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過食症を経て、一つ一つの日常を見つめる記


by jengsauman

みえるものにばかり縛られないで

私の従兄は、「何かを第一原理としない立場から本質を見る」可能性をさぐって、
必死だったのだとおもう。
私が何も言えるわけがない。でも、だからって何もしないんじゃだめよ。と最近はおもう。
できることがないの、と、だから何もしない、というのは、ちがうことだ。

今日、のりちゃんがそんな私を見透かしてか、偶然か、のりちゃんのお兄さんの話をしてきた。塀の向こうにいるお兄さんとのやりとりの話。
わたしは、「塀」というもののことを、一体どういうものなんだろうと分かりもしないのに思いをめぐらしている。しかも気が向いたときだけ(思い出したときだけ)。今塀の中にいる人が背負っている罰を、なぜ彼らだけが背負わないといけないのか。目に見える世間的な「罪」と、罰されない「罪」のちがいはなんなんだろうか。

のりちゃんが、お兄さんと話したことを聞いてみた。

「誰にでも、尊い仏性はあるし、これに貴賎など関係はありません。でも、自分の仏性に気づき、磨こうとするかそれを隠す自分本位な考えで物事を行うかが、本当の意味での業です。」

塀の外にいる人だって、みな業を積んでいる。犯罪としてつかまらないからこそ、それは犯罪よりはまし、というふうに考えられたり、いいことだとさえ考えられたりしているかもしれない。
でも、のりちゃんが言うように、何を罪とするかは、人がつくったもので、塀だって人がつくったものなのだから、それですべてが善悪に分けられてるわけがない。

「真実は曲がらない、曲がらないから真実であり、真実は尊い。」という、その中の真実というのは、キャリアを積むことや、人から賞賛されることや、学歴や職歴を飾ることや、高いものを身にまとうことや、金持ちになることではない。なんなのかはわからないけど、ひとつずつ、消去していっている感覚だ。残ったものは、結局とてもシンプルなのだろうな、と想像する。

塀の中に入ることになってしまった人、しかも、もう二度と塀の外に出られないかもしれない人にとって、毎日を生きなければならないことはどれほど苦痛だろうか、とよく考える。でも、そんな想像、なんにもならない。

塀の中にいようが、外にいようが、わたしたちは自分に与えられたものを背負っていくしかないのかもしれない。
by jengsauman | 2008-06-21 14:22