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過食症を経て、一つ一つの日常を見つめる記


by jengsauman

いっぱい食べた

この土日は、いっぱいいっぱい食べました。
体重も増えているだろうけど、何より顔のむくみがすごい。パンパン。
先週金曜日と別人のようだと鏡を見るたびに思うけれど、しかたないよ。食べたんだもん。
(結局、あきらめられてない)
レーズンチョコ、毎日1袋は食べている。もちろんそれ以外もたくさん。おそろしい。

昨日は、昼から出かけて、表参道のNatural Houseで物色していたら、
卵不使用のクッキーのコーナーがあったので、おーこれはおねえたんに買おう!と
「かぼちゃクッキー」を手にとった瞬間、横から「それ、おいしい」と言う人が。
通りすがりの外国人だったようだが、なぜかかぼちゃをめちゃくちゃ推すので、
それを信じて買いました。味は、ビミョー・・・!モソモソしてて水がないと食べれない。
でも、なんか知らない人に話しかけられると嬉しいし、会話して楽しかった。
もしかして、新手のスリか?とも思ったが、そんなこたなかった。
おそらく、思いっきりクローズしてなければ、人から話しかけてもらえたりもするのか、
単に私が隙だらけなのか、ボーっとしてたのか、その人は話しかけるのが好きだっただけか、
よく分からないけど、ひとときのおもろい時間でした。

その後、はじめてGYREへ行って、MOMAショップを見たけど、
ネットショップで見たことのあったかばんは思ったよりもちゃちかったので買わず、
そのまま駅へ直行して、最寄り駅まで帰った。
表参道って休みの日はすごいことになってるんだな、と知った。
人が多いところは本当にだめだ。おもしろいこともあるかもしれないけど、息苦しい。
前から来る人とぶつかりそうになるし、うしろから抜かされたら早く歩かないといけないような気がしてしまうし、すぐに肩に力が入る。

最寄り駅でお決まりのうどんやさんへ入った。最近はおにぎりをやめていたけど、すごくお米が食べたかったので、わかめうどんとめんたいおにぎりのセットを食べた。心から満足した。あいかわらず大変おいしかった。またおなかがぽっこりなった。その後、レーズンチョコを買って、おうちに帰り、整理をはじめた。

きちんと自分の家に帰り、自分の家で勉強する習慣を作ろうと思う。ナアナアではだめだ。勉強は決めないとできない。というわけで、まず地図を動かしてみたが、地図に見入ってしまう。オーストラリアの箇所ばっかり見て、今までは世界中でもっとも興味のない場所だったオーストラリア大陸がヘビーローテーションのようです。あいかわらずの性格で、我ながらあきれ中。

7大陸最高峰、というのがあるが、オーストラリア大陸だけ極端に低い。その山は、コジオスコ山で2,228m。場所は、シドニーから南下、メルボルンから北上のあたり(曖昧)。もし、オーストラリアへ行く機会ができたら、必ずこことエアーズロックへ行こうと思いました。こんなにウキウキしてアホみたい、と思う。新たな執着対象を見つけて、さぞかしご満悦ですね、と別の自分は言う。そうやってまた現実逃避して、時間を無駄にするんですか、とも言う。でも、少しずつ、分かってきた。自分が本当は何になりたいのか。どういう人といたいのか。そして、何がだめなのか。

「世間の目よりも、内なる声だ」って思ってたけど、ぜーんぜんそんなこと実践できてなくて、誰かの人生ばっかり生きていたけど、バレエ先生の言葉と、いろんなことが起こるなかで、今までは感じえなかったつながりというか、何かが起こりそうな予感がするのだ。自分が見ている先に、何かがあるというか、いつものような無力感と脱力感ではない自分がいると思う。そういう小さな波が、少しずつ起きている気がする。

だから、別にアホなことしちゃってもいいやーと思って。どうせ、今までのしょぼいええかっこうしいのうすぺらいニセに比べたら、本気でやってみてしっぱ~い、なんて「素敵」な部類に入る。

昨日は、前回日野先生のドラムコンサートへいったときの主催者の方から、次のライブのお知らせをわざわざ郵送でいただいた。中には、堺の案内地図やらいろいろ入っていて、私が地元(というか、小さいころすんでたとこだが)のことも知らずにノウノウと28年も生きているのを師って、是非また来てください!と言ってくれた人である。社交辞令ではなくて、ほんとに覚えてくれてたことが嬉しかった。与謝野晶子の作品には、ミュシャの絵が挿絵として使われていたらしい。それで、堺にある与謝野晶子文芸館は、ミュシャ館と一緒になっているらしい。へえ・・。知らなかった。この2人の関係がよく分からないけど、一度堺の街をゆっくり回ろうと思った。

ふと、この人はなんでこんなに律儀に連絡をくれるんだろう、と思う。
私がわざわざ東京からミニコンサートへ行ったことがそんなに記憶に残ることだったのだろうか。
でも、あのときも、CDをプレゼントしてもらって、後日金本兄貴の下敷きまで送って来てくれた。
もしかして、考えたくないけど、私またなんか隙を見せたのだろうか。

先日のインドで明確に自覚したけど、私は異性の友人に対して非常に依存的であって、同性の友達とはあまり深くかかわらない。ひろちゃんとか昔からの友達は別だけど、大学以降の女友達は皆、一線を置ける人たちばっかりだ。よく言えば、お互い領域を侵さない関係というのか。それならそれで、男にもそうであれば問題ないけど、男にはなぜか大変緩い。

そういう私の態度が、初めて会った人に対して「相手を勘違いさせる」といつも身内から言われていたけど、長い友達とは永続的にへんてこな関係が続いている。別に私は普通だと思うことは、それは異性だから成り立つことだ、ということが多いのだった。

それってめっちゃかっこ悪いな!と思う。
しかし、それを認めるのはたやすいことではなくて。うすうす気づきつつ、眼の前の関係は別に自分にとっては普通だから、ええやん、って思って、気づいたら人と対等に関係を築くことが難しくなっていた。私が女だから、じゃなく、私が私だから仲間として助け合える関係を築きたいとか言いながら、思いっきりラクして、全然違うことしてるやん。

インドでは、そういうやり方でピンチを乗り切ったこともあったけど、そういうやり方で誤解を招いて、変な勘違い男にからまれた。というより、今思えば私が毅然と言わなかったから悪かったんだ、ということなんだけど、私の辞書には「毅然とした態度で言う」ということがなくて、いつも人(というか男)にいい顔して、ヘラヘラしてるやつ、だったんだなと知った。

その話をひろちゃんにしたら、「実は私はあんたが異性の友達に緩いこと気づいてたで!」と返ってきた。正直、カチンと来た。いや、たしかにその通りなんやけど、なんか自分がとても惨めで、バカな女まっしぐらで、しかも既婚者に甘え続けて、自分らしさを見失って、終わってる奴、と感じた。事実やけど・・。

いろんな言い訳はいくらでもできる。でも、いびつなものは、いつもそれを洗い流そうとする力が働くものだと思う。自分にとってうまくいかないと感じることは、もしかしたら浄化作用なだけかもしれない。素直になればなるほど、自分が執着しているということに気づく。ほんとは、あれもこれも、必要ないものなのに、不安に駆られて手放すことができないんだと思い込んで、諦めているのだ。「私はこれが必要なの!」って言うものに限って、別に必要じゃないんだろうな、と思う。本当に必要なものは、もうここにあって、というか、自分の存在の一部として存在していると思う。だから、自分に必要なことをしている人の動きには、焦りも無駄もない。ゆっくりとして、落ち着いていて、それでいて一点を見つめている。外の何かにしがみつくのは、足元が見えてないということへの焦りなのかもしれない。

そんなこんなで、私は自分の人間関係を見直そうと思いました。
簡単なことではないけど、向き合うということは、そういう自分の毒出しなしにはありえないし、どういう風に自分を欺いてきたかを自覚することが必要だから、ひろちゃんの言葉に逆ギレしたろかと思ったけど、いやいやほんとのこと言われただけやで、と飲み込むことにした。本当のことをオブラートなしに指摘されるとこんなに腹立つもんなんですね(笑。
むかつくけど、ありがたい友である。

毅然とした態度かあ・・。

やっぱり、早く公に紹介できる彼氏を作るのが一番なのかもしれない。と問題すりかえしたいほど情けなさ満点です。
by jengsauman | 2008-10-05 21:06