過食症を経て、一つ一つの日常を見つめる記


by jengsauman

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奴隷

依存に落ちまくった。
それが現実です。稚拙で、脆弱な基盤しか持たないのが現実です。
だから、そこをまずは認識すること。
そして、それを批判すること。
そして、それを変えていくこと。

自分の現実を見るのはあまりに悲しく苦しい。
今見えているものは、ほんのわずかな一部にすぎず、
これ以上見る余裕もあるのかないのか。
見ようと思うだけでもエネルギーが必要なほど
あたしは弱虫です。

でも、あたしは弱虫です、で終わったら、
一生あたしは弱虫です、なわけで、
そんなわけにもいきません。

負けん気はこういうときに使うもんです。


正直、さっきまでの数時間は久しぶりに落ちすぎました。
どう戻していいかも、どこに行けば、何を考えればいいか。
思いつかない。からっぽに見えた。

彼を待っていた。
アディクション。
食べ物を詰め込むことはしなかったけど、その代わりに
妄想を詰め込んでいた。幻想か妄想か。
誰かと一緒にいる図。早く帰ってきてと願い続ける。
気にしてないふりして、もう頭の中がそれだらけ。

奴隷ですね。ほんとに奴隷。
別につながれているわけじゃないけど、自分がそこに
逃げ込んでいる限り、奴隷と同じ。
何も作り出さない。何も生み出さない。何も変えようとしない。

もうタバコはすえないし、食べるのもいやだ。
食べずにすむなら違うことで何とか紛らわせたい。
そして、もう何でこのむなしさを埋めていいか分からずいた。

現実を見なきゃ、現実、現実・・・とうめいていたところ、
ふと前に自分が書き残していた文を見つけた。

決断する勇気と決断したことに対する執念が身体の能力に火をつけ目的や目標を達成する

人は自分が何かを決めた時、必ず最高の能力を引き出すのだ。誰かに決められるのではなく、自分で決める。ここを抜かせばただの奴隷だ


あー痛い!痛い痛い!!
これはとある武道の先生の言葉です。

さらに、

トランスパーソナル心理学について

自分の現実を向き合うことは涙するほどつらいことである。
絶望的で、もうこれ以上立ち上がれない、というほど。
時には周りから「みじめ」と見られることもある。
が、その自分の「貧しさ」を認めなければならないのだ。

スピリチュアリティーというのは、そうしたみじめさを和らげる
ものではなく、徹底した自己否定をできるほどに強靭な
自己があるところにしか成立しないのではないか。
自己否定は自己統治のために必要なものである。

成長とは痛みなくしてありえないのだ。
今のこの基盤を破壊することなしにはありえないのだから
とてつもないほどの痛みを伴う


あー痛い痛い痛い!!!くそーー!!
痛すぎる!

しかし、痛いが、そうだ、とまた立ち上がった。
あたしは現実に生きなければならない。

彼に話しかけた。一言で終わった。
次に会うのでもう終わらせよう。心に誓った。

お互い自分をしっかりさせて、生きるベクトルが
また交わったときに、また会おうね。
そういう関係じゃないと、勿体無い。
せっかくの大切な人やねんから。
そして、自分の問題をやっつけるのが先決やから。

また落ちても、あたしはまたこうして絶望の中から
いつか見えるかもしれない「喜び」への期待を
自分でたぐりよせるべきだ。何があっても。

生きるとは苦しいことやろうけど、
こうしてまた思い出すんや。
「落ちることが問題なんじゃない。
落ちたあとにまた立ち上がればいいんや。」と。

あたしは、あたしの足で歩く

執念!!!
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by jengsauman | 2006-02-17 02:40

迷い

私が少しずつ自分を解放するために必要なことは、
自分が自分を尊重することだと思った。

ずっとそういい続け。

いまだ、それが怖いし、どうやってやっていいか分からない。
そうじゃないやり方で生きてきたから、それをわざわざ択んで
続けるのにはあまりに未熟で不安定で道ができていない。

そう、私はこれだけ生きても、自分の道を歩いたという経験がない。
だから道を作っていかないといけない。
それは80年生きようが、100年生きようが、同じ。

もし80歳くらいで自分の欺瞞にやっと気づいたなら、
ただでさえ弱虫なあたしは諦めただろう。
ここまでこうして生きていたんだから、と
あふれるほどのそれらしい言い訳を動員して。

でも、今ならまだ間に合う。
だから、今気づかせてもらえたんだ。
もう考えるのもつらいのも嫌ならば、
すべて投げ出してしまえばええやんか。
何もなかったことにして、自分を大切にしない人に拘りつづけ、
名声を追いかけて、人とは表面的なことを比べあって、
カタチあるものをどんどん手にいれていくことだけを考えれば
ええやんか。
その先には何が?

斎藤学の本立ち読み。
「他人に反応して行動したり、他人を罰しようとすることから得るものは
ほとんどありません。抑圧された感情を他人に投影するのをやめれば、
気に入らないと思った相手の行動も私を傷つけようとやっていたのでは
ないことに気づく。・・・・」

言ってみよ。
無意識に抑圧することに慣れたこの感情を言ってみよう。

昨日、台湾の友達に思ってること話したら、
すごくあたたかく受け止めてくれたねん。
作ったけど捨てようとしたケーキも、台湾まで送って!って言う。
あたしの内面を知っても、そんなあたしが好きやでって言ってくれる人。
そういう人を大切にすればええやんか。
山田詠美も言ってたぞ。
Q「詠美さんはなんでそんなにモテるんですか?」
A「私を好きな人を好きになるから」

それのどこがあかんねん。
そんなんじゃ成長がない、とかいっても、
じゃあ今の自分は成長しとんのか?

まずはとにかく、自分を大切に思ってくれる人に本当に感謝する。
なんでこんなあたしなんかを?って思うのを手放して、
あたしに見えてないものがあると信じて、この人たちは心が広いんだと
感謝して、大切にしたい。

他人を責めるなんて意味がないって思ってる。
だけど、その理性の奥では激しく怒っている。
なんで怒ってるの?
なんでふたをしてもしても溢れてくる怒りがこんなにあるの?

そうして、気づいた。
あたしは、他人に怒ってたんじゃない。
自分を全然大切にしない自分自身にとてつもないほどの怒りを抱いている。
「何でもっと自分を大切にせえへんねん、お前は!」

自分を大切にしない&自分を大切にしてくれる人を大切にしない。
だから、全然見当違いな人間関係に魅力を感じてしまう。
でもさ、自分が一番分かってるやろ。
あたしはそんなことに向いてないって。
そんなことで感じる苦しい思いは、試練なんじゃなくてシグナルなんやって。
過食と一緒やねんってば。「そこちゃうねん!気づけや」の一言やんか。

抑圧された感情を他人に投影していて、何か鎖につながれている気になっていた。
あたしは、理不尽な何かに絶対的に支配されている気がした。
大分先のほうに少しだけ光が見えるんやけど、とてもじゃないけど
そこには届かない気がしていた。
でも、よーーくみたら、私は誰にも何にも支配されてなんかなかった。

誰かを恨むことで救われるならめいいっぱい恨めばいいと思う。
けど、あたしはそれをしたくもなかったし、するつもりもなかったし、
何より恨んでなんかなかった。
だって、あたしが択んでやったことだったもん。
嫌なら嫌だと言えばよかった。
あたしの感情を発したいなら言えばよかった。
でも何も言わないことを択んだのはこのあたし。

だから、あたしが恨んでいるのも怒っているのも、うそつきの自分に対してだった。
今さえよければいい、というその場しのぎの無責任で弱虫な自分に対してだった。
そして、人間の矛盾や弱さを全て排して何でもかんでも綺麗に片付けようとする、
まったく筋違いな悲しい自分に対してだった。


目を見開いて、心を開いて、見てみよう。
目の前のことの本質は、きっと自分が見えているものとは違う。

彼から離れられなかったこと、それは不幸ではなかった。
どうして自分がそんな行動をとり続けたのか、を見て自分の本質に近づけるから。

他人と自分の同一化。彼の凄さと彼のダメさを自分の中に取り込むことで、
自分の現実から目をそらす行為。
自分は、意識すれば有る程度までは、自分と向き合おうとできるんやけど、
ある点からはいままでそうやって生きてきたことがないために、
意識して新たな道をしっかり踏みしめていかなければならない。
それが、苦しくてたまらない時、ふと横を見たら人がいる。
だから、そっちに主体を移す。
樂をしている意識なしに、人と共存しているつもりになって、
ダメなこともめをつぶって、なんだか前に進んでる気になる。

そんなとき、自分に踏みとどまらないといけない。
こっちに何かあるかも?と思っても、ない。
人間関係というのは、そこで簡単に主体を他人に明け渡してしまう人間には
築けないものなんだ。

でも、そんなとき、一緒にがんばれる他人だっているんじゃないかと思う。
私が私でいるために、あなたがあなたでいるために、
それから逃げようとしたときお互いを制する愛情を持てる関係が。
遠くには何人かいるけど、今自分のすぐそばにはいない。
今はそれを諦めないこと、だと思っている。

彼とそういう関係を築けたら、私たちはきっとすごく大切な関係になれると思う。
でも、今の私は、依存と尊重の二つの関係の間をいったりきたりしてごちゃまぜにしていた。
表面的に彼を切ろうと、つながりつづけようと、本質は変わらない。
私は、「これがあたしです」と彼に言えるようになって初めて人間関係がスタートする。
だからまだ何も始まってはいなかった。
だからカタチだけ終わらせても無意味なのだ。

目先のことに惑わされないで。
そうだ。
「本当の出会いに別れはない」だった。

そういえば、昔Nさんと知り合ってあまりたってないころ、
Nさんは私のことを理想化していたようで、
いきなり告白されたことがあった。
あたしは、そのときもねじれの位置みたいな男に恋をしていて、
断ったけど、えらい気まずいことになってしもうた。
しかし、それからも私たちはなんとなく連絡をつづけたり、
連絡が滞ったり、いろいろしながら3年くらい経った今、
とてつもない深いつながりを感じるようになった。
縁がある人とのつながりは恐ろしいほど深いんだ、と。
同じときに、同じことに気づいたり、
同じときに、同じことを考えていたり、
いろんなもののルーツが繋がっていたり。

私たちは本当に縁があったんですね。

そうとしか言えなかった。
現世では三年前に会ったけど、きっとずっと前から繋がってた。

向こうは、「自分はきっと前世で○○さんにストーカーしとったと思うわ」
と言っていた(苦笑。

そんな冗談はどうでもいいけど、とにかく縁ってすげえ。
だから、目先のことにとらわれないで、やれることをやってみたほうがいい。
あの時、Nさんが何をしようと、私たちはこうして今も繋がっていたと思う。
あたしが摂食障害だろうと、なんだろうと、ものの本質を見ようとする
彼にはどうだってよかったのと同じように、
彼がどんな環境にいようと、どうだっていい。本当にどうだっていい。

私も、人の表面じゃなくて、内面を見つめることができるんだ、
そう信じさせてくれたのもNさんだった。

きっと私たちは、今世では同じように関係を続けていくと思う。
そしてきっといつまでもしぶとく生きることを諦めてないと思う。
どこまでいっても完璧に届くことはない「本質」を見失ったり、やっぱり手を
伸ばしたり、無心になったり、いろいろしながら。

だから、今私が誰にどんな行動をしても、別れがあっても、
縁があればまたどこかで繋がる。サヨナライツカではないけど、
今世での別れはいつか100%起こるもの。だから、目の前のことに悲しまないで。
きっと今そういう選択をしたということも、このタイミングもすべて
必然だろう。私が自分から目をそらさない限り。
この世界には、自分たちの力ではどうにもできない大きな力が流れている。
自然もそうだし、因縁もそう。でも、どうか、それを自分の依存対象に
自分の都合で適用して、安心したりしないで。そういうものは、そんな簡単に
見えたりしないし、そしてそんな風に苦しめたりはしないはずや。

見方を変える。
「誰かが私を大切にしてくれない!」なんて幼稚にもほどがあるけど、
そう感じているらしい自分をまず認める。
そして、それを裏返して、横から見て、たてから、上から、下から見てみる。
すると、
「私が私を大切にしてない!」に行き着くのは容易だった。

何だってその裏にはシグナルがあるんよなあ。
立ち止まって、嘆いていても、しがみついているだけでは見えない何かが。
きっとポジティブってそういう見方ができる人のことを言うのではないか、と感じた。
闇雲に明るかったり、楽観的なんじゃなくて。

先生から全体MLにメールが。
皆さんは自分がどれほど恵まれた学習環境の中にいるのか、実感して
いないのです。実感していたら、授業でやった部分に就いては完全に
暗記しているはずです。もっと、もっとわくわくしてください。もっ
と、もっと、もっと、もっと、興奮してください。これが全部自分の
血肉になったらどれほどすばらしいかと想像してください。


私はひそかに期待していた。これを乗り越えたら、心に曇りがなく
穏やかに、勉強に仕事に打ち込める日が来るのではないかと。
しかし、今を大切にできずして、そんな日は来ない。
たとえ今何かを抱えていても、その状況の中で最大限やってやるという
意識を持てないと、どんなに機会が与えられても、お金を与えられても
何も成し遂げ得ない。そして、どんなに素敵な人がそばにいても、気づき得ない。

今は非常事態ではない。今こそが現実なんだ。

自分には才能はない。要領も悪いし、不器用だし、頭の回転が激遅だ。
でも、姜尚中が言ってたで。
「自分は頭の回転が遅いんです(←それはないと思うが)。だから
ゆっくり話すようにして、自分の中で整理しながら発言しているんですよ」

なるほどなあ。その真偽はおいといて、そういう風に自分を創っていける
人こそが自分のオーラに近づけるのだと感じた。

あたしも相当しゃべるの遅いし、語彙も少ない上に難しい言葉で逃げたりする。
が、それを自分らしさに変えればいい。誰もが上祐氏みたいになる必要などない。
あれは彼の一つの才能だと思ったけど、私がそれを欲しがるのは筋違い。
人を容易に論駁できてしまったら、少し悲しいかもしれない。
きっと私はそれを振りかざしまくって、人と相容れることもなく生きてしまいそうだから。
そう思うとこんな自分でよかったのかも、と少し思う。
この頭の悪さが、「人って本当に大切なんだよ」って教えてくれた。

Nさんが言っていた。
思うだけでは「迷い」
実践して「会得」
更に思考を深めて「解脱」


仏教って想像もつかないほど深遠であるらしい。
分からないことだらけ。だからこそ、もっと生きてみようさ!
不安になるのは、自分が全てを理解し、把握できるという傲慢から
起こるものだとどこかで読んだ。
心が解放されて、自分が暴れて自分を見失って、バカをおこして
大変なことになってしまうことが怖いけど、分からないことがまだまだ隠れていると
思うと、まだまだ生きる意味は溢れていると思う。

何していいかわからんかったら、今まで自分のために何かをしてくれた人への
感謝を思い浮かべながら他の人のために何かしてみよう。
何を整理していいかわからんかったら、絶対に必要なもの以外はひとまず手放してみよう。
いつもここから始まり、ここにある。
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by jengsauman | 2006-02-16 14:51

勇気

壁を一気に壊す必要なんてない。
でも、「今だ」と思ったときに、絶対にしがみついてでも
そのチャンスを逃さないように。
たとえ悲しい結果が待っていても、
それは本当は、きっときっと幸せなんだ。
その悲しみに押しつぶされない。その奥にある
光を絶対につかんで、輝く日を諦めないんだ。
頭で考えるタイミングじゃない。
自分の魂がそう言っている。

自分の欺瞞を抹殺すべしと自分で思う時機が来たら、
その先で傷つくことなんて怖くない。怖くても、その先で
自分の身体を削って、痩せて、失ったプライドを取り戻して
復讐して、自分を保とうなんて思わないから。大丈夫なんだ。

数年前の容祖兒のライブDVD。
初めて見たとき、そのふくよかさにばかり目がいった。
数年経ってこないだの12月のライブDVD。
あまりの体型の変化に驚いた。思いっきり痩せていた。
もう前のDVDを見るのが怖かった。
体型の変化が自分の中で依然として大きな基準になって
いることを痛感したくなかった。

でも、見た。
「あれ?」と思った。
「かわいいじゃん」と思った。
そんな太ってなかった。
今より確かにふっくらはしてるけど、これもこれでいいじゃん、と思った。

そのとき、彼女の表情、というか目の強さに目が行った。
体型如何より、彼女が生きてきた人生をあらわす目。
人の表情とはいかにすごいかを。

そして、体型が全てじゃないと思ったとき、
勝負するのは、この「表情」だと感じた。
内面勝負ということは、つまりはこの外にあふれ出てくるもの、
オーラ、そして表情。
それは一朝一夕ではつくれない。

それこそ、斎藤茂太さんの
「内面の美しさを外見で表現する」だと思った。

私は輝く笑顔を持てる人間になりたい。
いつも人の目を見て、向き合える人間になりたい。
真剣なとき、すさまじい集中力を持てる人間になりたい。
自分の欺瞞に気づいたとき、それを打破できる人間になりたい。


私はできる、そう100万回言い聞かせるよりも、
私はやった、その1回が私を前に進ませる。


負けるとしても、思いっきり勝負して大敗北してみたら、
それは大勝利に繋がるかもしれない。
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by jengsauman | 2006-02-14 11:13

CAPABILITY

いろんなことが繋がる。
自分の魂に素直に素直に生きようと思う気持ちと、
それだけじゃ成長がなくてダメだと思う気持ちの拮抗は続くけど、
だんだんやはり前者でしか幸せに生きられない気持ちを自分で
受け止められるようになってきた。

人生はいろんな文脈がある。
いろんな考え方がある。
いろんなアプローチ方法がある。

けど、最近思うことは、自分の魂が共鳴するあらゆることたちの
根底は繋がっているのではないかということです。
仕事や勉強に限らず、限られた24時間の中で
どういう信念のもとに自分が決めたことに
取り組んでいるかという価値観が、「出会い」の中の「出会い」を
見つける尺度となり、人を繋げるのものとなるのではないだろうか。

随分、「意義」に振り回されて、逃げてこれた。
社会的地位、学歴、外見、資格、外国語運用力、などを無視できなかった。
持って居なければ勝負できないという強迫観念。恐怖。
それらが語るものは何だろう?
なんでもない。私は、各々の人の入り口しか見ていなかったにすぎない。
だから、誰のこともあまりよく知らない。
もしくは、「あの人はああいう人」と勝手に決めてしまっている。

自分が共鳴する人は、いろんな人がいる。
この人すごいなあ。この人素敵だなあ、この人を見習いたいなあ、
そう思う人たちの間に表面上の共通点はない。
ただ、「人生運営能力」に優れているという内面の魅力があることは
共通している。
自らの魂との対話に挑んで決定した(暫定的でも)明確な目標を持ち、
それを達成するために努力をいとわず、
その過程でどれだけ人が有難く必要な存在かを理解し、大切にしている。
そして、現在が幸せでなければ、未来に幸せなどないと分かっている。

現在が一番大切。
現在をどう生きてるかが何より大切。
どれだけ知識を得ても、情報を得ても、一生懸命生きようとしてみても、
それを得ただけでは私たちは何からも解放されてはいない。
ここにいる自分は、さっきの自分と一緒で、数年前の自分とも大して変わらず、
もしかしたら、余計な情報が増えて更に拘束されてしまっているかもしれない。

「自分の中に答えがある」と信じることへの恐怖。
しかしながら、それ以外に自分が幸せになれる道はないと薄々気づいていた。
もし自分が自分のために生きなければ、ここにいる自分とは一体誰なのか?
自分の中にある願いはどこに封印されるのか?

問題の先送り。
人を見ようとしたとき、本質を見ようとしたとき、その前に見えるものは表面だ。
自分を見ようとしたとき、自分の本質をえぐろうとしたとき、逃避に使えるのは表面だ。
その表面で安心し立ち止まることは、問題の先送りだ。
いつか、そこに何の本質もないことに気づくのだから。
私は世界で有数の経済大国日本の国民なんではなくて、
誰かが作ってくれたそんな日本に偶然生まれた一人間なのであって、
そのアイデンティティにはもともと何の価値もない。
だから問わなければならない。「お前は一人間としてどうなんだ?」
その問いこそが、いつも必要なものなのだ。
どっかに属してることは、私がどういう服を着ているか、とあまり変わらない
程度のことなのかもしれない。
その服を着て何をするか、が重要なだけ。


流れを変えることはできる。絶対にできる。
マイナスに流れていた循環を、プラスにすることもできる。
そのキーポイントは、信頼だ。
自分への信頼。他者への信頼。
表面に逃げなくても自分を信頼できること。
人からの学び、忠告を有難くそのまま受け入れられること。
余計な情報に、気にしなくて良いことに、そこに逃げちゃいけないことに、
踊らされないために、信頼がここにあることを忘れずにいること。

そうするにはどうしよう?
自分の信じることをやる。これは違うんじゃないかと思っても、そこの先
にしか道は開き得ない。そこでの失敗は、「自分を信じてチャレンジした」という
自信にすることができるし、軌道修正もできる。

そして、人を大切にする。家族を大切にする。全てを認めるのではなく、
手放しに礼賛するのでもなく、その人たちが私に気づかせてくれることから
目をそらさずにいること。そして、自分の本気で、まっすぐに、思ったことを
伝えてあげること。ただ、うんうんと肯定するのは一番樂だけど、自分も
いろんなことを言ってほしいから、私も思ったことを伝えるようになりたい。

どんな背景を持っていることより、どう生きているかを見ている人たち。
人がどうこうより、まず自分にフォーカスしている人たち。
私の周りのそういうまっすぐな人たちの生き方は、一瞬一瞬を爆走している。
別にまねなんてしなくていい。でも、彼らは爆走せざるを得ないのではないか?と
ふと思った。やりたいことがあふれてきて、時間が有限であることを知っているから、
誰のためでも、名誉のためでもなく(多少はあっても)、とにかくやっている。
自分もそうありたいけど、その外枠だけを拝借しようとしてた。
その中身は、自分の中から答えを見つけないといけなかった。

数日前、すごく食べることが怖くなって、思わず大阪の友達にメールした。
「食べるのが怖いよ。」
言ってみて少し樂になった。
そしたら、
「無理しなくていいけど、食べ物は○○ちゃんを輝かせてくれるものだよ。」
って教えてくれた。

おととい、友達がご馳走してくれた。
人と食事をすることは、きらきらした時間なんだ、と思う。
そう思わせてくれる食事を一回でも多く重ねられること、それこそが幸せだと思う。
食べることは内面的に私を救いはしないし、答えもくれない。
けど、食事を楽しめるのは、私の人生を数倍輝かせるんだろう。

カロリーにこだわって緻密に計算しても、ああ、どうやってごまかそうか、
などと思っても、そんな世界にハッピーは存在しない。
たとえ、その場をごまかせても、家に帰って一人になったらその何倍も過食するのだから。
だから、人と食事するときは、8割くらい満腹になるまで食べる、食べる、食べる。
何割かは不安でも、「これおいしいなあ~」ってそう思えたならそれでいい。

おとといは食った。さらに昨日も食った。そして今日も食らう予定。
しかし、私の興味は食よりも人。
誰かと食べるということは、誰かと会えるということで、誰かと何かを感じられる
かもしれなくて、何かを変えられるかもしれなくい未知の可能性を持つ。
忘れそうになったら、またそのことを思い出したい。

できないことって何だろう。
年齢を戻すこと?たしかにそれは無理だ。過去にも戻れない。
けど、現在の世界のことであれば、できないことってあるのか?

友達が買ってきてくれたDVD。「Three times」という舒淇と張震の台湾映画。
その表面に書いてある。「失ったからこそ美しい」
過去とはそういうものかなと感じた。
そして、現実は美しくなんかなくていい、とも。
感情にあふれた現実でありたい。

先が見えなくて不安だというのは当たり前のことだ。
先が見えることなんて一生ないし、仮にも見えた気になったら
そこで人生は止まる。
世の中は大きいように見えて、自分の人生はここにしかない。
選択肢があふれてるように見えて、択べるのは一つ。
だから、現在を大切に。
自分が幸せでなければ、人のために何かをなんてできるのか?

今自分に起こること。
それらは全てが何かの信号だ。自分のことに限らず、
友達が悩んでいること、友達の友達が悩んでいること、
それだって気づきのきっかけになる。
どうしてそれが自分に降ってくるのか?それは意味があるからだ。
それらすべてをそのまま見ること=「信」ができるかどうか。
そして、その因果関係論を自分の人生に適用し、変えるべきことは
変えられるかどうか。
知識を、経験を、自由を、起こるすべてを自分の人生に生かして
いける、capability。


私たちの関係は歪んでいるかもしれない。
でも、そんな結論はおいといて、
彼といる自分と、彼といない自分を比べたとき、
彼といる自分のほうが、上に書いたような自分の
大切なことを思い出せ、そして行動できる。
人と生きること、一人で何もかもやらなくていいこと、分け合って
生きていくこと、たとえ表面的な何かができなくても芯をしっかり
していけばいいこと、自分ができることを返せばいいこと。
だから一緒にいる。
食依存への理解なんて求めないし、それは本質ではない。
だって、違う人間なんやし、これはあたしが自分でカタをつけるべきことだ。
でも、それから離れるんだという私の脆弱な意志を
あらゆる方向から強固なものにし、行動に移させてくれるパワー
をくれるのが彼の存在。
リスクがあっても一秒前の自分から何かを動かせるなら、
安全で動かない人生よりはずっといい。
価値基準は、自分が自分の進む方向に実際に動いてるか、否か。
人とかかわり続けていると、必ず必ず得るものがある。
それに踊らされないこと。そして果敢に求め続けること。

人は完璧ではない。だから、誰かの欠点を話す誰かの話は無視する。
その裏にあるその人のいい部分が、その話者にとってはどうでもよくても、
私にとってめちゃくちゃ必要かもしれない。何だって自分に必要なものは
自分にしか判断できない。


「食べるのが怖いよ」って言ったその次のメールでは、
「これからも色々分け合って一緒に強く生きていこうね」って言っている自分が居た。
人生から辛いことを除くのは不可能。だから薄められる困難は人と一緒に薄める。
もっと濃く向き合うべきことはちゃんと伝える。
一人でやるべきことは一人で闘う。
まだ少ししか区別できないけど、きっともっと自然にできるようになる。

夜中にちょっとチョコレート食ったくらいどうだっていいねん。
その瞬間に諦めない自分を創っていくこと。

さてさて、明後日はバレンタインデーですねー。
「そんな某メーカーの意図に乗る金があるなら、募金でもすれば?」という
アドバイスもありがたいけど、こうして実際に形で「いつもありがとう」って
言える機会はなかなかないので、使えるチャンスは使っちゃおう。
自分や自分のそばに居る人を大切にできないのに、世界を語るのは何か
欺瞞に満ちているし、感謝の気持ちや愛情は形に表さないと伝わないことが多々ある。
金額の問題ではなくて、自分のために何かをしてくれた、何かをくれた、
そうの気遣いが嬉しいから、私もそうしたい。
おばあちゃんが昔からよく言っていた。
「感謝の気持ちはちゃんと形で表すんやで」
おとうさん、サランヘ~。

ああ、もうぐちゃぐちゃ書くのはやめよう。
林海峰の「食多D、食多D、食多D、食多D、食多D、食多D・・・・!!」
が頭の中でグルグルする。
ああ、食ってやる!食べ物なんか怖くねーーー!!!

頭で可能性を殺している自分と対峙する。
そして、4月某日までの自分との決め事を守りましょう。

負けず嫌いも個性の一つ。勝ち負けを全否定することもない。
しかし、勝つべきは自分の内面の甘さに対してだ。
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by jengsauman | 2006-02-12 10:21
「見るべき本質はそこにはない」

気づくために、動くために必要な自分への問いかけだ。

どんな状況であれ、表面にいかに踊らされてきたか。
見たくないことを隠すための物語や禅問答に逃避していたか。

どこに本質があるかなんて分からないし、
真理なんて分からない。

でも、きっと自分らしい選択肢があるはずだ、と
実践、行動を先延ばしにしても、
その後、自分らしさなんて見つからない。
それが自分が体感した結果。

おかしい、こんなはずじゃない、どうしよう、訳がわからない、
これを乗り越えたら心落ち着いた日々があるはずだ、
どうしたらいいんだろう、また同じことしてる、あほちゃうか
とりあえず本読んでみよう、勉強してみよう・・・・

そういう思いにしょっちゅう駆られる。
けど、そここそが私の人生へのアクセスポイントである。

会社の倒産という危機にあって、どんどんいい方向に
向かっていて、幸せだと言うNさんと話して
すごく共感したこと。
「知識と実践」
「苦境には必ず凄い可能性への道が存在する」

動く動くといっても、闇雲に動くのではロスが多すぎるし、
勇気も必要で、結局疲弊して終わることも多い。
だから、知識や型が必要。人のまねをして盗むことも良いと思う。
そして、それをもとに実践する。
そこが自分らしさというものなのかもしれない。

打たれ弱い、すぐに落ち込む、気にする、ショック受ける、
後悔する、うじうじする、悲劇のヒロインぶる・・・

そういうふうになってしまったときに自分に言う

「本質はそこか?」

そしたら、どうでもよくなることがめっちゃ多い。
つまり、それはどうでもいいことなんだろう。
それでも気になることは、多分もう少し突き詰めるべきなのだろう。

Nさんは、「倒産すること」という表面に落ちそうになったとき、
ちょっと待てよ、と冷静に見つめなおしたという。
そして見えたこと。
「本当に大切なことは倒産することがどうのこうのではない。
倒産しても、またやり直せる。
でも、このタイミングでこの危機が訪れたのは
きっと何かの意味があるはずだ。
そういう運命だとしたら、行動で何かを変えないと
運命を変えることも、学ぶこともできない。
そして、1%しか残っていない可能性でも
諦めなかったら、本当にそれが現実になった。
いろんな因縁が働いていると思うし、
自分の力でどうにもできないことだってたくさんある
はずなのに、なぜか道が開けることが何度もあった。
そして、ものは失っても、家族や人と初めて向き合えた。
1%しか残ってないときに、なぜか誰かが助けてくれた。
見方を変えて、動いていれば、必ず道があり、
それこそが本質だ」

というようなことを言っていた。
その話の中でも、仏教の話を多用していて、そうした
冷静な思考の転換は、仏教の教えをいろいろと思い返した
ところに始まったといっていた。
彼は以前からも仏教に対して知識も想いいれも深く、
いろんなことを教えてくれた。
でも、今回は、その知識を実践することで、彼が自分の道を
切り開いていく「現実」を見せてくれた。

空海が密教を日本に持ち帰ってきた際、最澄がその知識を
教えてほしいと言ったらしい。しかし、空海は「それはできない。
知りたいのならば、自分の弟子になって修行をしてください」という旨の
ことを言ったらしい。そのことで、空海は傲慢だというふうに
とらえられたこともあったらしいが、本当は、そんなことが重要なのでは
なく、「知識として学んでも、実践しなければ意味が無い」という
密教の教えを貫いただけだったらしい。

宗教に限らず、あらゆる知識も型も、それを実践するところに
意味があるのだと改めて感じた。
そして、実践するために勉強するのだから、やはり一生勉強しつづけ
なければならないし、それが知識で止まらないように
いつも自分を動かさなければならない。
それができていれば、もしかしたら「生きる実感とは何か」などと
禅問答を繰り返すことなどないのかもしれない。
自分の実践こそが、自分の唯一無二の生きた証なのかもしれない。

そんな話を3時くらいまでしていて、電話をとったときは眠かったのに
すっかり興奮して、寝られなくなってしまった。

型と実践
冷静と情熱
個の自立と他者との共存

まずは目の前のことからそれをやってみよう。


過食するとき、しそうなとき、人とうまくコミュニケーションできないとき、
人との出会いにおびえるとき、失敗したとき、恥をかいたとき、
寂しくてどうしようもないとき、なきたくなったとき、誤魔化したとき、
勇気が必要なとき、決断を先延ばしにしそうなとき・・・

自分に問う。
「これは一体何だろう?」

やってしまったことを悔やむより、その中を見てみよう。
食べることはただの行為だから。
見て、思いついたできる限りのことを全部やる。
考えたければその後考える。
多分、何かをしているうちにほかの何かの要素が
繋がってくると思う。


会いたくないのに、会わずにいられない人って何だろうって考えた。
会う前は憂鬱で、自分が逃避しているだけだとさんざん思っても、
やはり会いに行く人って何だろう。

考えてもわかんないから、また会ってみた。

ふと思ったのは、恐怖や嫌悪感がどれほどあろうと、
尊敬と感情がそれを凌駕する限り、触れたいんだと思った。
私は利用されているのではなく、
お互い利用しあっている。
そして、私自身がそれを選択して、自らそうしている。
だから、一体何を悩むのか?
けど、そこに何かを期待してはならない。
そして、相手を変えたくなったら終わり。
愛なんてない。期待もない。でも、諦めてもいない。
私たちは、いつか何かで深く繋がるかもしれない、
という予感が完全に消えるまで。

いや、嘘つきました。期待してる。そして憎しみもある。
憎くて仕方なくて、復讐したいと思ってるかもしれない。
状況を理解していても、納得したくない。
汚い部分を見せないで格好ばかり
装っているあたしの何を愛せというのだ?なのだが。
あまりに憎くて、名前を見るのも苦しく、会うのも苦しい。
でも、恋しくて、夢に見て、小野小町状態で「夢としりせば・・」なんて
虚しくもなって、大アホである。しかし夢の内容がまた虚しいから、
覚めてくれてよかった、である。夢なのにリアルすぎて失笑する。
あなたの心を理解しようなんて思ってない。
でも、孤独につぶれそうになったとき、あたしを思い出してくれるかな?
そんな期待がある。そんな時に、抱きしめてあげたい。
性欲の対象としてではなく、少しだけでいいから、心を持った人間として
あたしを必要として欲しい。

自分の領域に入ってこられることを極度に嫌がるその気持ちが
理解はできなくても、めちゃくちゃ共感できる。
だから、何も聞かないし、興味のないフリを続ける。
こんなの恋愛なんかじゃない。そのとおりや。
だから時間の無駄やろ。そんなことない。
きっと、近いうちに変化する。させる。
そのとき、どうそれを消化するか。全てはそこや。
自分が選んだことなんだから、誰も悪くない。
自分が自分を創っていくことと、自分が人とかかわりつづける
こと、一生続く。だから、この人がどんなにろくでなしでも、
どんなに素晴らしい人でも、どうだっていい。あたしは
自分が感じたものを曖昧に終わらせたくない。

誰もほかの人に迷惑をかけないなら、
自分が自分を偽らないなら、怖いけどきっと何だってあったほうがいい。
悲しいことがおきても、矛盾だらけでも、その奥にある本質から、また学んで
動けるから。余計なものを身につけそうになったら
「うそつくなや」という自分の突っ込みと、「so what?」
という問いかけで何かを変える。

そうこうしている間にも、時間は過ぎるよ。
目の前にあることを、やろう。

たとえ、馬鹿を見ても、明日誰が死んでも、居なくなっても、
後悔しないように。

たとえ、笑われても、明日自分が死んでも、生きたぞって
少しだけでも思えるように。
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by jengsauman | 2006-02-06 00:10

誠実

誠実に生きるなんて反吐がでそうなくらいきしょい言葉だ。
それをふりまわして虚構を作り上げてきた自分にとっては。

しかし、最近感じるのは、やっぱり自分はそう生きたいんだという願い。
その可能性を自分の手で手放すことだけは嫌だという思い。
逃げ回っても、可能性を信じることはゼロにしないぞという誓い。

ただ、誠実さとは自分が思い描いていた綺麗なものじゃないと思うようにはなった。
ってかカタチはよくわからない。どんなものがそれなのかも。
感覚を信じる。感覚に嘘をつかない。感覚に挑戦する。

久しぶりに友達の日記を見たら、なにやら大変なことになっていた。
状況は分からないけど、多分自営の会社が危険らしかった。
でも、その中で彼の言葉は、輝いていたんです。

もし最悪の結果になって失うもの




そう挙げたらたいしたことないやんって思った、と。

金は後からでも稼げる。金があれば家は持てるし。
何を失っても、本当に大切なもの(友達)は失わないし。

やれることはすべてやった。
そして思うことは、どんな状況でも冷静になって
判断すれば、必ず凄い可能性がいつも残されていること。
そして努力が必要ということ。

今大変な状況のはずなのに、強がりでも嘘でもなく、
生きてる実感があって、とても充実している、と。

この人は、多分、私が思いつく中でもまれなる
正直でアホで一生懸命な人だと思う。
ひねくれているし、変人だし、人嫌いだというけど、
あたしは核に誠実な部分があれば、ほかはどんな
要素をもっていようと、そのほうがリアルだと思うし、
人間として魅力を感じる。
正直を求め、正直に絶望し、それでもやはり正直を求める。
その先にある自分。
そういうもがきや、そういう葛藤こそにリアルを感じる。

だから、全部完璧じゃなくて全然いい。
ただ一つでも自分が自分であるために信念を突き通せる部分があるなら。

最後に、昔、そのNさんがくれた『二十歳の原点』から、
「未熟であること、それが私の二十歳の原点でした」
と引用されていた。

全然二十歳ではないけど(笑、その立ち位置に立つことは
頭で考えているよりもずっと難しいと思う。

情熱だけじゃない。もう一つ大切なキーワード。「冷静」。
がむしゃらに何かをすることでやってるフリ。がんばってるつもり。
それは紛らわせかもしれない。時間をとめてるだけかもしれない。
よくよく状況を見て、冷静に策を打つほうが、最も近道だったりする。
その選択をできる冷静さ。

今日、彼の日記に本当に生きるパワーを感じた。
困難が人を強くする。困難が人を成長させる。
そして、それを乗り越える力を誰もが持っている。
自分が乗り越えられるものしか対面しないんだと。

人のために何かを、と思って作為的に放つ言葉よりも、
こうしてもがいてその中でも生きてるよ、って
いうことのほうが、ずっと人の心に響く。

そういう生き方が好きだし、尊敬する。


※勝手に引用したけど、もしこれ見ても大目に見てネ。
って見ることはないわな。
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by jengsauman | 2006-02-02 15:37