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過食症を経て、一つ一つの日常を見つめる記


by jengsauman

尊いこと

韓国から帰った次の日から中国に行って帰ってきました。
今回の出張は、一体何をしたんだろう、というのが正直の感想。
いつも頭の中では「逃げるな」という言葉を掲げるものの、
からだは今までと同じような行動をとろうとする。
分からないことを分からないと言えない稚拙な自分。
知ってることをむやみに発信して自分を保とうとするズレた自分。
人と向き合うことが怖くなったら、国籍や文化や言語の差異を盾にする自分。
それもできなくなったら、性格の不一致を引き合いに出す自分。

私は、日々嫌悪感で吐きそうだった。
一緒に行ったCちゃんとSさんがいろんなことをしていくのを横で見ながら、
私は逃げ続けていた。一度信用を失ったら終わりなのだ、と思うのに、
それでも逃げたい。
韓国のKがくれる優しさや、Sの笑顔が頭から離れなくて、
以前のようにぬるま湯に守られていたい衝動に駆られる。
自分を包み込んでくれる場所を探していた。
本質的な問題に直面すると尚更、逃げたかった。

今回持っていった本は、『ピエドラ川のほとりで私は泣いた』という本。
逃げ続ける自分が、この本をかざしていること自体がちゃんちゃら可笑しい
ことではあるが、それでも、私はこの本とここにいることを感じた。
きっとこれもタイミングなのだ、と思いたかったり、感じたり。

危険を冒さなければならない、という言葉が自分の中で響いた。
そして、役を演じてはいけない、ということ。
私は、どこかに行ったら、そこに行きたかったという自分を示し、
そこにいることを楽しまなければならない、意義ある時間を過ごさなければ
ならない、と思ってしまう。今までそうして、演じてきたことを
しっかり認識し、もう誤魔化すのは少しずつやめようと思った。

そして、自分がしていることが、思考の変化はあれど、あまり変化していない
ことを痛切に感じた。そこで、私は「危険を冒す」ということがどういうことかは
分からないけど、どにかく何かを択ばねばならないと感じた。
今までとは違うというだけではなく、自分の感覚を信じる選択肢。

欺瞞だらけのまま帰国し、最初に連絡したのはNさん。
以前からずっと誘ってくれていた仏教の話を聞かせてくださいと頼んだ。
ただ、Nさんが好きな場所に一緒に行って、話を聞こうっていうだけなんやけど、
私は、答えが用意されているということに頼って思考停止に逃げ込む自分を
繰り返すのが怖くて、ずっと断っていた。
宗教とは、恐らく自分を破滅させかねないものだと思う。
それは、自分の従兄のこともあるし、自分の狭い視野や執着心の強さからも
ずっと恐れていたことで。
けど、私は最近少しずつ感じるのは、人のために生きるというのは、
人を愛するというのは、人のために良いことをすることでもなく、
人が喜ぶことを見越して何かをするのでもなく、
人のために自分を犠牲にすることでもなく、
自分が生かされていることを本当に認識した時に起こるもの、
なのではないかと。
話を聞いたからって何も変わらないと思う。
だけど、私は頭で循環することを止めなければならないし、
その無力さを本当に認識しないといけない。

昨日の夜、Nさんから電話がかかってきた。
「何かあったん?」って。
何があなたをそうさせたの?って聞かれた。
私は、自分の中にあり続ける違和感、はちきれそうな違和感、
そして、このままではいけないという危機感、
ずれているという感覚。
それらと本当に対峙するには、動かすしかない、と感じたのだと話した。

私は、もう自分が嫌で嫌で、会社からも消えたいと思っていた。
けど、話を聞いて、Nさんは今週末東京に行くから会おうといってくれた。
そして、あなたは思考することをやめて、何かを変えようと動いたことで、
進んだんですよ、といった。
それは前進か後退かは分からないけど、立ち位置が変わったのだ、と。

電話を切った後に、メールをくれた。
「あなたが苦しみながらも、正しい道を求めて生きていく姿勢は尊いこと」
と。私は、なんとも言えない安堵感に包まれて眠りについた。
分かり合えるとかじゃないし、第一私は何もやってはいない。
Nさんがそういってくれたから、そうだとも思わない。
けど、自分が今信じられるものは、自分の違和感しかない。
そこに突っ込んでいく勇気がなかったのを、Nさんはすーっと後ろから
押してくれた気がした。何が良いとか悪いとかじゃなく、歩いて行こうね、という。

Nさんは「人を変えるには、自分が変わらないとね」といった。

毎日、毎日、自分に伝える。
怯えて、人から逃げようとして、ええ格好をしようとする自分に対して、
「無条件に与えられる評価に逃げようとするな」と。
誰かが勝手に考える素晴らしいことの概念にはまろうとするな、と。
痩せてるとか、モデルみたいだとか、ファッションがどうとか、
何を持っているとか、頭がいいとか、仕事ができるとか、
あったらあったでいいかもしれないけど、それが善と想定して、
そこに自分から迎合していくな、と。
そこには何の実体もないよ、って。

Nさんはいつも言う。
「あなたがそれ程感じる違和感は、もしかしたら貴方がよく思い出す誰かが、
あなたに求めていることがあるという印なのかもしれませんね」
今していることではなく、その存在が私に伝えてくれる光への道なのかもね、と。
生きていようと、亡くなっていようと、自分の頭に浮かぶ存在は、
きっと貴方に対して何かの願いを持っているんだろうね、と。

私は、おじいちゃんのこと。両親のこと。アメリカにいるOのこと。Bのこと。
いろんな存在を思い浮かべた。考えたって分からないけれど、
もしかしたら、今「このままじゃいけない」と思っておろそかにしている現在は
そこに繋がっているのかもしれない、とわずかに感じた。

何かをしなければと焦って空回りするとき、私はいつも我を通している。
自分が認められたくて勉強しようとして、仕事しようとして、人と出会おうとする。
けど、存在する繋がりというのは、そんな単体で存在するものではないのではないか
と思ったりする。
だから、誰かのために動くことを本当に理解したとき、私は今までのような
自己完結的な人間関係を捨てていけるのではないかと希望する。

けど、理想だけじゃなく、思想だけじゃなく、やはりそれを現実の中で
生きていくことが一番の望みだ。お金も必要。勉強も必要。理想だけでは生きれない。
痛いし、寂しいし、不甲斐ないけど、でもやっぱり理想を捨てないような生き方。
それを貫ける愛情。

中国にいて、一番感じたのは、出会ったたくさんの女性の輝き。
以前の自分が無意識的に求めていた「庇護」を求めるような、
生きていない女性はとても少ないと感じた。
そう、これがいい。私もこれがいい。心から感じた。
守られなくていい。でも、尊重できる関係を築きたい。

そんな話をしたら男友達に制された。
もっとずるくならないとダメだよ、といわれた。
けど、そんなのあたしには無理だなあって思って笑った。
by jengsauman | 2006-10-06 00:29