過食症を経て、一つ一つの日常を見つめる記


by jengsauman

CAPABILITY

いろんなことが繋がる。
自分の魂に素直に素直に生きようと思う気持ちと、
それだけじゃ成長がなくてダメだと思う気持ちの拮抗は続くけど、
だんだんやはり前者でしか幸せに生きられない気持ちを自分で
受け止められるようになってきた。

人生はいろんな文脈がある。
いろんな考え方がある。
いろんなアプローチ方法がある。

けど、最近思うことは、自分の魂が共鳴するあらゆることたちの
根底は繋がっているのではないかということです。
仕事や勉強に限らず、限られた24時間の中で
どういう信念のもとに自分が決めたことに
取り組んでいるかという価値観が、「出会い」の中の「出会い」を
見つける尺度となり、人を繋げるのものとなるのではないだろうか。

随分、「意義」に振り回されて、逃げてこれた。
社会的地位、学歴、外見、資格、外国語運用力、などを無視できなかった。
持って居なければ勝負できないという強迫観念。恐怖。
それらが語るものは何だろう?
なんでもない。私は、各々の人の入り口しか見ていなかったにすぎない。
だから、誰のこともあまりよく知らない。
もしくは、「あの人はああいう人」と勝手に決めてしまっている。

自分が共鳴する人は、いろんな人がいる。
この人すごいなあ。この人素敵だなあ、この人を見習いたいなあ、
そう思う人たちの間に表面上の共通点はない。
ただ、「人生運営能力」に優れているという内面の魅力があることは
共通している。
自らの魂との対話に挑んで決定した(暫定的でも)明確な目標を持ち、
それを達成するために努力をいとわず、
その過程でどれだけ人が有難く必要な存在かを理解し、大切にしている。
そして、現在が幸せでなければ、未来に幸せなどないと分かっている。

現在が一番大切。
現在をどう生きてるかが何より大切。
どれだけ知識を得ても、情報を得ても、一生懸命生きようとしてみても、
それを得ただけでは私たちは何からも解放されてはいない。
ここにいる自分は、さっきの自分と一緒で、数年前の自分とも大して変わらず、
もしかしたら、余計な情報が増えて更に拘束されてしまっているかもしれない。

「自分の中に答えがある」と信じることへの恐怖。
しかしながら、それ以外に自分が幸せになれる道はないと薄々気づいていた。
もし自分が自分のために生きなければ、ここにいる自分とは一体誰なのか?
自分の中にある願いはどこに封印されるのか?

問題の先送り。
人を見ようとしたとき、本質を見ようとしたとき、その前に見えるものは表面だ。
自分を見ようとしたとき、自分の本質をえぐろうとしたとき、逃避に使えるのは表面だ。
その表面で安心し立ち止まることは、問題の先送りだ。
いつか、そこに何の本質もないことに気づくのだから。
私は世界で有数の経済大国日本の国民なんではなくて、
誰かが作ってくれたそんな日本に偶然生まれた一人間なのであって、
そのアイデンティティにはもともと何の価値もない。
だから問わなければならない。「お前は一人間としてどうなんだ?」
その問いこそが、いつも必要なものなのだ。
どっかに属してることは、私がどういう服を着ているか、とあまり変わらない
程度のことなのかもしれない。
その服を着て何をするか、が重要なだけ。


流れを変えることはできる。絶対にできる。
マイナスに流れていた循環を、プラスにすることもできる。
そのキーポイントは、信頼だ。
自分への信頼。他者への信頼。
表面に逃げなくても自分を信頼できること。
人からの学び、忠告を有難くそのまま受け入れられること。
余計な情報に、気にしなくて良いことに、そこに逃げちゃいけないことに、
踊らされないために、信頼がここにあることを忘れずにいること。

そうするにはどうしよう?
自分の信じることをやる。これは違うんじゃないかと思っても、そこの先
にしか道は開き得ない。そこでの失敗は、「自分を信じてチャレンジした」という
自信にすることができるし、軌道修正もできる。

そして、人を大切にする。家族を大切にする。全てを認めるのではなく、
手放しに礼賛するのでもなく、その人たちが私に気づかせてくれることから
目をそらさずにいること。そして、自分の本気で、まっすぐに、思ったことを
伝えてあげること。ただ、うんうんと肯定するのは一番樂だけど、自分も
いろんなことを言ってほしいから、私も思ったことを伝えるようになりたい。

どんな背景を持っていることより、どう生きているかを見ている人たち。
人がどうこうより、まず自分にフォーカスしている人たち。
私の周りのそういうまっすぐな人たちの生き方は、一瞬一瞬を爆走している。
別にまねなんてしなくていい。でも、彼らは爆走せざるを得ないのではないか?と
ふと思った。やりたいことがあふれてきて、時間が有限であることを知っているから、
誰のためでも、名誉のためでもなく(多少はあっても)、とにかくやっている。
自分もそうありたいけど、その外枠だけを拝借しようとしてた。
その中身は、自分の中から答えを見つけないといけなかった。

数日前、すごく食べることが怖くなって、思わず大阪の友達にメールした。
「食べるのが怖いよ。」
言ってみて少し樂になった。
そしたら、
「無理しなくていいけど、食べ物は○○ちゃんを輝かせてくれるものだよ。」
って教えてくれた。

おととい、友達がご馳走してくれた。
人と食事をすることは、きらきらした時間なんだ、と思う。
そう思わせてくれる食事を一回でも多く重ねられること、それこそが幸せだと思う。
食べることは内面的に私を救いはしないし、答えもくれない。
けど、食事を楽しめるのは、私の人生を数倍輝かせるんだろう。

カロリーにこだわって緻密に計算しても、ああ、どうやってごまかそうか、
などと思っても、そんな世界にハッピーは存在しない。
たとえ、その場をごまかせても、家に帰って一人になったらその何倍も過食するのだから。
だから、人と食事するときは、8割くらい満腹になるまで食べる、食べる、食べる。
何割かは不安でも、「これおいしいなあ~」ってそう思えたならそれでいい。

おとといは食った。さらに昨日も食った。そして今日も食らう予定。
しかし、私の興味は食よりも人。
誰かと食べるということは、誰かと会えるということで、誰かと何かを感じられる
かもしれなくて、何かを変えられるかもしれなくい未知の可能性を持つ。
忘れそうになったら、またそのことを思い出したい。

できないことって何だろう。
年齢を戻すこと?たしかにそれは無理だ。過去にも戻れない。
けど、現在の世界のことであれば、できないことってあるのか?

友達が買ってきてくれたDVD。「Three times」という舒淇と張震の台湾映画。
その表面に書いてある。「失ったからこそ美しい」
過去とはそういうものかなと感じた。
そして、現実は美しくなんかなくていい、とも。
感情にあふれた現実でありたい。

先が見えなくて不安だというのは当たり前のことだ。
先が見えることなんて一生ないし、仮にも見えた気になったら
そこで人生は止まる。
世の中は大きいように見えて、自分の人生はここにしかない。
選択肢があふれてるように見えて、択べるのは一つ。
だから、現在を大切に。
自分が幸せでなければ、人のために何かをなんてできるのか?

今自分に起こること。
それらは全てが何かの信号だ。自分のことに限らず、
友達が悩んでいること、友達の友達が悩んでいること、
それだって気づきのきっかけになる。
どうしてそれが自分に降ってくるのか?それは意味があるからだ。
それらすべてをそのまま見ること=「信」ができるかどうか。
そして、その因果関係論を自分の人生に適用し、変えるべきことは
変えられるかどうか。
知識を、経験を、自由を、起こるすべてを自分の人生に生かして
いける、capability。


私たちの関係は歪んでいるかもしれない。
でも、そんな結論はおいといて、
彼といる自分と、彼といない自分を比べたとき、
彼といる自分のほうが、上に書いたような自分の
大切なことを思い出せ、そして行動できる。
人と生きること、一人で何もかもやらなくていいこと、分け合って
生きていくこと、たとえ表面的な何かができなくても芯をしっかり
していけばいいこと、自分ができることを返せばいいこと。
だから一緒にいる。
食依存への理解なんて求めないし、それは本質ではない。
だって、違う人間なんやし、これはあたしが自分でカタをつけるべきことだ。
でも、それから離れるんだという私の脆弱な意志を
あらゆる方向から強固なものにし、行動に移させてくれるパワー
をくれるのが彼の存在。
リスクがあっても一秒前の自分から何かを動かせるなら、
安全で動かない人生よりはずっといい。
価値基準は、自分が自分の進む方向に実際に動いてるか、否か。
人とかかわり続けていると、必ず必ず得るものがある。
それに踊らされないこと。そして果敢に求め続けること。

人は完璧ではない。だから、誰かの欠点を話す誰かの話は無視する。
その裏にあるその人のいい部分が、その話者にとってはどうでもよくても、
私にとってめちゃくちゃ必要かもしれない。何だって自分に必要なものは
自分にしか判断できない。


「食べるのが怖いよ」って言ったその次のメールでは、
「これからも色々分け合って一緒に強く生きていこうね」って言っている自分が居た。
人生から辛いことを除くのは不可能。だから薄められる困難は人と一緒に薄める。
もっと濃く向き合うべきことはちゃんと伝える。
一人でやるべきことは一人で闘う。
まだ少ししか区別できないけど、きっともっと自然にできるようになる。

夜中にちょっとチョコレート食ったくらいどうだっていいねん。
その瞬間に諦めない自分を創っていくこと。

さてさて、明後日はバレンタインデーですねー。
「そんな某メーカーの意図に乗る金があるなら、募金でもすれば?」という
アドバイスもありがたいけど、こうして実際に形で「いつもありがとう」って
言える機会はなかなかないので、使えるチャンスは使っちゃおう。
自分や自分のそばに居る人を大切にできないのに、世界を語るのは何か
欺瞞に満ちているし、感謝の気持ちや愛情は形に表さないと伝わないことが多々ある。
金額の問題ではなくて、自分のために何かをしてくれた、何かをくれた、
そうの気遣いが嬉しいから、私もそうしたい。
おばあちゃんが昔からよく言っていた。
「感謝の気持ちはちゃんと形で表すんやで」
おとうさん、サランヘ~。

ああ、もうぐちゃぐちゃ書くのはやめよう。
林海峰の「食多D、食多D、食多D、食多D、食多D、食多D・・・・!!」
が頭の中でグルグルする。
ああ、食ってやる!食べ物なんか怖くねーーー!!!

頭で可能性を殺している自分と対峙する。
そして、4月某日までの自分との決め事を守りましょう。

負けず嫌いも個性の一つ。勝ち負けを全否定することもない。
しかし、勝つべきは自分の内面の甘さに対してだ。
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by jengsauman | 2006-02-12 10:21