぬかれた。
権利を主張することもできる、文句をつけることもできる、もめることもできる、
それでも、お店側のことも考えて、そうやって対応できる人なんだ。
わたしは、そういう人が大好きで、そういう空間が大好きだ。
もめることが大嫌いで、ピースフル万歳だから。


そういえば、Nさんは、わたしがはいったばかりのころ、数回一緒にシフトにはいって、
すぐに異動になったんだった。だから、Nさんはわたしのことを覚えていなかった。
でも、わたしは覚えていましたよ、といったら
「覚えていなくてごめんなさい。でも、私のこと覚えてくれていて、ありがとう」って
いわれて(ビールを手酌しながらヘラヘラわらっていたNさん)、ひれふしたい気持ちになった。


自分が恥ずかしくなった。
学歴がどうした?身長がどうした?体重がなんじゃ!就職先がなんなんだよ!
なんでいっつも、表面をひらひらしてんだよ!
人の役に立ちたいなら、アルバイトでもできるんだよ、本当は。
企業はたしかにいろいろ足かせもあるけど、やれない理由は、自分がやらないから。


なんでがんばれないんだろう。
とにかく、みとめられたいんやろう。
あのころは、そんな疑問さえも抱くことがなかった。

一緒に働いていた子を好きになったりもした。
めちゃくちゃ仲良かったのに、気まずくなって、それ以来口もきかなくなった。
結婚したと聞いた。今日会ったら、子供もうまれていた。
彼は態度もでかくて、身体もでかくて、今も全然かわってなかった。
笑えた。


わたしは、そんなことを繰り返してきたのだと思う。
今日は7年ぶり?くらいに会った多くの人と話してみて、
その人たちの多くがすでに新しく家庭をもったらしいことを知って、
ああ、わたしの人生だけなにも動いてないって思いはするけれど、
でも、そうじゃないよ。


それは、やると決めたときに、「人が良いと言うであろうこと」を選んだからかもしれない。


帰ってきて、録画された「プロフェッショナル」を見た。遺跡の発掘をしている考古学者の方だった。
そういえば、ひろちゃんの友達のことを思い出した。
かれはIくんといって、ひろちゃんの大学時代の友達だった。
当時、かれは、ひろちゃんと同じ文系の学部にいながら、「おれは本当は遺跡の発掘がやりたいんや」と言っていると聞いていた。
わたしたちは、それをよく笑った。変わった子やね、とよくいった。
現実逃避やね、とも言った。
Iくんは、遺跡発掘をするために彼女と別れた。
わたしたちは、それをまた「ありえんな、その男」と斬った。

でも、つい先日、ひろちゃんが会ったら、Iくんは、ほんとに遺跡を発掘していた。
大学卒業後、考古学の大学院へいき、今も続けているという。

そのIくんのいった言葉は、
「俺な、遺跡をほってるとき、ほんまにわくわくするねん。ほんまに興奮するねん。
だってな、俺が見つけへんかったら、その遺跡はずっと地に埋められたままやねんで。
遺跡を掘るのは、女と寝るより興奮するんや」だったらしい。


正直、うらやましくて、うらやましくて、そして夢物語とわたしたちが笑ってる横で、
わたしたちが忘却したあとも、ずっと努力を重ねて、自分の情熱を実践してきたIくんが
すごいなとおもった。


自分で選ぶことにこだわってると、何もしない言い訳になる。
でも、あきらめないでいようとおもった。
いつか、きちんと人の役に立てることで評価されるように。
いつか、体の細さや、綺麗さなんかは、二の次と心から思えるように。
それでも、愛嬌は持ち続けている女でいられるように。
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by jengsauman | 2009-02-11 01:18
英語の発音クラスに通っている。ちょうど昨日で10回目だった。
それなのに、大して進歩していない。

このクラスに通い始めたころの頭の中は、
・英語って綺麗なんだなーと知った。是非、自分もできるようになりたい。
・オーストラリアのAちゃんみたいな英語がしゃべれるようになりたい。
・英語の回路を1からやり直してつくりたい。
・英語をつかって、将来人の役に立てるようになりたい。
・TOEFLで良い点を取れるように

そんなことを考えていた。
しかし、違うんだなー。なんか違うよなー。
あれこれ、具体的に分かりやすい理由をつけないとモチベーションが保てないと思っていたけど、そんなんだったらやめちゃえばいいじゃん、と思って。ハハハ
理由なんてなくていい。やりたいことをやる。そっちのほうがよっぽど続くと思われる。

どっかから借りてきたような理由って、ほんとは自分がやりたいことじゃなくて、
自分が人からそう見られたいというだけなのかもしれんなーとおもった。


で、昨日、授業をうけてて、わたしは「r」の発音がぜんぜんできなくて、見当もつかなくて、
先生も苦笑いって感じだったけど、どっかで「ま、しょうがないよね」っておもってることに
気がついた。

難しいんだからできなくてあたりまえ、ってどっかで思ってたんだなーと。
それって、つまり、わたしは難しいことに取り組んでて、しかも、ずっと続けてれば
少なくとも間違った方向にはいかんよねーっていう甘えがあるからです。

だらだらしてんだなとおもって。

わたしはクラスの中で一番楽しんでやってるぜ!と思ってたんだが、バカみたい。
クラスの人は、日本人ばっかなんだから、私が「r」の発音ができようができまいが、
日本語でコミュニケーションできるんだから。
おもいっきり自慰行為だったんだあ。。。とおもった。
10回も通って、やっと気づく。

先生は、期待してくれている、なんて思うから曲がる。
先生は渡してくれているだけで、それを私が受け取り、努力し、回路を作り、発信するようにならないと、先生はなんの嬉しくもないだろうよ。
はりきって質問しても、難しいなあっていういかにもなカオをしても、自分のための言い訳だよ。

できるようになるために何をするか、というだけやん。
パフォーマンスはほどほどに。


で、ふと思った。
なんでもいいから、何か決めるのは必要なことだ、と。
英語の発音をマスターしようと決めて、今だらだらとやっているけど、
できてない、という現実がある。
それに対して、少なくとも、どうすればできるようになるかという工夫をするわけで
そこで精神論とかをもってくると、延々、工夫にいきつかない。
ずっと自分は何をしているのか?何をすべきか?と空想することに時間を費やし、
挙句の果てには「分からない」という結論しかでなかったもの、これまで。

だから、なんでもいいから対象を決めてみる。
どうしたらいいか分からないから、やってみる。
やっぱり、実践の中でしか、工夫できないんだなーとおもった次第でした。


だから、私の英語の発音に対するグジャグジャは全部甘えであって、
「グジャグジャいわんと、とりあえずできるように練習しろー!」ということになりました。
100%楽しむ。苦しみも楽しみの1部として、味わう。
中途半端なら、やめる。

なんか、「保険」的にやってることって、役に立つのだろうか?
履歴書に穴を作らないために、転職活動しながら、仕事はやめないとか
キャリアをつくるとか、すごいなあとおもう。
わたしなんか、保険があったら、それにすがって、ずっとここにいそう。
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by jengsauman | 2009-02-08 16:42

こども

子供のころから、好きなものを好きということが憚られるとおもっていた。
チョコレートケーキがすきということを口にするのは恥ずかしいことだと思っていたので、
親や姉が「○○ちゃんは、チョコレートケーキがすきやから、これあげる」とか言ってくれる
文脈でない限り、チョコレートケーキを主張することはなかった。

それは、好きなものを主張することはだめなことだという意識というよりも、
自分が好きなものは、大して価値がないに違いないという思いから、
そんなものを主張するのはダサい、アホ、といわれるのではないかという恐怖のほうが
強かった気がする。

自分の選択に自信が持てなかった。


子供のころ、危ないからと親が止めたことは数知れない。
でも、今、叔母になって、分かることがある。
どんなに子供に挑戦させたい、制約を少なくしたいと思っても、やっぱり無意識的に
ラクをしたくなる。この子が最低限しか傷つかずにすむ環境を用意したいと思ってしまう。
それを、親のエゴというのかもしれないけど、止められない。
あの子が失敗して、なくようなことがあれば、本当はそれはレッスンとしてありがたく思わないといけないのだろう。でも、どこまでぐっと我慢すればいいのか、わからない。
手を出したらいけないんだ、答えを出したらいけないんだ、という思いにとらわれて、いつかあの子が命を落としたら、どれだけ後悔するだろう。
きっと、私の親も、そういった葛藤の中で、私に少しでも安全な道を歩ませてくれたに違いない。

結果的に、28歳までは安全に生きてくることができた。ありがたいことだ。
でも、じゃあ、だったら良いかといったら、そうでもない。でも、それは健康にこうして生かされているからこそ言えることであって、たらればはない。


自由に自分のしたいことに挑戦して、失敗をして学んでいる子供を見ると、心から羨ましく思う。自分にもそんな体験があれば、こんなに正しさにしがみついて、薄っぺらい人生を生きてこなかったかもしれないのに。と思うこともある。

でも、どちらにせよ、時間はかえってこない。
わたしにとって、無茶できるときに、何もしなかったというのは動かしがたい事実であるけど、
だからといって叫んでみても、うらんでみても、ないてみても、事実は変わらない。
だから、これからに目を向けるしかない。

それに、最近、目くそ鼻くそかなと思う。こうなるようになってんのかもな、とも思う。
だから、アホな頭で、もしああだったら、とか考えないで、
自分がこうしてほしかったことを、自分の次の世代にやったらいいじゃない。とおもう。
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by jengsauman | 2009-02-08 16:20
今日は、ひどい1日だった。途中まで。

今日に限らず、最近毎日何をしたのかあまり記憶がない。
毎日が似た感じで、毎日似たような格好で、毎日とりあえず会社へ行って、毎日机に座って、毎日パソコンをカチャカチャやって、電話をかけて、資料を作ったりしている。

はて、1週間前の今日はどうやって過ごしたっけ?とおもっても、思い出せない。
べつに思い出さなくてもいいけど。

私は、ばかばかしいと思いながら仕事をやっていても、17時半の定時を過ぎるあたりから、
やけくそになる。
「ええい。もうこの作業の波にもまれてしまえ!そして今日という日を仕事漬けにして、
いっそのこと最強に気分悪くなるまでやってやってやってやる!」などと思い始める。

今日やったほうがいいこと。それでも、今日やらなくてもいいこともある。
それを全部つぶそうとする。そうして没頭することに、唯一救いをもとめて。
いや、被害者になりたくて、かな。
「企業ではたらくって世知辛いよねー。自分の時間も確保できなくて、
気づいたら21時を回ってて。でも、やらないとどんどんたまっていくもんねえ」
などと、自分の中で会話をするための(気もまぎれないが)、理由がほしいのだ。

でも、それをやったらもう終わり。ガキツカの「チャラ~ン♪、○○、アウト」が流れるようだ。

ほんとは、帰ろうと思えば帰れるのに、帰らない。
それは、自分が、「こんなに頑張っている」と執着したいからなのか
まわりが誰も帰らないから、自分がサボってるみたいに思われるのが嫌なのか、
たいしてほかにやることがないからなのか、
全部か。

そんなこんなで時間が過ぎていく。

が、昨日は、久しぶりのバレエだしな、と諦めて、途中で帰った。


川沿いのほうに教室があるのだが、わたしは大抵そこへ向かうとき、
どよーんとしていて、仕事をひきずって、歩みをすすめていく。
やだな、ってどっかで思っている。
そして、1週間部屋から出ないこともあるという先生が羨ましいと同時に、それじゃあ
あまりに浮世ばれしていて・・と思っている。

でも、ピンポーンと押して先生が出た瞬間、わたしは自分がこんな笑顔できるのかっていうくらいの柔和なカオになるようだ(自分で言うのもなんだけど)。
いつもイライラして、怖い顔をしていると自分でも自覚があるのに、どうしてここに来たときだけこんなに心穏やかでいられるのだろうと思ってしまう。

先生は、「いい顔してますねえ~」と言って、
わたしは、「ここに来るまではひどいんですよ。ハハハ」という会話を毎回する。

ふと、なぜ苦しそうで怖い顔をしないといけないのだろうと思う。
なんで、我慢して自由を失って、利益を求めることを、当たり前と思っているんだろう。
いや、それはまだよくても、その結果、自分がやっている行動を正当化しているけど、
ほんとうはよく見てみ?ってつきつけられるのが怖い。
電車に乗れば、みんな似たような顔をしているからかな。自分もシビアっぽくいることで群れ意識?と想像。でも、いかにもそんなカオしてる人には近づきたくないし、大して行動してないんだよね、そんなカオしてるときに限って。


それはともかく、先生とまた話し込んでしまった。
先生は、毎回、「体調どうですか?」と聞いてきて、レッスンを始めるのだが、
昨日は、そう聞かれたとき、「元気ですけど、食べるのがとまらないんです」と言ってみた。
実際、ここ数週間は、食いまくっている。
夜中にメロンパンやうどんも食べるし、チョコレート数箱食破(造語?)したり、
カールグラタン味が大してグラタンの味しないのに気に入って、毎日食べてたり。
会社でもずーっとなんか食べている。とにかく、ずっと食べている。

過食、かもしれないし、そうでもないかもしれない。
でも、少しは放置することに慣れたので、自分がするようにしている。
今日も食べまくったなあ、と思って、すぐにバタっと寝ることもする。
起きたら、おなかがぽこっとしてても、昨日のあれか、と思いはしても放置する。
食べまくりたくはないけど、食べたいのだからしかたない。

そしたら先生は、
「あのね、食べまくったらいいんですよ。どんどん食べて。夜中でも、ジャンクフードでも
なんでも食べて」って言う。
「でもね、普通の食事(ジャンクじゃないとき)は、食べるまえに良く眺めますね。それは結構いいですよ」と言っていた。

わたしは、「そうですね」といってみた。
先生は、バレエの先生だし、すごくストイックなイメージがあるけど、
「自分に制限をかけることはしない」が信条らしい。
うらやましいっておもうけど、自分がそれをできない理由もほんとうはないはずなんだけどなと
思ったりする。仕事は、別として。いや、仕事も、別じゃないのかな。

先生は、いろんな生徒さんのお話をしてくれるが、いつも決まってある女性(Aさん)の話をする。
Aさんは、たぶんわたしと歳が近いと思うけど、あまり詳しいことは話さないので分からない。
Aさんはとある大企業で働いていたが、ある日突然地方への人事異動を命じられて、
その日に「辞めます」と言ったらしい。
それまでも、仕事をやめたい、これはわたしがやるべきことじゃない、と先生によくもらしていたそうだけど、辞めるまでには至らなかった。

でも、ある日そんな青天の霹靂があり、その瞬間に、考える間もなく、決断したそうだ。
そしてその日、レッスンに来たAさんが「会社やめちゃいました」と言ってきたので、
先生は「お~おめでとう!」って言ったんだそう。
Aさんは社宅に住んでいたので、会社をやめる=住むとこも、仕事も、収入も失う、だから、
「わたしこれから大丈夫かな?」と言っていたらしい。

そして先生は、「だいじょうぶ。自分が進むべき方向にいれば、必ず道は開けるし、どうにかなるんだよ」といったそうだ。

なんて無責任な!と思うかもしれないけど、私はそれを信じられるか信じられないかで、新しい挑戦ができるかどうか、が変わるとおもう。べつに新しい挑戦などいらない、のならば、安定をもとめて、生きることも1つ。正しいも間違いもない。でも、安定を捨てて、挑戦する人にたいして、冷たい目で見る人は多い、とおもう。自分も含め。ほっとけっちゅうねん、っていう話や。

そんなAさんの話に続けて、先生はいつも「わたしはね、○○さん(わたし)も必ず辞めるとおもってますよ。きっとね、○○さんの中にある人生の推進力がね、いつか無理やりにでも動かしてくれます。たとえば、リストラとか、会社の倒産とか、人事異動とか、家族に何かがあったり、いろんなことがおこったら、それは不幸ととらえないで、進むべき道に自分を突き動かしてくれているんだと信じることだけを忘れなければ、絶対に大丈夫です」という。

その後1ヶ月経って、昨日のレッスンがあった。わたしは、Aさんはどうなったんだろう。住むところは決まったのだろうか、どんな日々を過ごしているのだろうか?と気になっていたので、先生に聞いてみた。

そしたら、先生は、「あ~Aさんね~。最近は朝にレッスンきて、いろいろなことに挑戦していて、辞めてよかったって言っていますよ♪そういえば、こないだはコンサルティング会社の面接に行くと行って来ていましたけど、レッスンのときに「また同じような生活してもしょうがないよね~」という話をして、レッスン終わったら、晴れ晴れと帰っていきましたよ。彼女には、子供に何か教えるような仕事はどうか?と言ってみたら、実は前の会社に入社するまえにそれをやってみたかったんですといっていましたよ。」などと言っていた。

すごいなあ、と思わずにはいられない。
所属を捨てても、また所属したくなる不安な気持ちがあるに違いない。それでも自分自身とじっくり向き合い、本当に自分にとってなにが必要か?ときちんとじっくり考えていることが、本当に神々しく、また羨ましくもあった。

どうやらそのAさんに対しては、先生は私の話をしていたらしく、「あの人はどうなりましたか?」ってきいてきていましたよ、といわれた。
なんだか、とても嬉しかった。

先生は「あ~あの人はね、まだ辞めてないけどね、きっとそのうちやめるね」といったんだけどね、そしたらAさんが「応援していますと伝えてください」って言っていましたよ。」といっていた。
うれしかった。
どこの誰かもわからないけど、うれしかった。こころづよかった。


誰もが知っている大きな組織でバリバリと働いて高収入を得ることなど私の夢ではない、と確信した。
でも、それがある人にとっては夢である。でも、私はそうではない、とわかった。


今の生活に執着している理由の1つは、収入がなくなったらどうするんだ?ということ。
やっと自分で経済的にやっていけるようになったのに、わがままでそれを手放すのか?
そのあとの保証もないのに、やめてしまったら、結局また親や姉に心配をかけて、
「どうするつもりなんだ!」と問い詰められても、答えられないというやりとりを繰り返す。
それがこわくてしょうがない。

むきあわなくとも、最低限相手を納得させられることをしているときは、ほんとは人生を
見ていない。
でも、それでも生きていけるし、それこそが運命であったり使命であったりすることもあるだろう。
だから、迷う。これでもいいんじゃないか?と悩む。でも、そういう疑問を持っている時点で、やっぱり限界なんではないか、とも思う。

先生は、経済的な面の心配については、
「あのね、生きていこうと思えばね、なんとか食っていけるよ」という。
やりたくない仕事というのは、どこの企業にいってもあることで、内容は違っても似たようなもんだ。とすると、今しがみついていることも、たいしたもんでもないし、代替可能なのかもなと思った。どうしてもやりたいことならともかく。


先生は、「うまれかわりがあるとしても、今の魂でこの世を生きるのは、本当に1回きり。今がまさに本番なんですよ。リハーサルじゃないよ」といった。

安定、保険、保証、保障、地位、所属、社会人、一体なんだろう。
しらずしらずこれらをもとめているわたしは、子供のときと何が変わったのだろう?

会社に入って、いろんな規則があって、いろんな命令があって、精神論が行き交って、
いつのまにかその枠の中でしか動けなくなっている。
それでお金をいただいている、のだからしょうがないと思っている。
でも、それじゃあ、何のために大人になったんだろう?と思わずにはいられない。

こんな誰でも代替可能な人間を作り出すことが組織の目的なのかな?
なぜ?って疑問を持つことが嫌われる世界。
新しい企画はウエルカムでも、新しい疑問(組織に対しての)はウエルカムではない。
私は前者など全く思いつかず、後者しか思いつかない。でも最近は、後者さえ麻痺して
感じなくなっていた。

「そういうもんだ・・」って。


私がやりたいことはなんだろう。と思いつつ、すっきりした気持ちで帰途に着いた。
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by jengsauman | 2009-02-06 23:31
なんのために親やいろんな人に支えてもらったんだろう

そんなことを何度も思います。
いつも、自分のふがいなさに、そんなことを思います。
たくさん投資してもらって、大事にしてもらったのに、ごめんなさい。と思います。

でも、なんだかふと、それは違うやろ、とおもう。

わたしがそうして卑屈になればなるほど、私は当事者であることから逃げて、
主語を「みんな」とか、「あのひとは」とかにしていて、「わたしは」ではなくなっている。
自分以外の人が優秀だと思うけれど、ほんとは良く知らない。

人が一生懸命なのを見ると、心からうらやましくおもう。
まるで、その人は生まれながらに、そうして情熱を傾けることを知っていたんじゃないか?と
思うからだ。少なくとも、自分が進むべき道が分かっていれば、どんなに胸のつっかえが取れるだろう。安心して、それだけに打ち込めるだろう、なんて思うけど、そんなことはやっぱり幻想なんだろうな。

迷って当たり前なんだ。迷ってる中でも、何一つ完璧にそろって無くても、とりあえず何かから形にしてみる、しか打開策はない。のかも。


ふと、会社の机に座ってて、「なにやってんだろ」とよく思う。
こんなこと言う資格もないが、「あほらしい」と思ってしまう。
大してひとのためにならないことに、毎日とりあえず取り組んで、毎日出社して、
会社の人とそれなりにコミュニケーションして(るつもりで)、心の中では誰のことも尊敬せず、
誰とも相容れないと思っている。きっと、そんなカオしてんだろうなと、おもいます。

だから私は孤独なんだ。自分を主語にして覚悟をもって責任を取ろうとしないくせに、
自分はなんだか特別だと思いたがる。
そんな考えは、孤独でしかありません。
幻想の世界でしかないです。

周りに、「あの部署は、あの人は、何をやってんだろ?」と思われても、別にいいやと思っている。それ自体はいいんだけど、わたしはベストをつくしてない。それなりにやっている。
べつにベストを尽くさないことは悪いことではない。
5年後、10年後、同じことを繰り返していないようにするために、何かを動かしてればいいけど、
それもしない。でも、現状に悩むことしかしない。行動しない。心配だけする。諦めている。

そんなんで、なんのためにここまで生かしてもらったんやろ、と思ってしまいます。

それじゃあだめだよ。全部中途半端。

今日、「実は3末でやめるの」といわれるし、「実は離婚してて、また再婚するの」ともいわれるし、「健康診断の精密検査でまたひっかかった」とも言われるし、人は毎日変化しているよ。

私の上司は2回離婚して、もうすぐ3回目の結婚だ。
すげーな、と思う。失敗を恐れないのかな?と思う。
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by jengsauman | 2009-02-06 00:41

マクトゥーブ

無気力なら無気力なりに、諦めて読書でもしようと思い、久しぶりに「アルケミスト」を読んだ。
そういえば、今の会社に入ったばかりのときに、朝の電車の中で食い入るように読んだなあと思うのだけど、感動しただけで何も実践せず活かされて無いのね、と改めて知った。
いろんな場面で、綺麗な物語、運命論に身をゆだね、努力を怠っていたようにおもう。


どうしてこうも、近視眼的になれるんだろうか。我ながらアッパレと思う。
何かに挑戦するとき、それに失敗するかどうかということだけで頭がいっぱいになる。
そんなもん失敗したところで、3年や5年がパーになる(表面上)というだけであるのに、
人から負け犬といわれるのを恐れて、二の足を踏む。

アルケミストにこんな箇所があった。
「少年はまだ自分の決心を少し疑っていた。
しかし、一つだけわかったことがあった。
それは、決心するということは、単に始まりにすぎないということだった。
決心するということは、まるで、急流に飛び込んで、その時には夢にも思わなかった場所に
連れてゆかれるようなものなのだ」



わたしは、なんだかこの部分がすごく好きになった。

わたしは相変わらず、まっすぐぶっている。
ほんとは、心のなかが不安で仕方ないからなのに、自分がそんな運命を背負っているかのように装っている。
先生からも、バランスが必要だといわれて、もうどうしようもない感情論爆発のお涙頂戴メールなんか送っちゃって、バランス取れないんです~なんて言っちゃっている。

しかし、1晩寝て、今日1日ダラダラして、ふと思ったが、
一体何をそんなに悲観しているんだ?
可能性がもうないんだとかいって、何を知ってそういっているんだろうと思って。
いやいや、何を知っていたところで、諦めるのは自分の意志。私はすっかり諦めていた。
なんにもできることなんてないんだという自分へ理由付けの後方支援をするために。

ほんとはちがう。
利用してはいけない。悲しそうなこと、辛そうなこと、それは大変だねと言われちゃいそうなこと、それを利用しちゃいけない。
だって、それを利用して、「自分は大変なことに取り組んでいる」っていうカオをした時点で、わたしはズルをすることになる。向き合いもせず、大して苦しみもせず、それらしいことをやっているという称号だけを手に入れて、ほんとはちがう。
誰に言われるでもない。誰に肯定されたり否定されたりしても、私が可能性を見つけるんだ。

人は間違いをおかす。
人は完全ではないから、まちがう。
でも、だからといって、その1つの結果によって、実質は大して変わらないかもしれないことなのに、この世の法律や裁判や風評やジョウシキによって、全く違う運命をたどることにもなる。
でも、わたしはそれに屈したくない。
人はみんな善も悪も持っているんじゃないかと思う。
それを運よく出さずにすめば、一生「悪」のレッテルを貼られずにすむというだけで、
大して変わらないんじゃないかとさえ。
むしろ、まっすぐすぎるがゆえに、歯止めがきかなくて、取り返しのつかないことをしてしまう人もいる。でも、その人は「悪」で、わたしは「善」なのか?
娑婆にいれば、善なのか?
ちがうだろう。

最近、わたしは死刑について、情報収集しようとおもった。
森達也の『死刑』を読み返している。
前に読んだ時と、まったくリアルさが違う。あのときは、何を読んでいたんだろう。
それでも今も、リアルさには程遠い。
『死刑』の中にも出てくる『モリのアサガオ』という漫画を買って読んだ。
いろんなケースが描かれている。主人公の直樹が、まるで死刑について全く無知な自分と
重なって、ショックを受けたり、なやんだり、分からなくなったりする。
一見の価値がある漫画とおもう。
なんだかんだいって、やっぱり森達也は大好きだ。
あの人がしゃべっているかのような文章を読むと、私も目をそらしてはいけない、と思える。
でも、途方も無い。
そしてなぜか、憲法の本をぱらぱらしている。
憲法に強くならないといけない。と思う。
でも、「ねばならない」は本心ではない、のだ。

森の『死刑』のなかで、どうしても残したい箇所がある。
P69
人は人を殺す。戦争で。虐殺で。嫉妬で。憎悪で。利害で。独占欲で。かっとして。錯乱して。報復で。快楽で。宗教で。理念で。イデオロギーで。善意で。思いやりで。正義で。愛情で。
蛮性があり、そして善性がある。彼にも。彼女にも。あなたにも。そして僕にも。だから時おりは優しい。時おりは残虐になる。時には誰かを傷つけ、時には誰かに傷つけられ、やがて年老いる。そして死刑囚はかつて誰かを殺し、その報いとして自分も殺される。

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by jengsauman | 2009-02-01 21:30