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過食症を経て、一つ一つの日常を見つめる記


by jengsauman

人間ってすごいんやなあ

何かを変えるということは、何かを支配下に置くことでもなければ、何か今まであったものをすべてなくしてしまうことでもない。
今そこにある、わたしたちとは違うものから、引き出すこと、まぜあうこと、でもやっぱり生かすこと、押し付けないこと。そんな気がする。
でも、やっぱりむずかしい。いつのまにか、強烈な日本人的常識を侵されることに、腹立ちをおぼえたり、こちらが押し付けようとしてしまう。

先日、姉と父の日&誕生日のプレゼントをかいにいった。
姉の家の近くの百貨店は、私と同じような貧乏ペーペー人間は見当たらない雰囲気がある(偏見だけど)。そういう場所では、こう、なんていうか、ここでは絶対に殺されないっていう安心感がある。一歩外にでると、自分のあらゆる弱さやだめさをつきつけられ、そして、誰にいつ殺されるか分からない混沌とした世界。
でも、ここにいると、外の社会とは一線を画した、非現実的な整然さと統一感と安全感。そんなことを感じる。

以前は百貨店に行くたびにそう感じつつ、それに逃げ込む自分はだめなやつだと思っていた。
自分で考えなくてもそこにある程度のものが用意されているという環境は、私にはだめなんだと思っても、そこへ行けば、1時間でも2時間でもは、命がおびやかされることがなく、また、自分が問題を棚上げしていることを責められることもないと感じていた。だから、百貨店は、私にとっては、自分を保つために必要であって、また、自分の殻を破るためには乗り越えないといけない場所でもあったのかもしれない。別に、百貨店に限ったことではない。やっぱり「レッテル貼り」が問題なのかと思う。

百貨店が悪いわけではない。便利だし、地方でしか買えないものが簡単に手に入るし、直営店にいかずに買物もできるし、大変いいのだ。でも、やっぱり順番なんだろうなあ。まず、百貨店だから安心→そこにある何かを買おう。というのではなくて、○○を買いたいから、それをおいている百貨店に行く。そういう順番でないと、自分が本当は何が好きか、相手は何を喜ぶだろうなあ、これって「人気第一位」って書いてあるけど私には必要ないな、おおこんなのあったのかすご
い、などという感動や想像や現実との距離感を測ることがどんどんできなくなる。
しなくても、生きていける。しないほうが楽。しない。しないことさえ気づかない。次第にそういう坂道を転がっていく気がする。それに対して、ひとりで「これはだめだ、ここを変えるんだ」とやっても、それは全体の1%で、99%は知らないあいだにまた転がっている。どんどん楽なほうへ、どうしてもこの状況から逃れたい一心で。やっぱり、人と力をあわせていきたい。

買ったものは、バーバリーの帽子と、一升瓶の日本酒。どちらも、父が必ず喜ぶに違いないものだ。だから、そういうときは百貨店こそがふさわしい買物場所なのだけど、なんだかそこにいるときの自分は後ろめたさを抱えてもいる。それはそれで、ほっとこう。

姉の息子は、4ヶ月半で、とても大きくなった。2週間くらい会わないあいだに、声や音に反応し、振り向くようになり、ものをしっかり掴むようにもなった。そして、寝返りができるようになった。人間って、何者なんだ、と驚いてしまう。誰に教わったわけでもないのに、必死で自分の身体で全力を尽くそうとヒーヒー言っている。寝返りを打つのもまだたどたどしいのに、必死で挑戦して、ハアハアゼエゼエ言っている。

別に、「寝返りできることは良いことだ!」とか「寝返りできたらすごいんだ!」とか誰から聞いたわけでもないのに、めちゃくちゃ必死に、果敢に挑戦している。

どうして、価値があるかどうか分からないことに対して、やって何になるのか?
という疑問もなく、こんなに必死になれるのだろう。
素直に、うらやましかった。
わたしも、かつてはそうだったんだろう。
そして、うちの母親は、私のその姿をずっと見てくれていたんだろう。寝返りしただけで、きっと今の私みたいに、すごく感動したんだろう。おねえちゃんが、数時間に1回おむつをかえて、おっぱいをやって、あやして、だっこして、写真とって、かわいいなあってスリスリしてる姿を自分の母親とダブらせて見ていた。うちのママも、そうやって私のことをだっこしてくれてたんだろうな。記憶はないけど、記憶にあるような気もしてくる。
しかも、うちの父は、姉の夫ほど積極的に家事をやってはいなかっただろうので、母の苦労とはいかばかりか。

そして、父や母が、節約して、あまり派手にお金を使わず、口癖のように「教育にはお金を惜しまない。本代と文具代は要るだけ言うように」と私たちに言っていたことは、決して当たり前のことではなく、私たちが彼らが使えるはずのお金をたくさん使ったんだ、と分かった。子供をうまなければ、もっと裕福に自由に暮らせたであろう2人は、私と姉をただ生きるだけではなく、より多くの選択肢を与えようとしてくれた。

姉を見ていて、父と母が私たちを産んだばかりのころの生活を、具体的に想像できるようになったおかげで、ますます感謝の念は沸くのだけれど、その一方で、「それなのに、なぜ私はもっとうまく、そして勇敢に自分に挑戦して生きなかったのか。」という後悔を捨てきれない。いや、それは今からでも遅くはない、気づいたときにもう一度歩み出せばいいんだ、と思うしかないのだろうけど。「でも。。」が付いてしまう。

私は甥っ子が、いつの日か、「オレなんて生まれてこんかったらよかった。なんの価値もない」って言うたりしたら、どんなに悲しいだろう、と思う。彼は今こんなに力にあふれていて、こんなに素直に、自分の身体の限界を更新していこうとしているのに、「どうせオレなんて。。」なんて言うたら、卒倒しそうだ。
「何いうてんの?あんた、まだこれからやん」って、私は自分が過度に思いいれをした他人事のように言うだろう。でも、自分だって同じこと考えてるやん、人にだけ「これからやん」という正しさを押し付けて、自分はどうなのよ、って言われたら、きっと何も言えない。

本当は、やるべきことはいつも足元にあるんだ、と、彼は教えてくれる。しかも、それに対して、余力を残さず、徹底的に挑戦するもんなんだということも。
だけど、いつからか、「正しいらしいもの」とか「こっちのほうが人生得かも」とか「これは人に賞賛される」「人より優位に立てる」そんな要素が、人生には絡んでくる。それを一蹴できるだけの必死さがあれば、こんなウダウダ人間にはなってないんだろうけど、ウダウダになってしまったからといって、それが個人の弱さであるとはやはり思いたくない。そんな攻防を頭の中でやっているうちに、一つの答えにたどりつく。やっぱり、現状を飛び越えることなんてできない、ということ。

それが、中1から大2まで英語の授業を受けといて、中学1年の英語レベルさえもあやふやな悲惨な現状や、もう数え切れないほどの検定試験を受けても必死になれず、仕事で使うというのに努力しない中国語の幼稚園レベル。まず、それしかないんだ、と知る。私は、それしかない。でも、逆に言えば、それは持っている。字は読めて、本も買えて、時間もある。今のところ死ぬ病気でもない。現実とはただ、それだけのことだ。その自分だけの問題の解決法を、自分だけの方法でやっていくしかない。というか、それこそが人生だ。その一瞬一瞬に、正しいも間違いも、良いも悪いも、何の答えもない。ただ、その一瞬でしかない。数字や具体的な獲得物は、分かりやすいからモチベーションUPにはなるけれど、それは本質とは違う。本質に近づくためのツールではあっても、本質ではない。

あかんわ、って思うと、簡単になる。現状認識も、苦しい理由も、全部自分がだめな人間だからと思ってしまえばすむからだ。でも、その瞬間に、シャッターがしまって、閉店になる。それ以上、何も起こり得ないし、誰とも出会えない。あかんわ、は謙虚な言葉に見えて、じつはかなりの慢心である。あかんも何も、何を判断できるんじゃ、不完全な人間のくせに!そんなこと考えてるくらいなら、ちょっとくらい身体を動かせっちゅうねん。

自分はできるという暗示をかける。思い込む。
by jengsauman | 2008-06-21 01:00