過食症を経て、一つ一つの日常を見つめる記


by jengsauman

発信

クラスのMLに投稿があったので、読んでみたら、わたしのメールがコピペされていた。
「今学期があと2回で終了することが残念です。(中略)あと1タームお願いできませんでしょうか」
という内容のメールだった。それをallのMLに貼り付けて、「こんな希望が来ました」と書いていた。
私は相当血が逆流して、先生なにやっとんじゃと思った。デリカシーなさすぎだよ。
むずがゆくて、腹立たしくて。。

しかし、帰宅して、落ち着いて改めて読んでみたら、別に普通の内容だった。
私が落ち着いていられなかったのは、私の言ってることとやってることが一致してない、少し媚びた内容だったからなのではないかと思う。
そんな姿を先生には見せても、みんなに見られるのは嫌だった。自分の未熟さをばらされた気がした。そして、「ああ、私は先生に甘えていたんだ」と思った。先生は、そんな私の媚びや甘えをもう何年も受け取ってきて、「そうだね、そうだね」と個別に返してくれることをしなくなった。単に忙しいだけだと思うけど、私はそんな先生の変化を受け取り、「自分も変わらないといけないんだ」と悟った。

そこで、私は、自ら名乗ることにした。また、自分の言行不一致をごまかすために「みんなもやりませんか~」という軽いノリで書きたかったけど、それをやめて、ただ淡々と、自分の考えたことを少し薄めて書いた。もしかしたら、クラスの人は窮屈に思ったり、痛いなと思ったり、「せっかくもうクラスが終わると思ってたのに蒸し返しやがって」と思ったりするかもしれない、こんなことMLで書かれたら辞めづらいじゃんとむかつくかもしれない。でも、みんなにいい顔するのはやめよう。私は、本心のかけらを、発信しなければいけない。頼まれてもない空気を読むことをやめないといけない。でないと、自分の欲するものに近づくことすらできない。そうして受けた人からの反応や、自分の中の変化なら、きっと受け止められる。そうして、自分の歩みの景色を、変えて行く。

言ってしまう。そして、首をつっこんでしまう。意見を出す。自分の立ち位置を表明する。そして、人と交換する。まずは、それをやらなければならない。既存のものに乗っかる、欲しいと思うものがなければ諦める、とりあえず「うん、そうだね」と言っておく、そんな時間を減らす、減らしたい。


何を発信すればいいか分からない、それなら、何を言うべきか分からないと言う。
何か言うべきことを発信するだけの力がないのだと正直に言う。けれど、そうして言ったことで安心しない。甘えない。
努力しなければ、また次の機会も、分からないといい続けるだけ。そんな自分と縁を切れると信じてみよう。
主体的に、選ぶ、言う。その結果、どうなっているかは分からない。


Aちゃんのスカイプを登録するのは、数ヵ月後でいいやと思っていた。
理由は、私にとっての現実逃避の妄想の対象を現実にしたくない(失望したくない)からと、
「できるようになってから」話したかったからだ。もごもごしたくなかった。
格好悪いからもあるし、そんなもごもごだと会話にならないことが目に見えている。
会話にならないやりとりなんかしたって意味がない、と。

けれど、そんなのはやめようと思った。
もごもごで会話にならなくても、それを自分が英語に触れる機会の1つとしてとらえて、
さらに自分でも努力して、次にはまたもごもご度が減っていればいいじゃないか。
それで相手がめんどくせーなと思ったら、それまでだ。
今の自分で相手に向かうという癖をつけなければ、いつまでも逃げ続ける。しかも心の中で
いつかできるようになった自分を思い浮かべながら。

それとともに、言葉(日本語も含む)を発信する場に自分からいこうと思って、
スピーチサークルを探している。
小さいころから人前で話すと声が震えたわたしにとって、「スピーチ」なるものに自分から
近づいていこうとするなんて信じられない。
けど、びっくりすることに、わたしは自分の言葉を人に届ける力を鍛えたいと思っている。
一朝一夕にはいかないとおもう。でも、まずは何が困難かを知るところから。
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# by jengsauman | 2009-06-26 21:41

穏やかな時間

先日はとても素敵な夜でした。幸せだった。

先週末、次のバレエのレッスンの日は先生の誕生日だったのではないかと思い出して、何かプレゼントを買おうと考えた。
余計なものが好きじゃない先生にとって、やっぱり育てているお花の仲間を増やそうかと思ったので、切花じゃなくて鉢植えのものがいいかと思ったけど、適当なものが見つからず、小さいひまわりの切花にしようと思っていた。なんだか、無難感が漂うのでいやだったけれど、ないよりはましだと思って。当日、駅前のお花やさんで買おうと思っていた。

そして、その当日の午後、広東語の先生にメールをした。
私が送った内容は、「今の英語のクラスはもう終わるけど、もう1学期お願いしたい」という内容で、先生から返信がすぐに来た。
内容は、「スケジュール的にはOKです」というものに加えて、数週間前から合流した別のクラスのKさんを褒めちぎっている内容だった。「集中力と努力はだんとつ」と。
先生は昔からよくそうしてクラスの誰かの努力や才能についてたくさん書いているメールを送ってきた。そういうメールを受け取るたびに、私は劣等感を覚え、焦って勉強に取り組んだ。今回、先生はどういう意図でそんな内容を書いてきたのかよく分からない。ただ単に、Kさんの努力について書きたかっただけかもしれないし、Kさんと同様の当たり前の反復・努力・集中なしには、箸にも棒にもかからない、と言いたかったのかもしれない。もしくは、叱咤したかったのかもしれないし、単に、分析しただけかもしれない。でもその言葉の端々には、「君はやれることもやってない」「全力をだしてない」「甘い」、そんな言葉があるような気がした。

Kさん云々よりも、私は自分のその中途半端さを先生に見透かされていて(当然だが)、それを指摘されたのが、すごく心苦しくなった。頭の中がそれでいっぱいになった。どうして、そんなに「できない」んだろう。

そうして、退社して、情けなくて、もやもやして、そのままバレエへ向かおうと電車に飛び乗った。
途中ではっと、「あ、花買い忘れた」と気づいた。いつも銀座で乗り換えるので、銀座なら何かあるだろうと思っていいやと思うことにしたが、なんだかちょっとしたことで、すぐにやろうとしていたことさえも忘れてしまう自分の器の小ささを痛感して、余計いやになった。

銀座について、ふらふらしてみたけど、花屋は見当たらなかった。仕方ないので、携帯で検索して、もともと買おうと思っていた花屋が有楽町にあることが分かったので、テクテク歩いていた。「こんな付け焼刃の贈り物、先生は本当に喜んでくれるのだろうか?」という思いがぐるぐるした。もやもやしているので、ちょっとの距離なのに「あー有楽町遠い!」と嫌になりはじめたころ、ふと通りのお箸やさんに目が留まった。すごく、丁寧に作られていて、すごく、色が多彩で、大事に作られた店のように感じた。直感で、「先生はこっちのほうが喜ぶのではないか。それに、お箸なら毎日3回も使ってもらえる」と思い、その店に入った。

いろいろと吟味していたら、すごく綺麗な翡翠の濃い色のような飾りのついたブルーというかク゛リーンというか、そんなお箸にであった。ふと、「あ、これ先生の色だ」と思ったので、それを購入した。ついでに、カエルの箸おきもつけて。

包装してもらったら、やたらと大層なものになってしまった。「これってちょっと重たくない?」と自問自答するが、買っちゃったし仕方がない。

そして、先生に会いに行った。なんだか、部屋に花や飾りが増えていて、きっとこれらもプレゼントだと思い、自然に渡してみる。先生は、相当興奮して喜んでいた。どうやら、偶然わたしは先生が現在愛用しているお箸と同じ店で買ったらしい。「ちょっと~、すごい!あはは!」と言っていた。喜んでもらえて、良かった。

誕生日というのは、プレゼントをあげて、その人に「私は友達思いな人ですよ」とアピールするための日というわけでもない。その人が生まれたことに感謝する日なのかもしれなくて、でもなかなかそこまで思えることはない。昨日は、先生があんなに喜んでくれてはじめて、自分の汚い自己満足の欲がすっと消えていくような気がした。

先生の家へいくと、いつもまず、ベランダの花を見る。そして、最近小学生の生徒が植えたという稲と。
でも、昨日みたら、稲がなくなっていた。「どうしたんですか?」と聞いたら、「もうあの子、これなくなっちゃったんだよ」といった。
どうやら、もともとのレッスン日以外は塾でだめらしく、今月からのレッスンスケジュール再編により、これなくなったらしい。
1週間で1日のピンポイントの時間しかあいてない、ってどんな小学3年生だ。。先生いわく、「最近、そんな子が多いよ」とのこと。レッスンに来る車の中でも宿題をしているとかなんとか。。

私はその親御さんに会うことがあれば声を大にして言いたい。塾より、このレッスンのほうが、どれほど、どれほど価値があるのか。
けれども、それは私の主観的な価値観であって、親御さんにとってはお受験のほうが大事らしい。その子はきっと残念だろうなと思うと、いたたまれない気持ちになった。
窓際に飾られた綺麗な風鈴やストーンの飾りが、安寧な夜を感じさせた。どうしてここに来るとこんなにピースフルになれるのだろうか、いつもそう思う。本当に、静かで、穏やかで、透明な時間。もし子供ができたら、先生のレッスンを受けさせたい。しがみついてしまいそうなので、できるだけ放任したい。

相変わらず、リラクゼーションに入る前に、先生と話しこんでしまう。でも、レッスン時間が延びたため、おしゃべりとレッスンがいい具合に同居できるようになった。

その後、とても不思議で特別な体験をした。
私はゆっくりとプリエを重ねているうちに、いつも吐き気がする。
なぜだか分からないけど、小学校のころから、じっと立っていると気持ち悪くなってしまうのだ。
しかし、昨日、少しずつ吐き気がもよおしてきたとき、それをも包み込むイメージで
「受け入れよう、それでいいんだ、これでいいんだ」と思った。
そうしたら、すーっと吐き気が消えていった。受け入れた感覚だった。
それは不思議な感覚だった。

もしかしたら、「気持ち悪くなるのはだめなんだ」「気持ち悪くなっちゃいけない」そんな思いで
私は自分の現実を受け入れることをしてこなかったから、ずっと気持ち悪さに取り付かれていたのかも
しれない、と感じた。都合の悪いこと、はみだしてしまうこと、ルール外のことも、現実は現実で
そのままでいいんだと受け入れること、が第一歩なのかもしれない。
少し自分を信頼できた瞬間だった。
できの悪い子でも、決して見捨てないという安心感のような。

先生はとても面白い話をしてくれた。
プリエは、ひざを曲げて下へ降りていく動作であるけれど、ただ下へ行こうとするとつぶれてしまう。
るるべは、つまさきでたつことだけれど、ただ上へ行こうとすると軽い動きになってしまう。
本当は、下へ行くためには、上へを意識し、上へ行くためにはしっかり地面を踏みしめなければならない。
バランスが取れている状態というのは、反対の力が同じだけ働いている状態であって、決して静かに
止まっているわけではない、というようなこと。
動作1つをとってみても、ただそれを見ると、ひざをまげているだけだったり、反っているだけに見える
かもしれなくても、その実、見えないところにいろいろな力が働いているのだと知る。奥深い。

レッスン後、あまりに気持ちよかったので、しばし外をながめていて、先生に
「こんなに平和で穏やかな時間が過ごせれば過ごせるほど、外の矛盾に満ちた現実との折り合い
がつかずに消化できなくなる」という話をした。
そしたら、先生は、「たしかに世界は矛盾に満ちているように見えるかもしれない。でも、もしかしたら
それは、世界の一部なのかもしれないよ。たとえば、楽譜のなかで1つの小節では、とても暗くて
どろどろな音に聞こえても、全体の曲を聞けば、決してそうではない。時には明るかったりね。
自分の視界を広げることで、もっと大きな枠組みの秩序を見ることができるかもしれない」

その話を聞いて、すごく胸がほっとした。
自分の世界を広げていくこと、だ。
立ち止まって考えても、永遠に分からない。
でも、自分の視界を広げていくことで、いつか何かをつかめるかもしれない。
だから、希望はあるのかもしれない。

「まだまだ、トライ&エラーをたくさんすればいいんだよ」と聞いて、そうだなと思った。
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# by jengsauman | 2009-06-26 02:01

会社や仕事への不満

入社してからほぼ毎日、不満を抱えていて、特にここ1~2年は、ほとんど毎朝おきたら「休みたい」
と思っていた。それでも、「休んではいけない」という規律と、「休んだら有休が無駄に減る」という思いで
なんとか身体を起こし、出社していた。

会社へいって仕事をしていても、それを仕事とよぶのか、また自分がやりたいと思っていることに繋がる
のか、ともやもやと考えていた。でも、「一生懸命しごとしているふりしなければ」という思いが大半で
作業をしていた。

早くこの会社を辞めたいと思っていたし、もっとやるべきことがあると思っていた。
また、会社へ行って仕事をしているよりも、家で勉強したり、外へいってボランティアや活動に参加する
ほうがよっぽど意義があると思っていた。
考えていれば、いつか名案が思いつくのではとも思っていた。

ここにきて、1つ分かったことがある。
まず、家にいて何かが思いつくことはあっても、その確率はかなり低い。
家にいてじっと考えてるのが一番のリスクであり、まだ出社したほうがまし。

また、出社してもとか考えているが、目の前のことも、自分がしょうもないと思ってることでさえも
ちゃんとできないで、一体何ができるというのだろうか。きっと、別のことをやっても同じ不満をもらす。

そもそも、向いている仕事、とか、やるべきこと、なんて、得ようと思って得られるものなのか?
いや、そもそも、そんなものあるのかもなぞだ。
あったとしても、向いてるからやる、やるべきと思うからやる、というのも、なんだかおかしい。
どんだけ、偉いつもりだろうか、とふと思う。
自分の道というのは、眼の前のことをやっていく中で、見つける。
どこかに答えが転がってるわけじゃない。
それが正しいかどうかは分からないけど、今は私はそう思いたい。

会社にいたら、とっぴょうしもないことが起こる。それは、ラッキー。
いちいち、「また訳わからんこと起きた」と怒らない。それは、家でじっとしてても体験できないことだ。
自分の世界を広げることをかんがえる。

そうして考えてみると、出社したほうがずっとましであることが分かった。
朝は、無駄なことを考えずに、とにかく出社しよう。

私は、この会社を辞めるときは、絶対に逃避やマイナスの意味で辞めないようにしようと思っている。
それが、今まで散々逃げ続けて、いろんな人に迷惑をかけて、自分も裏切ってきたことに対する
1つのステップだと思いたい。
だからこそ、自分の架空の能力ややるべきことや向いていることや能力に対する妄想は置いておいて、
着実に、1つ1つの成果を出していきたいと思う。

私がこんな会社にいたら自分がだめになる、と思うのであれば、何か変えようとしないと。
もっと大きい会社にいたら、って思うけど、もっと大きい会社にいたら、きっと私はもっと大部分において
決まりの中でしか動けないと思う。

いつか、素晴らしい環境や人に出会えば、自分が変化すると思ったら、大間違い。
そうは思っても、やっぱり考えて、やっぱり躊躇して、やっぱり人のせいにしたくなる。
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# by jengsauman | 2009-06-23 21:59

ほんものの覚悟

ここに覚悟やらなんやら書いてるうちは、覚悟ではないことは分かっているがしょうがない。

もうSさんから連絡はこないんじゃないかと思っていた。
私のような、なんの軸も逡巡も教養も努力もないやつと話すことなんてないと思っただろうと思った。
それを振り払うために自分から、連絡しようとは思っていたが、何を言えばいいのか分からなかった。
いつも、「今日帰ったら勉強しよう。哲学の本を読もう」とか思うけど、家に帰ったら、感情の反芻で終わる。
私は、本当にやる気がないのかもしれない。私は、何に向き合う気も、何を作る気も、ないのか。
そして、Sさんは、苦しい中でもひとりで閉じて思いつめすぎなのではないか、とか、
どう対せばいいのだろう、とか、一見とてもそれらしいことを考えてはみても、それは無責任なもの。
「もっと違うアプローチがあるのでは」と言ってみたって、自分に何も言える材料がない。
ただ人のやっていることをああだこうだ言ってるだけなら、誰だってできる。

そう思ってたら、メールが来た。「今取り組んでいることが終わったらご飯へ行きましょう」と書いていた。
めちゃくちゃ意外だった。しかし、一体、何で会おうと連絡をくれたんだろう。
そして、また、前回のように、Sさんの表出を延々と聞くだけのやりとりをしてしまうのか。と思うと
何をどうすればいいんだか。前会ったときと、変わってない。

私がやりたいと思っていることは、ある事件で被害にあったSさんとは反対の場所にある。
だから、私は、到底、Sさんの前で、自分の思いのかけらを話すことはできないと思っていた。
私は自分の歩みが、自慰行為なのではないかという思いを今も持っている。
怖かった。それは、批判されるからというより、自分が曖昧な考えしかないことに気づくのが。

Sさんは、自分が被害にあった事件を起こした人や関係するものに「消えてほしい」と言った。
私は、その言葉を聴いたとき、身体中が凍った、そして、痛かった。
現実だ。これが、何の落ち度もない「被害」の、現実。消えない苦しみ。どこへ怒りを持っていけば
いいのか分からない。そして、なかったことにはできない。その苦しみの重さ。
たった数秒それに触れただけで、わたしは凍り付いてしまった。

だから、自分が、どんな覚悟を持っても、それは覚悟じゃない。
私はいつも安全な場所でいて、地を這うような思いをしている人に触れたいなんてほざいている。
私が何をしても、どうやっても、自己満足は捨てられない。
それでも、私は、Sさんに、自分のやろうとしていることを、いえるようにならなければならないと思う。
いや、言う必要などないかもしれない。言いたいのは私だけで、Sさんは聴きたくないと思う。
でも、全ての方向に良い顔はできない。それが、覚悟じゃないのか。

また、そういうプレッシャーをかけることで初めて、真摯に、自分のやることに取り組まざるをえない
状況を作り出すことができるのかもしれない。なんて、やっぱり弱すぎる。
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# by jengsauman | 2009-06-23 01:26

英語の授業にて

昨日は英語の授業だった。
数ヶ月前とくらべると、わずかながら英語に慣れてきた感がある。その分が進歩なのかもしれない。
たったそれだけだとしても、何もないよりはよい。
それに、こればっかりは、どんどん練習しないと、口が回るようにならない。
実践あるのみ、である。

それと同時に、いかにモチベーションを保って継続するか、なのだが、
最近は、つい先日仕事の関係で知り合った、きもい中国人を想定している(笑)。
その人は夜になるとただのすけべおやじだが、昼間はかなりの頭のきれる人で、しかも長年イギリスで
働いていたらしく、英語で会話していた。(相手はもちろん私ではない)。

あいつに今度あったら、英語でやりとりをしたいと思い、発音を練習しながら、その顔を思い浮かべると、
相当モチベーションが上がる・・。
やはり、リアルとの連動&反復、が言葉の勉強では重要とおもう。
願わくば、もっとウキウキするリアルがいいけど・・。

そうしているうちに、少しずつ、英語がすきになってきた。
「どうせ私になんかできないし、英語なんてどうでもいい」だった言語が、いつのまにか
「もしかしたら、少しはできるようになるかもしれない、それに綺麗な言葉だ」に変わっている。
もっと強い気持ちを持って、がーーっとやりたいところだが。

だらーんとなったとき、手に書いている「1万時間」という文字を見ると、まだまだだと思う。
かつまさんの本をちゃんと読んでるわけではないが、なんとなくぴんと来た数字なので勝手に採用。

発音をできるだけ綺麗にしたいと願うことは自由である。
それに、「そんなことに時間をかけているならば、もっといろんな教養をつけるべき」ということも正論。
でも、私には自信がない。だから、きちんと発音を学びたい。でもそれに固執していたら、
他の人と会話ができるスタートラインにも立てない。だから、そのやり方でもって、さらに教養もつける
ためには、圧倒的な工夫と努力、反復が必要なのだと思う。全然、甘いよ。

最近、「物事はなるようになっている」ということに偏りすぎていた。しかも、その意味を消極的かつ受身
にとらえすぎていたのではないかと思う。
運命というのはきっと有ると思うけど、それは、待っていたら道が見えてきたり開けたりするもんじゃなく、
よく分からないという状況において、とにかくもがいてやりきってみる、その中で見えるもんじゃないのか。

私は、待ちすぎてた。と思う。


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そうこうしていたら、超ひさしぶりにAちゃんからメールが来た。
もう忘れたんだろうなと思ったら、覚えてたのね~とウキウキ、と読み進め、

I’m glad that you are learning English, I hope to speak with you in English some day soon.

うふふ、うふふ。がんばるわあ~。
そして、さらに読み進めたところ、

I am trying to learn mandarin, my girlfriend is from China, so she speaks very good mandarin, so I am trying to learn as much from her as possible! And then after, maybe I can learn Japanese!

がぼおおおー。
が、が、がーるふれんど。。
がぼおおー。
しかも、北京語!がぼーーーー!
あんたの英語と広東語が好きだったのに!(ってか、おおむねそれしか好きになる物がない。情報不足)

いや、そらそうよね、もうあれから半年以上経ってんだから、がーるふれんどくらいできるよね・・。
でも、なんていうの、なに、この残念感。
しかも、そのあとに日本語って、何よ!優先順位低いな!君は日本語やらなくてよい!

などと思った始末。最強に心狭い。しかも、自分だって、一応相方がいるだろうが。
しかも、Aちゃんにもそのことを言ってたじゃないか。
(いや、そういう次元じゃないんだーがぼおー)
あたしは、そうとう自己中である。
それにしても、ますます、北京語嫌いになった。べーだ。べろべろばー。(幼稚園児並)

(冷静さを取り戻し・・・・)

彼はメルボルンにて、元気にしているようだ。
そもそも、私が今の英語のクラスに通うことにしたのは、彼のおかげだったな。
あの頃は今以上に、何をすればいいのか分からなかった。「崇高なすべきこと」がどこかにある
のではないかと探していた。英語よりもっと大事なものがある、という思いだった気がする。
だから、その直前に彼との出会いがなければ、このクラスには参加しなかっただろう。
そして、内心、「私は先生のもとから既に3回くらい逃げ出してて、あわせる顔がない」とか
「かつてのクラスの人に会っても気まずいし」などという思いもかかえていた。
私は、かつての逃避を乗り越えられずに、自分はだめなやつだからどうしようもないと思いつつも、
それを挽回するための、別のもっと「崇高で正しい」ことを探していたように思う。
でも、私のそんな稚拙な自己保身をも想定し、先生はかつてのクラスの人とクラスを別にしてくれて、
どうぞといってくれた。

そして、今に至る。その間に、かつてのクラスの人とも顔をあわせて、普通に話しをすることもできた。
相手にとっては私の逃避なんかどうでもいいことだったと分かった(当たり前だが)。
先生とも、いろんなことを話し、法曹を推された。
途中で先生の体調が悪化し、心臓手術受けて、大変だったと知った。時間は無限ではないと知った。
英語についても、当初は全く期待していなかったことを学べている、と思う。

Aちゃんとであったときには、想定もしなかったことが、起きている。
とても、とても、些細なことではあるけれど。
いろんなことが動いている。
だから、未来を憂うことは、無駄なんだ。だって、予測できないのだから。
そして、何にもならないかもしれないけど、突き動かされてやることは必ずやりきるべきだ。
そうすれば、必ず、別のところへ繋がっていく。たとえ、どんな不純な動機でも。

(さらに、冷静になってメールを読み返す)

彼は、仕事を始めて半年くらいだが、会計の大学院へ合格したと書いていた。
仕事と勉強の両立で忙しいらしい。
どうして、そういう面で、インスパイアを受けようとしないんだ。

そういえば、私は、男に対する甘え、というのだろうか、有る面はとても甘く、また甘えさせてほしがる
側面がある。そういうところを、直したいと思っていたのだけど、今日のメールを見て、最初の段落に
書いてある彼の近況よりも先に、ガールフレンドに反応しているようでは、まだまだ甘い。
自分がかわいい、自分のことで必死、なのだ。

世界は広いようだけれど、足元からしか何もできない、ということなんだろうな。
けど、日本以外の世界に、足を踏み出してみたい、と思う。
そして、自分の日常以外の場所に、足を踏み出してみたい、と思う。
そうすることではじめて、自分がしがみついているものを客観的に見直し、どこがどう説得力がないのか
どこが曖昧なのか、本当はどうしたいのか、ただポーズだけなのか、そんなことが見えてくる。


Aちゃんが、わたしの好きな歌手を覚えていて、最近出したアルバム良いよと教えてくれた。
でも、Aちゃんの教えてくれた曲とは別の曲が気に入りました。「沙龍」をえんどれすで聞いています。
こういう情報交換は、嬉しいです。
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# by jengsauman | 2009-06-21 16:56

週末

この週末は、落ちていました。
早起きどころか、9時や10時台まで寝ていて、おきてからもすっきりしない。
だらーぼけーごろーん。もう、だめな日の典型だと思っていた。

英語のクラスにはちょっと行きたくなくて、休んでみたら・・と想像してみたが、休んだらもう二度といけなく
なるような気がして、行った。
先週から合流した人がすごすぎて、そのおかげで刺激を受けられたけれど、あの人と一緒に授業を
受けるのかと思うと、嬉しい反面すごく嫌だった。(あいかわらず弱いですね)

その人はいつも大荷物で、聞いたところによると、今までの資料を全てPDF化して持ち歩いているらしい。
相当なモチベーションと見た。。そんなことをいろいろと勝手に考えて、腰がひけた。
どうやったら、たった10回であそこまで差がつくのだろうかとも思った。

授業へいってみたら、先週よりも少しはできるようになっていた。(先生に判断してもらわないと分からない)
彼女はあいかわらずすごいけれど、それでもなお先生はいくつか指摘をしていた。
自分のことに必死になっているうちに、だんだん彼女のことが気にならなくなってきたというか、
気にしてるほど自分のことが他人事じゃなくなってきた、という感じかもしれない。
もっと、できるようになりたい、と。「どうせだめなんだ」を捨てたら、少しだけ前に進んだ。

優秀な人の存在は、私の「どうせダメなんだ」甘えを少しだけ薄めてくれるらしいことが分かった。
別に逃げてもいいけど、逃げちゃ変われないんだ。。


しかし、精神的には落ちていて、食べてばかりだった。
今日生理が来て、食べるのが止まらないのは生理のせいだったのか、と安心したけど、
でも、本質的に、何かが違う、という気がしていた。
私は変わっちゃいないじゃないかという思いや、私はどうせ正しいものを積み重ねようとしているだけ
じゃないかという思いで、もうなげやり、槍投げ。「どうせだめなんだ」再燃。

本当に、同じことを繰り返しているなと自分でも気づいているが、やめられない。
このサイクルから完全に出ることができない。
ああ、やっぱり私はまだ変わってないんだと思う。
何がだめなんだろう。何をどうすればいいんだろう。また、頭で考える。そして、分からない。
何に行き詰っているのか。
そして、同時に起こる、「体重計の現実」への恐怖。ついつい、計ってしまう。そして、怖くなる。
有る程度食べても体重が変わらなかったときは、もう大丈夫だ、なんて思っていたけど、やっぱり
根本から変わらない限り、これは消えていくことはないのだと確信した。

ま、仕方ないと、本を読みながら、おかしを食べつづけて、そして寝た。

朝おきたら、相当気持ちが悪いが、なんと先日姉と「デザートバイキングへいこう」と約束をしていたので
約束を破るわけにもいかず、いくことにした。
気持ち悪かったので、何も食べずに、近所のホテルへむかう。

いってみたら、そんな殺伐とした空気もなく、殺伐としたメニューでもなく、思った以上に楽しめた。
んで、姉のだんなが来なかったので、ひさしぶりにゆっくり話した。
しかし、甥子は食べれるものがあまりなく、動きたくてしょうがなかったらしく、うおーーぎゃーーー
どぅどぅどぅーと叫びまくり、大人なアフタヌーンな空間を台無しにしてしまい、あわてて食べて出た。
ホテルのひとはすごく親切でした。

帰りにやおやさんへいって、買い物をして、バイバイした。

その後、一旦自宅に帰り、広東語を勉強するための方策を考える。
まず、この膨大な資料を置いているだけでは何にもならないので、どうやってコンパクトにまとめて
音声中心で、いつでもチェックできるようにするかの方法を考えているが、思いつかない。
やはりPCを持ち歩くしかないのか・・。

それは後で考えよう、と思って、新宿へ出かける。
やはり本屋といえば、じゅんくどー。もう、あの本屋以外は愉しめない。雰囲気もすき。でもなにより、
椅子が最高。で、英語の文法の本を購入する。そして、明日から1人勉強会をしようと思いつく。
英語については、赤ちゃんと同じような歩みで勉強することにしようと思う。
無駄なプライドを捨てるのだ。そして、本当に自分が習得したいのは、訳のわからん文章語ではなく、
伝えられる、きっちりした英語。
そんなもんねーよ、と笑われるだろうけれど。とりあえず、発音を引き続きやりながら、文法基礎をやる。


そして、自宅でトイレにおいてある本を手にとったら、過食症の本だった。
もうこういう類の本を読まないと思っていたが、そういう決め付けがダメなのだと思ったりした。
私が陥っていたのは、決めつけによる出口のなさ。なのかもしれなかった。


現実社会に根ざしたものと、精神的なものを掘り下げていくのは、別のことと思っている。
だから、仕事をすることと、精神面のことは、一生交わらないと思っていた。
交わり得ないと思っていた。
それが苦しかったんじゃないか、と思う。


そして、なぜ交わり得ないと思ってしまうのかと聞いてみると、答えが見つからない。
たぶん、そういうもんだと思っていたからだろう。
そしたら、「じゃあ、両方が交わるような方法を考えればいいじゃん」と思いついた。

食べて食べて食べまくって、あげくの果てにデザートバイキング。そして、生理。
サイアクの状態。と思いきや、なんだか、バイキングで気がまぎれて、本を読んで自分の決めつけに
気がついて、「ってか、あんた、方法論考えることばっかりに時間ついやしてるけど、とりあえずやれよ」
と自分に言ってみたら、すごくラクになった。

多少、お金を使ってもいい。この参考書を買うか、買わないかで迷って1週間も費やすなら、
とりあえず買ってしまえ。買ったらやる方法を考える。買った本が正しいかどうかなんて考えて躊躇する
なら、たとえ正しくなくてもやってみたほうがよっぽどましではないか。
なんでいつもこう、失敗を避けるのだ。むかつくな。ほんとに。

きっとわたしは、食べることで、チャレンジしない自分を落ち着かせようとしている。
でも、食べることでは満足できない。
分かってても、なぜか迷い込んでしまう闇の空間。
こうして不安定になるのは、彼が長期不在だからだと思ってたけど、たぶんそうではない。
彼がいたら落ち着くのは事実だけど、彼がいないからダメな自分でもないはずだ。
彼がいないからダメだと思ってみたら、その瞬間、わたしは自分の問題を人の問題にしちゃうのだ。
そして、きっと、それは本質ではない。


でも、一体何が根本的なところなのか、よく分からないけど、とにかく明日は英語の勉強をして、
民法の本を読み進める。
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# by jengsauman | 2009-06-15 00:40

負荷

負荷をかけよう。ちょっとだけでも良い。
昨日は考えてやることを止めていたことを、とりあえずやってみる。
昨日は考えるだけだったことを、とりあえずやってみる。
心の中で、「負荷をかけよう」と思い出しながら。
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# by jengsauman | 2009-06-14 12:55
かんとんごの先生は言いました。「どんなに弱い人間でも、人のためなら強くなれる」と。そんなことあるのかなあ。。その言葉はいまだに信じられません。でも、頭の中から離れません。


昨日、バレエへいきました。今回からレッスン時間が延びました。
けど、またしゃべりまくっているうちに、終了した・・・。
先生との時間について、よく考えていました。
私は、「バレエ」を習いにきているはずなのに、いつもしゃべってばかりで、本当にいいのだろうか?と。
もっと、踊りに時間を割けるようにしたい。と思ってもいた。昨日は、先生へ「ほかのところでも習っていいでしょうか?」と聞くつもりだった。
ほかのところだと、1回のレッスンで2000円くらいだし、もっと踊ることにアクセスする頻度を上げられると持ったからだ。私は、誰かに対して「自分が何をしているのか」を示せるための事実がほしかったのかもしれない。もちろん、バレエは大好きだけれど。バレエをしているといいながら、身体を動かしてない自分に苛立ちを覚え、それでも、先生の前にいくと、話さずにはいられない感覚になる。これではまるで、カウンセリングではないかと思うときもある。

一旦話を終わろうとした先生をさえぎるように、「実は最近おもしろいことがありまして」といって善悪についての話をした。私は、踊るよりも、先生と話がしたかった。
先生は、「社会的に悪いことをしている人って、リスクをおかしてやっているという面ではすごいエネルギーだよね」というようなことを言った。
わたしは、「この出来事が、自分に簡単に善悪を決めさせないように起こっているように思える」と言った。
最近、いろんな出来事が、そういうことなんではないかとつい考えてしまう。
もしかしたら、相当な思い込み&思い違いかもしれない。

先生は、「人から褒められるようなことをやるのは気持ちがいいし、良いことかもしれないけれど、それはあなたが本当にやるべきこととは違うかもしれないよ」といった。
「自分がやらないといけないこと、というのは、考えてみるだけで気が遠くなるようなことだったりする。」と先生は付け加えた。

私は、自分の中で作り上げた、先生像が少しずつ揺らぎはじめた。
先生は、ピースフルな日々を生きるために、地位や名誉やお金やいろんな欲を一旦手放すという考えに基づいて生きているんだと思っていた。そして、私が企業にいることを「なぜ、そこにいるの?というほど不自然」と言って、私に対しても、「いつか、どこにも属さない自分」になるように願っていて、しがらみや常識を一旦離れて、自分を見つめなおしたらよいと考えているのではないかと思っていた。

だから、いつか先生に「会社辞めました」というと、きっと先生は喜ぶだろうと思っていたし、早く先生にそう伝えたいと思っていた。いつしか、先生の思いを自分がたどることが目的になっていた部分もある。たしかに、先生の言うことにはとても共感するけれど。。

そして、私が先生の願いであろうと勝手に考えていたことは、勘違いだった。いや、一部は正しいのだけど、私はそれを目的と考え、先生はそれを手段と考えていた。のだろうか。

先生は、昨日、「あのね、●●さんはね、犯罪をおかした人のために何かするのがいいと思う。たとえ周りから批判されてもね。」と。
「流れにまかせて」とか、「行くべき方向へ行くことになっている」なんてことをさんざん言ってたのに、先生が私の人生について言及しちゃったという戸惑いとともに、もっと大きい戸惑いは、そんな先生の願いが「ピースフル」ではなくて、もっとさきにある「ぐちゃぐちゃ、どろどろ、ダーク」なところを指しているということだった。

私は、「先生は私に<キレイな状態(ダークと程遠い生活の意)>でいてほしいのだと思ってました・・」と言った。

先生は、吹き出して、
「ごめん、●●さん、そんなこと1ミリも考えたこともない!ハハハハ」って笑った。

私「か、か、勘違いしていたようです・・・(ギャボー)」

そこで、また、はっと気づいた。
わたしは、その人が私に対して思っていそうな「こうあってほしい像」を勝手につくりあげ、それと自分の現状とのギャップに悩んでいる。
人が自分に何を望んでいるか、を無自覚的に探し、それらしいものを探し当て、それを「事実」として握り締める。その作業、ぜんぶ自分の独断と偏見で決められる。
そして、その「他人の望み」らしきものを握り締めたままで生きていくには、自分の内心にある「もやもや」を捨てないといけなかったりする。

そして、往々にして、私はその言葉にできない自分の願いを早々に捨て、そのかわりに、それなりの安定を手に入れ、しかも、「決めたのは私ではない」というリスク負わないための印籠を持ち続けてきた。なにかとあれば、「だって、先生(親、○○さん)がそれが正しいと言ったから。これは正しいのだ。」という思いを何度も自分の中で反復し、そのうちに自分の気がおさまるのを待つ。だんだん、それが簡単になった。だんだん、無意識になった。それの何が悪いのかも、疑いもしなかった。

でも、自分が背負っているものは一体何なのか、そして何をしていくのがいいのか、をただただウジウジ悩んでいる私に対して、先生背中を押してくれたのかもしれない。
たとえ、それが、世の中で「キレイ」とか「すごい」とか「清い」とか「人のためになる」とか「社会のため」とか言われそうなものとは違っても。そして、たとえ、それが、間違いでも。

それでも、そのような言葉をかけてくれることは、もしかしたら単なる無責任かもしれないけど、私はそれを先生の愛情と感じることにした。そして、先生を信じようと思った。

その形は、まさに自分が親に求める愛の形だからだ。たとえ、安全でなく、綺麗な道とは思えなくても、その道に光が見えるならば、前へ歩みを進めるように背中を押すこと。傷ついても、へこたれても、その道を歩む意味を実感しなおさせてくれる存在。それが、私が大人になって思った愛情の形だった。それでも、肉親であれば、やはり傷つく姿は見たくないし、できるだけ安全にいてほしいと思うものだ。もしかしたら、他人だからこそ、できる愛の形なのかもしれない。

先生は、犯罪者うんぬんにこだわっているわけではなく、最終的に、愛について深い思い入れがあるように感じた。

今まで、先生に対しては、どこか「浮世離れしている生活(先生は自分でもそう言って笑っていた)」というイメージがあって、どろどろとは程遠い場所にある人だと構えてみていた部分があった。先生の存在はとても大事だけれど、私のこれからのことを考えたときに、先生とはきっと交わらないだろうというような思い込みとでもいうのだろうか。そういう思いがあった。

けど、それもまた、私の思い込みだった。先生とはどういう人で、先生とは私に何を求めている人で・・そんなことばっかりにエネルギーを使ってしまう自分がここにいる。

恥ずかしながら、いつかドキュメンタリー番組で取り上げてもらえることが私の夢であった(自分の善行を顕示したいという悲しいむなしい現実。そんな思いによってなされるありとあらゆる行為は独善にすぎない)。
けれど、私が足をつっこもうとしているところには、そんなキレイな物語など存在しないかもしれなくて、だから親が悲しむんじゃないかとか、自分も後悔するんじゃないかとかよく考えていました。わざわざそんな道を選ぶ意味などあるのか?と。もしかしたら、それが躊躇する一番の理由だったかもしれない。「この先に、これだけのリスクを背負っても、得られる成果はあるのか?」という問い。自分本位の問い。


半年前くらいだったか、ひかりしの事件の弁護団のドキュメンタリーを見た。
あの人たちは、鬼畜といわれたけれど、あの人たちは鬼畜だったのだろうか?
マスコミとの付き合い方がまずかった部分はあるだろうけど、あの人たちの信念や思いや責任感は、現場においてだけ見ることができたのかもしれない。一般人が表面的に見るだけでは想像だにしないものの存在があるのかもしれない。あの人たちの主張している内容が正しかったかどうかは知らないけど。
そして、あの弁護士たちは、じょうねつたいりくにも、ぷろふぇっしょなるにも、出てこない(私の知る限り)。
なぜ出てこないかというと、社会(というか私)が見たい「いいお話」では済まない現実があるからなのかもしれない。
つまり、誰にも褒められなくても、やらなければ、どうしても気になる、ということがあるのであれば、
他者からの賞賛は諦めるのがまず第一歩なのだと思った。そんな簡単に捨てられないのが弱い自分
なのだが。。


話は戻って、先生は、私にいいました。
「塀のなかの人のために何かをするということは、社会から批判されやすい立場になる。でも、その批判をあなたも受けない限り、あなたは彼らを救うことはできないのかもしれない。自分はリスクを負わずに、どこか安全な場所から人を救おうとするなど、不可能なのだから。そして、イデオロギー(死刑廃止)とか数字とかの論議をむやみにするのもやめたほうがいい。」と。

そもそも、私は自分には何にもできないんじゃないかと思っている。でも、何かしないといけないんじゃないかと思っていて、もしかしたら何かできるかもしれないと思っている。そんな人間が、安全地帯でモヤモヤしていることに、先生は背中を押してくれたのかもしれなかった。

先生は、「誰かがやっていることはやらなくてもいい。何か、あたらしいことをやるべきだ。そのとき、自分1人で全てをやろうとするのではなく、ネットワークを作って、誰かできる人にやってもらえばいい。」

「それが、具体的にどのように実現するのか?という答えは当面出ないと思う。もしかしたら、死ぬまで分からないかもしれない。そしたら、また次の人生でやればいいよ。ぼくはそんな風に自分の人生をとらえています」といった。

今、具体的に、「私は●●です」と言えない自分を恥じていたけど、そんなの分からなくていいんだと思うことは少しだけ私を楽にした。
そして、今日は、これらの言葉を聞きに、ここに来たのだと思いながら、駅前のセルフうどんでうどんをすすりながら、これまでと変わらないもやもやと、今後を思うと絶望的になる思いと、それでも少しだけ光が見えることを、抱きしめながら、ひとりさみしく夜を過ごしました。


冒頭のバレエを習うことについて、先生は、「そういったことをやるためには強いからだが必要だから、
これから身体をかえていこうね。忍耐強いからだ、ね。ぼくは○○さんは、そのためにここに来たんだと
思ってるよ」といいました。わたしは近視眼的な結果や形が欲しかったんだと思いました。
ほかのクラスには当分いかないで、自分のやれることを模索して、人に会うことにエネルギーを
使おうと思いました。

まだまだ悩み続け、迷い続ける。果たして、法曹?なのか。でも、考えてもしょうがないので、
思いついたことをやるしかない。


そういえば、今日、NPO法人の会員になりました。
もし、縁があれば、研修にいって勉強させてもらいたいけど、早くても半年後だ。
しかし、今回勉強になったのは、私はその会費1万円を自分から手放すことに相当執着があった
ということだ。自分以外の医療技術を持つ方に託して、現地で使ってもらえればという思いを持っている
はずなのに、結局会費を払うまでに1年以上かかった。
タイミングの問題もあるけど、それ以上に「本当に意味があるのか?」「自分が損をするのではないか?」
という思いが躊躇させたのではないかと思う。
自分は思っている以上に、今持っているものにしがみついているのだ、と。
それが分かっただけでも、入会した意味はあったと思うのは、なんだか皮肉であり・・。
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# by jengsauman | 2009-06-11 23:44

早起きするためには

今日も早起きに失敗。ぎりぎりに出る。それだけで1日ぶるー。

朝、「しんどいよ~。このふわふわのふとんの中でずっといたいよ~」という思いに勝てるだけの
動機といったら一体なんなんだろう。

しかし、ぼけーっとしてたのに、とくだねで傘の新商品のニュースをやりはじめた瞬間
ぱちっと目覚めた。

わたしのほしい、丸い&身体を覆うビニール型傘は、まだ新商品として作られて無いみたい。。
とがっかりした。

やはり、興味あることのためにしか、人間のパワーはわいてこないのかもしれぬ。
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# by jengsauman | 2009-06-11 00:18
ずっと欲しいと思ってたソフトが世の中に存在した。
それは、文字を取り込んで、音声にしてくれるもの。

今週研究して、難解な書籍の耳から取り入れ作戦を実行しようと思う。
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# by jengsauman | 2009-06-10 00:47