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過食症を経て、一つ一つの日常を見つめる記


by jengsauman

いつも自分の選択に依っている

先生は帰り際に「今日は元気なかったですね」とそっと私に言った。
自分に恥ずべきところがあるとき、私は先生の顔を見れない。
しんどそうなふりをして、ただもくもくとノートをとるふりをする。
そんなあたしをいつも見てくれている先生に会うたびに、
このままじゃいけないと、自立しようと思うのに。

「愛しい」とはいろんな形があるのだと知った。
忘れられないといってうな垂れる友達の痛みがやっとわかった。
誠実ではない行動ばかりしている人なのに当人にとっては大切だ
ということが、たとえ自己正当化でしかなくてもそういうことがあるのだということも。

世の中のこと全てに明確に正しい答えがあり、人がそれに基づいて
行動していれば、世界は愛に満ちて平和なのかしら?と想像したけど、
なんだか違う気がした。矛盾に満ちて、感情に翻弄されて、馬鹿なことを
繰り返して、それでもそんな人間がかかわりあうから、化学反応のように
何かを生むことができるのだと。だから、人を愛し、自分を愛するチャンスを
得ることができるのではないかと感じた。最初からそこにあるものに価値なんて感じない。
欠乏して、失って、渇望して、そうして初めて気づくことが往々にしてある。

けど、どんな過程を経たとしても、いつかは現実を見なければならないことは同じだ。
いつも現実と一緒に生きていかなければいけない。

「自分を持て」といろんなことを通してずーーっと言われている気がする。
周りで起こることの多くは、あたしにそれを伝えるシグナルだと感じる。
「気づけるもんなら気づいてみろ」と言われている気がする。
もしかしたら・・と気づきたくもないことに気づきかけたとき、「そんなはずはない」と
自分を護って生きてきた自分を変えられるもんならやってみろ、と言われてる気がする。
人に自分を晒し、人に感情を伝え、人にチャレンジして、人に期待して、人に裏切られて、
人を裏切って、人に利用されて、人を美化して、人を渇望して、人を信じて、人を愛する。
奇麗事なんてもういやだ。そのかわり、自分を誤魔化すことをして逃げてるのならば、
それはひとまずそのままでもいいから、全部を捨てようとしなくていいから、
何か違う化学変化を起こそうと動こう。

ふとした時に感じる「あ、もしかして・・」は大抵図星だ。
もしかして今言い訳してるかも?逃げてるかも?美化してるかも?・・・
全部気づきたくないこと。だから、気づかなければ一生気づけないこと。
勇気を持て。負けを認めろ。今は負けでもいいから。
そう自分に言ったり、言えなかったりする。
一歩進んで、また下がって、また進んで、を繰り返している。
でも、きっと無駄ではないし、絶対に変えることができると信じている。
その確信だけは失いたくない。

あらゆる物事は多面的だ。その一面だけを見ていれば、何とでも物語をつくって、
美しい物語を展開できるかもしれない。けれど、その奥にあるいくつもの汚さや
弱さを見ようとしなければ、その事柄は自分にとって飾りのようなものでしかない。

自分という未熟な人間が起こすことなんて、大抵しょぼいことで当たり前なんだ。
自分を閉じて生きてきたのだから、知らないことや失敗がたくさんあって当たり前なんだ。
人を信用してみようと思って、触れ合ってみても、いつの間にか物分りがよい人間を
演じていたり、必要以上に何も言えないだけの状態を人を思い遣っていると勘違い
していたり、「あーまたやっちゃった」って思うことがあっても、そんなこともあるさ。
でも、失敗してもいいけどそこで止まらないで。それでも、また新しい風に触れなければ。
「これこそがあたしにとって必要なことだ」と答えを決めることなんて、できないのが普通だ。
だって、死ぬまで知らないことだらけ。だから、「今はこれが一番大切だと思っている
みたいだけど、こっちにも何かあるよ」といつも横から客観的に自分に言ってあげられるように
なりたい。どんなに不安でも、安定していても、そこで止まらなければ、もしかしたら
明日何かに出会えるかもしれない。

自分を救ってあげられるのは、自分の足を動かすことから始まる。
一面的な物語を終了させて、認めたくないことを認めることから始まる。
自分が被害者ぶっていることも、よく考えてみれば自分も加害者だったりする。

自分の心の拠り所だと思っている場所は、自分が殻を破らずにすむぬるま湯な
だけかもしれない。

自分の感覚を信じて。違和感があるなら、それが答えだ。

ぶつかるとは、闘うとは、稚拙な自分を出して挑み、たとえそれでぼろぼろになっても
最後までその姿勢に誇りを持ち、その自分を愛し続けることだ。
そして、負けても負けを認めること。負けから学ぶことだ。
固執を持ち続けることは忍耐強いのではなく、ただの弱虫だ。
それがそのとき必要ならば、固執対象に頼ればいい。
でも、いつかは離れないと。固執してる間も、新しいものを探してる間も、
大切なものと共存してる間も、同じように時間は流れていくのだから。

自分が行き詰ったとき、無意識に思い出し渇望する食べ物たちと同じように、
自然に思い出す依存固執対象は決してあたしを救わない。

食べたい!そう心が叫ぶとき、自分が舞台にいることを想像する。
するとすごく落ち着く。誰でもない自分が自分のために生きていることを
思い出せるから。そして、この身体は、ただ男に抱かれるための人形ではなく、
あたしという人間を形にした神聖なものなのだと思う。
孤独でもその不安に負けないで。
あたしは「自分は表現主体だ」と心から思えるようになりたい。

何を経ても、行き着くところは「自分を持て」ということ。
そして、「その自分を愛し、人を愛そう」ということ。

その過程で失敗しても、それを人の痛みが少しだけ想像できるという糧に
できたらいい。だけど、そこで甘んじないで。止まらないで。
自分を信じて。きっとできる。きっともっと解放できる。きっと出会える。
そのために必要なのは、身体を削ることでも、自分を押し殺すことでもない。
by jengsauman | 2006-01-17 01:57