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過食症を経て、一つ一つの日常を見つめる記


by jengsauman

週末

この週末は、落ちていました。
早起きどころか、9時や10時台まで寝ていて、おきてからもすっきりしない。
だらーぼけーごろーん。もう、だめな日の典型だと思っていた。

英語のクラスにはちょっと行きたくなくて、休んでみたら・・と想像してみたが、休んだらもう二度といけなく
なるような気がして、行った。
先週から合流した人がすごすぎて、そのおかげで刺激を受けられたけれど、あの人と一緒に授業を
受けるのかと思うと、嬉しい反面すごく嫌だった。(あいかわらず弱いですね)

その人はいつも大荷物で、聞いたところによると、今までの資料を全てPDF化して持ち歩いているらしい。
相当なモチベーションと見た。。そんなことをいろいろと勝手に考えて、腰がひけた。
どうやったら、たった10回であそこまで差がつくのだろうかとも思った。

授業へいってみたら、先週よりも少しはできるようになっていた。(先生に判断してもらわないと分からない)
彼女はあいかわらずすごいけれど、それでもなお先生はいくつか指摘をしていた。
自分のことに必死になっているうちに、だんだん彼女のことが気にならなくなってきたというか、
気にしてるほど自分のことが他人事じゃなくなってきた、という感じかもしれない。
もっと、できるようになりたい、と。「どうせだめなんだ」を捨てたら、少しだけ前に進んだ。

優秀な人の存在は、私の「どうせダメなんだ」甘えを少しだけ薄めてくれるらしいことが分かった。
別に逃げてもいいけど、逃げちゃ変われないんだ。。


しかし、精神的には落ちていて、食べてばかりだった。
今日生理が来て、食べるのが止まらないのは生理のせいだったのか、と安心したけど、
でも、本質的に、何かが違う、という気がしていた。
私は変わっちゃいないじゃないかという思いや、私はどうせ正しいものを積み重ねようとしているだけ
じゃないかという思いで、もうなげやり、槍投げ。「どうせだめなんだ」再燃。

本当に、同じことを繰り返しているなと自分でも気づいているが、やめられない。
このサイクルから完全に出ることができない。
ああ、やっぱり私はまだ変わってないんだと思う。
何がだめなんだろう。何をどうすればいいんだろう。また、頭で考える。そして、分からない。
何に行き詰っているのか。
そして、同時に起こる、「体重計の現実」への恐怖。ついつい、計ってしまう。そして、怖くなる。
有る程度食べても体重が変わらなかったときは、もう大丈夫だ、なんて思っていたけど、やっぱり
根本から変わらない限り、これは消えていくことはないのだと確信した。

ま、仕方ないと、本を読みながら、おかしを食べつづけて、そして寝た。

朝おきたら、相当気持ちが悪いが、なんと先日姉と「デザートバイキングへいこう」と約束をしていたので
約束を破るわけにもいかず、いくことにした。
気持ち悪かったので、何も食べずに、近所のホテルへむかう。

いってみたら、そんな殺伐とした空気もなく、殺伐としたメニューでもなく、思った以上に楽しめた。
んで、姉のだんなが来なかったので、ひさしぶりにゆっくり話した。
しかし、甥子は食べれるものがあまりなく、動きたくてしょうがなかったらしく、うおーーぎゃーーー
どぅどぅどぅーと叫びまくり、大人なアフタヌーンな空間を台無しにしてしまい、あわてて食べて出た。
ホテルのひとはすごく親切でした。

帰りにやおやさんへいって、買い物をして、バイバイした。

その後、一旦自宅に帰り、広東語を勉強するための方策を考える。
まず、この膨大な資料を置いているだけでは何にもならないので、どうやってコンパクトにまとめて
音声中心で、いつでもチェックできるようにするかの方法を考えているが、思いつかない。
やはりPCを持ち歩くしかないのか・・。

それは後で考えよう、と思って、新宿へ出かける。
やはり本屋といえば、じゅんくどー。もう、あの本屋以外は愉しめない。雰囲気もすき。でもなにより、
椅子が最高。で、英語の文法の本を購入する。そして、明日から1人勉強会をしようと思いつく。
英語については、赤ちゃんと同じような歩みで勉強することにしようと思う。
無駄なプライドを捨てるのだ。そして、本当に自分が習得したいのは、訳のわからん文章語ではなく、
伝えられる、きっちりした英語。
そんなもんねーよ、と笑われるだろうけれど。とりあえず、発音を引き続きやりながら、文法基礎をやる。


そして、自宅でトイレにおいてある本を手にとったら、過食症の本だった。
もうこういう類の本を読まないと思っていたが、そういう決め付けがダメなのだと思ったりした。
私が陥っていたのは、決めつけによる出口のなさ。なのかもしれなかった。


現実社会に根ざしたものと、精神的なものを掘り下げていくのは、別のことと思っている。
だから、仕事をすることと、精神面のことは、一生交わらないと思っていた。
交わり得ないと思っていた。
それが苦しかったんじゃないか、と思う。


そして、なぜ交わり得ないと思ってしまうのかと聞いてみると、答えが見つからない。
たぶん、そういうもんだと思っていたからだろう。
そしたら、「じゃあ、両方が交わるような方法を考えればいいじゃん」と思いついた。

食べて食べて食べまくって、あげくの果てにデザートバイキング。そして、生理。
サイアクの状態。と思いきや、なんだか、バイキングで気がまぎれて、本を読んで自分の決めつけに
気がついて、「ってか、あんた、方法論考えることばっかりに時間ついやしてるけど、とりあえずやれよ」
と自分に言ってみたら、すごくラクになった。

多少、お金を使ってもいい。この参考書を買うか、買わないかで迷って1週間も費やすなら、
とりあえず買ってしまえ。買ったらやる方法を考える。買った本が正しいかどうかなんて考えて躊躇する
なら、たとえ正しくなくてもやってみたほうがよっぽどましではないか。
なんでいつもこう、失敗を避けるのだ。むかつくな。ほんとに。

きっとわたしは、食べることで、チャレンジしない自分を落ち着かせようとしている。
でも、食べることでは満足できない。
分かってても、なぜか迷い込んでしまう闇の空間。
こうして不安定になるのは、彼が長期不在だからだと思ってたけど、たぶんそうではない。
彼がいたら落ち着くのは事実だけど、彼がいないからダメな自分でもないはずだ。
彼がいないからダメだと思ってみたら、その瞬間、わたしは自分の問題を人の問題にしちゃうのだ。
そして、きっと、それは本質ではない。


でも、一体何が根本的なところなのか、よく分からないけど、とにかく明日は英語の勉強をして、
民法の本を読み進める。
# by jengsauman | 2009-06-15 00:40

負荷

負荷をかけよう。ちょっとだけでも良い。
昨日は考えてやることを止めていたことを、とりあえずやってみる。
昨日は考えるだけだったことを、とりあえずやってみる。
心の中で、「負荷をかけよう」と思い出しながら。
# by jengsauman | 2009-06-14 12:55
かんとんごの先生は言いました。「どんなに弱い人間でも、人のためなら強くなれる」と。そんなことあるのかなあ。。その言葉はいまだに信じられません。でも、頭の中から離れません。


昨日、バレエへいきました。今回からレッスン時間が延びました。
けど、またしゃべりまくっているうちに、終了した・・・。
先生との時間について、よく考えていました。
私は、「バレエ」を習いにきているはずなのに、いつもしゃべってばかりで、本当にいいのだろうか?と。
もっと、踊りに時間を割けるようにしたい。と思ってもいた。昨日は、先生へ「ほかのところでも習っていいでしょうか?」と聞くつもりだった。
ほかのところだと、1回のレッスンで2000円くらいだし、もっと踊ることにアクセスする頻度を上げられると持ったからだ。私は、誰かに対して「自分が何をしているのか」を示せるための事実がほしかったのかもしれない。もちろん、バレエは大好きだけれど。バレエをしているといいながら、身体を動かしてない自分に苛立ちを覚え、それでも、先生の前にいくと、話さずにはいられない感覚になる。これではまるで、カウンセリングではないかと思うときもある。

一旦話を終わろうとした先生をさえぎるように、「実は最近おもしろいことがありまして」といって善悪についての話をした。私は、踊るよりも、先生と話がしたかった。
先生は、「社会的に悪いことをしている人って、リスクをおかしてやっているという面ではすごいエネルギーだよね」というようなことを言った。
わたしは、「この出来事が、自分に簡単に善悪を決めさせないように起こっているように思える」と言った。
最近、いろんな出来事が、そういうことなんではないかとつい考えてしまう。
もしかしたら、相当な思い込み&思い違いかもしれない。

先生は、「人から褒められるようなことをやるのは気持ちがいいし、良いことかもしれないけれど、それはあなたが本当にやるべきこととは違うかもしれないよ」といった。
「自分がやらないといけないこと、というのは、考えてみるだけで気が遠くなるようなことだったりする。」と先生は付け加えた。

私は、自分の中で作り上げた、先生像が少しずつ揺らぎはじめた。
先生は、ピースフルな日々を生きるために、地位や名誉やお金やいろんな欲を一旦手放すという考えに基づいて生きているんだと思っていた。そして、私が企業にいることを「なぜ、そこにいるの?というほど不自然」と言って、私に対しても、「いつか、どこにも属さない自分」になるように願っていて、しがらみや常識を一旦離れて、自分を見つめなおしたらよいと考えているのではないかと思っていた。

だから、いつか先生に「会社辞めました」というと、きっと先生は喜ぶだろうと思っていたし、早く先生にそう伝えたいと思っていた。いつしか、先生の思いを自分がたどることが目的になっていた部分もある。たしかに、先生の言うことにはとても共感するけれど。。

そして、私が先生の願いであろうと勝手に考えていたことは、勘違いだった。いや、一部は正しいのだけど、私はそれを目的と考え、先生はそれを手段と考えていた。のだろうか。

先生は、昨日、「あのね、●●さんはね、犯罪をおかした人のために何かするのがいいと思う。たとえ周りから批判されてもね。」と。
「流れにまかせて」とか、「行くべき方向へ行くことになっている」なんてことをさんざん言ってたのに、先生が私の人生について言及しちゃったという戸惑いとともに、もっと大きい戸惑いは、そんな先生の願いが「ピースフル」ではなくて、もっとさきにある「ぐちゃぐちゃ、どろどろ、ダーク」なところを指しているということだった。

私は、「先生は私に<キレイな状態(ダークと程遠い生活の意)>でいてほしいのだと思ってました・・」と言った。

先生は、吹き出して、
「ごめん、●●さん、そんなこと1ミリも考えたこともない!ハハハハ」って笑った。

私「か、か、勘違いしていたようです・・・(ギャボー)」

そこで、また、はっと気づいた。
わたしは、その人が私に対して思っていそうな「こうあってほしい像」を勝手につくりあげ、それと自分の現状とのギャップに悩んでいる。
人が自分に何を望んでいるか、を無自覚的に探し、それらしいものを探し当て、それを「事実」として握り締める。その作業、ぜんぶ自分の独断と偏見で決められる。
そして、その「他人の望み」らしきものを握り締めたままで生きていくには、自分の内心にある「もやもや」を捨てないといけなかったりする。

そして、往々にして、私はその言葉にできない自分の願いを早々に捨て、そのかわりに、それなりの安定を手に入れ、しかも、「決めたのは私ではない」というリスク負わないための印籠を持ち続けてきた。なにかとあれば、「だって、先生(親、○○さん)がそれが正しいと言ったから。これは正しいのだ。」という思いを何度も自分の中で反復し、そのうちに自分の気がおさまるのを待つ。だんだん、それが簡単になった。だんだん、無意識になった。それの何が悪いのかも、疑いもしなかった。

でも、自分が背負っているものは一体何なのか、そして何をしていくのがいいのか、をただただウジウジ悩んでいる私に対して、先生背中を押してくれたのかもしれない。
たとえ、それが、世の中で「キレイ」とか「すごい」とか「清い」とか「人のためになる」とか「社会のため」とか言われそうなものとは違っても。そして、たとえ、それが、間違いでも。

それでも、そのような言葉をかけてくれることは、もしかしたら単なる無責任かもしれないけど、私はそれを先生の愛情と感じることにした。そして、先生を信じようと思った。

その形は、まさに自分が親に求める愛の形だからだ。たとえ、安全でなく、綺麗な道とは思えなくても、その道に光が見えるならば、前へ歩みを進めるように背中を押すこと。傷ついても、へこたれても、その道を歩む意味を実感しなおさせてくれる存在。それが、私が大人になって思った愛情の形だった。それでも、肉親であれば、やはり傷つく姿は見たくないし、できるだけ安全にいてほしいと思うものだ。もしかしたら、他人だからこそ、できる愛の形なのかもしれない。

先生は、犯罪者うんぬんにこだわっているわけではなく、最終的に、愛について深い思い入れがあるように感じた。

今まで、先生に対しては、どこか「浮世離れしている生活(先生は自分でもそう言って笑っていた)」というイメージがあって、どろどろとは程遠い場所にある人だと構えてみていた部分があった。先生の存在はとても大事だけれど、私のこれからのことを考えたときに、先生とはきっと交わらないだろうというような思い込みとでもいうのだろうか。そういう思いがあった。

けど、それもまた、私の思い込みだった。先生とはどういう人で、先生とは私に何を求めている人で・・そんなことばっかりにエネルギーを使ってしまう自分がここにいる。

恥ずかしながら、いつかドキュメンタリー番組で取り上げてもらえることが私の夢であった(自分の善行を顕示したいという悲しいむなしい現実。そんな思いによってなされるありとあらゆる行為は独善にすぎない)。
けれど、私が足をつっこもうとしているところには、そんなキレイな物語など存在しないかもしれなくて、だから親が悲しむんじゃないかとか、自分も後悔するんじゃないかとかよく考えていました。わざわざそんな道を選ぶ意味などあるのか?と。もしかしたら、それが躊躇する一番の理由だったかもしれない。「この先に、これだけのリスクを背負っても、得られる成果はあるのか?」という問い。自分本位の問い。


半年前くらいだったか、ひかりしの事件の弁護団のドキュメンタリーを見た。
あの人たちは、鬼畜といわれたけれど、あの人たちは鬼畜だったのだろうか?
マスコミとの付き合い方がまずかった部分はあるだろうけど、あの人たちの信念や思いや責任感は、現場においてだけ見ることができたのかもしれない。一般人が表面的に見るだけでは想像だにしないものの存在があるのかもしれない。あの人たちの主張している内容が正しかったかどうかは知らないけど。
そして、あの弁護士たちは、じょうねつたいりくにも、ぷろふぇっしょなるにも、出てこない(私の知る限り)。
なぜ出てこないかというと、社会(というか私)が見たい「いいお話」では済まない現実があるからなのかもしれない。
つまり、誰にも褒められなくても、やらなければ、どうしても気になる、ということがあるのであれば、
他者からの賞賛は諦めるのがまず第一歩なのだと思った。そんな簡単に捨てられないのが弱い自分
なのだが。。


話は戻って、先生は、私にいいました。
「塀のなかの人のために何かをするということは、社会から批判されやすい立場になる。でも、その批判をあなたも受けない限り、あなたは彼らを救うことはできないのかもしれない。自分はリスクを負わずに、どこか安全な場所から人を救おうとするなど、不可能なのだから。そして、イデオロギー(死刑廃止)とか数字とかの論議をむやみにするのもやめたほうがいい。」と。

そもそも、私は自分には何にもできないんじゃないかと思っている。でも、何かしないといけないんじゃないかと思っていて、もしかしたら何かできるかもしれないと思っている。そんな人間が、安全地帯でモヤモヤしていることに、先生は背中を押してくれたのかもしれなかった。

先生は、「誰かがやっていることはやらなくてもいい。何か、あたらしいことをやるべきだ。そのとき、自分1人で全てをやろうとするのではなく、ネットワークを作って、誰かできる人にやってもらえばいい。」

「それが、具体的にどのように実現するのか?という答えは当面出ないと思う。もしかしたら、死ぬまで分からないかもしれない。そしたら、また次の人生でやればいいよ。ぼくはそんな風に自分の人生をとらえています」といった。

今、具体的に、「私は●●です」と言えない自分を恥じていたけど、そんなの分からなくていいんだと思うことは少しだけ私を楽にした。
そして、今日は、これらの言葉を聞きに、ここに来たのだと思いながら、駅前のセルフうどんでうどんをすすりながら、これまでと変わらないもやもやと、今後を思うと絶望的になる思いと、それでも少しだけ光が見えることを、抱きしめながら、ひとりさみしく夜を過ごしました。


冒頭のバレエを習うことについて、先生は、「そういったことをやるためには強いからだが必要だから、
これから身体をかえていこうね。忍耐強いからだ、ね。ぼくは○○さんは、そのためにここに来たんだと
思ってるよ」といいました。わたしは近視眼的な結果や形が欲しかったんだと思いました。
ほかのクラスには当分いかないで、自分のやれることを模索して、人に会うことにエネルギーを
使おうと思いました。

まだまだ悩み続け、迷い続ける。果たして、法曹?なのか。でも、考えてもしょうがないので、
思いついたことをやるしかない。


そういえば、今日、NPO法人の会員になりました。
もし、縁があれば、研修にいって勉強させてもらいたいけど、早くても半年後だ。
しかし、今回勉強になったのは、私はその会費1万円を自分から手放すことに相当執着があった
ということだ。自分以外の医療技術を持つ方に託して、現地で使ってもらえればという思いを持っている
はずなのに、結局会費を払うまでに1年以上かかった。
タイミングの問題もあるけど、それ以上に「本当に意味があるのか?」「自分が損をするのではないか?」
という思いが躊躇させたのではないかと思う。
自分は思っている以上に、今持っているものにしがみついているのだ、と。
それが分かっただけでも、入会した意味はあったと思うのは、なんだか皮肉であり・・。
# by jengsauman | 2009-06-11 23:44

早起きするためには

今日も早起きに失敗。ぎりぎりに出る。それだけで1日ぶるー。

朝、「しんどいよ~。このふわふわのふとんの中でずっといたいよ~」という思いに勝てるだけの
動機といったら一体なんなんだろう。

しかし、ぼけーっとしてたのに、とくだねで傘の新商品のニュースをやりはじめた瞬間
ぱちっと目覚めた。

わたしのほしい、丸い&身体を覆うビニール型傘は、まだ新商品として作られて無いみたい。。
とがっかりした。

やはり、興味あることのためにしか、人間のパワーはわいてこないのかもしれぬ。
# by jengsauman | 2009-06-11 00:18
ずっと欲しいと思ってたソフトが世の中に存在した。
それは、文字を取り込んで、音声にしてくれるもの。

今週研究して、難解な書籍の耳から取り入れ作戦を実行しようと思う。
# by jengsauman | 2009-06-10 00:47